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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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伊平屋北熱水域掘削事後調査です。
本当はね。
でもアトノセサクサクな課題が目白押しで,
理由書やら要望書やらを提出して,
「今が旬」な研究を色々と実施してきました。

すっかり秋めいてきて,
子供のお風呂のタイミングで体が冷えてしまう日々が続き,
那覇行きの前々日ぐらいから体調が悪くて,
那覇入りしてからもダメダメでした。
そんなまま出港し,寒冷前線にバンバン揺らされて,
「なつしま」では初のゲロ酔いをしてしまった。
2日目はまったく食事できず。
でも夕食代わりに作ってもらったお粥を食べて快復。
胃が荒れていたのが落ち着いた感じ。
その後は万全ではないものの酔うことも無く過ごせました。
お粥最強説。

今回は同行取材があり,
那覇入りして琉大に行ったりなんだりした。
2010年のテレビ取材は面倒だったけども,
今回は支援事務の人にも同行してもらえたおかげで,
あまりケアせずとも何とかなった。
サイエンスの取材だとロジックやネタの数が重要なのだろうけど,
クリエイティブ系の取材だから,経験の多様性が重要なのだろうな,
とか思ってたけど,
そういう方向で対応するほどコチラに余裕がなかったのは残念。
まぁどんな作品になるか(そもそも作品になるのか)というあたりは,
誰にもわかりませぬ。
期待して待とう。

肝心の研究の方はと言うと,
ほぼすべての任務が出来たのではないか,と。
論文になるような成果や,
今後の研究に明るい話題となるような結果が得られた,と感じました。
首席をする時には,
海洋(あるいは熱水)に縁遠い分野の人にもどんどん参加してもらい,
そこでの研究や交流が次の何かになっていけば良いなと願っているので,
今回,たとえばブレアさんとタカイさんとか,
そういう交流の場になったのは非常にポジティブに考えておるわけです。

内容のない薄っぺらな感想文ですが,
今回の航海はそんな感じでした。



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今度おいサダオカ,ぁぁ,詰め襟からぁ,今度あれだなぁ,おい,洋服着るんだなぁ。えぇ?初めてか?洋服着るの。ふぅん。そう。いいか,うれしいか,洋服着て。洋服どんなやつだ。んぅ,ブレザー?(コクリ)ブレザーのやつ,ふーん。作ったの?こっちで作ったのか?(いえ,もう,あの,買ったんです)買ったのか。ようあったなお前のぉ,このぉ,いわゆるリーチにぃ,ようあったなぁ。

http://www.youtube.com/watch?v=L-paXCK2OOc&feature=youtu.be

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/L-paXCK2OOc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
奨励賞をもらいました。
奨励賞は「該当年に満35歳未満」が対象なので,
30歳のボクはかなりの年数が残っており,
その部分を考慮すると,かなり高い評価を受けているのだな,
と実感しております。

特に地球化学会では,
4年生の時に参加した若手会以来,悪目立ちが続いていて,
「結局あいつのサイエンスってどうなの!?」
みたいな状況だったので,
奨励賞という形で研究者としての存在を示せたことも良かったです。

授賞式については正装も考えましたが,
前日までに会場で感じられた政治的な雰囲気に辟易し,
もっとはっきりと言ってしまえば,
学会を醜い政治活動の場に貶めている人々への抗議の意味で,
権威に対して敬意を示さない服装に決めました。

受賞講演はスライド無しでのトークというスタイルにしました。
それは推薦者である恩師G先生から,
「後世に残る講演を期待します」
というメイルをもらっていたというのが大きな理由です。
(学会発表のテンプレ打破に挑戦するというのも理由です)
スライドが無いとはいえ,
事前に色々なパターンでの内容を用意して,
全部喋れば60分ぐらいになる構成でしたが,
あれよあれよで15分ぐらいで予定していた着地点に到達し,
尻つぼみなトークになってしまいました。
大反省です。

講演で重視したことは,
研究をはじめた経緯とモチベーションについて,
さらにそのキッカケとなった人との関わりについてで,
研究内容については話さないことに決めていました。
とはいえ,
興奮してしまって大部分をすっ飛ばしてしまったのですが,
もっとも言いたかった,
「研究/科学ってものの意義/面白さがいまだにわからないで悩んでいる」
という部分は率直に伝えられたかな,と思っています。

