10.1に異動してから、異動そのものが原因じゃないんだけども、ずっとドタバタしているので、手元にある案件をちゃんと整理しておきたい。
1.所属部署での仕事
実態として部署業務は存在していない。基本的には個人の発想に基づく自由な研究開発をしている。給料をもらっている理由にあたる枠。詳細は後述。
2.所内兼務
内閣府SIP(エスアイピー)の『革新的深海資源調査技術』に携わっている。このうち『テーマ3:深海資源調査・開発システムの実証』に関与しており「環境課題の調査研究およびデータ解析への支援、開発してきた環境影響評価手法の国際標準化を進め、成果の普及活動等によりプロジェクトの目標を達成する」が任務だそうです。具体的には「調査航海の立案・実施」と「得られた成果の国際公表(=英語での論文化)」を担っております。時間エフォートをかなり割いており、いわゆる会社の仕事として参加している。
http://www.jamstec.go.jp/sip2/j/organization/
3.科研費代表
基盤B代表で「熱分解炭化水素の同位体システマチクスを決定する」を実施中。人件費として使用して、熱分解実験と同位体分析のそれぞれで雇用した人が働いているので、自身の日常的なエフォートとしてはほぼゼロ。申請段階では日本各地の熱分解起源ガスを採取して回る計画だが、採択時点からコロナ禍が続いており、そちらは断念して計画のバランスをとっている。3年間で実験論文1本は出そうなので粛々と進める。
https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-20H02020/
4.文科省資金&共同研究
文科省「海洋資源利用促進技術開発プログラム 海洋生物ビッグデータ活用技術高度化」に採択された「インテリジェントセンサEVSを用いた海洋粒子ビッグデータ生成」の研究協力者として実施中。共同研究契約も並行している。いま一番たのしい仕事。代表者がぐいぐい進めてくれるので、全体のデザインをしつつ、海域試験のアレンジを担当している。これ単体でのエフォートはほぼゼロだが、海域試験は単独では困難なため他案件と繋ぐ必要があり、根回し下交渉がそれなりにホネ。成果が出たら業界騒然だと思っている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/boshu/detail/mext_00159.html
5.某企業共同研究
前理事の同級生が偉い人をしている企業との共同研究契約に基づく仕事。この研究自体が論文になるような内容ではない上に、準備が大変な航海が流れたりして、ほぼ何も出来ないままエフォートが吸い取られている。しかし社会的にインパクトのある仕事だと確信して取り組んでいる。
6.サウンドスケープ関係
「所属部署での研究」に該当するかもしれない。かつて在籍したポスドク氏の面倒を見た流れで主担当になってしまっている。思ったより世間()のウケが良くて、止めるに止められない状況。今後は、3点計測で方向を決めたり、長期モニタリングで変動を追ったり、安価で確かな機器を開発して宣伝したり、という方向で進めていくのだと思っている。
https://aslopubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/lno.11911
7.深海現場冷凍装置
「所属部署での研究」に該当する。冷温停止中。手持ちデータで軽い論文にしてしまうか、追加で海域試験をするかなのだが、海域試験のチャンスがなくて頓挫している。早く終わらせたい。
8.はやぶさ2
「所属部署での研究」に該当する。昨日おわった。なんのかんの一年がかり。結構しんどかった、精神的に。自分では何もやってないけど。
9.紅海
「所属部署での研究」に該当する。2019年航海のデータをまとめて論文にしようとしている。変な場所で限られたデータ数なので、まとめ方に知恵を絞らねばならない。
10.熱水プルーム研究
「所属部署での研究」に該当する。航海日数が削減される中で、短期間の航海で面白い成果を出すのにちょうど良いテーマとして再着手するところ。元々ずっと取り組んでいた仕事なので勉強しなくても勘所がわかるという意味ではエフォートがかからない。みんなが喜んでくれればと航海提案書を書いてウッカリ採択されたのでこれから忙しくなる見込み。
11.海底境界層生命圏
「所属部署での研究」に該当する。JAMSTECでしか出来ない、JAMSTECだからこそ、というテーマとして進めようと考えている。「人間は陸上で暮らしていると言うけど、足の裏以外はすべて大気中に存在しているじゃないですか」というような話。海水流動から動物まで含めて大きめに構えた話題にしたいので、かなりの勉強が必要なのだが、全然なにも出来ていない。関係者に「まずは総説を書こう」と呼びかけて頓挫。
12.50周年記念誌編集長
エフォート計算外。10月中旬に(形式上は立候補して)就任してしまった。あの状況じゃ仕方がない。10月下旬から丸3週間ぐらいはエフォートを割いた。年50週だとしたらエフォート5%ぐらいか。最終的には10%にはなると思う。でもまぁやるしかないのでやる。
13.学術会議
エフォート計算外。会議出席で時間エフォートが必要だが大した分量ではない。
14.家庭任務
エフォート計算外。習い事随伴はコチラとしてもリフレッシュ。朝や夕方に自宅待機必須など、在宅勤務を並行できるのでエフォートはかからないが、拘束はされる。
1.所属部署での仕事
実態として部署業務は存在していない。基本的には個人の発想に基づく自由な研究開発をしている。給料をもらっている理由にあたる枠。詳細は後述。
2.所内兼務
内閣府SIP(エスアイピー)の『革新的深海資源調査技術』に携わっている。このうち『テーマ3:深海資源調査・開発システムの実証』に関与しており「環境課題の調査研究およびデータ解析への支援、開発してきた環境影響評価手法の国際標準化を進め、成果の普及活動等によりプロジェクトの目標を達成する」が任務だそうです。具体的には「調査航海の立案・実施」と「得られた成果の国際公表(=英語での論文化)」を担っております。時間エフォートをかなり割いており、いわゆる会社の仕事として参加している。
http://www.jamstec.go.jp/sip2/j/organization/
3.科研費代表
基盤B代表で「熱分解炭化水素の同位体システマチクスを決定する」を実施中。人件費として使用して、熱分解実験と同位体分析のそれぞれで雇用した人が働いているので、自身の日常的なエフォートとしてはほぼゼロ。申請段階では日本各地の熱分解起源ガスを採取して回る計画だが、採択時点からコロナ禍が続いており、そちらは断念して計画のバランスをとっている。3年間で実験論文1本は出そうなので粛々と進める。
https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-20H02020/
4.文科省資金&共同研究
文科省「海洋資源利用促進技術開発プログラム 海洋生物ビッグデータ活用技術高度化」に採択された「インテリジェントセンサEVSを用いた海洋粒子ビッグデータ生成」の研究協力者として実施中。共同研究契約も並行している。いま一番たのしい仕事。代表者がぐいぐい進めてくれるので、全体のデザインをしつつ、海域試験のアレンジを担当している。これ単体でのエフォートはほぼゼロだが、海域試験は単独では困難なため他案件と繋ぐ必要があり、根回し下交渉がそれなりにホネ。成果が出たら業界騒然だと思っている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/boshu/detail/mext_00159.html
5.某企業共同研究
前理事の同級生が偉い人をしている企業との共同研究契約に基づく仕事。この研究自体が論文になるような内容ではない上に、準備が大変な航海が流れたりして、ほぼ何も出来ないままエフォートが吸い取られている。しかし社会的にインパクトのある仕事だと確信して取り組んでいる。
6.サウンドスケープ関係
「所属部署での研究」に該当するかもしれない。かつて在籍したポスドク氏の面倒を見た流れで主担当になってしまっている。思ったより世間()のウケが良くて、止めるに止められない状況。今後は、3点計測で方向を決めたり、長期モニタリングで変動を追ったり、安価で確かな機器を開発して宣伝したり、という方向で進めていくのだと思っている。
https://aslopubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/lno.11911
