自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
たとえ話をすると,
たとえの歪みの部分に話題が集中して,
結局もともと伝えたかったことが伝わらないってことがままある。
ままあることはわかっているが,
今日もたとえ話をしよう。
ボクは食べることが好きだ。
しかも基本的に肉が好きだし,
味付けは濃いめが好きだし,
中華やイタリアンはもちろん好きだし,
ラーメンもスイーツも好きだし,
ビールも日本酒も大好物だ。
でも,
絶えず好きなものを食べていると,
胃や腸はずっと重たいだろうし,
健康診断的な意味でヤバイことになるだろうし,
家計だって続かない。
だから,
食事は一日三食にしているし,
コッテリガッツリの後はアッサリサッパリにしたりして,
なんとかバランスをとるようにしている。
でも,もし,
すごく効く胃腸薬が出来たなら,
食べ過ぎで苦しむこともなくなるし,
二日酔いに抜群に効く薬が出来れば,
飲み過ぎで苦しむこともなくなるし,
外科的な脂肪除去法が発達すれば,
デブることを気にせずに食べられるし,
血液の状態を一定に保つ薬が開発されれば,
塩分や油分を気にすることなく食べられる。
医学薬学が発展していけば,
たくさん食べて健康な生活がおくれる。
やったね。
というようなことが,
今現在,
世の中に流布しているお花畑思想であるところの,
「持続可能な」ということなんじゃないかと思う。
でもさ,
そもそも食べ過ぎなけりゃいいわけじゃない。
薬には頼らないけども,
健康を損ねない。
それぐらいの量・頻度で美味しいモノを食べるれれば,
まぁ幸せだと思いますよー,ってな具合で,
そういうのが,
本当の意味での「持続可能」なんじゃないのかしらね。
「コーラは健康を害する」ってなった時に,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかを飲むんじゃなくて,
基本的に「炭酸水」に置き換えつつ,
本当の本当に飲みたくなったら「コーラ」を飲むみたいな,
そういうことじゃないかしら。
「美味しいモノが食べたい」って欲求と,
「健康でありたい」って欲求を,
両方同時に最大限満たすために生身のポテンシャルを引き出すべく過剰な努力するのと,
両方同時に満たされる範囲を逸脱しない程度に抑えるべくガマンする努力と,
どっちを選択するかってことでしょう。
ちょっと別な話にすると,
プランA「プラス100とマイナス100を取り込めばプラマイゼロ」と,
プランB「プラス10とマイナス10を取り込めばプラマイゼロ」と,
同じように見える。
でもたとえば,
ピッタリ合わせることは難しくて誤差が10%ぐらいあるとしたら,
プランAの場合は,最大でプラマイ10の変動が起こりうる。
プランBの場合は,最大でプラマイ1の変動しか起こらない。
プラスが食べる量で,
マイナスが排泄する量だとしたら,
食べる量は自分で調節できるけど,
排泄量は内臓の具合なので完全には調節できない。
だとしたら,
プランBの方が安全策なんじゃなかろうか。
そういうようなことで,
新しいエネルギーを開発するとか,
省エネが云々とかをすることで,
「持続可能な**」を実現しようとする現在の風潮は,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかと同じで,
ヤバイんじゃないですかね,ということです。
常に欲求を満たす方向に,ではなく,
欲求を減らす方向に,という考えでいこうよ。
それは国民と政治家の関係もそうだし,
隣国との関係もそうです。
征服とか制御とか,そういうことじゃなくて,
降参とか隷従とか,そういうことでもなくて,
譲歩とか我慢とか,そういうことですよ。
「持続可能な」って言葉を使うなら。
たとえの歪みの部分に話題が集中して,
結局もともと伝えたかったことが伝わらないってことがままある。
ままあることはわかっているが,
今日もたとえ話をしよう。
ボクは食べることが好きだ。
しかも基本的に肉が好きだし,
味付けは濃いめが好きだし,
中華やイタリアンはもちろん好きだし,
ラーメンもスイーツも好きだし,
ビールも日本酒も大好物だ。
でも,
絶えず好きなものを食べていると,
胃や腸はずっと重たいだろうし,
