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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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これからますます地球温暖化やエネルギー資源枯渇が問題となってくるので,そういう文脈から地球工学の必要性が強調されてくると思う。「必要性が強調される」ってのはわりと穏当な表現で,要するに「莫大な予算が突如ふってわいてそのバブルに多くの関係研究者が踊らされる」ということです。

たとえば化石燃料の使用で大気中に増えた二酸化炭素を地層中に埋めて温室効果を軽減しようという「CCS」だとか,それの発展系でただ埋めるだけじゃなくて利活用(利用じゃダメなの?)してやろうという「CCS/U」だとか。あるいは成層圏エアロゾルを増やして日射量を減らすだとか,貧栄養海域に栄養塩を撒く(組み上げる)ことで海洋光合成総量を増やして生物ポンプを働かせようとか。



まず地球工学的な取り組みに対しての期待感/嫌悪感がある。かなり大規模に人間が自然に手を加えるということで,科学の勝利的にとらえる向きと,人間の横暴極まれりととらえる向きと,まぁ両方あるでしょう。科学の進歩が生み出した問題をさらなる科学の進歩で封じ込めるのか,はたまた科学は進歩したけども科学を利用することについては持続的撤退を決意するのか。

で「科学の進歩に期待しよう」ということになると,次は地球工学的な取り組みの成否に関する見通しがわかれる。もちろん進めようとする陣営は「いける」というだろうし,情動的あるいは客観的に見る陣営からは「むりでしょ」という声もあがるだろう。地球工学的な大規模な操作で,その成否を的確に予測するのは難しい。この話題で重要なのは「予測の困難」ということを,単に予測精度が低いと考えるのか,それとも予測困難であるということ自体が計画の不十分さを露呈しているのだと考えるのか,ということで。つまり,操作に対する応答を適切に予想できないのに操作するというのは,観察を目的とした科学研究であればいざ知らず,地球環境に対して実施する計画において適切なのだろうか,ということだ。

それでも「やるしかない。やろう。」ということになるとして,じゃあ誰がやるんだ,という問題が起こる。最後に責任をもって「ゴーサイン」を出すのは誰なのかと。これほどの計画であれば国家事業となり国際的な関係も生じるいわゆる政治マターであり,名目上の計画推進者は政治家となろう。しかし計画の実質的中心が科学者であることは間違いない。(これまで生きてきて感じるのは)できるだけ多くの旨味を,できるだけ小さな責任で得たいというスケベ心というのが,大きな計画になると無視できない存在になってくる。あるいは一定以上の権威に任せるという考え方と,そんな計画の成否を見届けぬままいなくなる人に任せて良いのかという考え方と,それもある。これだけの計画を自分の名前でしっかりと引き受けることができる科学者がいるのだろうか。

そういうアレコレを乗り越えて,計画が実施され,さらに成功したとする。となると,計画に参加していない人々は「なんだイケルじゃないか」と考える。「二酸化炭素を出しても地中に埋めればオッケーだね」とか「温暖化が進んでも成層圏エアロゾルで冷やせばオッケーだね」とか。そうして,根源的な部分にある問題(二酸化炭素の放出とか)に対する無責任感みたいなものがより強まってしまう。


など色々とあって,これから地球工学の時代がくる(すでに来ている)のは間違いないけども,じゃあそこで「中の人」として,賛成するにしても反対するにしても,どのような活動・発信ができるのだろうか,と考える。それはたぶん「アウトリーチ」ではないだろうな。
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