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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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*1月23日(月)
Arosaのホテルを探す
【大人2名+子供3名(6・4・2歳)】で【2泊だけ】の宿は限られる。
6泊以上縛りなどリゾート地ゆえの問題もあり検索難航。
複数のホテルと(Bokking.comなどを経由せず)直接メイルでやりとりした。
いずれも返信は早くて丁寧だった。
Basic Hotel Arosaに決定。
ダブルベッド+二段ベッドのファミリー部屋 652CHF(7万5千円)
Arosa中では最安値に近い。


*2月17日(金)
『Snow'n'rail』をSBB onlineで購入。
電車はChur経由Arosaの往復。Skipassは2days。
大人2枚と幼児(6歳)1枚。
347CHF (4万円)。
自分のSkipassはSwisspassを利用して登録。
ヨメ子供のSkipassは紙印刷(A4)。
電車のチケットも紙印刷(A4)。


*2月20日(月) 晴天
06:08 地元発
07:43 Chur着 乗換時間に朝食購入
08:08 Chur発 登山鉄道・2号ゲボる
09:09 Arosa着 バスでBanhofからZentrum。Basic Hotelまで徒歩。
フロントでお話。空き部屋があるので代えてくれるとのこと。
ダブルベッド1台の部屋が2部屋,中で繋がっている形式で最上階の角部屋。
ラッキー。

荷物を置いてArosa内の「Kulm」まで移動。
窓口で印刷してきた紙を渡してSkipass(ヨメと一号)をもらう。
5CHFのデポジットがあるので返却するべし。
(ホテルチェックアウト時にフロントで返却できた)

隣のスポーツ店でソリ2台と子供用ヘルメット1つをレンタル。30CHF。
ソリは【父+3号+1号】と【母+2号】にわかれる。
(バックパックで子供を背負ってのソリ滑りは不可)
Kulmからケーブルカーで往復できるコースをひたすらソリで往復。
ソリコースの中腹にあるレストランで昼食。
ビール1,リベラ3,シュニッツェル1,ポテトフライ1。50CHF。
15時頃にソリを返却してホテルへ。
帰路,寄り道して迷子になったり。

ZentrumのCoopで夕飯買い出し。近くのケバブ屋でケバブとバーガー。
あわせて50CHF。
20時前には就寝。


*2月21日(火) 曇天
朝食後,バスでKulm駅へ。
子供スキー教室・グループ・1400-1630に1名申し込み。50CHF。
隣の店で子供用のスキー板+靴を2名分レンタル。50CHF。
初スキーの1号2号。
午前中はほぼ平地の場所で遊ぶ。

昼食はKulmのレストラン。
ビール1,リベラ3,Kinder用メニュー2,ラザニア1,ピザ1。100CHF。

1号は1400からスクール。
「どの言葉がわかる?」と聞かれ,なぜか「English」と回答してしまう。
スキーレベルも最下位で,しかも言葉がわからないで,まごまごしていた。
終わった後に聞いたら「楽しかった」と言っていたが,強がり半分か。
スクール自体は,特に上手に教えるわけでもなく。
2時間半の間に板を脱いで遊んだり,休憩所でジュースを飲んだり。
位置づけは「スクール」というより「保育所」なのだと理解。

1700帰路。夕飯はCoopとケバブ。あわせて40CHF。
20時前就寝。


*2月22日(水) 晴天
朝食の後,チェックアウト。
0900発で,Arosa-Chur線の2駅分を歩くことに。
Arosa駅からLitzirüti駅まではソリコースに設定されているが滑っている人はいなかった。
歩きやすく,気持ちいい。
途中の踏切と,Litzirüti駅で電車を見物。
1100頃,Litzirüti駅からLangwies駅へ。
雪解けが激しく歩きにくい。
深い谷にかかる大きな橋が名所であるが,徒歩の場合は谷を下って登らねばならぬ。
疲労困憊。
1240頃,Langwies駅到着。
電車を乗り継いで帰路。


総額17万円(1500CHF)
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野村克也(ノムさん)がよく使うフレーズ。
「エースと4番は育てられない」
そのこころがどこにあるのか。

競技の特性に基づく戦術・戦略があり,努力の方法論がある。
これらを知り,努力を重ねることで,一流の選手にはなれる。
しかし「超一流」になるには,そうした「論」を超えた「能力」が必要である。
この能力は,持っている人しか持っていない。
持っていない人が,努力によって獲得できるものではない。