講演後の質疑で問われてこたえたとおり,
特に受賞対象となったこれまでの自分の研究には納得していないので,
まだまだ踏ん張っていかねばならぬと思っている次第です。

「今年は地震生命圏でいく」と決めているので,
一般講演は地震生命圏にしてみました。
受賞講演の効果もあってか狭い会場が埋まりましたが,
こちらのコンディション不良が響き,
面白い話に出来なかったのが悔しいところです。

今回は反省が残る参加になってしまったので,
来年は(参加するのか!?)また違った形で,
何かを提案してみようと思います。

体の外にある「情報」を,
内側に取り込んで「知識」とし,
解釈することで「知恵」を得る。

00年代にノーベル賞を取った人の言葉の意訳。

これが気に入っていて,
これを軸に,
「IT時代の教育論」みたいなものが出来るのではないかと,
悶々と考えてはいるものの,
クリアカットには表現できないでいる。

言いたいことは,つまりこういうこと。

かつては辞書や洋書,古書や専門書などなど,
あるいは雑誌でもなんでも良いのだけど,
情報へのアクセスが物理的/経済的/社会的に制約されていた。
身近に無ければ入手できないし,
高い本は買えないし,
大学の図書館には大学関係者しか入れなかった。

だから,
情報を仕入れて知識とする部分の障壁が大きすぎて,
情報-知識のルートを獲得できた人だけが知恵を得られるような時代だった。
それはたとえば明治維新とか,
漱石や諭吉は洋書にアクセスして,
西洋文化を翻訳/解釈して,
そこから抽出したエッセンスでもって教育していた。
つまりは情報の獲得が制限された中で,
情報から知識への吸収効率を100%に近づけることが第一にあって,
さらにその先に知恵の獲得があった。
いや,もしかすると,
知識の獲得自体が知恵の獲得であったのかもしれない。

時代は飛んで,IT時代。

ウィキペディアやグーグルなどの登場は,
誰でもが情報へアクセスできる状況を作り出し,
「外部脳」という言い方までされるほど,
情報と知識の間の隔たりはわずかなものになった。

そうすると新たな問題,というか,
そういう時代にはどこが教育のキモになるのか,
ということを考える。

もう一度,過去に戻る。

外国から流入する情報は,
かつては書籍/出版という労力/経費のかかるものを経由していたから,
そこでクオリティコントロールがなされていたがために,
アクセスできる情報には一定の価値があり,
それを吸収することは知識なり知恵なりが獲得できる,という保証があった。

では現代はどうだろうか。

ネット情報の発信源は不特定で,情報自体は大量で,
クオリティコントロールがされているとは言いがたい。
そんな情報を100%吸収して知識にしても,
知恵につながるとは言いがたい。
まぁ,
外部脳と考えれば,
もはや情報は知識とイコールなので,
吸収する必要すらないのだけれども。

じゃあ,いよいよ,そこで,
現代で必要な能力,
現代で生き知恵をつけるには何が必要なのか。

それは,
カオスな情報を切り分け,分割し,あるいは統合し,並べ替え,
その中に潜むプリンシプルを抽出する,
あるいはそれを表現し直すこと,
なのではないか。

「虚実入り乱れる表裏一体の社会で清濁を併せ飲む」
「情報の海から一筋の切り口を見出す」

そういう能力こそが,
この社会を生きるのに重要でベーシックなものであり,
これを醸成することが,
現代教育のキモなのではないだろうか。

そうやって考えた時に,
教科書や授業をベースにする教育というのは,
前時代的で,
つまり,教科書や授業ってものは,
日常生活でアクセスできない情報を,
教科書や授業という装置を使って知識化させる装置であって,
かつては(寺子屋とかの時代では)一定の意味を持っていたが,
家庭でこれらにアクセスできる時代にあっては,
もはや意味を持たないのだろう。