7.深海現場冷凍装置
「所属部署での研究」に該当する。冷温停止中。手持ちデータで軽い論文にしてしまうか、追加で海域試験をするかなのだが、海域試験のチャンスがなくて頓挫している。早く終わらせたい。
8.はやぶさ2
「所属部署での研究」に該当する。昨日おわった。なんのかんの一年がかり。結構しんどかった、精神的に。自分では何もやってないけど。
9.紅海
「所属部署での研究」に該当する。2019年航海のデータをまとめて論文にしようとしている。変な場所で限られたデータ数なので、まとめ方に知恵を絞らねばならない。
10.熱水プルーム研究
「所属部署での研究」に該当する。航海日数が削減される中で、短期間の航海で面白い成果を出すのにちょうど良いテーマとして再着手するところ。元々ずっと取り組んでいた仕事なので勉強しなくても勘所がわかるという意味ではエフォートがかからない。みんなが喜んでくれればと航海提案書を書いてウッカリ採択されたのでこれから忙しくなる見込み。
11.海底境界層生命圏
「所属部署での研究」に該当する。JAMSTECでしか出来ない、JAMSTECだからこそ、というテーマとして進めようと考えている。「人間は陸上で暮らしていると言うけど、足の裏以外はすべて大気中に存在しているじゃないですか」というような話。海水流動から動物まで含めて大きめに構えた話題にしたいので、かなりの勉強が必要なのだが、全然なにも出来ていない。関係者に「まずは総説を書こう」と呼びかけて頓挫。
12.50周年記念誌編集長
エフォート計算外。10月中旬に(形式上は立候補して)就任してしまった。あの状況じゃ仕方がない。10月下旬から丸3週間ぐらいはエフォートを割いた。年50週だとしたらエフォート5%ぐらいか。最終的には10%にはなると思う。でもまぁやるしかないのでやる。
13.学術会議
エフォート計算外。会議出席で時間エフォートが必要だが大した分量ではない。
14.家庭任務
エフォート計算外。習い事随伴はコチラとしてもリフレッシュ。朝や夕方に自宅待機必須など、在宅勤務を並行できるのでエフォートはかからないが、拘束はされる。
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大学の運営費交付金の削減がよく話題になりますが、われわれ国研においても状況は似たり寄ったりです。削減されてます。
http://www.jamstec.go.jp/j/about/suii/
うちは調査船の運航を担っているので、それにかかる費用もこの中に含まれています。船体の維持はもちろんのこと、運航要員(いわゆる船員さん)や調査要員(探査機パイロットとか)の確保とか、消費する燃料とか、運航管理はとにかくかなりお金のかかる事業なのです。お金の足りなくなってきた最近は、保有する船の数を減らすとか、船はあるけど港の留まっているとか、そんな状態に陥っています。この国全体で起こっていることと一緒ですね。財政健全化というのか「健康のためにはダイエットが必要、ダイエットのために断食する」みたいな話です。存在理由の自己否定。アイデンティティ・クライシス。
個々の研究者からすると、自身が実施したいと調査航海に要する日程は、プロポーサルベースで獲得するものなので、必ず獲得できるとは決まっていない。その母数になる航海枠は、上記の都合によって年々減少している。そうするとプロポ審査の競争が激しくなるので、プロポが落ちた時のために航海に依存しない研究にも着手しはじめる。さらに近年は、1期15回講義必須化(単位の実質化)で、大学教員が休講にして長期の航海に出るってのも難しくなっている。そんなこんなで、採択数が減って航海機会が減る、航海に出ないテーマに着手する、機会があっても講義のため断念する、といった具合で次世代が育つ機会が激減する。
一方で、研究資金のプロジェクト化によって、調査航海の予算をプロジェクトから拠出することで、調査航海の枠を確保する流れも強くなっている。ボク個人で言えば、ここ数年はこの枠での乗船が半分以上になっている。業界全体は航海枠が取れなくてヒーヒー言って次世代育成が成立せず縮小しつつある中で、業界の中堅たるボクのような限られた人間が航海日数が多すぎてヒーヒー言っている。とても不健全だ。じゃあボクの航海枠を業界でシェアすれば良いじゃないかとも思うのだけど、そして出来る限りはやっているのだけど、どうしてもプロジェクトの壁があって、そうそう簡単にはいかない。これはもどかしい。
そして自分自身の話。
今後のキャリアを考えると、そろそろココが分岐点という状態にある。つまり、ウチじゃない場所に異動して業界で生きていくならば、リスクヘッジとして調査航海に依存しない研究も続けておく方が良い。ウチに居続けるにしても、調査航海の機会が減ることは間違いないので、その意味でも航海依存研究の一本足打法は危険だ。
でも逆の視点からすれば、ボクみたいな特権的に調査航海機会に恵まれた人間が、調査航海に依存する深海研究に対して半身で構えているのは、失礼というか、もったいないというか、無責任な態度だともいえる。ボクがちゃんとやらなきゃ(どこかの鹿馬が考えた自己マン調査に貴重な航海枠が消費されて)業界が沈んでいってしまう。
内向き政治的な文脈重視の「我が国は素晴らしい」路線に寄り添って科学的な視点が欠落した海洋調査を進めることは恥ずかしい。でも、国際的な海洋業界の北西太平洋支部であることは、なんとなく意義があるようにも見えるけど、アタマが「我が国」か「国際コミュニティ」かの違いはあれども考えなしの文脈依存という点で変わりが無い。
そういう考えがあって、さしあたり向こう10年間ぐらいは、調査船をつかう研究に、今まで以上にズッポリと足を突っ込んでいくと決めた。自分の道を狭める方向に足を踏み出したわけです。狭めた先が行き止まりになるのではなくて、広大な世界を開拓するつもりではいるけども、そんなことが出来るかどうかは全然わかんない。
〜〜〜
休憩しながら書いたら、まとまりがない。
Tweet
http://www.jamstec.go.jp/j/about/suii/
うちは調査船の運航を担っているので、それにかかる費用もこの中に含まれています。船体の維持はもちろんのこと、運航要員(いわゆる船員さん)や調査要員(探査機パイロットとか)の確保とか、消費する燃料とか、運航管理はとにかくかなりお金のかかる事業なのです。お金の足りなくなってきた最近は、保有する船の数を減らすとか、船はあるけど港の留まっているとか、そんな状態に陥っています。この国全体で起こっていることと一緒ですね。財政健全化というのか「健康のためにはダイエットが必要、ダイエットのために断食する」みたいな話です。存在理由の自己否定。アイデンティティ・クライシス。
個々の研究者からすると、自身が実施したいと調査航海に要する日程は、プロポーサルベースで獲得するものなので、必ず獲得できるとは決まっていない。その母数になる航海枠は、上記の都合によって年々減少している。そうするとプロポ審査の競争が激しくなるので、プロポが落ちた時のために航海に依存しない研究にも着手しはじめる。さらに近年は、1期15回講義必須化(単位の実質化)で、大学教員が休講にして長期の航海に出るってのも難しくなっている。そんなこんなで、採択数が減って航海機会が減る、航海に出ないテーマに着手する、機会があっても講義のため断念する、といった具合で次世代が育つ機会が激減する。
一方で、研究資金のプロジェクト化によって、調査航海の予算をプロジェクトから拠出することで、調査航海の枠を確保する流れも強くなっている。ボク個人で言えば、ここ数年はこの枠での乗船が半分以上になっている。業界全体は航海枠が取れなくてヒーヒー言って次世代育成が成立せず縮小しつつある中で、業界の中堅たるボクのような限られた人間が航海日数が多すぎてヒーヒー言っている。とても不健全だ。じゃあボクの航海枠を業界でシェアすれば良いじゃないかとも思うのだけど、そして出来る限りはやっているのだけど、どうしてもプロジェクトの壁があって、そうそう簡単にはいかない。これはもどかしい。
そして自分自身の話。
今後のキャリアを考えると、そろそろココが分岐点という状態にある。つまり、ウチじゃない場所に異動して業界で生きていくならば、リスクヘッジとして調査航海に依存しない研究も続けておく方が良い。ウチに居続けるにしても、調査航海の機会が減ることは間違いないので、その意味でも航海依存研究の一本足打法は危険だ。
でも逆の視点からすれば、ボクみたいな特権的に調査航海機会に恵まれた人間が、調査航海に依存する深海研究に対して半身で構えているのは、失礼というか、もったいないというか、無責任な態度だともいえる。ボクがちゃんとやらなきゃ(どこかの鹿馬が考えた自己マン調査に貴重な航海枠が消費されて)業界が沈んでいってしまう。