生物的な意味での「先天性/後天性」ではなくて,
業界に入る段階の前後でわける意味で「先天性/後天性」を使うならば,
「エースや4番」には先天的な能力が不可欠である,ということになるだろう。

==============

野球の話はここまでにして,研究の話。

友人とチャットをしていて「学問と歴史」の話に。
「本郷」には本邦学問の歴史がある。
連綿と続くその歴史を感じて今を生きると,それはある種の呪いのようだ。

東大とは。
大学とは。
学問とは。

新たな研究の地平を切り拓く研究者を生み出すことは,大学の使命である。
少なくとも東大の教授というのは,そういう使命を帯びている。
では「東大教授になる人」は育てられるのか。

「エースと4番は育てられない」という意味にのれば,
ボクの答えは「No」である。

ある「才能」が東大に入る。
東大教授は,前世代において「才能」であり,今まさに東大教授である。
教授という華が放つ臭気が,才能を引き寄せる。
才能は才能を知る。
才能は,教授の下でついに開花し,やがて教授となる。

これを傍から見れば「育てた」と見えるかもしれない。
しかしやはり「才能が,自ら臭気をかぎつけ,開花し,教授となった」のである。

一方で,ミノル・オジマの言葉だと又聞きしたが,
「大学の使命は次の教授を育てることである」
という言い回しがある。

東大は「才能」を集める。
東大には「才能」を開花せしめる教授がいる。
才能と教授との遭遇は,偶然でしかない。
この偶然の確率を引き上げるのが「東大」という場である。

巨視的に見れば「東大が育てる」ことに間違いはない。
しかし微視的には「東大で才能が教授と出会う」だけである。

学問を為す主体が人間である以上,学問の歴史は人の歴史がある。
人の歴史とは,出会いである。
出会いは,偶然である。

==============

というような「お話」は,もはや架空の世界のことかもしれない。
大学というモノ,東大というモノを,研究に特化して,しかも先端の先端だけを見れば,
「東大の使命」というのは,こういうことなんじゃないだろうか。

「東大」やら「教授」やら「人事」やらの実態は,
もちろんこんな「脳内お花畑」的なモノではないだろう。

ただ,理想というか,理念というか,そういう概念的なものとして,
こういうような位置付けを考えてみるのも,
「大学論」みたいな話では意味があるのかね,なんて思ったりして。


余談。
いま文科省によって大学が3つに分類されている。
トップ・特色・教育だっけ?
これとは別に学部・修士・博士という3分類もある。
この3x3マトリクスをベースに,大学というものの位置付けをするのも面白いかも。
という話題もあった。
子供の幼稚園が「スキー休暇」ということで,1号(6歳)と2人でソリ滑り旅行に行った記録。
まるまる一泊二日で食事など全部コミコミで総額440CHF(5万円程度)。
なかなか充実した内容でした。

========

2月15日(水)
08時過ぎ
SBB地元駅の券売機で「Snow'n'Rail」購入。
Skipassは「Pizol」の1dayパス。
電車の行き先は「Bad Ragaz」。

10時ころ
Sargans駅からバスでWangs Pizolbahn
ケーブルカー乗り場でSkipassを交換。
ケーブルカーFurtまで。
ケーブルカーを降りたところの店でソリをレンタル。
なおヘルメットは持参。
ソリコースは雪不足で【Furt〜Maienberg】区間のみだった。
ヘアピンカーブが多く,路面もアイスバーンがちらほら。
乗り心地はイマイチ。
しかし森の切れ目から見える景色は抜群。
たぶんソリじゃなくハイキングに向いている。
夏でも楽しめるかも。
7回滑る。
Wangs Pizolbahn〜Sargans〜BadRagaz駅。

15時頃
Bad Ragaz駅から歩いてTamina Therme。(バスでも行ける)
温泉プール。
湯治っぽい老人もいるのでバシャバシャ泳ぐ感じではない。
湯温の違う浴槽が複数。
一番大きいモノが36.5度。
屋外露天も36.5度。
最高が39度。
ちょっと硫黄臭。
子供はすぐに飽きるので色んな浴槽を転々として2時間。
湯上がりにホットタオルを肩にかけてくれる謎サービスが面白い。

18時頃
Esos Hotel Quelleに投宿。
主室とは別に2畳ほどのエントランス。
電子レンジと給湯ポット。
部屋はダブルベッドと子供用ベッド。
さらにシャワーとトイレ。
おそらく夫婦+小さな子供一人でもOK。
ブッキングドットコムで前日に予約して,税込み138CHF。
夕飯は近所のCoopで仕入れて,レンジでチン。
20時前には爆睡。
1号と一緒に寝たが暴れまくるので子供ベッドに避難。狭い。