もちろん,
初等・中等教育においては,
一定水準の必要最低限的な情報を強制的に知識化させる意味は,
ないわけではない(識字/四則演算/法治など)。

しかし,
高等教育においては,
もはや教科書や授業といった知識化装置は意味を持たない。
現代の高等教育で必要なことは,
「知恵化」能力の獲得だろう。

今のところ妙案があるわけではない。
しかし本質的には,
絶え間ない問答こそが,
唯一で最良の方法だろう。

ここでいう問答は,
自己問答でも,2者間でもかまわない。
「白熱授業」などは,多数がいる教室で,
自己問答の機会を提供していると解釈できる。

だからボクは徹底して問うことにしている。
「なんで?」
「本当に?」
「絶対?」
「例外は?」

別にネタは何だってかまわない。
スポーツでも,
芸能でも,
人間関係でも,
科学でも。


この話は,
自分が教育者になっていくと考えると,
絶対に外せない部分なので,
ちゃんと考えていきたい。



日韓戦でアレがああなったので,
少しマジメに考えてみた。


「このピッチの上、円陣を組んで、今、散った日本代表は、
 私たちにとっては「彼ら」ではありません。
 これは、私たちそのものです。」

スポーツを観戦する人,
特に母国や贔屓のチームを応援する人にとって,
「選手」は「彼ら」ではなく「私たち」そのものなのです。
いや,正確に言うならば,
「彼ら」は「私たち」ではなく「私」なのです。
「私」は選手の姿を通して「私」を見ているのです。,

でも,選手は,
選手の中の「私」は,
究極的にはピッチの上には存在しない。
ピッチの上の選手は,
あくまで競技/スポーツのフレームに則り行動しなければならないので,
それは「私」ではなく,
「その競技/スポーツの選手」という「役割を担う個体」でしかない。

だからピッチの上では,
それは90分の範囲では無く,
ロッカールームを出て,戻るまでは,
「私」的な行動というのは本来ありえないし,
厳に慎まなければならない。


つまり,
観戦者は選手に「私」を投影するため,
ひいては代表戦は観戦者にとって代理戦争となりうる。
しかし,
選手にとっては,それは単にその競技の試合であり,
そこに「私」の感情の入る余地はなく,
代表戦は代理戦争にはなりえないし,
競技の範疇で「戦争」をするなどもってのほかである。

もちろん,
試合前後の記者会見などでは,
私的な思いを吐いても良いし,
あるいは私的にはどうでも良くても,
観戦者を盛り上げるべく「私的を振る舞う」こともアリだと思う。
後者を突き詰めた形がいわゆる「プロ」なのだろう。


すべての選手が競技を成立させようとしない限り,
競技は成立しえないものである。
競技とはそういうものである。

人間の原始的で根源的な部分にはないもの,
つまりは「一定のルールに則る競技」という「フィクション」を経由することで,
はじめて両者の初期的な立ち位置に対等な関係が成立し,
その範疇で競うものが競技でありスポーツである。

つまり,
スポーツというのは,
競技者の茶番で成り立っているのである。

そこに競技者の私的な精神,
競技者の野蛮を持ち込むと,
もはや競技は成立しない。

競技は茶番であるからこそ,
現実社会とは地続きでは無い。

観戦者は無邪気に自己投影してもかまわない。
しかし競技者は,
競技するということの背景にある精神性,
俗に言うスポーツマンシップはまさにこれを指しているが,
競技はあくまでフィクションであるということを,
決して忘れてはならないし,
その範囲を逸脱した行動を取った場合には,
厳しく罰せられてしかるべきだと考える次第であります。

子供の頃に学校で第一次産業とかなんだとか習って,
その分類はテストに出てきたと思うんだけども,
分類基準みたいなものがなかなか飲み込めなくて,
なんとなく苦手意識みたいなものがあったことを覚えている。
ものすごく偏った記憶だけども。。。
なのであらためて考えてみた。

自分で考えてみたことなので,
元々の教科書的なクラークの分類とは異なるのだろうけど,
それはそれ,これはこれ。

はじめにまるっと書いてしまうと,
・一次産業:人間が食料を獲得するための産業
・二次産業:一次産業の効率を向上させるための産業
・三次産業:二次産業の効率を向上させるための産業
・以下続く
ということにしてみた。

考え方としては,
人間は食料が無いと生きていけない。
これを逆に見直して,
生きていくのに不可欠なものだけを一次産業ということにする。
だから農業とか漁業とかは一次産業。
一次産業の成否で人間がコントロールできるのは効率だけで,
食料の総量は食料となる生命の繁栄力に依存する。
人間はコントロールできないから,その部分は産業では無い。
あくまで食料を獲得することが一次産業。

