忍者ブログ
自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
[1] [2] [3] [4] [5] [6]
学術界の理念は、なんとなくリベラル(左翼)っぽい印象がある。
でも実態の体質としては、多分に保守(右翼)だなと思う。
それはまぁいいや。

政治的なレッテル貼りをしたいわけではない。
ネトウヨとかパヨクとか、そういうのとは全然関係がない。
ただ、研究テーマあるいは研究スタイルを考えるのに、なんとなく分類したいだけだ。

〜〜

技術的にも着眼的にも、今のホットトピックに連なるものを、右翼の科学と呼ぶことにする。
保守的というか、現状是認から漸進的な歩みを続ける感じ。
身の回りを眺めても、ほとんどの研究が、右翼の科学だと思う。

そんな右翼の科学に、ボクはあまり興味が持てなくなっている。
ここの心情の表現はとても難しいところなのだが。
あえて言うなら『内輪ノリ』のようなモノを強く感じてしまう。
「それ、お前らの間で盛り上がってるだけやぞ」というような。

右翼の科学への嫌悪感は、いわゆる「学術界の社会との断絶」も一因かもしれない。
特に環境学に近いところに身を置いているせいで、その感慨が強いのだろう。
気候変動にしても、ローカルな環境破壊にしても、こんな状態なのにまだ右翼の科学かよ、と。
解決せねばならない問題のタイムリミットに対して、研究の進捗スピードが間に合わないことが自明であるのに、それでもなお「科学にもとづく基礎が大事」というテーゼを金科玉条に掲げている態度が、気に入らないのだ。
それならば、いっそ看板を掲げずに、誰の目も届かないところで好きな右翼の科学をやっていればいい。

でも、興味が持てないことの根源は、それだけじゃないんだよな。
それとはまた別の視点で、しらけてしまっている。

解きたい問題に対して選択する手段が本当に効果的か、という吟味が足りないというか。
あるいは、まだ見ぬ効果的な方法があるんじゃないか、という謙虚さが足りないというか。

ああ、そうだ。
解くべき問題というのは、もう大体、出揃っていると思っている。
だからこそ、アプローチの選択が重要なわけだ。
解きたい問題が固定されているのに、手段も固定的だと、進捗は早くはならない。
にもかかわらず「この問題にはこの手段」という具合で進める研究が多すぎる。

かつて地球化学の巨匠・増田彰正が「1本も引用しない論文を書きたい」と言ったという。
これが左翼の科学の極北だと思う。

もちろんこれは極端だし、現代科学の風習として許されないだろう。
現代的には「あの論文とその論文、両方を引用するような論文があるんだな」というイメージかな。
いずれにせよ引用自体はどうでも良いことで、主題はその左翼性だ。

「この問題に、その手段で挑むの?」
『だって原理からしたら、効果的っぽいでしょ』

「この手段を、その問題に使うの?」
『だって理屈からしたら、かなり有効でしょ』

「なんでそんな問題に取り組むの?」
『だって、重要でしょ』

いま目指している左翼の科学は、そういうことなのかもしれない。

〜〜

左翼の科学の問題は、ちゃんとした説明が難しいことだ。
原理的には正しそうだが、現代科学的な、つまり右翼の科学にある緻密さがない。
右翼の科学は、すでに浸透しているがゆえに、受け手がすでに文脈を持っている
だからいきなりハイコンテクストで緻密な議論ができる。
左翼の科学では、そうはいかない。

これもまたイメージだが、左翼の科学の効能は、秘孔を突くようなものかもしれない。
突いた箇所にすぐ何かが起こるのではない。
でも、あるとき大きな効果が出る。

左翼の科学でも、大した成果が出ないことは、多分にありえる。
その部分で、つまり成果の見通しが暗いことで、批判を浴びることはあろう。
でもそれは、大きな問題なのだろうか。
見通しだけは良い右翼の科学で、微々たる進捗しかないことと比べて、問題なのだろうか。