2月16日(木)
07:30ホテル朝食。
普通のビュッフェ。
他の客とは遭遇せず。
08:15にBad Ragaz発の電車はギリギリすぎるので回避して,
09:15発でSargans駅へ。そこからFlumserbergまでバス。40分。

10時過ぎ Flumserberg着。
バス停前のIntersportsでソリを借りる。16CHF(ゴンドラ乗り場だと15CHF)。
Ski passは1dayで88CHF(大人1名・子供1名)
晴天かつパウダー。
前週に2号と来た時は曇天かつアイスバーン箇所アリだったので印象が違う。
3回滑って昼食の後さらに7回滑る。
チケット返却で10CHFが戻ってくる。
ソリも返して帰路。
1438発のバスで下山。
Flums駅から地元駅へ。
1623地元駅着。
教育とか子育てとか,まぁそうやって言われるようなモノについて,色々と考えるところはあるけども,やっぱり直接的な働きかけ以上に,環境的な要素は大きいなぁとつくづく感じているところである。

すごく卑近な例で言えば「本を読んでくれると良いなぁ」と思って本を置いておいても,テレビがついていればそちらに向かっていくし,教えてもいないのにテレビのリモコンを操作して見たいチャンネルに合わせている。テレビ本体・チャンネルボックス・DVDプレイヤの3種を使い分け,テレビ欄を確認し,DVD音声を日本語に設定して視聴している。そういう状況にあって「本を読みなさい」と言っても,まぁ何の効果もないわけです。しかしテレビの電源をこっそり落として「あぁ今日はテレビは使えないんだ」となると,ヒマだし本でも読もうかな,となる。そのまま他にやることがなければ,本を読み続けて,そのうち寝る。

行動原理はすごく単純で,今できる一番楽しいことをやる。それが出来なくなったり,楽しくなくなったりしたら,次に移る。ただそれだけ。テレビやゲームは「娯楽」として作られているものなのだから,面白いに決まっているし,さらにここまで育つ上で「面白いモノ」として与えてきたのだから,そういう価値観もビッチリ染みついている。だからこそ「アレやれ,コレやれ」と言うのではなく,コッソリと「アレが動かない」ようにするとか「コレが置いてある」とか,そういう環境状況を作ってやることで,大人が思う方向に誘導していくのだろう。もちろん大人が誘導することの是非はあるが,ここではそれはさておきということで。

そしてそれ以上に「子供は大人をまねたがる」ので,大人が何かをしている姿を見せる(見られる)というのも,非常に大きな要素である。大人が本を読んでいる様子を見たことがなければ,子供もなかなか本を読まないだろう。大人がテレビを見て喜んでいなければ,子供もテレビを見て喜ばない(かもしれない)。

それで,昔に書いた「家に新聞があることの意味」って話にもつながるけども,そういうのって大事だよなぁとあらためて感じている。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20100516/

今の生活で何が問題って,ボクは仕事をするのにラップトップを見て,本を読むのにKindleを見ているんだけども,子供達にとってそれは「Youtubeが見られる機械を使ってお父さんが何かをしている(=遊んでいる?)」とか「iPadみたいなヤツを独り占めしている」とか,そういう風に「見えている」ということ。たとえば,論文やメイルを紙に書いて紙で読んでしていれば,子供達にとって読み書きすることに対する親近感は全然違うと思う。

じゃあ翻って,機械を使っている様子を見て,機械を使うことに対して親近感を持つかどうかで言えば,まぁ親近感は持っている。テレビのリモコンも,iPadも,それほど操作法を教えていないのに,扱うようになっている。でも,文字を読めば,どんどんと未知の文字が押し寄せてくるので,その深淵のようなものに触れることもあるけども,機械だと自分が使うものだけを把握していれば,未知のものは視野から外れてしまうのかもしれない。

あぁもうこんな時間。そんなこんなでとにかく難しいなぁと。
1号はこちらの子供コミュニティにスッと入って,今やすっかりスイスドイツ語でじゃれあっている。6ヶ月でここまで出来るのかと驚愕するほど。1号は2歳で神奈川から愛知に移り,核家族的には長子でありながら,愛知の親戚連中の中では妹的立ち位置に配置換えになった。おそらくそこで外様/妹分としての振る舞いを身につけたのだと思う。幼稚園も地元っ子の中に入ったので言葉遣いも違ったが,なんとなく合わせていって,いつの間にかベラベラの三河弁になっていた。さらに年長に上がるところで神奈川に再転居して,葉山の幼稚園に年長編入。その4ヶ月後にはスイス。1号は本当にずっと外様枠でコミュニティに入る生活を送っているなぁと。そして新しいコミュニティにゆっくりと,しかし確実に入り込んでいくキャラクターで,協調性に富んだ,ある意味でどこに行っても生きていける汎用性のある性格をしている。それゆえに日本的な女子コミュニティにもシッカリと染まっていきそうで,それはそれで今から不安でもある。