つづいて二次産業は,
一次産業の効率を向上させるための産業としてみた。
たとえば農業重機があれば農地面積を拡大できるし収穫も効率化する。
だから,その重機を作る産業は二次産業。
漁業だったら船をはじめとする漁具の生産が二次産業だし,
岸壁の整備も二次産業に分類できる。
車や道路だって人や食料を運搬する効率を向上させるモノだから,
これらの作成や整備も二次産業。
さらに言えば,
天候に強く外敵から襲われない環境の整備(家の建築)も,
生存のための家事負担を軽減させ,
一次産業に従事する時間を増加させるという意味で,
二次産業に分類できる。

じゃあ他の職業が三次産業なんだろうか。
広告とか金融とか人材派遣とかは,
二次産業の円滑化という意味で三次産業っぽい気はする。
でも中間マージンであって産業じゃ無い感じもする。
飲食業や医療に関わる職業は,
どう扱っていいのかわかんないけど,
一次産業や二次産業の従事者が元気になって作業効率があがる,
って考えるなら,
三次産業と呼んでもいい気もする。


と,
簡単にまとめるとこんな感じのことを考えて,
そこを出発点にしてみると,
三つのことを考えることができる。


一つ目は,グローバル経済と国家経済。
「日本はモノ作り立国」とか何とか言ってるけど,
それはつまり二次以上の高次産業のことなわけだ。
でも二次産業は一次産業あってのことだろうから,
じゃあ一次産業はどこにいったのよ,と思い,
それはたぶん輸入なんだろう。
「産業の空洞化」って言葉を使う時は,
「部品と製品化」の分業が国内外に分離することを指すのだろうけど,
「一次産業と二次産業が国内外で分離」することは,
なんて言えば良いのだろうか。
グローバル経済の観点で見れば,国内外に垣根は無いから,
空洞化なんてことは原理的に存在し得ないんだけども,
実際には国家という枠組みで地球上の人類が生活しているわけで,
(今まさに日本と周辺諸島の領土問題が大変なわけで)
国家経済を考えると,
一次産業の空洞化は大変な問題かもしれない。
何が問題って,
食料自体を輸入に頼っていることも大問題なんだろうけども,
それに加えて,
「一次産業なき二次産業」は成立しないわけで,
つまりは,
「一次産業しかない国」と「二次産業しかない国」があって,
グローバル経済でグルグルしている間は問題ないけども,
ある時にそれぞれの国家経済に分断されるとなると,
どっちが生き残るのって,そりゃもちろん前者なわけで,
今なんとなく後者の方が先進的みたいな考えでいるかもしれないけど,
そんなこと全然なくて,
我々が人間で,国家という枠組みで生きている以上,
最低限,人口をまかなうだけは,
国内に一次産業があるべきだし,
その一次産業を支える二次産業も必要だろう。
そのパッケージが国内に整備されていて,
その前提があってはじめて,
残りの余剰人口的な部分で,
三次産業なりグローバル経済なりを回せば良い。


二つ目は,燃料エネルギーや鉱物などの非食料資源について。
こうした資源は,直接人間が食べるわけじゃ無いので,
資源の獲得は一次産業には分類されない。
一方で,
こうした資源は二次産業に不可欠な基礎となっている。
それはつまり,
二次産業より一段低次ということであって,
そうすると一次産業なのか,ということになる。
ボクはこの部分,つまり,
「資源獲得は一次産業なのか」
という問いは,結構重要な意味を持っていると思っている。
今,一般に世間に流通している観念的には,
資源獲得は自然からモノを取り出すという意味で,
感覚的には一次産業ということになっている気がする。
でも,決定的に,
資源は食料では無いし,
二次産業が無ければ無用の長物である。
だから資源獲得は,
二次産業の一部と見なす方が良いと思う。
まぁこの部分の考え方が,
先のグローバル経済と国家経済の部分の要諦でもあって,
難しいところなのだろうけども。

で,
最後の一つは,科学研究は何次産業なの,ってこと。
科学に対する「なんの役に立つんですか」は,
科学研究活動を高次産業として捉えているものだと思う。
たしかに先端的な科学からうまれる技術は,
高次産業にあたるし,
その技術を生み出すための科学は,
その技術より一次分だけ高次な産業と捉えられるだろう。
でも,
技術開発のためじゃない科学は,
どう扱ったら良いんだろうか。
つまり,
超高次産業なのか,否か。
否,というのは,
そもそも産業構造にカウントできないものってことで,
何次産業でもありませんよ,という立場。
芸術関係も,同じようなことを考えてしまう。