健康診断的な意味でヤバイことになるだろうし,
家計だって続かない。
だから,
食事は一日三食にしているし,
コッテリガッツリの後はアッサリサッパリにしたりして,
なんとかバランスをとるようにしている。
でも,もし,
すごく効く胃腸薬が出来たなら,
食べ過ぎで苦しむこともなくなるし,
二日酔いに抜群に効く薬が出来れば,
飲み過ぎで苦しむこともなくなるし,
外科的な脂肪除去法が発達すれば,
デブることを気にせずに食べられるし,
血液の状態を一定に保つ薬が開発されれば,
塩分や油分を気にすることなく食べられる。
医学薬学が発展していけば,
たくさん食べて健康な生活がおくれる。
やったね。
というようなことが,
今現在,
世の中に流布しているお花畑思想であるところの,
「持続可能な」ということなんじゃないかと思う。
でもさ,
そもそも食べ過ぎなけりゃいいわけじゃない。
薬には頼らないけども,
健康を損ねない。
それぐらいの量・頻度で美味しいモノを食べるれれば,
まぁ幸せだと思いますよー,ってな具合で,
そういうのが,
本当の意味での「持続可能」なんじゃないのかしらね。
「コーラは健康を害する」ってなった時に,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかを飲むんじゃなくて,
基本的に「炭酸水」に置き換えつつ,
本当の本当に飲みたくなったら「コーラ」を飲むみたいな,
そういうことじゃないかしら。
「美味しいモノが食べたい」って欲求と,
「健康でありたい」って欲求を,
両方同時に最大限満たすために生身のポテンシャルを引き出すべく過剰な努力するのと,
両方同時に満たされる範囲を逸脱しない程度に抑えるべくガマンする努力と,
どっちを選択するかってことでしょう。
ちょっと別な話にすると,
プランA「プラス100とマイナス100を取り込めばプラマイゼロ」と,
プランB「プラス10とマイナス10を取り込めばプラマイゼロ」と,
同じように見える。
でもたとえば,
ピッタリ合わせることは難しくて誤差が10%ぐらいあるとしたら,
プランAの場合は,最大でプラマイ10の変動が起こりうる。
プランBの場合は,最大でプラマイ1の変動しか起こらない。
プラスが食べる量で,
マイナスが排泄する量だとしたら,
食べる量は自分で調節できるけど,
排泄量は内臓の具合なので完全には調節できない。
だとしたら,
プランBの方が安全策なんじゃなかろうか。
そういうようなことで,
新しいエネルギーを開発するとか,
省エネが云々とかをすることで,
「持続可能な**」を実現しようとする現在の風潮は,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかと同じで,
ヤバイんじゃないですかね,ということです。
常に欲求を満たす方向に,ではなく,
欲求を減らす方向に,という考えでいこうよ。
それは国民と政治家の関係もそうだし,
隣国との関係もそうです。
征服とか制御とか,そういうことじゃなくて,
降参とか隷従とか,そういうことでもなくて,
譲歩とか我慢とか,そういうことですよ。
「持続可能な」って言葉を使うなら。
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仕事を辞めようと思っている。
遅くても5年以内ぐらいに。
理由は色々とあるけども,
その中でも大きなモノのひとつが,
2012年の時点で「すでに」科学技術はバブル状態にあり,
今の研究開発のペースを維持する,あるいは加速することが,
人類にとって良いことだとは,
とてもじゃないけど思えないということ。
このバブルの行き着く先は,
結局のところ資源枯渇の問題で,
資源の枯渇は,経済的な問題ではおさまらず,
必ず国家とか,生存とか,
そういう根源的な問題と向かい合ってしまうことは不可避だ。
しかもそれは,そんなに遠い未来の話ではない。
たとえばこのままボクが研究を続けるとしたら,
現役生活はあと30年。
その30年の間に,
必ずこの問題に直面することになるだろう。
(石油かヘリウムか金属か,あるいは他の何かかわからないけど)
そんな言い訳にまみれた世界で,
「それでも科学技術は必要なんだ」と叫んで,