2号は生後半年で愛知に転居し,祖父母+実母と「大人余り」の環境で育ったからか,自分のやりたいことを激しく主張し,それを通そうとする。主張がはねられると泣いて抵抗するのも,祖母がそれで折れてきたという,(無意識に形成されている)彼なりの成功体験に基づく戦略なのだろうなと。そして親戚連中に同月うまれの男児が3人いる中で,圧倒的に早く言葉を使い始めたことも,自己主張の激しさが止むことがない一因かもしれない。6月生まれということで学年齢では大きい方になり,年少入園になった幼稚園では「ちゃんと出来る子」扱いを受けていたし,そうした大人の評価を求めることが行動指針にもなっているようだった。

しかし,唯一,周囲の関心が無くても没頭するのが電車関係だった。これについては周囲の大人が何かを言おうといわまいと,勝手に没頭して,延々と知識を蓄積していっていた。それがスイスにきて,本やDVDの追加もないので,電車に対する関心もじょじょに薄れていき,興味が持てるものがないまま,母親への甘えだけがどんどん増していた。さらに言葉も通じず,現地での同世代連中の中ではハミゴにされがちで,家では3号がいるせいで甘えることも許されない。自分に関心が集まらない現状。どんどんストレスを溜めているのが親の目から見て明らかなのだが,親からするとそのストレスが日常生活の放棄に結びつくため(嫌いなものは食べない,風呂トイレなどが不定期),親にとってもストレスの種になっていた。

そこに革命的にあらわれたのが,iOSアプリの「マリオラン」だった。2号はこれには異常に食いついた。電車に見せていたのと同等か,それ以上ぐらいに。何をしても「それはマリオのアレみたいだよね!」と言う。口ずさむ音楽もマリオ。先日のソリ遊びでは,1回目で顔面を擦りむいて完全にやる気を失っていたが,マリオがスターを取った時のあの音楽を歌ってやったら,それ以降は「スターをとったマリオだからドンドン進むんだよ!」と言ってノリノリで滑っていた。

しかしiPadはヨメ氏の娯楽品であり,また家族の調べ物インフラでもあるので,1日10分程度しか許してこなかった。でも,もうどうにもマリオへの執着が抑えられないようで,iPadを開いている様子を見ては「マリオ?マリオ?」と覗き込んでくる。マリオが出来なければ泣き叫ぶ。そんな状況だった。

そこで今日は試しに「マリオをずっとやって良し。しかし途中でお母さんに話しかけないこと。部屋に閉じこもって延々とやるべし。」というルールを課してみた。すると驚いたことに,何をするにもお母さんのリアクションをうかがっていた2号が,本当に部屋に籠もりきりで,4時間ぶっ通しでマリオランをやっていた。これはスゴイなぁと。やはり好きなことに没頭するのが一番の対象で,それが見つけられないから大人の関心を引きにかかっていたのかなぁと。

ということで,しばらくはマリオに対する没頭を促してみようかと。目が悪くなるとか,アホになるとか,色んな懸念はあるかもしれないが,この没頭の果てに,どのような進化があるのか。怖くもあり,楽しみでもある。
いつものオジチャン(おにいさん?)から。

===============
100%明確になることはないとしても、ゴールを、ゴールに必要な質の高さを示すこと。

そしてそのゴールに至るまでのプロセスを手前側から示し、実際に今どの立ち位置にいるかを指摘すること。
http://d.hatena.ne.jp/keikoba/20170209/1486593996
===============

ここで重要なのは,「ゴールに必要な質を示す」ことと「プロセスを手前側から示し」ということの分離だと思う。

「ゴールの質を示す」とどうしてもその流れで「向こう側から」順を追って考えてしまう。
でもそれだと「今の立ち位置」と交わらないこともありえる。
逆に言えば,「今の立ち位置」からだけで考えると「ゴールの質」はドンドンと下がってしまう。