ということをボンヤリ考えていたら,
水泳の雑誌で,
鈴木大地と佐藤克さんが対談していて,
そこでの佐藤さんの,
「科学は考え方の幅を広げるもの」
という考えに膝を打った次第。
なるほどね。
(しかしバイオロギング装置でバサロを解析ってのは面白い)

8月6日はいわゆるヒロシマの日です。

戦争のない平和な世界に思いをはせる日を持つことは,
それで意味があると思います。
とはいえ,
オシム爺に言わせれば,
「戦争から教訓を得たら,戦争が必要だったということになってしまう」
わけで,
ヒロシマがあったから,ではなく,
日々の生活の中で絶えず平和な世界を願っていたいモノでもあります。

以前,石破茂の本だったか,出典は忘れてしまいましたが,
とにかく政治の世界の人の言葉で印象に残っているものがあります。
それは,
『「唯一の被爆国」という言葉/ロジックは,まったく受け入れられない』
ということです。
これはボクの直感とも一致します。

日本が「唯一の被爆国」であることが,
たとえば「核兵器の廃絶」や「核の平和利用」を訴える上で,
本当に意味があることなのでしょうか。
ボクはそう思えません。
たとえ日本が被爆国でなくても,
平和を思う気持ちから「核兵器の廃絶」を訴えることの意味や価値は,
まったく損なわれるものではないと思います。

そうであるにもかかわらず,
「唯一の被爆国」ということを,日本が自ら訴えることに,
どういう意味があるのでしょうか。

たぶんそれは,現代日本に蔓延している,
「弱者の声こそ聞くべき」
「私は弱者である」
「だから私の声を聞け」
という三段論法の正義なのだと思います。

でも,世界から見て,
核大国アメリカの軍事力の庇護下にあり,
原子力エネルギーを大いに利用し,
戦後の混乱を脱し先進国として確固たる地位を築いている日本は,
少なくとも弱者ではないし,
つっこんで言えば,
「本気で核廃絶を願っているとは思えない」
でしょう。

本質的な部分を見つめると,
核廃絶の理念の真意は,
「核」の放棄ではなくて,
「大量破壊/殺人兵器」の放棄なのだと思うのです。
つまり,
他の国では今なお戦争状態にあり,
いつ大量破壊兵器の引き金が引かれるかわからない状況にあり,
現実に今日もまた人が殺されている現実があるわけで,
そんな状況下で,
「日本は唯一の被爆国」
という言葉からは,
魂を揺さぶるような訴えを感じることができないだろう。

もちろん,個々人の思いとして,
被爆経験から核兵器や戦争を憎み,保障を求めることは,
この論とはまったく別の次元で存在してかまわないと思うし,
ボクは現実を把握できていないけど,
心を配っていくべきことだと思う。

話が行ったり来たりしてきた。

とにかく,
ボクが言いたいことは,
「唯一の被爆国」とか「非核三原則」とか,
そういう目先の事象を掲げるのでは無くて,
「誰もが誰かに殺されることの無い世界を」
ということじゃないか。
細かく言えば,
「人が殺される」
というのは生物学的なものを超えて,
「人格を否定する」
ような社会的なことも含まれる。
これが戦争や兵器に対しての立場や経験を超えて宣言できる真理であり,
それこそ「ヒロシマの日」という機会に,
真剣に考えたい世界の未来なのではないだろうか。


最後に蛇足とわかっていながら書き記すと,
ヒロシマの日において,
「唯一の被爆国」と並んで「原発事故」を言い立てて,
あげく「原発廃止」を訴えることは,
はっきり言って,冒涜だ。

今回は本当にまったくの私事です。

7月18日(水)に移動をして,
横浜での四人核家族(父母と子二人)がはじまりました。
予想していたよりも大変です。

・上の子の「赤ちゃん返り」
噂には聞いていましたが,
これが大変です。
下の子は授乳が必須なのですが,
母が授乳をはじめると,上の子がぐずり,母にすがります。
父,無力。
上の子は機嫌が良い時は散歩好きで人見知りもないので,
外に連れ出して気晴らしをさせつつ時間を稼げるのですが,
朝晩と昼寝あたりの,寝付く前,寝起き直後は,
やはり母親の存在が必要で,
このタイミングと授乳が重なると地獄絵図になります。