研究に世の中の人的・物的リソースを注ぎ込むことに,
自分が荷担することを想像すると,
どうしても耐えられない心境になる。
ちょっと違う理由で,
教育の問題との向き合い方というのもある。
先に言ったように,
たぶん資源枯渇がトリガーになって,
かなり大胆に,人間生活の在り方みたいなモノが問われる日が,
それほど遠くない未来にやってくると思う。
実は今,原発の問題が話題に上がるけども,
なんとなく「問題先送り」でどうにか突破しようとしている感がある。
たしかに,まだ先送りしても当面はどうにかなるので,
そうしていくのだろう。
でも,
本当に本当に,そう遠くない未来に,
真剣に向き合わなければならない日がやってくる。
本当の意味で国が分裂するような議論が巻き起こる,
そんな選挙が行われるだろう。
というか,
政治は完全にマヒしてしまうと思う。
それは人の生死みたいなものがダイレクトに響く問題すぎて,
やばすぎて結論が出せないって意味で。
来るべき「その日」に向けて,
今から本気でこの国の知的レベル,というか考える力,
あるいは考えるという作業に耐えうる知的体力を養う,
あるいは「頭を鍛えようよ」みたいなことは,
はじめていかねばならないんじゃないか,
そんな思いが強くなってきている。
そんなことを考えるのに,
何より資源を浪費する作業をして口に糊していていいのか,
それは自分かわいさ故の傲慢なんじゃないか。
そういう自己批判の目に耐えられない自分がいるんじゃないか。
そんな状態です。
結構マジで,人生の大転換を考えようと思う。
Tweet
遅くても5年以内ぐらいに。
理由は色々とあるけども,
その中でも大きなモノのひとつが,
2012年の時点で「すでに」科学技術はバブル状態にあり,
今の研究開発のペースを維持する,あるいは加速することが,
人類にとって良いことだとは,
とてもじゃないけど思えないということ。
このバブルの行き着く先は,
結局のところ資源枯渇の問題で,
資源の枯渇は,経済的な問題ではおさまらず,
必ず国家とか,生存とか,
そういう根源的な問題と向かい合ってしまうことは不可避だ。
しかもそれは,そんなに遠い未来の話ではない。
たとえばこのままボクが研究を続けるとしたら,
現役生活はあと30年。
その30年の間に,
必ずこの問題に直面することになるだろう。
(石油かヘリウムか金属か,あるいは他の何かかわからないけど)
そんな言い訳にまみれた世界で,
「それでも科学技術は必要なんだ」と叫んで,
研究に世の中の人的・物的リソースを注ぎ込むことに,
自分が荷担することを想像すると,
どうしても耐えられない心境になる。
ちょっと違う理由で,
教育の問題との向き合い方というのもある。
先に言ったように,
たぶん資源枯渇がトリガーになって,
かなり大胆に,人間生活の在り方みたいなモノが問われる日が,
それほど遠くない未来にやってくると思う。
実は今,原発の問題が話題に上がるけども,
なんとなく「問題先送り」でどうにか突破しようとしている感がある。
たしかに,まだ先送りしても当面はどうにかなるので,
そうしていくのだろう。
でも,
本当に本当に,そう遠くない未来に,
真剣に向き合わなければならない日がやってくる。
本当の意味で国が分裂するような議論が巻き起こる,
そんな選挙が行われるだろう。
というか,
政治は完全にマヒしてしまうと思う。
それは人の生死みたいなものがダイレクトに響く問題すぎて,
やばすぎて結論が出せないって意味で。
来るべき「その日」に向けて,
今から本気でこの国の知的レベル,というか考える力,
あるいは考えるという作業に耐えうる知的体力を養う,
あるいは「頭を鍛えようよ」みたいなことは,
はじめていかねばならないんじゃないか,
そんな思いが強くなってきている。
そんなことを考えるのに,
何より資源を浪費する作業をして口に糊していていいのか,
それは自分かわいさ故の傲慢なんじゃないか。
そういう自己批判の目に耐えられない自分がいるんじゃないか。
そんな状態です。
結構マジで,人生の大転換を考えようと思う。
田中パピコ文科相によって,
大学認可を巡る話題が大きく取り上げられている。
「大学が多すぎる」というパピコの意見は,
感覚的に非常に納得いくものであるが,
突然の不認可とか,そういう手続き上の問題は,