成功しても微々たる進捗しかない仕事をするなら、失敗しそうな仕事をしたい。
そういうことかもしれない。

〜〜

取り組む課題は、人類にとって重要なら、現代科学にとって重要でなくてもいい。
取り組むべき課題が定まっているなら、どんな手段を使ってでも早く解決に近づきたい。
ただそれだけのことなのだ。

PR
30日から実家に滞在。
箕面ビールをガブガブ飲んでダラダラと。
せんべい布団で2歳児とともに寝たせいで、背中に疲労が蓄積。

31日の昼に551を食べたあたりから、寒気っぽい気配を感じる。
31夜もせんべい布団で2歳児とともに寝た。
深夜あたりから寒気と身体の痛みが明確になり、これは熱が出るなと確信。

1日朝イチで兵庫から愛知に移動するのだが、愛知滞在は無理っぽい体調。
雑煮とともに解熱剤を飲んで移動し、妻子とは名古屋で分かれて自宅まで帰りつく。
解熱剤が効いているうちに大量に米を炊いてしまって昼食を食べたところで38.5度。
ここから先、お粥とポカリで延々と寝続ける。
筋肉の強張りのみならず、皮膚もピリピリしてくる。
峠を越えたと思ってもなかなか38度を下回らず。

このあたりで、身体中の皮膚が真っ赤になっていることに気づく。
乳幼児のような全身の湿疹。
痒みはそれほどではなく、むしろ痛みがある。ヘルペス?

3日夕方には習い事のため2号が一人で帰宅してきたので、チャーハンを出した。
4日朝から2号が遠征に出て行くが、弁当も作れずコンビニで買っていけと言って送り出した。
4日昼あたりから明確に回復し、38度を超えない状態に。

5日に残りの家族が戻ってた。
仕事始めの6日は在宅でゆっくりと。
7日はバスで出勤してサッカー。夜は部署の新年会。

そんなわけで、昨年の振り返りも、新年の誓いも、グズグズなままに生活が動き出した。

独り暮らしのために買い溜めた酒を年末年始で飲みきって、今年の目標は「家では酒を飲まない」にしようと思っていたのだが、しっかり残っているし、妻子が実家からもらってきて追加してしまったので、一月いっぱいは家で飲む生活になってしまいそうだ。
この夏に本、一般書を出版したのだが、ココでは触れていなかった。
あえて触れていないわけではなく、単に触れていないだけだった。

本を書いている間は、文体や思考の統一のために、あまり他の日本語が書けない状態だった。
だからココが滞り、結果的にココには書かれていないのだろう。



執筆には二年ほどかかった。
実際には、執筆にあてる期間を一週間ほど作って、それ以外は本執筆とは別案件をやっていた。
それの繰り返しだったから、正味で本の執筆にあてたのは、10週間ぐらいだろうか。

最初の着地点は、海底資源の開発と環境影響評価だった。
でも海底資源の話は、事業自体の行く末が見えつつあるので、つまらないから変えたくなった。
それで途中から、気候工学の是非も含めることにした。

生命の起源は、いっぱい類書があるから、入れないつもりだった。
でも生物の定義だなんだと前段で書いていたら、やはり必要な気がして書いた。
ここは耳学問してきた分野で、目をつぶってでも書けるから、分量マシに役立った。

13万字と言われたから必死に書いたのだが、最終的には本が太くなり、単価も高くなった。
書いてしまうと削れないもので、まぁこれは仕方がない。
高いけど買ってください。

「日本スゴい、オレ達の研究スゴい」は書きたくなかった。
結果的に、しんかい6500すらほぼ触れない仕上がりになった。

執筆にあてた二年の中間で科博の特別展『海』の監修仕事が挟まった。
特に図録の作成は、「日本語」「執筆」「一般向け」なので、本とかなり重なった。
そのスピンオフでのネット記事を同僚から非難され、一般向けに丸めて書くのが怖くなった。