・下の子の風邪
「半年までは母親からの免疫が有効」と言いますが,
母親も風邪にかかっているようなので,
免疫も意味をなさず,風邪にやられています。
鼻がつまってオッパイを飲むのも一苦労で,
眠りも浅く咳き込んで起きてしまいます。
これに付き合う母親も当然のように眠れないわけで,
母子ともに不健康な状態が続いています。
病院に行ったところ,まだ風邪か重大な疾病か判断出来ないとのことで,
とりあえずは乳児用の抗生物質などを飲ませて過ごしています。
ちなみに元凶となった上の子の風邪は治り,父親もほぼ完治しました。

・暑い
暑い上に家のクーラーが働かないもので,
扇風機と窓のすだれだけで涼をとっています。
とはいえ,我が家は一軒家なもんで,
午前と午後で過ごす部屋を変えれば,
日の当たらない風の入る部屋で過ごすことができ,
今のところ,何とか暮らすことは出来ています。
今後,無風の酷暑日があったりすると,怖いです。
クーラーはフィルターやリモコンを代えたものの機能せず,
やはり買い換えしかないか,と思っているところです。
大家さんに相談しないと。

・大体の生活スタイル
朝食(7時)と夕食(17時)には家にいるようにしております。
その間の時間の使い方はパターン化しつつあるところ。
朝食後に上の子と連れだって出勤し,
子供をあやしながら実験室で同僚と口頭で議論など。
涼しいし,元々の雑音も大きいので,子供が少し騒いでも大丈夫。
今のところ,部屋に入るとすぐに寝てしまうので大きな問題はなし。
その隙にちょちょっと仕事も。
昼前に会社を出て,買い物をして帰宅し,昼食を家で取る。
その後は再出勤しても良し,家で子供の相手をしても良し。
これ以外だと,
朝食前と妻子就寝後が家での仕事可能時間なのだけど,
元々家で仕事をする習慣がないので,メイル仕事のみで終わっている。
実験などのまとまった時間のいることは出来ないけども,
意外とどうにか仕事を進められるんじゃないか,という気はしてきた。
(それぐらい従前から実験をしていなかったということですが)
航海などの長期出張は実家に帰ってしまえば良いので,
意外と問題は多く無い。(移動は大変だし一緒にいられないけども)
むしろ学会とかでの2泊程度の出張が難儀かもしれん。
そこに出張を重ねて長期出張期間にしてしまい,
実家に帰すのが具合良いかも。

とにかく,
母親の負担が,
子1人だった時よりも相当に大きいようなので,
父親としては,子供のケアというよりも,
母親の負担軽減のために動くわけです。

前回は「論理と判断は直結しない」と言ってみた。
今回は「判断」を決める「判断基準」について。

判断ってのが論理と直結しない以上,
判断基準は本質的にすごく私的なものということになる。
個々人の人生哲学のようなものだ。

たとえば肉を買いに行って,
1000円の米産と,
1500円の日本産とが並んでいて,
「同じ肉なんだから安い方が良い」と思うか,
「日本産の方が安全安心な気がする」と思うか,
「日本の(あるいは米国の)農家を応援します」と思うか,
そんな判断基準は大変に私的なことだ。
誰でも自分で決めて勝手にやれば良い。

でもそんな私的な判断基準を貫こうというのは,
なかなか簡単なものではない。
たとえば自分自身で「日本の農家を応援したい」と思っていても,
もう本当に経済的に困窮してしまっていたら,
1500円より1000円の方が大変に助かるわけで,
1000円の米国産を買ってしまいたい気持ちが大きくなってくる。
自分の哲学を,自分の置かれた状況が許さない,ように思える。

そこで米国産に手を出す人もいるだろう。
それを「君は軟弱だ」と言って責めようとは思わない。
なぜなら「確たる判断基準を持たない」というのも,
それはそれで何の問題もなく存在していい1つの判断基準だから。
もちろん「毎回毎回判断に悩む」ということはあるだろうけども,
悩むことすらも楽しめてしまえば,本当に何の問題もない。
楽しい人生を送ることが出来るだろう。

そういう意味で,
確たる判断基準を持つということは,
大変に窮屈で息苦しい人生を歩むことを受け入れることかもしれない。
たとえば「米国産は汚染が懸念されるから」と考えて忌避し,
しかし日本産を買うほどの経済的な余力もない。
そんな状態に陥ってもなお,
「汚染した(しているかもしれない)モノなど食べたくない」と言って,
栄養失調に陥り死に至ることもあるだろう。
「健康を害するものを食べるぐらいなら餓死する」という判断は,
他人から見れば滑稽に映るかもしれない。
でも当の本人からすれば,自らの信条を貫徹したに過ぎない。
判断基準というのはそういうものだ。