内向き政治的な文脈重視の「我が国は素晴らしい」路線に寄り添って科学的な視点が欠落した海洋調査を進めることは恥ずかしい。でも、国際的な海洋業界の北西太平洋支部であることは、なんとなく意義があるようにも見えるけど、アタマが「我が国」か「国際コミュニティ」かの違いはあれども考えなしの文脈依存という点で変わりが無い。
そういう考えがあって、さしあたり向こう10年間ぐらいは、調査船をつかう研究に、今まで以上にズッポリと足を突っ込んでいくと決めた。自分の道を狭める方向に足を踏み出したわけです。狭めた先が行き止まりになるのではなくて、広大な世界を開拓するつもりではいるけども、そんなことが出来るかどうかは全然わかんない。
〜〜〜
休憩しながら書いたら、まとまりがない。
コリン・パウエルと共に「大きな合意」を喪くす分断のアメリカ
執筆者:中山俊宏 2021年11月11日
https://www.fsight.jp/articles/-/48392
『パウエルは、大統領にことの難しさを伝えることはしても、決断そのものに対して反対はしなかった。大統領の決断に対して物申すべきではないという「グッド・ソルジャー」の体質が、理性的な判断を上回った』
『パウエル将軍は、どこまでいっても「グッド・ソルジャー」だった。それがあらゆる限界を突破したソルジャーの限界でもあった』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『右翼と左翼』ということをしばしば考えている。支持政党とか政治思想的な意味合いではなく、事に当たる態度あるいは考え方だと思ってほしい。ここではとても大雑把に『右翼は現状是認、左翼は理念先行』ぐらいに捉えている。たとえば「社会はかくあるべし、だからこの制度は変えるべき」というのは左翼的で、「今の社会はここが良くないから改良するべき」というのは右翼的。この視点で言えば、現状よりも過去の方に理想を見出すのが極右であり、個人の解放を実現して無秩序に人類の個体群が生存している状態が極左と言えるかもしれない。
学術活動は左翼的だが、しかし学術界の住民は右翼的だ。
そんなことを考えていたところでコリン・パウエルの追悼文に出会った。パウエルさんの著書『リーダーを目指す人の心得』を読んで、バランスの取れた人だと感心したのだった。軍人ゆえのリアリズムと、黒人であること、あるいは黒人の代表的立場にあることを自覚した毅然とした態度。
軍隊は徹底した現状分析で今ココの状況打開を目指す。被害者を出してでも制圧するのか、被害者を最小化するために撤退するのか。現場の軍人にはギリギリの判断が要請される。しかし。その判断材料は提供できても、判断主体にはなれない。そして決断が下されれば、己の思想信条とは無関係に、それに従い遂行せねばならない。この辺り、徹底的に右翼的だ。一方で、黒人の地位向上、極論すれば人権の主張というのは、とても左翼的な行動だ。理念、理念、理念。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本において研究者の態度として良いとされていることの1つに、好奇心駆動での研究がある。己のうちなる情熱の赴くままに研究に取り組む。研究者に「好きなようにさせる」ことが、成果を最大化する最善手である、という主張も、これに近いのかもしれない。好奇心駆動研究を良いモノとする態度は、とても左翼的だ。アナーキー。
しかし日本の学術界は、そんな態度を支援する姿勢で運営されているかというと、かならずしもそうではない。審査と評価。相対的優劣。実践面ではそんなものが学術界を支配している。学術界の資金源が税金で、省庁に逆らうことが出来ないのが、そうした運営実態の原因だろう。つまり、学者個人の内側からの発露ではなく、現状の社会制度の枠組からの制約で運営している。とても右翼的だ。
冒頭の追悼文でコリン・パウエルに向けられた『グッド・ソルジャー』という評価は、まさにそのまま日本における『グッド・サイエンティスト』に繋がる。日本における学術界の諸問題を解決するには、社会構造そのものを変革しなければならない。多くの学者がそう考えている。しかし変革を本当に実現するほどの強度では行動しない。それは多くの学者が『グッド・サイエンティスト』だからだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
コリン・パウエルの『グッド・ソルジャー』たる姿は、コロナ禍における尾身茂の姿と重なる。(事実上)政府の中にあって、科学的な知見から意見を言う。ギリギリの線まで主張する。しかし最後の一線は政治判断に委ねる。決まったことには従い、その範囲内で最善手を探す。決して政府からは飛び出さない。『グッド・サイエンティスト』だった。
様々なコロナ禍ルポで「ここで政府とケンカしてしまって、その後は誰が事態を収拾するんだ」という主旨の尾身発言が採用されている。尾身さん自身には『グッド・サイエンティスト』であることについて、忸怩たる思いがあったはずだ。しかし感染症の流行という状況にあっては『グッド・サイエンティスト』であり続けるしかない。そこには尾身さんの葛藤がある。おそらくパウエルさんも、イラク戦争の状況下で、『グッド・ソルジャー』であることに葛藤があっただろう。
パウエルさんも尾身さんも、外形的には、右翼的にも左翼的にも見える。それは「現状の社会の中枢にあって」「最大速度で社会変革を進める」という右翼と左翼の分水嶺に立って、その位置で最大強度を発揮して行動していたからだろう。必須である社会変革のために、現状を是認して中枢に身を置く必要がある。妥協点としての中道ではない。最善手としての中道。
日本の多くの学者からは『グッド・サイエンティスト』であることへの葛藤を感じない。今の日本で学術に取り組むには(事実上)『グッド・サイエンティスト』であるしかない。しかし『グッド・サイエンティスト』であるということは、学者である良い態度ではない。妥協点としての中道。妥協的『グッド・サイエンティスト』。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
文科省国研にあってのJAMSTECとか、日本学術会議にあっての若手アカデミーとか、そういう準中枢的な組織こそ、いわゆる「ギリギリアウト」的なラインを攻めることで、社会を揺さぶる必要があると思っている(個人の意見です)。準中枢的な組織だからこそ、組織の行動指針や事業や構成員の多様性を大きく持って、その平均値が『グッド・サイエンティスト』的な態度を少し左側に超えたところにあるようなイメージ。とはいえワンシグマの範囲には『グッド・サイエンティスト』が入っている。その「ちょっと左にハミ出す」部分は、意外とみんなが見てみたい領域なんじゃないかな。
ボクのことを露悪的だと評する人が一定数いて、なんでそんなことを言われるのかと思っていた。でも何だかわかってきた。ボクは日本における『グッド・サイエンティスト』の分水嶺を、少し左に動かしたいんだ。その「ちょっと左側」にこそ、学者にとっても国家社会にとっても、明るい未来があると確信している。
Tweet
執筆者:中山俊宏 2021年11月11日
https://www.fsight.jp/articles/-/48392
『パウエルは、大統領にことの難しさを伝えることはしても、決断そのものに対して反対はしなかった。大統領の決断に対して物申すべきではないという「グッド・ソルジャー」の体質が、理性的な判断を上回った』
『パウエル将軍は、どこまでいっても「グッド・ソルジャー」だった。それがあらゆる限界を突破したソルジャーの限界でもあった』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『右翼と左翼』ということをしばしば考えている。支持政党とか政治思想的な意味合いではなく、事に当たる態度あるいは考え方だと思ってほしい。ここではとても大雑把に『右翼は現状是認、左翼は理念先行』ぐらいに捉えている。たとえば「社会はかくあるべし、だからこの制度は変えるべき」というのは左翼的で、「今の社会はここが良くないから改良するべき」というのは右翼的。この視点で言えば、現状よりも過去の方に理想を見出すのが極右であり、個人の解放を実現して無秩序に人類の個体群が生存している状態が極左と言えるかもしれない。
学術活動は左翼的だが、しかし学術界の住民は右翼的だ。