関係者にとっては大迷惑であったろうと思う。
もちろんここには,
理屈と現実の乖離があって,
たとえ大臣が招集した諮問委員会であっても,
大臣が判を押さなければ許可は下りないわけで,
そういう部分をシャンシャンにしないことを,
「大臣の権限だ」とするか,
「それはあくまで形式上の手続きだ」とするか,
意見のわかれるところであると思う。
で,
そんなことはどうでも良くって,
今回の件でも(京大の入試問題漏洩でも),
結局のところ,
本質的に問われていることは,
「大学ってのは何をするところなのか?」
という一点以外にない。
「大学とはどういう場所であるのか」
という議論をする時に,
いつも直面する困難が,
ボクも含めた研究者がこれを話題にすると,
「研究か教育か」みたいな部分にフォーカスが集まりすぎること。
これは大学の本質を考える上ではすごく重要なんだけど,
ついつい「エフォート」的な意味の話題に陥りやすいので,
今回はちょっと横に置いておこう。
もう1つは,
「サークル活動などを通じた云々」もやめておこう。
それは本質的には大学とは無関係だ。
たとえば専門学校でも,無職でも,就職していたって,
サークル活動などは出来てしまうわけだから。
ということで,
ここから先で考える「大学」ってのは,
とりあえず,
理系・文系を問わず,
(そういう分類からの脱却こそが大学ですべきことなんだろうしね)
4年間の大学生活ということにしよう。
その4年間の中で,
学生は何を学ぶことが出来るのか(出来ないのか),
「学ぶモノ」はどういう類のモノなのか,
教員は学生の「学び」にどのように関与するのか,
あるいは関与しないのか,はたまた関与できないのか。
少なくともボクの中では,
かなり明確な指針があるのだけれども,
これが明確とは言いながらも感覚的な部分が大きく,
うまく文章に表現できる自信がない。
ないけども,続けていこう。
まずはじめに,
教員が学生に影響を与えうるか。
ボクのこたえはYES,大きく与えうる。
しかしそれは,
もちろん学生側の興味・関心・体調などに大きく依存する。
逆に,
「学生は教員から影響を与えられうるか」
言い換えれば,
「学生は教員から何かを学ぶことが出来るか」。
ボクのこたえはYES,大きく学びうる。
ただし,ここで言う学ぶモノは,
知識以外の何かであるべきであろう。
つまり,
グーグルに問えば一定の回答が得られるような,
そういう授業・問答を大学で展開しても,
そこで学生が学んだ知識は,
「大学でなければ学ぶことが出来なかった」
という類のモノではない。
仮に知識のみを学んだというのであれば,
それは「大学では何も学べなかった」,
あるいは「大学では何も与えられなかった」,
というのと同意であろう。
もちろん,
「これは絶対に大学でしか学びえないモノである」
というようなモノは存在しないと思う。
どんなことでも,どんなことからでも,人は学ぶことができる。
だからそういう極論はここでは置いておこう。
つまり,
大学における教育というモノで,
学生も教員も,
両者がまず大前提として共有すべきことは,
「大学は,知識を与え,学ぶ場所ではない」
という一点である。
じゃあ,
大学で教員が学生に与える影響というのは,
あるいは学生が教員から学ぶモノというのは,
いったい何なんだろうか。
それをボクの言葉にして表現するのが,難しい。
手垢のついた言葉で大意を伝えるなら,
「価値観の転換」とか,
「考え方を身につける」とか,
「知識の蓄積ではなく利用」とか,
「受験的な点数主義からの脱却」とか,
「世の中の問題に正解はない」とか,
そういうことになるけども,
これだとボクが本当に言いたいことは抜け落ちている。
たとえば以前書いたことだけれども,
「論理的に考えること」と「自分の行動を決断すること」の間には,
絶対的な断絶がある。
断絶があることを十分に理解して,
それでもそれを飲み込んで,
「論理的に考えた上で決断する」とか,
そういうようなこと。
こういったことを,学生には学んでほしいと思う。
とはいえ,
頑張って考えて書いてもこんな感じで,
「教えようとする何か」を表現することは難しい。
さらに教えようとしたことがそのまま学生に伝わるというモノでもない。
もっと言えば,こういう「教えたいモノを教える」というモデル自体が,