では,
私が何を食べるかのような極めて私的なことではなく,
たとえば会社での振る舞いなど,
公的な場での判断ではどうだろうか。

会社で上司から仕事を言い渡される。
1つは,
自分ではやりたくない仕事であっても,
「会社の業績のためだ」と思ったり,
「上司に逆らうのは面倒だから」と思ったり,
「出世したいから」と思ったり,
判断基準は色々とあるかもしれないが,
とにかく実際には言われたことをやるケース。
仕事が大好きで進んでやるというのもコチラだ。
一方で,
「やりたくないことはやりたくない」と思ったり,
「この仕事は会社のためにならない」と思ったり,
「あの上司の言うことは聞きたくない」と思ったり,
結果的に見れば,とにかく仕事をしないケース。

いずれにしても,
個人の判断基準については,他人が強要することは出来ない。
しかし,
公的な機能に属している以上,
振る舞いは公的な判断基準に則したモノであることが求められる。
それは個人に対して公的な機能が判断基準を強要しているわけではない。
繰り返すが,判断基準は哲学であり,強要される性質のものではない。
そうではなくて,
私的な判断基準とは別物として,
公的な機能の判断に従うことが求められるということである。

だから,
公的な機能の判断と私的な判断が異なった場合に,
個人がとれる態度は基本的には2つで,
自らの判断基準を歪めるか,
公的な機能から離脱するか,だ。
いずれも個人に多大な負担が襲いかかる。
自身の判断基準を持つということは,
そういう負担を抱え込むことを引き受けると言うことだ。
そこまでして判断基準を持つ必要なんて無いとすら思える。
しかしそう言っても論理と判断は直結しないわけで,
判断基準というのは何かわからないが自分の中にあるモノなのだから,
それはもう,いかんともしがたい。
確たる判断基準を持って社会生活を営むと言うことは,
公に属しながら私を貫かんとすることであり,
本質的には矛盾を抱えており,
それは自分の身に怪物を飼っているようなものであろう。

少し話は変わる。

先の話の中で,
公と私の判断が異なった場合に個人がとれる態度は基本的に2つとしたが,
これには前提がある。
それは「公的な機能自体が確たる判断基準を有している」ということだ。
つまり上記の基本的な2つの態度以外に,
もう1つの態度がありえる。
それは「公的な機能の判断基準を変える」ということ。

通常,公的なものは,
私的なものに比して大きな存在であり,
多数の私の複雑な関係性の上に成立しているものであるから,
判断基準を変更することは容易ではない。
ましてや一個の私的な提案を受けて公的な判断基準を変えることは,
意図せずとも他の多数の私を軽視することにもつながる。

ここでこの論の重要な部分なので,あらためて記述するけども,
「私」というのは完全に「私」であって,
それぞれ互いに平等かつ独立した存在であり,
身分や立場による「重み付け」を持たないものである。
仮に「私」に「重み付け」がされて,
ある「私」ともう1つの「私」の間に差が生じるならば,
それはもはや「公」と見なされるべきである。

話は戻って,
公的な判断基準は私的な提案によって変わるか。
変わるためには,どのような条件が満たされるべきか。
絶対に守られるべきは,
公に属する「すべての私」に資する方向に向かう提案であること。
「特定の私」あるいは「大多数の私」に資するとしても,
「一部の私」が不利益を被るのであれば,
そのような変更には極めて慎重な態度が要求される。
しかし,
この「一部の私」にも例外はある。
それは「提案する私」である。
つまりこういうことだ。

「私は,この公に属するすべての私に資すると考え,
 公の判断基準を変更することを提案する。
 この変更に際して,私個人は不利益を被るが,
 そのことについては考慮にいれていただかなくて結構」

こうした私からの提案が,
むしろこうした提案のみが,
公をより良きものにしていくのだろう。
また,
こうした公のために私をなげうった個人に対して,
同じ公に属する私が出来ることは,
公としてでなく,私として,
温かい眼差しを向けることだけである。


今のこの国の一般的な組織論では,
「多数の私の幸福」や「政治判断」が重視されているように思う。
ボクが懸念するのは,
公の組織で一定の権限を持つ立場にある人間が,
その個人の私的な判断基準のみに基づいて,
「すべての私の幸福」ではなく,
「多数派の幸福」のために,
公的な判断基準を変更していてることだ。