同時に、今やっている経済安全保障のプロジェクトの申請書も進行していた。
全然テイストが違うので、一緒には進められなかった。

縦書き本の流儀として、一桁の数値は全角、二桁は半角、三桁以上は全角、というのがある。
これを仕事パソコンが覚えてしまうので、他の仕事に多大な悪影響を及ぼした。
この調整は最後の最後まで着手しない方がよかった。

数字だけじゃなく英字に関しても同じようなルールが適用されることになっている。
でも化学式などは、全角だとさすがに気持ち悪い。
最後の段階で、3文字までは半角で横書きにして入れることを要望したら、やってもらえた。
ペタグラムカーボン(PgC)とか、二酸化炭素(CO2)とか、メタン(CH4)とか。
言ってみるもんだな。
これでかなり読みやすくなったと思うので、執筆予定の人は編集に要望した方が良いと思う。

このブログでは、表示幅以内で一文を終えるように書いている。
ときどきハミ出すけど。
それが、文を短めに切る習慣を作っているのかもしれない。
本では、同じような語尾が続かないように指摘をもらった。
短さと語尾の組み合わせで、テンポの良い読書感を作れたのかもしれない。

ダラダラと書いているけど、実は執筆時点のことは、あまり覚えていない。
かなり苦しんだ気もするのだけど、それほどツラい思い出でもない気がする。
書いていて楽しかったわけではない。
でも、良い評判が届くので(悪い評判はわざわざ届けないから)、それは本当に嬉しい。

本の執筆は、いちおう職務外としての対応だった。
時間管理のケジメはアレだったけども、仕事をサボる口実にしないようには心がけた。
心がけただけで、実践できていたかはわからない。

ありがたいことに『次の本』についても、お誘いも受けている。
もし書くとしても、仕事の方である程度の見通しが立ってからにしたい。
ネタとしても、出涸らしになっているので、追加のインプットが必要だ。



時間切れ
自分は勝敗に執着がない。
勝つこともあれば負けることもある。
相手がすごければ、負けるのだ。

しかし世の中、結構な割合の人が、勝敗に執念を燃やすのだなとも、感じている。
職場の昼サッカーでもそうだし、ミニバスの選手や保護者でもそうだ。
あれほど執着できることは、端的に言えば、うらやましい。
それだけ情熱的になれること、夢中になれることがある。
それは人生を豊かにしているなぁと、心底感心している。

うらやましいのは大前提だとして、だけども、危なっかしいとも思っている。
勝負というのは、勝敗を決めるためにやっている。
勝つ側があれば、負ける側もある。

無邪気にも横柄だったり尊大だったりする勝者には、なりたくない。
負けることを受け入れられない敗者にも、なりたくない。
なりたくないから、なってほしくない。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
勝ちに潜む不思議を探求し、負けの原因に向き合う。
そこからの成長にこそ、勝負の場に身を置く価値があるんじゃないか。
勝つほどに悩み、負けを楽しむ。
長い低空飛行が今なお続いている。
このブログで半年もあいたのは初めてじゃないだろうか。
心の矢印が(悪い意味で)内側に向き続けている。

原因はなんとなく掴めてきたような気がしている。
大きく構えて言うならば、世界観の違い、なんだろう。
卑近に言えば、世の中のことが気に入らない、わけです。



10年以上にわたってライフワーク的に「学者の公共性」を考えている。
世に言う「納税者に対する説明責任」よりも、広範な意味での公共性だ。
天皇機関説じゃないけども、そういうようなイメージでの考察。

たとえばジェンダー界隈の議論は、左右両極に、とてもウイングが広がっている。
片方では、男たるもの・女なんだから、と違和感なく口にする。
もう片方では、女性専用車両・トイレの増数ではダメだ、と主張する。
そんな人々の議論では、真ん中にある現実問題、痴漢や不遇な職場環境などは置き去りだ。

学術界でも同じようなことが起こっているのではないか。
片方には、学者内での評価によってのみ学者の価値が決まる、と考えている。
それは査読付原著論文数や引用数、インパクトファクターなどの議論に表出している。
もう片方では、社会における学者の価値を評価すべきだ、と考えている。