根本的な間違いであるとも思っている。
教員と学生の間で,
「知識」のように「考え方」なんかを「モノ」みたいに伝達しようというのが,
間違っている。
そうじゃない。
教員が出来ることは,
大学に入ってくる学生の中に構築された堅牢な思考方法,
それは,
「どこかに回答があるからそれを見つける」
「どの回答が正しいかは回答の発信源の質が保証している」
というようなモデルを,
打ち砕くことだけなんじゃないか,と思っている。
つまり教員が出来るのは,
「創造」や「構築」といったことではなくて,
むしろ,
「解体」や「破壊」といったことなんじゃないか,
ということ。
教員が学生の中にある「何か」を,
解体・破壊するような「何か」を発信し,
学生はそれを受けて「何か」が解体・破壊される。
そこまでが大学の機能。
その先に,
学生の中に「何」が創造され構築されていくかは,
それは個々の学生の中で起こることであって,
教員の側がタッチ出来ることではない。
大学で起こる学生の内面的な変化,
あるいはそれを教員が触媒するとしたら,
それは,
「子供を大人にする」
ということだろう。
そして「子供」と「大人」の違いが何かと言えば,
これも手垢のついた言葉ではあるが,
「主体性」とか「責任」とか,
そういう類のものなのだろう。
これを端的に表現している言葉が,
福澤諭吉が成熟した社会にあるべき人物像として啓蒙した,
「独立自尊」
であると思うが,
(ボク自身はこの思想に深く共鳴しているが)
福澤嫌いなんかもいるだろうから,
別に独立自尊のみを金科玉条と掲げるわけではないこともここに記しておこう。
で,
こういうことこそが「大学」に求められる機能であると思うのだが,
それを実現するために落とし込む方法論の部分は,
まだ考察が足りていないし,
大学システムとしての範疇を超えて,
教員個々人の資質・思想に依存する部分でもあろうから,
これはまた別の機会に,ということにしよう。
そうしよう。
Tweet
大学認可を巡る話題が大きく取り上げられている。
「大学が多すぎる」というパピコの意見は,
感覚的に非常に納得いくものであるが,
突然の不認可とか,そういう手続き上の問題は,
関係者にとっては大迷惑であったろうと思う。
もちろんここには,
理屈と現実の乖離があって,
たとえ大臣が招集した諮問委員会であっても,
大臣が判を押さなければ許可は下りないわけで,
そういう部分をシャンシャンにしないことを,
「大臣の権限だ」とするか,
「それはあくまで形式上の手続きだ」とするか,
意見のわかれるところであると思う。
で,
そんなことはどうでも良くって,
今回の件でも(京大の入試問題漏洩でも),
結局のところ,
本質的に問われていることは,
「大学ってのは何をするところなのか?」
という一点以外にない。
「大学とはどういう場所であるのか」
という議論をする時に,
いつも直面する困難が,
ボクも含めた研究者がこれを話題にすると,
「研究か教育か」みたいな部分にフォーカスが集まりすぎること。
これは大学の本質を考える上ではすごく重要なんだけど,
ついつい「エフォート」的な意味の話題に陥りやすいので,
今回はちょっと横に置いておこう。
もう1つは,
「サークル活動などを通じた云々」もやめておこう。
それは本質的には大学とは無関係だ。
たとえば専門学校でも,無職でも,就職していたって,
サークル活動などは出来てしまうわけだから。
ということで,
ここから先で考える「大学」ってのは,
とりあえず,
理系・文系を問わず,
(そういう分類からの脱却こそが大学ですべきことなんだろうしね)
4年間の大学生活ということにしよう。
その4年間の中で,
学生は何を学ぶことが出来るのか(出来ないのか),
「学ぶモノ」はどういう類のモノなのか,
教員は学生の「学び」にどのように関与するのか,
あるいは関与しないのか,はたまた関与できないのか。
少なくともボクの中では,
かなり明確な指針があるのだけれども,
これが明確とは言いながらも感覚的な部分が大きく,
うまく文章に表現できる自信がない。
ないけども,続けていこう。
まずはじめに,
教員が学生に影響を与えうるか。
ボクのこたえはYES,大きく与えうる。
しかしそれは,
もちろん学生側の興味・関心・体調などに大きく依存する。