権限のある立場の人は,
たぶん,自身の判断基準に照らして,
最適と思われる判断を下しているのだろう。
そこに計画的な悪意はないと思う。
しかし,
完全に公に資すると判断した行動が,
あるいは「未必の故意」となっているかもしれない,
そういうことに対する自己評価が甘いのではないだろうか。
これは,
「自分の私的な判断基準の正しさを盲信している」
と言い換えられるかもしれない。
私的な判断基準というのは自身の思考の隅々まで浸透した怪物である,
という認識が不足しているのではないか。

もちろん,
権限を持つ立場の人が,
自分の利益のために公的判断基準を変更することは論外である。
しかしそんなことは,はなから論外であるし,
それを摘発,告発することは私的な領域を超えている。
別個の公的な機関による監視に期待するしかないのだ。

もちろん,
そういった現状のうまくいっていないこの国の組織を担っているのは,
多数の私である。
彼らが私的な満足を甘受しておきながら,
公的な判断基準に襲われる一部の私に気付かないことや,
あるいは,
公に属するすべての私の幸福を願う切実かつ純粋な私の要求に対し,
「私的な利益誘導」と冷ややかな視線を投げかける態度こそが,
この国の公的な活動を誤らせる要因である。

まとめると,
権限ある立場の人の誤った判断以上に,
こうした多数の私の,
他の私への無関心こそが,
一番の問題である。

それはつまり,
「自分が良ければそれで良い」という判断基準こそが,
この国を住みにくくしている原因であり,
「自分は少し不利益を被るけれども」という判断を皆が少しずつすることこそが,
すべての人にとって幸せな社会を構築する秘訣なのではないだろうか。



論理と判断は直結しない

どれだけ論理的に考えても,
判断というのは絶対に恣意的なものになる。

それは論理的といえどもそれは究極的には確率論であって,
さらに判断には未来への予測が幾分か含まれているわけで,
どうあがいても,
どれだけ考えに考えても,
最後の最後の判断の部分では,
絶対に絶対に論理と判断は直結しない。

それを飲み込んで,
その上で,
議論しない限り,
色んなことは結論を出せない。

つまりは,
「双方に理がある」なかで,
「いずれかを選択せねばならない」ということがままあって,
その中での判断に迷うことがあるかもしれないが,
それは単に両者の結論に関わる確率が近しいだけであって,
逆に言えば,
どんな判断であれ,
少なからずそういう側面があるのだから,
確率が近しい時にばかり,
「恣意的にならぬように,フェアに」などと言わず,
「恣意的ではある」ということを飲み込めばいい。


そこで大事になってくるのが,
論理を超越した部分での,
自分の中での判断基準の確立。

たとえばボクは,
「じゃんけんではグーしか出さない」と決めている。
それで負けても悔いがないから,
毎回悩んで出して,その結果と自分の判断に悶えるよりも,
精神的にはずいぶんと楽だ。

その他にも,
「誘いは断らない」というのもある。
何かに誘われる度に,
その事象が自分にとって役に立つかとか,
他の物事との兼ね合いが云々とか,
そんなことは考えたって論理的な結論が出ない。
だったらすべて受け入れようじゃないか。
(明らかに先約があったり体調が悪い場合は断るけども)

まぁこれらは細かいことで,
もっと大きな意味でも確たる判断基準があるわけだが,
それはなんとも文章にするのが難しい。
「生身を大切にする」とか,
「意見は立場を超越する」とか,
そういったこと。

あとそこで大事なことは,
この判断基準が,
その場その場の感情に左右されないこと。
もちろん,自分の感情に従うってのはピュアなことで,
それ自体は尊重したいところなんだけども,
それをやっては社会がたちいかなくなるわけでもあって,
やはり「自分の感情」というのは判断基準には採用できない。


で,
また何が言いたいのかということだけど,
論理的な思考が出来ない上に,
判断基準が「自分の感情」と「金勘定」な人が,
あまりにも多くて辟易する,という話です。

そしてそれは明らかに教育不調によるものです。
子供の頃から,
「ナンバーワンよりオンリーワン」とか,
「友情や愛情は金では買えない」とか,
クソの役にも立たない空虚な論理でしか教育されてないから,
空っぽな大人(というか大人になれない子供)ばかりになってしまうのだ。


「一身独立して一国独立する」(学問のすすめ,福澤諭吉)


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