そこに難しさと面白さがあるなぁと。
これは研究に限らず,たとえば競技スポーツでも同じだけれども。

ある程度まで研究を進めると「ゴールの質」と「手前側からのプロセス」とが両方とも見えてくる。
両方が見えても,それらをうまく交わらせることが出来ないことが多い。
そこで身悶えてしまう。

今まさに,来年度の航海計画についてメイルで侃々諤々している点も,これなのだろう。
ある人は「ゴールの質」を求めて「向こう側からプロセスを逆算」という計画。
ある人は「手前側からのプロセス」を示して「ゴールは薄ボンヤリ」という計画。
これらがうまく交わらない。

もちろん「ゴールの質」を求めることは大事に決まっている。
でも調査航海は人間がやることで,体力と時間は有限だ。
向こう側から逆算しても手前側と交わらなければ絵に描いた餅。

さてさて。
Senior EditorのAmy Whitchurch博士。
http://www.nature.com/ngeo/authors/about_eds/index.html

セミナー前に自分のメイルをサーヴェイしたら,自分の関係(地震ネタが多い)はいつもこのAmyから「unfortunately」メイルをいただいていることがわかった。担当分野なのだろう。



「わかりやすさ」ってのは,無数にある変数を近似して特徴的なものに代表させることで獲得されているのかもしれない。だとしたら「わかりやすさ」というのは「単純化」なのかもしれない。わかりやすい形式で発信することは,近道のようでいて,もっとも遠回りなのかもしれない。

そして受信側。「わかりやすさ」を求めると,それは「単純化されているモノ」しか受け入れないことになるが,世界は複雑なのだから,やっぱりちょっと危ないよね。「リテラシー」とかなんとか振りかざしている人は,それはそれでイヤだけど,「いわゆるリテラシーみたいなもの」が不足していると陥ってしまう危険性のようなものはあると思う。

自分が何を目指しているのか,といういつもの問題になるのだけれども。発信側としての自分は,まぁどうでもいいな。それはどうでもいい。受信側としての自分も,どうでもいいんだ。たぶんね。

傍から見ていて「あぁ発信側の伝えたいことと受信側が受け取っていることが食い違ってるなー」と感じる場面が少なくなっていけば,きっとそれが自分にとって「楽に生きられる場」なのだと思うから,そういう世の中に,少なくとも自分の目の届く範囲での世界で,なっていくようにしたいなぁというのが願いなのかもしれない。

人が2人いて「意見が食い違う」のは良いんだ。何も苦にならない。でも「会話が成立していない」のは苦しい。そういうことなのかもしれない。

他者理解における共感の限界を超えて理論構築すること
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8319969.html

ーーー以下引用
「共感を前提に他者へのアプローチを考えると、間違える。....自分と比較的に似た資質の人の場合にはうまくいくが、その「共感のサークル」を超えて人の理解を支えることができない。」
「相手のきもちを、いわば理詰めで推理し、なぜそのようなきもちを持つのかを理解するはたらきが必要である。そのことによって、必ずしも共感できない場合でも、人間というものを理解することができるようになってくる。」
ーーーここまで


これはすごくしっくりきた。
ボクはたぶんこの裏返しだ。
最初から「相手のきもちを理詰めで推理」した上で接してしまう。

だから,
「理詰めで推理した相手」と接するので「共感」に至らないし,
「共感のサークル」のメンバーになることがないし,
理解を超えた考え方の人に恐怖を覚える。

子供相手の時は特に,共感のサークルに入ることが大事だなと。
日々常々つくづく思っている次第。
新しい携帯にしてかわったこと。

辞書アプリがサクサク。街中の看板など表記が気になった時に即座に調べられるようになった。ちょっとしたことだけどすごく便利。暇つぶしにもなる。

カメラがきれい。外食とかちょっとした景色とか,カメラを持ち歩かずに日々の状況を撮影できる。スイス生活の記録にちょうどいい。カメラが重いしかさばるのが億劫だったので。オデカケにはカメラを持って行き,日々の生活は携帯で,という感じになりそう。

暇つぶしがサクサク。前のヤツはちょっと重いサイトだとカクカクだし,SNSアプリなどをいれたらアプリ本体にメモリを食われて全体がフリーズしてしまっていた。

音楽が聞ける。前のヤツは・・・同上・・・。さすがSONYで音も良い(気がする)。

6万円といえども毎日使うものだと思えばそれほど高い買い物ではないのだから,ケチらなければ良かったなぁと後悔。一方で,どの機能も日本に帰ったらあんまり使わないかなぁとも。
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kawagucci
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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