逆に,
「学生は教員から影響を与えられうるか」
言い換えれば,
「学生は教員から何かを学ぶことが出来るか」。
ボクのこたえはYES,大きく学びうる。
ただし,ここで言う学ぶモノは,
知識以外の何かであるべきであろう。
つまり,
グーグルに問えば一定の回答が得られるような,
そういう授業・問答を大学で展開しても,
そこで学生が学んだ知識は,
「大学でなければ学ぶことが出来なかった」
という類のモノではない。
仮に知識のみを学んだというのであれば,
それは「大学では何も学べなかった」,
あるいは「大学では何も与えられなかった」,
というのと同意であろう。
もちろん,
「これは絶対に大学でしか学びえないモノである」
というようなモノは存在しないと思う。
どんなことでも,どんなことからでも,人は学ぶことができる。
だからそういう極論はここでは置いておこう。
つまり,
大学における教育というモノで,
学生も教員も,
両者がまず大前提として共有すべきことは,
「大学は,知識を与え,学ぶ場所ではない」
という一点である。
じゃあ,
大学で教員が学生に与える影響というのは,
あるいは学生が教員から学ぶモノというのは,
いったい何なんだろうか。
それをボクの言葉にして表現するのが,難しい。
手垢のついた言葉で大意を伝えるなら,
「価値観の転換」とか,
「考え方を身につける」とか,
「知識の蓄積ではなく利用」とか,
「受験的な点数主義からの脱却」とか,
「世の中の問題に正解はない」とか,
そういうことになるけども,
これだとボクが本当に言いたいことは抜け落ちている。
たとえば以前書いたことだけれども,
「論理的に考えること」と「自分の行動を決断すること」の間には,
絶対的な断絶がある。
断絶があることを十分に理解して,
それでもそれを飲み込んで,
「論理的に考えた上で決断する」とか,
そういうようなこと。
こういったことを,学生には学んでほしいと思う。
とはいえ,
頑張って考えて書いてもこんな感じで,
「教えようとする何か」を表現することは難しい。
さらに教えようとしたことがそのまま学生に伝わるというモノでもない。
もっと言えば,こういう「教えたいモノを教える」というモデル自体が,
根本的な間違いであるとも思っている。
教員と学生の間で,
「知識」のように「考え方」なんかを「モノ」みたいに伝達しようというのが,
間違っている。
そうじゃない。
教員が出来ることは,
大学に入ってくる学生の中に構築された堅牢な思考方法,
それは,
「どこかに回答があるからそれを見つける」
「どの回答が正しいかは回答の発信源の質が保証している」
というようなモデルを,
打ち砕くことだけなんじゃないか,と思っている。
つまり教員が出来るのは,
「創造」や「構築」といったことではなくて,
むしろ,
「解体」や「破壊」といったことなんじゃないか,
ということ。
教員が学生の中にある「何か」を,
解体・破壊するような「何か」を発信し,
学生はそれを受けて「何か」が解体・破壊される。
そこまでが大学の機能。
その先に,
学生の中に「何」が創造され構築されていくかは,
それは個々の学生の中で起こることであって,
教員の側がタッチ出来ることではない。
大学で起こる学生の内面的な変化,
あるいはそれを教員が触媒するとしたら,
それは,
「子供を大人にする」
ということだろう。
そして「子供」と「大人」の違いが何かと言えば,
これも手垢のついた言葉ではあるが,
「主体性」とか「責任」とか,
そういう類のものなのだろう。
これを端的に表現している言葉が,
福澤諭吉が成熟した社会にあるべき人物像として啓蒙した,
「独立自尊」
であると思うが,
(ボク自身はこの思想に深く共鳴しているが)
福澤嫌いなんかもいるだろうから,
別に独立自尊のみを金科玉条と掲げるわけではないこともここに記しておこう。
で,
こういうことこそが「大学」に求められる機能であると思うのだが,
それを実現するために落とし込む方法論の部分は,
まだ考察が足りていないし,
大学システムとしての範疇を超えて,
教員個々人の資質・思想に依存する部分でもあろうから,
これはまた別の機会に,ということにしよう。
そうしよう。
子供が二人になってからこっち,
やや落ち着きがない生活が続いてしまっている。