そんなことを考えていたところでコリン・パウエルの追悼文に出会った。パウエルさんの著書『リーダーを目指す人の心得』を読んで、バランスの取れた人だと感心したのだった。軍人ゆえのリアリズムと、黒人であること、あるいは黒人の代表的立場にあることを自覚した毅然とした態度。
軍隊は徹底した現状分析で今ココの状況打開を目指す。被害者を出してでも制圧するのか、被害者を最小化するために撤退するのか。現場の軍人にはギリギリの判断が要請される。しかし。その判断材料は提供できても、判断主体にはなれない。そして決断が下されれば、己の思想信条とは無関係に、それに従い遂行せねばならない。この辺り、徹底的に右翼的だ。一方で、黒人の地位向上、極論すれば人権の主張というのは、とても左翼的な行動だ。理念、理念、理念。
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日本において研究者の態度として良いとされていることの1つに、好奇心駆動での研究がある。己のうちなる情熱の赴くままに研究に取り組む。研究者に「好きなようにさせる」ことが、成果を最大化する最善手である、という主張も、これに近いのかもしれない。好奇心駆動研究を良いモノとする態度は、とても左翼的だ。アナーキー。
しかし日本の学術界は、そんな態度を支援する姿勢で運営されているかというと、かならずしもそうではない。審査と評価。相対的優劣。実践面ではそんなものが学術界を支配している。学術界の資金源が税金で、省庁に逆らうことが出来ないのが、そうした運営実態の原因だろう。つまり、学者個人の内側からの発露ではなく、現状の社会制度の枠組からの制約で運営している。とても右翼的だ。
冒頭の追悼文でコリン・パウエルに向けられた『グッド・ソルジャー』という評価は、まさにそのまま日本における『グッド・サイエンティスト』に繋がる。日本における学術界の諸問題を解決するには、社会構造そのものを変革しなければならない。多くの学者がそう考えている。しかし変革を本当に実現するほどの強度では行動しない。それは多くの学者が『グッド・サイエンティスト』だからだ。
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コリン・パウエルの『グッド・ソルジャー』たる姿は、コロナ禍における尾身茂の姿と重なる。(事実上)政府の中にあって、科学的な知見から意見を言う。ギリギリの線まで主張する。しかし最後の一線は政治判断に委ねる。決まったことには従い、その範囲内で最善手を探す。決して政府からは飛び出さない。『グッド・サイエンティスト』だった。
様々なコロナ禍ルポで「ここで政府とケンカしてしまって、その後は誰が事態を収拾するんだ」という主旨の尾身発言が採用されている。尾身さん自身には『グッド・サイエンティスト』であることについて、忸怩たる思いがあったはずだ。しかし感染症の流行という状況にあっては『グッド・サイエンティスト』であり続けるしかない。そこには尾身さんの葛藤がある。おそらくパウエルさんも、イラク戦争の状況下で、『グッド・ソルジャー』であることに葛藤があっただろう。
パウエルさんも尾身さんも、外形的には、右翼的にも左翼的にも見える。それは「現状の社会の中枢にあって」「最大速度で社会変革を進める」という右翼と左翼の分水嶺に立って、その位置で最大強度を発揮して行動していたからだろう。必須である社会変革のために、現状を是認して中枢に身を置く必要がある。妥協点としての中道ではない。最善手としての中道。
日本の多くの学者からは『グッド・サイエンティスト』であることへの葛藤を感じない。今の日本で学術に取り組むには(事実上)『グッド・サイエンティスト』であるしかない。しかし『グッド・サイエンティスト』であるということは、学者である良い態度ではない。妥協点としての中道。妥協的『グッド・サイエンティスト』。
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文科省国研にあってのJAMSTECとか、日本学術会議にあっての若手アカデミーとか、そういう準中枢的な組織こそ、いわゆる「ギリギリアウト」的なラインを攻めることで、社会を揺さぶる必要があると思っている(個人の意見です)。準中枢的な組織だからこそ、組織の行動指針や事業や構成員の多様性を大きく持って、その平均値が『グッド・サイエンティスト』的な態度を少し左側に超えたところにあるようなイメージ。とはいえワンシグマの範囲には『グッド・サイエンティスト』が入っている。その「ちょっと左にハミ出す」部分は、意外とみんなが見てみたい領域なんじゃないかな。
ボクのことを露悪的だと評する人が一定数いて、なんでそんなことを言われるのかと思っていた。でも何だかわかってきた。ボクは日本における『グッド・サイエンティスト』の分水嶺を、少し左に動かしたいんだ。その「ちょっと左側」にこそ、学者にとっても国家社会にとっても、明るい未来があると確信している。
水泳の指導をしていた時、「腕を前から後ろに掻く」と言っても、選手がうまく出来ないことがあった。それは「前」といった場合、通常の感覚では人体の表面なのだが、水泳的には人体でいう頭の上だからだ。
バスケでは「パスは相手の胸に出す」という。パスを受けた選手が次のプレイに入りやすいからだ。もちろん場合によってパスの高低を工夫することもあるが基本は「相手の胸に出す」。ビシッと相手の胸に出せるのが、競技能力としてはベスト。
「対面でのチェストパス」という、パス練習としては一番基本的なメニューをやることがある。向かい合ってチェストパスを相手の胸に出しあおうというメニュー。この練習はパス交換が出来ればスムースに進められるのだが、パスを落としてしまいがちだと、球拾いで練習時間が無駄になる他、気持ちも切れてしまうという難点がある。だからパス交換がまだ巧く出来ない低学年では(一部の高学年でも)このメニューをこなすこと自体が難しい。練習をスムースに進める指導法はないものかと考えていた。
キッズにパスを教える初手として「相手の胸に出す」は、かならずしも適当ではない気がしてきた。投げ手と受け手、双方に理由がたくさんある。
そもそも人体において「胸」と呼ばれる領域がどの辺りを指す言葉であるか、よくわかっていない子がいる。たとえば「ヘソより上」を胸だと認識しているかもしれない。さらに練習では人体は服の下に隠れているため、相手の胸がどこにあるかは、実は想像しているに過ぎない。これは盲点だった。「コーチ、相手の胸ってどこですか?」と聞かれると、たしかに「この辺り」としか回答できない。選手によって服装がマチマチなので、一括して「ココ」と指定しにくい。その上で、出し手がまだ未熟なので(だから練習をしているので)、胸に出そうとしても、ボールの行き先には、相手の顔から下腹部までぐらいの誤差がある。
受け手に「胸の前に手をあげて待つ」と指導すると、脇を締めた状態から肘から先だけをピョコッとあげて構える場合がほとんど。これでも確かに手の平は胸の高さにくる。しかしパスが低くズレると、手首を返さないと手の平を相手側に向けられず、パスを取れない。あるいは手首を返せずに指が相手を向いた状態になり、突き指するリスクもある。パスが高くズレると、慌てて肘からあげねばならず対応が遅れる。
受け手には、顔にボールが飛んでくるという恐怖心があり、「胸の前に手をあげて待つ」のは顔が守れないため恐怖を感じている様子もある。そういう子に特徴的なのは、胸の位置にあげた手の後ろに顔を隠すべく、アゴを引いて猫背になる構え。肘があげにくく、視線も下向きになり、そもそもの恐怖心も相まって、高くズレたパスをよけてしまう。
こうした難点を回避するため、つまりは「キッズが認知できるピンポイントの場所を指定できる」「ユニフォームを着ていても露出している」「誤差まで含めてパスが取れる範囲におさまる」「腕全体を使った受け手の構えの指導がしやすい」「顔にくる恐怖心を取り除ける」ことを満たす指導をした方が良いなと考えた。
「(練習では)パスは相手のアゴに出す」が、最適解なんじゃないかと考えた。まず的が「点」で明瞭になる。キッズもアゴは知っている。アゴを狙って低めにズレると胸になる。アゴの前で構えるには上腕からあげる必要がある。「顔にくるかもしれない」ではなく「顔にくる」設定なので、恐怖心克服には向いている。
低学年のうちは「アゴに出す」で指導をして、パス練習そのものを円滑に回せるようにする。そこでパスにかかわる神経系と筋力を確立する。高学年になったところではじめて「競技としては受け手が次のプレイに移りやすい場所にパスを出す。たとえば胸、伸ばした腕の先、空いている空間など」とパスの出し先の指導を開始する。そういう手順の方が良いんじゃないかな。
