自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
「ピアノの周りを走ってもピアノは上手く弾けない」という格言がサッカー界にある。
スペシャルワンを自称するジョゼ・モウリーニョの言葉だ。
全体は次の通り。
「あなたがピアノをうまく弾きたいなら、練習でピアノの周りを走るかね?そんなことはないはずだ。ピアニストになりたければ、ピアノを弾くしかないのだ!サッカーも同じだ。グラウンドの周りを走って、いいサッカーはできない。それは完全に原理から外れている」
サッカーに限らず、バスケでも研究でも、『指導』のすべてが詰まっている警句である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本では、要素を切り出して鍛錬させる指導が基本となっている。
武道が己の内面と向き合うものだからか、1vs1で戦うものだからか。
どうしてなのか、その起源はわからない。
少年サッカーの指導を追跡する。
まずウォーミングアップでランニング。
次に、ボールを渡して、ドリブルとリフティングで、ボール慣れさせる。
その後、パス練習で、キックとトラップを磨く。
シュート練習を経て、紅白戦。
大体そんな流れだ。
バスケでもラグビーでも、およそ同じようなルートを辿る。
つまり『まずプレイヤーたる自分』がいる。
そこにボールが付、ボールが離れたりやってきたり、それを複数人のゲームの中で発揮する。
指導の現場で、このフレームが疑われていることは、ほとんどない。
しかし、世界クラスの試合で日本が「勝てない」理由が、まさにここにあると思う。
思うというか、サッカー指導の有識者の多くが、この点を指摘している。
冒頭にあげたモウリーニョの指摘も、まさにコレにあたる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
発想の転換が必要だ。
まず、行われている「ゲームの状況を把握」する。
次に「何が起こればチームを勝利に導けるか」を考える。
そして「そのために自分はどうするか」「それを自分は実現できるか」となる。
『認知・判断・行動』
『認知・判断・行動』
ゲームの本質は『認知・判断・行動』のサイクルにある。
にもかかわらず日本式の指導は『行動』に過度にフォーカスしている。
『認知・判断』の鍛錬が疎かである。
もちろん『認知・判断』が出来ても『行動』が出来なければ試合に勝てないし、
(特にジュニア世代では)突出した『行動』だけでチームを勝たせることもできる。
しかし、それは『認知・判断』の鍛錬を軽視していい理由にはならないはずだ。
『認知・判断』が弱い選手・チームは、とりわけ試合の序盤・終盤にバタバタする。
それは競技の性質が将棋に似ていることを考えるとわかりやすいかもしれない。
中盤はガチャガチャとプレイしても、その実力差が見えにくい。
マグレで良いように事が運ぶ場合もある。
しかし序盤の打ち筋は試合の流れを決定づけ、
終盤は双方の打ち筋が減っていき、詰め将棋になる。
『認知・判断』が弱いと、試合の流れに乗るだけだ。
勝負の流れを作れない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
オシムの指導を受けた選手は異口同音に「頭が疲れた」と言った。
これはとても象徴的だ。
オシムの練習メニューでは、ボールを使いながら『認知・判断』を鍛錬する。
『認知・判断』が正しくできないと、練習が進められなくなる。
『認知・判断・行動』がパッケージになった練習メニューだ。
オシムの選手達は試合後に「練習と同じ場面が生じた」と驚きをもって語っている。
しかし、それは何も驚くことではない。
試合の場面を、極力要素分解せずに切り出して、メニューにしているのだから。
オシムの指導を受けた選手の出自は多岐にわたる。
しかしほとんどの選手が「頭が疲れた」と言う。
つまり、日本全国で『認知・判断』の鍛錬が不足しているのだ。
それは日本式指導に『認知・判断』を鍛錬する方法が確立されていないことに起因する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
研究を進めるのにも、球技と同様に『認知・判断・行動』が大事だし、
日本のラボでは、とかく『行動』を重視した指導をしているように思う。
実験手技とか、カタい文の読み書きとか、英語の読み書きとか。
一方で、『認知・判断』を鍛錬する指導は、セミナーだ。
しかし多くの学生セミナーでは、型をなぞることが過度にフォーカスされている。
セミナーでさえ『認知・判断』を鍛錬する対話(議論)が疎かにされている。
逆に言えば、セミナー以外の場面での対話(議論)が不足している。
研究者は対話を通じて、先達が体現する『認知・判断の型』を身につける。
それは『セミナー進行の型』とは似て非なるものだ。
「あの論文読んだ?あのデータは凄いね!」
「あの論文さ、あとアレのデータも絡めて議論したらもっとスゴいよね」
「昨日出したデータなんだけど、よくわかんないんだよね」
「あの論文とこのデータ、合わせて考えると、こうじゃない?」
こういう対話は、活発なラボでは”普通に”交わされているかもしれない。
しかしこれこそが『認知・判断の型』ではないか。
研究のメンターは、この『認知・判断の型』が頻発する環境を整備すべきじゃないか。
この型を使いながら多様な『認知・判断』を示すことが、
メンティーの『認知・判断』を鍛錬すること指導じゃないか。
時間切れ