ボクはどちらにも一定の意義があるとは思っている。
だけど、片側に寄りすぎているんじゃないか、という思いが強い。
そして、その「寄りすぎていること」への無頓着さが、腹立たしい。

自分が寄って立つ世界が、何に立脚しているのか。
そういうことに無頓着な人間のことを、学者とは言えないんじゃないか。
両極にある価値をいずれも認めた上で、その間に自分を位置づける。
もちろんどちらかに寄るのは当然で、そこが自分にとって最適なのだろう。
だけどそれは、世界にとって至上の位置ではない。



ウエになればなるほど、価値観に対する態度が難しくなる。
自身の価値観を明快に表明することと、どんな価値観の人も許容することとは、相反しない。
自身の明快さと他者への許容力を同時に最大にして、対立させずに包摂することこそが、重要だ。
これは簡単ではないし、かなり自覚的に振る舞わなければ実現しえない。

組織と個人の関係でも同じことが言える。
組織として目指すところは、明快に示されるべきだ。
一方で、組織に属する個人の立ち位置まですべて一つに集中させてはならない。
いや、ならないことはないが、狭い範囲に限定しては、集まれる人が限られてしまう。
そうすると組織としての柔軟性や伸びしろが確保できず、社会の変化に対応できなくなる。
組織を長く活動せしめるには、緩衝力や冗長性が不可欠だ。

難しいのは、自身の価値観から見て反対側のウイングに位置する物事への評価だ。
左右の位置とは別に、その位置におけるクオリティがある。
自身に近い位置ならば、高い解像度で評価できる。
しかし遠い位置の価値観の物事については、どうしても解像度が下がってしまう。
それでもなお評価はせねばならないし、価値観が異なるからこそ、公正に評価できるようにしたい。



ここまで書いてきて最後に出てきたが、この辺が最近の引っかかりなのかもしれない。
清濁併せ呑んで色々なことを進めなければならないからこそ、核心の部分は公正でありたい。
そういう思いが年々強くなっている。
一方で、世の中の多くは、核心の部分が私利私欲だから、表面は公正であろうとしているんじゃないか。
なんとなくだけど。
そこの部分の逆転した構造が、自分の感じる苛立ちの正体なのかもしれない。

やっぱりこうしてダラダラと心情を書くのには、意味があるな。
サボらずに続けていこう。
低空飛行が続いている。

その理由のようなものを掘り起こして記述できれば良いのだろうが、低空飛行の一番大きな要因が、自分自身の言語化能力(の低さ)への嫌悪感のようなものがあるので、手がつけられない。

上のような一文を書くのでさえ、表現や論理などを練る(あるいは練らずとも意味の通るものをサラリと書いてしまう)ことが出来なくなっている。

視力(老眼)をはじめとする身体的な衰えゆえか、酒浸りでの脳細胞の破損ゆえか、幼児対応での幼稚化ゆえか、はたまた色んな局面での他者との意思疎通不全への絶望ゆえか。

扶養家族がいなければ、収入を放棄しても構わないほど十分な資産があれば、自分はどんな選択肢をとるだろう。

賃金を得ることが目的の仕事とはいえ、それだけではない使命感や責任感を覚えていることも事実で、そこのところの落としどころにも悩まされる。

さてさて。
松本人志がかねて報道されてきた女性問題で炎上してメディアから御隠れになられた。
マンガ家の芦原妃名子さんがドラマ化での脚本改変のアレコレでなくなられた。
森保第二次政権のアジアカップで選手ファースト戦略のままイランに敗れた。

そう遠くない過去の一時期につるんでいた仲間たちが散り散りになっているそうだ。
それぞれの個と個の関係が発端のようだが、個と個と個の三者になると、ややこしい。

第三者の言い分はどうでもよくて。
人それぞれに思想信条のようなものがある。
その内容は他の人とは決して同一ではないし、同じ人の中でも時間とともに変質していく。
また内容がそれぞれであるのと同じように、思想信条の強度も人によって様々だ。