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バスケでは「パスは相手の胸に出す」という。パスを受けた選手が次のプレイに入りやすいからだ。もちろん場合によってパスの高低を工夫することもあるが基本は「相手の胸に出す」。ビシッと相手の胸に出せるのが、競技能力としてはベスト。
「対面でのチェストパス」という、パス練習としては一番基本的なメニューをやることがある。向かい合ってチェストパスを相手の胸に出しあおうというメニュー。この練習はパス交換が出来ればスムースに進められるのだが、パスを落としてしまいがちだと、球拾いで練習時間が無駄になる他、気持ちも切れてしまうという難点がある。だからパス交換がまだ巧く出来ない低学年では(一部の高学年でも)このメニューをこなすこと自体が難しい。練習をスムースに進める指導法はないものかと考えていた。
キッズにパスを教える初手として「相手の胸に出す」は、かならずしも適当ではない気がしてきた。投げ手と受け手、双方に理由がたくさんある。
そもそも人体において「胸」と呼ばれる領域がどの辺りを指す言葉であるか、よくわかっていない子がいる。たとえば「ヘソより上」を胸だと認識しているかもしれない。さらに練習では人体は服の下に隠れているため、相手の胸がどこにあるかは、実は想像しているに過ぎない。これは盲点だった。「コーチ、相手の胸ってどこですか?」と聞かれると、たしかに「この辺り」としか回答できない。選手によって服装がマチマチなので、一括して「ココ」と指定しにくい。その上で、出し手がまだ未熟なので(だから練習をしているので)、胸に出そうとしても、ボールの行き先には、相手の顔から下腹部までぐらいの誤差がある。
受け手に「胸の前に手をあげて待つ」と指導すると、脇を締めた状態から肘から先だけをピョコッとあげて構える場合がほとんど。これでも確かに手の平は胸の高さにくる。しかしパスが低くズレると、手首を返さないと手の平を相手側に向けられず、パスを取れない。あるいは手首を返せずに指が相手を向いた状態になり、突き指するリスクもある。パスが高くズレると、慌てて肘からあげねばならず対応が遅れる。
受け手には、顔にボールが飛んでくるという恐怖心があり、「胸の前に手をあげて待つ」のは顔が守れないため恐怖を感じている様子もある。そういう子に特徴的なのは、胸の位置にあげた手の後ろに顔を隠すべく、アゴを引いて猫背になる構え。肘があげにくく、視線も下向きになり、そもそもの恐怖心も相まって、高くズレたパスをよけてしまう。
こうした難点を回避するため、つまりは「キッズが認知できるピンポイントの場所を指定できる」「ユニフォームを着ていても露出している」「誤差まで含めてパスが取れる範囲におさまる」「腕全体を使った受け手の構えの指導がしやすい」「顔にくる恐怖心を取り除ける」ことを満たす指導をした方が良いなと考えた。
「(練習では)パスは相手のアゴに出す」が、最適解なんじゃないかと考えた。まず的が「点」で明瞭になる。キッズもアゴは知っている。アゴを狙って低めにズレると胸になる。アゴの前で構えるには上腕からあげる必要がある。「顔にくるかもしれない」ではなく「顔にくる」設定なので、恐怖心克服には向いている。
低学年のうちは「アゴに出す」で指導をして、パス練習そのものを円滑に回せるようにする。そこでパスにかかわる神経系と筋力を確立する。高学年になったところではじめて「競技としては受け手が次のプレイに移りやすい場所にパスを出す。たとえば胸、伸ばした腕の先、空いている空間など」とパスの出し先の指導を開始する。そういう手順の方が良いんじゃないかな。
初対面の方とご挨拶をする場面で、とりわけ会議冒頭の自己紹介で、研究の『専門分野』を聞かれることがあります。これはなかなか難しい問題です。
一番狭く捉えれば「海洋における溶存気体の動態を同位体比指標を用いて調べている」なんですが、まぁそんな回答は期待されていないでしょう。もう少し広範に捉えた話にしたい。
学会名のような学問分野を提示するならば、たとえば地球化学とか海洋学とか、そういうことになるのかもしれないけど、どちらにもピタッとはハマっていない。地球化学というにはソフトで生物に寄っているし、海洋学というには海底に寄りすぎている。もちろん地質学や地震学や生態学でもない。
そもそも研究者として唯一無二であることが重要だと思って活動してきたのですよ。師匠や先輩と違うことをしないと研究者としての価値がない、そういう考え。だから「同位体指標を使わない研究」とか「気体を相手にしない研究」とか、そんな方向に研究を展開している。もちろん同位体指標を使った気体動態の研究は続けている。
つまり『専門分野』みたいな(雑な)括りに自分の活動を落とし込んで説明すること自体に、ちょっとした嫌悪感のようなものを感じるわけです。括られない自分、ええやん、みたいな。
そんな思いでそれなりにキャリアを積んできた結果として構築されたボクの研究の総体には、なにか呼称がつけられる独自性のようなものが備わってきている気もする。実施した研究成果に閉じず、これから着手しようとしている志向(嗜好?)まで踏まえて全部ひっくるめると、バチッと自己紹介ができる『専門分野』みたいなものになっているかもしれない。
『人類の海洋利用拡張と環境影響評価の統合的推進』。社内外でまとまった時間の与えられたプレゼンでは、取り組みの総体としてコレをテーマとして掲げている。しかし専門分野というには長い。
短くするならば『海洋環境影響評価』かもしれない。事実、所属部署もそんな名前だし。でもこれだけだと、常にリアクション側みたいな印象がある。「誰かが開発しちゃうから評価します」みたいな。でもボクの志向は、新しい利用法を提示すると"同時に"環境影響評価も済ませてしまうパッケージとしての取り組み、つまり"統合的"推進にある。それってつまり『海洋研究開発』が専門ってことで、もはや社名なんですね。
「海洋研究開発機構のゴリラです。専門は海洋研究開発です」
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一番狭く捉えれば「海洋における溶存気体の動態を同位体比指標を用いて調べている」なんですが、まぁそんな回答は期待されていないでしょう。もう少し広範に捉えた話にしたい。
学会名のような学問分野を提示するならば、たとえば地球化学とか海洋学とか、そういうことになるのかもしれないけど、どちらにもピタッとはハマっていない。地球化学というにはソフトで生物に寄っているし、海洋学というには海底に寄りすぎている。もちろん地質学や地震学や生態学でもない。
そもそも研究者として唯一無二であることが重要だと思って活動してきたのですよ。師匠や先輩と違うことをしないと研究者としての価値がない、そういう考え。だから「同位体指標を使わない研究」とか「気体を相手にしない研究」とか、そんな方向に研究を展開している。もちろん同位体指標を使った気体動態の研究は続けている。
つまり『専門分野』みたいな(雑な)括りに自分の活動を落とし込んで説明すること自体に、ちょっとした嫌悪感のようなものを感じるわけです。括られない自分、ええやん、みたいな。
そんな思いでそれなりにキャリアを積んできた結果として構築されたボクの研究の総体には、なにか呼称がつけられる独自性のようなものが備わってきている気もする。実施した研究成果に閉じず、これから着手しようとしている志向(嗜好?)まで踏まえて全部ひっくるめると、バチッと自己紹介ができる『専門分野』みたいなものになっているかもしれない。
『人類の海洋利用拡張と環境影響評価の統合的推進』。社内外でまとまった時間の与えられたプレゼンでは、取り組みの総体としてコレをテーマとして掲げている。しかし専門分野というには長い。
短くするならば『海洋環境影響評価』かもしれない。事実、所属部署もそんな名前だし。でもこれだけだと、常にリアクション側みたいな印象がある。「誰かが開発しちゃうから評価します」みたいな。でもボクの志向は、新しい利用法を提示すると"同時に"環境影響評価も済ませてしまうパッケージとしての取り組み、つまり"統合的"推進にある。それってつまり『海洋研究開発』が専門ってことで、もはや社名なんですね。
「海洋研究開発機構のゴリラです。専門は海洋研究開発です」
加速主義の何たるかは知りません。勝手なイメージで言うと『科学を推進していくと、技術が革新して、それが社会変革をもたらす。その社会変革によって目前の諸問題は解決するから、とにかく夢に向かって突き進もう』みたいな印象です。巷で言われるイノベーションとかシンギュラリティとかにも、同じような印象を抱いています。