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スペシャルワンを自称するジョゼ・モウリーニョの言葉だ。
全体は次の通り。
「あなたがピアノをうまく弾きたいなら、練習でピアノの周りを走るかね?そんなことはないはずだ。ピアニストになりたければ、ピアノを弾くしかないのだ!サッカーも同じだ。グラウンドの周りを走って、いいサッカーはできない。それは完全に原理から外れている」
サッカーに限らず、バスケでも研究でも、『指導』のすべてが詰まっている警句である。
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日本では、要素を切り出して鍛錬させる指導が基本となっている。
武道が己の内面と向き合うものだからか、1vs1で戦うものだからか。
どうしてなのか、その起源はわからない。
少年サッカーの指導を追跡する。
まずウォーミングアップでランニング。
次に、ボールを渡して、ドリブルとリフティングで、ボール慣れさせる。
その後、パス練習で、キックとトラップを磨く。
シュート練習を経て、紅白戦。
大体そんな流れだ。
バスケでもラグビーでも、およそ同じようなルートを辿る。
つまり『まずプレイヤーたる自分』がいる。
そこにボールが付、ボールが離れたりやってきたり、それを複数人のゲームの中で発揮する。
指導の現場で、このフレームが疑われていることは、ほとんどない。
しかし、世界クラスの試合で日本が「勝てない」理由が、まさにここにあると思う。
思うというか、サッカー指導の有識者の多くが、この点を指摘している。
冒頭にあげたモウリーニョの指摘も、まさにコレにあたる。
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発想の転換が必要だ。
まず、行われている「ゲームの状況を把握」する。
次に「何が起こればチームを勝利に導けるか」を考える。
そして「そのために自分はどうするか」「それを自分は実現できるか」となる。
『認知・判断・行動』
『認知・判断・行動』
ゲームの本質は『認知・判断・行動』のサイクルにある。
にもかかわらず日本式の指導は『行動』に過度にフォーカスしている。
『認知・判断』の鍛錬が疎かである。
もちろん『認知・判断』が出来ても『行動』が出来なければ試合に勝てないし、
(特にジュニア世代では)突出した『行動』だけでチームを勝たせることもできる。
しかし、それは『認知・判断』の鍛錬を軽視していい理由にはならないはずだ。
『認知・判断』が弱い選手・チームは、とりわけ試合の序盤・終盤にバタバタする。
それは競技の性質が将棋に似ていることを考えるとわかりやすいかもしれない。
中盤はガチャガチャとプレイしても、その実力差が見えにくい。
マグレで良いように事が運ぶ場合もある。
しかし序盤の打ち筋は試合の流れを決定づけ、
終盤は双方の打ち筋が減っていき、詰め将棋になる。
『認知・判断』が弱いと、試合の流れに乗るだけだ。
勝負の流れを作れない。
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オシムの指導を受けた選手は異口同音に「頭が疲れた」と言った。
これはとても象徴的だ。
オシムの練習メニューでは、ボールを使いながら『認知・判断』を鍛錬する。
『認知・判断』が正しくできないと、練習が進められなくなる。
『認知・判断・行動』がパッケージになった練習メニューだ。
オシムの選手達は試合後に「練習と同じ場面が生じた」と驚きをもって語っている。
しかし、それは何も驚くことではない。
試合の場面を、極力要素分解せずに切り出して、メニューにしているのだから。
オシムの指導を受けた選手の出自は多岐にわたる。
しかしほとんどの選手が「頭が疲れた」と言う。
つまり、日本全国で『認知・判断』の鍛錬が不足しているのだ。
それは日本式指導に『認知・判断』を鍛錬する方法が確立されていないことに起因する。
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研究を進めるのにも、球技と同様に『認知・判断・行動』が大事だし、
日本のラボでは、とかく『行動』を重視した指導をしているように思う。
実験手技とか、カタい文の読み書きとか、英語の読み書きとか。
一方で、『認知・判断』を鍛錬する指導は、セミナーだ。
しかし多くの学生セミナーでは、型をなぞることが過度にフォーカスされている。
セミナーでさえ『認知・判断』を鍛錬する対話(議論)が疎かにされている。
逆に言えば、セミナー以外の場面での対話(議論)が不足している。
研究者は対話を通じて、先達が体現する『認知・判断の型』を身につける。
それは『セミナー進行の型』とは似て非なるものだ。
「あの論文読んだ?あのデータは凄いね!」
「あの論文さ、あとアレのデータも絡めて議論したらもっとスゴいよね」
「昨日出したデータなんだけど、よくわかんないんだよね」
「あの論文とこのデータ、合わせて考えると、こうじゃない?」
こういう対話は、活発なラボでは”普通に”交わされているかもしれない。
しかしこれこそが『認知・判断の型』ではないか。
研究のメンターは、この『認知・判断の型』が頻発する環境を整備すべきじゃないか。
この型を使いながら多様な『認知・判断』を示すことが、
メンティーの『認知・判断』を鍛錬すること指導じゃないか。
時間切れ
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