思想信条は不可侵で、社会通念はもとより、ときに法にも勝る生き様の基準だ。
その発露たる行動が、ときに法を犯すこともあるだろう。
違法の代償を受け容れてでも、妥協したくない一線というのが存在する。

日本での報道に触れて、とても奇異に感じるのが、この部分への感度の低さだ。
ときに社会通念こそが最大の正義であるように語られることもある。
社会通念こそが正義、ということを強く内面化している人も少なくない、というか過半数かもしれない。

「みんながやってるから」という人に、法を掲げて説得しても、鼻で笑われる。
「みんながやってるから」という人に、しかし私はこう思うと言っても、鼻で笑われる。
「法で決められている」という人に、しかし私はこう思うと言うと、白い目で見られる。

むずかしいね。
いずれやらねばならぬのだが、別に今やる必要はない。
そういう仕事や作業が積み重なっている。
すべてが「今じゃなくて良い」から、最優先事項が決められない。
いっそのこと、締切仕事が押し寄せてきた方が、諦めがつくのに。

キッズの吸収力とか成長速度を見ていると、成長途上での刺激のインプットは、次々に用意せねば間に合わない。
結果的に、優先順位を高くするつもりはなくても、まず着手する作業になっている。
放っておいても育っていくのでが、せっかくなら適切なインプットをフィードバックしてやりたい。

締切があってないような仕事でも、自分で締切を設定して踏ん張ることが出来る。
自分締切で踏ん張っている期間は、頑なになってしまい、かえって他のことが出来なくなってしまう。
この辺りの、えも言われぬバランスの悪さは、いかんともしがたい。

在宅日が多くなってきて、バランスを取るのがさらに難しくなっている。
通勤に往復一時間を要するわけだが、結果的には通勤した方が十分に時間を使っている気もする。
来年度になれば職場に若者が増えるので、ここのバランスはなかば強制的に改善するかもしれない。
朝食前は仕事。
朝食後すぐに新聞、ブログ、仕事。
夕食後に紙日記、余裕があればバスケノート。
95年阪神地震への対応で災害支援ボランティアに注目が集まり、以降の大災害では一般化していったように思う。
11年東北地震の時には、素晴らしいボランティア活動が称えられた一方で、適切でないボランティアはかえってジャマになるというデメリットも報道されるところとなった。
ボクは阪神地震の時に、宝塚市役所に高く積まれた救援物資としての古着を見て唖然とした原体験がある。
(ポカリスエットとカロリーメイトは大量に持ち帰った)

災害の性質によって、求められる支援は違う。
阪神では、人口密集地帯、地震の備えがなかった、倒壊と火災。
東北では、地震と津波、交通網の乏しい沿岸に点在する集落。

能登は、地理的な条件は東北よりも厳しい。
半島ゆえに陸路の全体が寸断されている様子。
東北では内陸からのルートが点在し、沿岸を南北に貫くルートがあったが、これがない。

一方、過疎地であることもあって、被害人口は阪神や東北に比べ、少ないだろう。
奥能登(能登北部)の人口は6万弱だという。
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/okunoto/kannai.html
(現在も被災地に残された人数はわからない)
比較として適当ではないが東北地震では2012年時点で応急仮設住宅に16万人が暮らしたという。
https://www.reconstruction.go.jp/jireishuu/2022data/02/
ここから、必要物資の総量は、先の災害と比べ、一桁ほど少ないかもしれない。

ルート困難と必要資源総量の観点から、人員や物資については、総量よりも、輸送にかかるロジの適切な配分の方が、重要なのではないか。
ボトムアップボランティアは総量総数が稼げるが個別的になりがちなので、現時点ではむしろ大規模母体による整然とした支援こそが必要なのかもしれない。
プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
ブログ内検索
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 30 31
アクセス解析
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) kawagucci's Weblog All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]