無責任ですよね。こういう方向に前のめりな人の話を聞くと、あるいは多くの研究者もそうだけども、ネガティブな気持ちになります。
飛行機の離陸のイメージでボクは捉えています。「加速していけば空を飛べる」と言われている気分です。こんな金属の塊が飛ぶわけないやろ。今の時代に飛行機がちゃんと飛ぶのは、理論的な追究と、繰り返された実験と、その後の数多の失敗への反省を、長い年月を経て積み重ねたからです。その間、飛行機が安全に飛ぶと信じた人が搭乗して、時に命を落としながらも実績を重ね、じょじょに飛ぶと信じる人を増やしていったわけですね。
「これは飛べるわ」と思いついた人がみんなに「じゃあ乗って」と言って、みんなが「はい乗ります」とはならないでしょう。今の社会では、「これは飛べるわ」と思いついた人が、理論追究や技術精査や実証試験もそれほど進めないうちから「絶対に飛びます」と喧伝している状態で、周りの人間も意外とパッと乗り込んでいるように見えます。それはつまり「宣伝と投資の共犯関係」なのだけど。しかし、金は賭けるとしても、じゃあ命を賭けるかと言われれば、それは別問題です。
知識のある人達で「これは飛べるわ」「お、飛びそうやんけ、投資したるわ」と話を進めているのを、よくわからない人達が見たら「へー、そんなもんかしらね」と思っても仕方がない。そのまま流されて「どうぞ乗ってください」と声をかけられたら、つい乗ってしまう人もいるでしょう。それがたとえ生煮えの技術で出来た試験機だとしても。滑走路をじょじょに加速していき、飛ぶことがないままどこかに激突して、多くの命が失われ、知識のある人達はそれを管制塔から眺めている。そんなの地獄じゃないですか。いや、一緒に乗り込んで死なれても、それはそれで地獄なんですが。
ということで、COP26です。2050年ネットゼロのカーボンニュートラル。あと30年。自分は70歳、キッズは40歳。孫世代がキッズなぐらいですね。リアルです。
「それはそれ、これはこれ」と象牙の塔に引き籠もっているのは、さすがに違うでしょという思いがあります。それなりに専門家なので「実践的に飛ぶ見込みのない技術」と「投資すれば飛べる技術」の見極めは、その辺の人よりは出来るつもりです。あるいは本腰いれて勉強すれば見極められるという自負がある。「そもそも飛行機より船の方が確実では」みたいな検討をする程度の視野も持っているはず。
客観的な知識を身につけて主体的に関与する。自由と信念。選ばれし者の恍惚と不安。
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無責任ですよね。こういう方向に前のめりな人の話を聞くと、あるいは多くの研究者もそうだけども、ネガティブな気持ちになります。
飛行機の離陸のイメージでボクは捉えています。「加速していけば空を飛べる」と言われている気分です。こんな金属の塊が飛ぶわけないやろ。今の時代に飛行機がちゃんと飛ぶのは、理論的な追究と、繰り返された実験と、その後の数多の失敗への反省を、長い年月を経て積み重ねたからです。その間、飛行機が安全に飛ぶと信じた人が搭乗して、時に命を落としながらも実績を重ね、じょじょに飛ぶと信じる人を増やしていったわけですね。
「これは飛べるわ」と思いついた人がみんなに「じゃあ乗って」と言って、みんなが「はい乗ります」とはならないでしょう。今の社会では、「これは飛べるわ」と思いついた人が、理論追究や技術精査や実証試験もそれほど進めないうちから「絶対に飛びます」と喧伝している状態で、周りの人間も意外とパッと乗り込んでいるように見えます。それはつまり「宣伝と投資の共犯関係」なのだけど。しかし、金は賭けるとしても、じゃあ命を賭けるかと言われれば、それは別問題です。
知識のある人達で「これは飛べるわ」「お、飛びそうやんけ、投資したるわ」と話を進めているのを、よくわからない人達が見たら「へー、そんなもんかしらね」と思っても仕方がない。そのまま流されて「どうぞ乗ってください」と声をかけられたら、つい乗ってしまう人もいるでしょう。それがたとえ生煮えの技術で出来た試験機だとしても。滑走路をじょじょに加速していき、飛ぶことがないままどこかに激突して、多くの命が失われ、知識のある人達はそれを管制塔から眺めている。そんなの地獄じゃないですか。いや、一緒に乗り込んで死なれても、それはそれで地獄なんですが。
ということで、COP26です。2050年ネットゼロのカーボンニュートラル。あと30年。自分は70歳、キッズは40歳。孫世代がキッズなぐらいですね。リアルです。
「それはそれ、これはこれ」と象牙の塔に引き籠もっているのは、さすがに違うでしょという思いがあります。それなりに専門家なので「実践的に飛ぶ見込みのない技術」と「投資すれば飛べる技術」の見極めは、その辺の人よりは出来るつもりです。あるいは本腰いれて勉強すれば見極められるという自負がある。「そもそも飛行機より船の方が確実では」みたいな検討をする程度の視野も持っているはず。
客観的な知識を身につけて主体的に関与する。自由と信念。選ばれし者の恍惚と不安。
先日、どんな文脈だったか忘れたけど、無差別殺人と死刑制度のことを話題にしました。死刑制度の是非を議論したいわけではなく、狙い通りに機能していないのではないか、ということです。
「自分の人生、もうどうなったって良いんだ」とヤケになって"無敵の人"となり、無差別殺人などの行動を起こすのだとすると、その先に死刑制度が待っているというのは、罰として機能していないでしょう。それどころか、むしろ無責任な行動を助長するというか、言い方が難しいところではあるけども、ある意味で"破滅願望に寄り添う"ことになっている気がします。
たとえば身の安全と健康が保障されるが常に内省と労働を要求される生活が待っている方が、"無敵の人"にとっては許容しがたい気がします。たとえば小学校のような場所ですね。学級会、道徳、労働、道徳、労働、学級会、という毎日。
罰がインセンティブになってしまっては、罰として機能しないどころか、本来の抑止力的な効果にも期待できません。たとえばアカハラ教員に対して講義担当や教務委員から外すという罰を用意するのは、給料そのまま役務減少というメリットにも思われ、なんだかイマイチです。減給処分では家庭にダメージが、などと慮ってのことかもしれませんが、それにしても他の手段を考えるべきでしょう。
いわゆる窓際族などの話。定年までの給料はサンクコストとして諦めて、何の仕事もさせない。ヘタに仕事をされる方が集団に損害が大きいというソロバンが弾かれると、窓際的な扱いにするのでしょう。本人は給料がもらえて仕事がないのでヨシ、会社にとってもマイナスが許容範囲におさまるからまぁヨシ。
しかし公務員の場合は、窓際族への給料とて原資が税金であるため、話がややこしい。本人はヨシ、職場としてもヨシでも、納税者としては許容できないのではないでしょうか。この辺りが話を難しくさせるのかもしれません。弊所が公的機関であることはこの話とは関係あるわけないだろダンカンこのやろう。
10月からグループリーダー代理という非管理職である謎の役職を与えられたのと同時に記念誌編集長の業務をはじめております。こうして見ると、典型的な窓際軌道に入ったなという感じです。研究成果を出さないとマジでヤバい。
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「自分の人生、もうどうなったって良いんだ」とヤケになって"無敵の人"となり、無差別殺人などの行動を起こすのだとすると、その先に死刑制度が待っているというのは、罰として機能していないでしょう。それどころか、むしろ無責任な行動を助長するというか、言い方が難しいところではあるけども、ある意味で"破滅願望に寄り添う"ことになっている気がします。
たとえば身の安全と健康が保障されるが常に内省と労働を要求される生活が待っている方が、"無敵の人"にとっては許容しがたい気がします。たとえば小学校のような場所ですね。学級会、道徳、労働、道徳、労働、学級会、という毎日。
罰がインセンティブになってしまっては、罰として機能しないどころか、本来の抑止力的な効果にも期待できません。たとえばアカハラ教員に対して講義担当や教務委員から外すという罰を用意するのは、給料そのまま役務減少というメリットにも思われ、なんだかイマイチです。減給処分では家庭にダメージが、などと慮ってのことかもしれませんが、それにしても他の手段を考えるべきでしょう。
いわゆる窓際族などの話。定年までの給料はサンクコストとして諦めて、何の仕事もさせない。ヘタに仕事をされる方が集団に損害が大きいというソロバンが弾かれると、窓際的な扱いにするのでしょう。本人は給料がもらえて仕事がないのでヨシ、会社にとってもマイナスが許容範囲におさまるからまぁヨシ。
しかし公務員の場合は、窓際族への給料とて原資が税金であるため、話がややこしい。本人はヨシ、職場としてもヨシでも、納税者としては許容できないのではないでしょうか。この辺りが話を難しくさせるのかもしれません。弊所が公的機関であることはこの話とは関係あるわけないだろダンカンこのやろう。
10月からグループリーダー代理という非管理職である謎の役職を与えられたのと同時に記念誌編集長の業務をはじめております。こうして見ると、典型的な窓際軌道に入ったなという感じです。研究成果を出さないとマジでヤバい。
議論のフェーズにあって結論を求めたり、結論を出すフェーズにあって議論を続けたり。そういう状況に陥ることが、よくあります。陥っているのは私個人ではなく、属している集団が、ですね。
以前、同僚とああでもないこうでもないと話をしている時に「ちょっと待って。話についていけないよ」と言われました。そして続けて「みんながキミみたいに、視点を動かしながら考えられるわけじゃないんだから」と言われたのです。なるほど。
視点を固定してグーッと深く考えていくことと、視点を動かしてバーッと立体的に考えていくこととは、違うことですよね。ボクは圧倒的に『バーッと系』の考え方をするので、『グーッと系』の人からすると、話が飛びすぎてまとまりがないように感じるのでしょう。逆にボクは『グーッと系』の考え方に対して、こまけぇなぁと感じるわけです。
心理学者の友人が『特性』という言葉を教えてくれました。いまググると「特性とは、個人の中で一貫して出現する行動や態度の傾向」だそうです。なるほど。
議論ができない人、議論ばかりする人。結論が出せない人、結論を急ぐ人。そういうのは、学習して身につけるような能力とは別の、人としての特性の影響もあるのでしょう。いずれにせよ、自分の特性については、把握していたいものです。
好/嫌。巧/拙。善/悪。この3つの軸で自分の特性を評価して、身を置く場や従事する行為を選択できることが、人生のコツなんじゃないでしょうか。短期的に自分のことを考えると、好きなことをやっているのが気分が良い。でももしそれが不得手なことで、不得手なことで困ってしまうなら、中長期的には気分が良くない状況に陥ってしまいます。この辺りはサジ加減が必要なのでしょう。
たとえば趣味では、好きが大事で、拙くたって構わない。ボクの場合だとサッカーです。やっている間の気分が良い。上手ではないので、レベルの高すぎるところでプレイすると楽しめない状況にもなってしまう。もちろん巧くなりたいけど、巧くなる必要はないので、ほどほどに出来れば十分です。
たとえば仕事では、好きでなくても、巧くできれば高評価が獲得できる方が望ましい。ボクの場合は、研究とか航海計画とかです。『バーッと系』の考え方をする研究者というのは意外と少なくて、『バーッと系』の業務を請け負うことで周囲からの評価が得られています(いちおう査読や各種審査に通って会社で出世もしています)。しかし好きなわけではなくて、感情労働は本当に滅入るし、同位体比なんて何でも良いやんけと日々思っています。
しかし趣味でも仕事でも『悪』であると感じていることに従事するのは、気分が良くないですよね。そこは避けたい。Don't Be Evilです。
議論をすることそのものを『悪』と感じることはない。でも結論に至ることを目的としない議論には『悪』を感じることがあるし、議論を尽くさずに結論を出すことにはより強めの『悪』を感じる。ただそれとて常に『悪』なわけではなくて、議論する間でもなく結論が出せることもある。
いずれにせよ、自分の特性を把握できていない状態で議論を展開されると、付き合うのにほとほと疲れてしまう。自分の好きを拙い論理でデコレーションして主張するヤツとか、得意の論理展開を駆使して嫌いなことを否定するヤツとか、ですね。さすがに「それ、単にアンタが気持ちよくなりたいだけやん」と直球を投げ込むのは控えていますが、なんというか、疲れます。
つい悪感情の方向に話を進めるのは、ボクのもっとも良くない特性であります。
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以前、同僚とああでもないこうでもないと話をしている時に「ちょっと待って。話についていけないよ」と言われました。そして続けて「みんながキミみたいに、視点を動かしながら考えられるわけじゃないんだから」と言われたのです。なるほど。
視点を固定してグーッと深く考えていくことと、視点を動かしてバーッと立体的に考えていくこととは、違うことですよね。ボクは圧倒的に『バーッと系』の考え方をするので、『グーッと系』の人からすると、話が飛びすぎてまとまりがないように感じるのでしょう。逆にボクは『グーッと系』の考え方に対して、こまけぇなぁと感じるわけです。
心理学者の友人が『特性』という言葉を教えてくれました。いまググると「特性とは、個人の中で一貫して出現する行動や態度の傾向」だそうです。なるほど。
議論ができない人、議論ばかりする人。結論が出せない人、結論を急ぐ人。そういうのは、学習して身につけるような能力とは別の、人としての特性の影響もあるのでしょう。いずれにせよ、自分の特性については、把握していたいものです。
好/嫌。巧/拙。善/悪。この3つの軸で自分の特性を評価して、身を置く場や従事する行為を選択できることが、人生のコツなんじゃないでしょうか。短期的に自分のことを考えると、好きなことをやっているのが気分が良い。でももしそれが不得手なことで、不得手なことで困ってしまうなら、中長期的には気分が良くない状況に陥ってしまいます。この辺りはサジ加減が必要なのでしょう。
たとえば趣味では、好きが大事で、拙くたって構わない。ボクの場合だとサッカーです。やっている間の気分が良い。上手ではないので、レベルの高すぎるところでプレイすると楽しめない状況にもなってしまう。もちろん巧くなりたいけど、巧くなる必要はないので、ほどほどに出来れば十分です。
たとえば仕事では、好きでなくても、巧くできれば高評価が獲得できる方が望ましい。ボクの場合は、研究とか航海計画とかです。『バーッと系』の考え方をする研究者というのは意外と少なくて、『バーッと系』の業務を請け負うことで周囲からの評価が得られています(いちおう査読や各種審査に通って会社で出世もしています)。しかし好きなわけではなくて、感情労働は本当に滅入るし、同位体比なんて何でも良いやんけと日々思っています。
しかし趣味でも仕事でも『悪』であると感じていることに従事するのは、気分が良くないですよね。そこは避けたい。Don't Be Evilです。
議論をすることそのものを『悪』と感じることはない。でも結論に至ることを目的としない議論には『悪』を感じることがあるし、議論を尽くさずに結論を出すことにはより強めの『悪』を感じる。ただそれとて常に『悪』なわけではなくて、議論する間でもなく結論が出せることもある。
いずれにせよ、自分の特性を把握できていない状態で議論を展開されると、付き合うのにほとほと疲れてしまう。自分の好きを拙い論理でデコレーションして主張するヤツとか、得意の論理展開を駆使して嫌いなことを否定するヤツとか、ですね。さすがに「それ、単にアンタが気持ちよくなりたいだけやん」と直球を投げ込むのは控えていますが、なんというか、疲れます。
つい悪感情の方向に話を進めるのは、ボクのもっとも良くない特性であります。
久々に出張へ行ってきました。荷造りとか飛行機搭乗前の時間の使い方とか、細々した部分がスムースに体が動かず、かつてオートマチックにこなしていた作業を忘れる身体性に驚かされます。このタイミングで何かするんだよな、と頭では引っ掛かりを感じて、体も動こうとするのだけど、それが何だったかを掴みきれず体が泳いでしまうような、そんな状態です。元に戻ることはないのでしょう。ニューノーマル、どんな形で着地するのだろう。
出張ついでに時間を見つけて旧知の(若手)研究者とお話をしてきました。以前にあった時は、爪や髪が濁って見るからにキツそうだったけど、ドン底からは幾分か回復したようで、知り合った頃の明るさに子育てを経て獲得したのだろう鷹揚さも加わっていました。とはいえ、任期付・地方・子育てというのは知識として知っている以上に困難なのでしょう。話をするうちに、成熟に見えた鷹揚さも、あるいは諦観からくるものなのかもしれないと思い直しました。
「ルールが整備されていなかった」という理由で、産休育休分の任期が延長されず当初契約の任期で、しかし成果目標については休暇分を差し引いて評価するということだが、テニュア審査が行われるとのこと。どの法律でどう判断されるのか専門家ではないのでわからないけども、現在の社会通念からすれば、産休育休相当の年月分だけ任期を延長しないというのは、アウトでしょう。理念が十分に共有されていれば、こういう不具合が生じることもないのでしょうが、やはりまだ「上から落ちてきた概念」なのでしょう。任期制度も、女性の社会進出も。
話をしているうちに、ボクと彼女で過去にどんな話をしていたかを思い出してきました。結婚のタイミングと目の前の研究進捗。出産を見据えた上での地方教員公募への応募。研究テーマの選び方。スイスからの一時帰国でも毎回会っていて、4日間の帰国中に2回会ったりもしました。結果だけを見ると彼女はボクの意見の逆を行き続けているのだけども、だからといってボクが彼女の選択が間違っていたとはまったく思わないし、かといってボクの話したことが無意味だったのでもない。大きな分かれ目でどっちを選ぶかってことよりも、どっちにも転びうる分岐点の前で身体を硬直させないための揺さぶりというか、そういうことをしたのかなと思っているわけです。
最近出演しているウェブ番組やシンポジウムの登壇などで「混ぜっ返し」を期待されていると言われます。この「混ぜっ返し」というのが、なんだかジャマをしているようなニュアンスがあって好きではないのだけど、硬直した状況をほぐす「マッサージ」をしているのだと思えば、なんだかポジティブな気もします。「混ぜっ返し」と「マッサージ」だと語感も似ていて互換性があるし。そんなことを、2週間以上続く寝違えからの首痛を抱えながら、思っているのでした。
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出張ついでに時間を見つけて旧知の(若手)研究者とお話をしてきました。以前にあった時は、爪や髪が濁って見るからにキツそうだったけど、ドン底からは幾分か回復したようで、知り合った頃の明るさに子育てを経て獲得したのだろう鷹揚さも加わっていました。とはいえ、任期付・地方・子育てというのは知識として知っている以上に困難なのでしょう。話をするうちに、成熟に見えた鷹揚さも、あるいは諦観からくるものなのかもしれないと思い直しました。
「ルールが整備されていなかった」という理由で、産休育休分の任期が延長されず当初契約の任期で、しかし成果目標については休暇分を差し引いて評価するということだが、テニュア審査が行われるとのこと。どの法律でどう判断されるのか専門家ではないのでわからないけども、現在の社会通念からすれば、産休育休相当の年月分だけ任期を延長しないというのは、アウトでしょう。理念が十分に共有されていれば、こういう不具合が生じることもないのでしょうが、やはりまだ「上から落ちてきた概念」なのでしょう。任期制度も、女性の社会進出も。
話をしているうちに、ボクと彼女で過去にどんな話をしていたかを思い出してきました。結婚のタイミングと目の前の研究進捗。出産を見据えた上での地方教員公募への応募。研究テーマの選び方。スイスからの一時帰国でも毎回会っていて、4日間の帰国中に2回会ったりもしました。結果だけを見ると彼女はボクの意見の逆を行き続けているのだけども、だからといってボクが彼女の選択が間違っていたとはまったく思わないし、かといってボクの話したことが無意味だったのでもない。大きな分かれ目でどっちを選ぶかってことよりも、どっちにも転びうる分岐点の前で身体を硬直させないための揺さぶりというか、そういうことをしたのかなと思っているわけです。
最近出演しているウェブ番組やシンポジウムの登壇などで「混ぜっ返し」を期待されていると言われます。この「混ぜっ返し」というのが、なんだかジャマをしているようなニュアンスがあって好きではないのだけど、硬直した状況をほぐす「マッサージ」をしているのだと思えば、なんだかポジティブな気もします。「混ぜっ返し」と「マッサージ」だと語感も似ていて互換性があるし。そんなことを、2週間以上続く寝違えからの首痛を抱えながら、思っているのでした。
正式に編集長というのかは不明です。すでに隊長とかリーダーとか室長とか鬼とか色々と呼ばれております。肩書きはさておき、弊所、2021年10月1日にめでたく50周年を迎えまして、その記念誌の編集長を拝命した次第です。拝命というのもおかしいですね、誰にも命令権限はないので、実態としては「編集長を自称することにした」です。承認は後から。追認待ち。
元々は、初代編集長のご人徳に引き寄せられた編集部メンバーの一員としてノンキに暮らしていたのです。楽しい編集部でした。せっかくだから自分達が読みたいような記念誌にしようと、お役所系研究機関としては非典型的な誌面を妄想して活動しておりました。弊所の倉庫に眠るアルバムを掘り起こしたり、1期生を呼び出して最初の20年間ぐらいの話を聞いたり(その後に飲みに行ったり)、50周年に向けてワイワイとやっておったわけです。しかし、まずコロナ禍悪化で倉庫に集まっての作業が困難になり、さらにネットワークインシデントによって所内のデジタル蔵書にアクセスできなくなったところに、編集長殿の本務異動も重なり、なかなか大変な状況に陥っておりました。そんな状況にあって、突如『天』から「記念誌はどうなっとるのかね」の声とともに降り注いだ非情な締切通告。作りたい誌面にしたい想いと、記念誌かくあるべしという内容で締切厳守である業務と、相反するレイヤーをギュッと押しつぶして一体化するという曲芸に挑むことになりました。
そんな無理ゲーの引き受け手など易々と見つかるわけないのですよ。普通は。でも偶然、請われるがままに曲芸を見せるお人好しなゴリラがその辺でゴロゴロしていたのです。そんなこんなで、みなさまからのヨイショに気をよくして安請け合いし、記念誌編集長(2代目)に就任いたしました。公式な職ではなく、あくまで同人誌の編集長です。エフォート外。実入りゼロ。労力持ち出し。
キックオフ宣言から1週間、驚異的なスピードで物事が進んでいます。誌面編集に情熱を燃やす人、自部署案件として動きやすい人、なにはともあれ祭には参加する人、前職の経験を活かして活躍する人。ここまでは想定の300%ぐらいの進捗です。しかしボクは知っているのです。スタートダッシュの後にヘタリがきて、そこから再度ムチを入れるのがとても大変なことを。ここから締切まで、それほど長い時間は残されていないけど、それほど短くもない時間。どうなることやらですが、何とかなるとも思っています。
とんでもない記念誌を作り上げて、そこに編集長(2代目)として名を残せたら、面白いよね。
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元々は、初代編集長のご人徳に引き寄せられた編集部メンバーの一員としてノンキに暮らしていたのです。楽しい編集部でした。せっかくだから自分達が読みたいような記念誌にしようと、お役所系研究機関としては非典型的な誌面を妄想して活動しておりました。弊所の倉庫に眠るアルバムを掘り起こしたり、1期生を呼び出して最初の20年間ぐらいの話を聞いたり(その後に飲みに行ったり)、50周年に向けてワイワイとやっておったわけです。しかし、まずコロナ禍悪化で倉庫に集まっての作業が困難になり、さらにネットワークインシデントによって所内のデジタル蔵書にアクセスできなくなったところに、編集長殿の本務異動も重なり、なかなか大変な状況に陥っておりました。そんな状況にあって、突如『天』から「記念誌はどうなっとるのかね」の声とともに降り注いだ非情な締切通告。作りたい誌面にしたい想いと、記念誌かくあるべしという内容で締切厳守である業務と、相反するレイヤーをギュッと押しつぶして一体化するという曲芸に挑むことになりました。
そんな無理ゲーの引き受け手など易々と見つかるわけないのですよ。普通は。でも偶然、請われるがままに曲芸を見せるお人好しなゴリラがその辺でゴロゴロしていたのです。そんなこんなで、みなさまからのヨイショに気をよくして安請け合いし、記念誌編集長(2代目)に就任いたしました。公式な職ではなく、あくまで同人誌の編集長です。エフォート外。実入りゼロ。労力持ち出し。
キックオフ宣言から1週間、驚異的なスピードで物事が進んでいます。誌面編集に情熱を燃やす人、自部署案件として動きやすい人、なにはともあれ祭には参加する人、前職の経験を活かして活躍する人。ここまでは想定の300%ぐらいの進捗です。しかしボクは知っているのです。スタートダッシュの後にヘタリがきて、そこから再度ムチを入れるのがとても大変なことを。ここから締切まで、それほど長い時間は残されていないけど、それほど短くもない時間。どうなることやらですが、何とかなるとも思っています。
とんでもない記念誌を作り上げて、そこに編集長(2代目)として名を残せたら、面白いよね。