1つは時間的な制約。
基本的な生活サイクルとして,
6時朝食ー入浴ー出勤,17時夕食ー入浴ー就寝。
この間が仕事で,
就寝時刻と起床時刻を調整して,
少しだけ家でも仕事をするようにしている。
とはいえ,
もともとボクは家で勉強(仕事)をする習慣が皆無なので,
まったくはかどっていない。
もう1つは,ムスコのカラダ。
ムスメは今のところ大丈夫なのだが,
ムスコは恐れていたというか,予想していたというか,
やはりアレルギー体質のようだ。
定期的な通院に加えて,日常的にも諸々のケアが必要で,
たとえば朝晩の二回入浴なのもこのため。
ボクはボク自身がそうなので,
そういう体質にとって良いことと悪いことが染みついていて,
手の抜きどころとか,絶対に外してはならないケアとか,
そういう感覚があるのだけれども,
ヨメにとってはそうではないので,そのあたりが大変ではある。
(ムスコにとっても,夫婦関係にとっても)
というような家庭的な(?)事情に加えて,
論文原稿に対して「まるで成長していない・・・」というコメントがきたり,
科研費申請に向けて考えても考えがまとまりきらなかったりという,
研究者としての実力不足を痛感していて,
そんな感覚と,
「家庭に時間を持って行かれる」というような感覚と,
その辺を自分の中で咀嚼しきれずに悶々としてしまっている。
まるっとまとめたような言い方をしてしまえば,
人生をまったく楽しめていない。
ボクがこの世に何を残すかと考えた時に,
それは論文なのだろうか,という疑念もあったりして,
何とも言えない気分になるわけです。
そんなこんなを諸々と考えた時に,
核家族の限界のようなものが見えている気もして,
そういう話もしっかり考えていきたいな,と。
そんな折りに,
敬愛する友人のラボで行うセミナーに向け,
「名前の通り慎ましい性格というわけでは全くなく、
どんな場でも自分の主義主張を臆せず主張する人物です。
業界の大御所にも強い口調で堂々と物を言う様には、
いつも聞いてる側がヒヤヒヤさせられますが、
自然科学にせよ社会問題にせよ、
原理原則に立ち返ることを疎かにせず、
かつアイデアに富んだ意見を出すので、
彼の周囲はいつも賑わっています。」
という人物紹介をしてくれました。
そうでも無いんだけどなぁ,と思う部分もありますが,
そういう人物であってほしい,とか,
こういう人物がいてほしい,とか,
そういった期待感みたいなモノのあらわれでもあるかと思うので,
逃げ腰になるのはガマンして,
こういう力強い生き方をしっかりしていけば良いのかな,と,
勇気をもらったのでありました。
Tweet
やや落ち着きがない生活が続いてしまっている。
1つは時間的な制約。
基本的な生活サイクルとして,
6時朝食ー入浴ー出勤,17時夕食ー入浴ー就寝。
この間が仕事で,
就寝時刻と起床時刻を調整して,
少しだけ家でも仕事をするようにしている。
とはいえ,
もともとボクは家で勉強(仕事)をする習慣が皆無なので,
まったくはかどっていない。
もう1つは,ムスコのカラダ。
ムスメは今のところ大丈夫なのだが,
ムスコは恐れていたというか,予想していたというか,
やはりアレルギー体質のようだ。
定期的な通院に加えて,日常的にも諸々のケアが必要で,
たとえば朝晩の二回入浴なのもこのため。
ボクはボク自身がそうなので,
そういう体質にとって良いことと悪いことが染みついていて,
手の抜きどころとか,絶対に外してはならないケアとか,
そういう感覚があるのだけれども,
ヨメにとってはそうではないので,そのあたりが大変ではある。
(ムスコにとっても,夫婦関係にとっても)
というような家庭的な(?)事情に加えて,
論文原稿に対して「まるで成長していない・・・」というコメントがきたり,
科研費申請に向けて考えても考えがまとまりきらなかったりという,
研究者としての実力不足を痛感していて,
そんな感覚と,
「家庭に時間を持って行かれる」というような感覚と,
その辺を自分の中で咀嚼しきれずに悶々としてしまっている。
まるっとまとめたような言い方をしてしまえば,
人生をまったく楽しめていない。
ボクがこの世に何を残すかと考えた時に,
それは論文なのだろうか,という疑念もあったりして,
何とも言えない気分になるわけです。
そんなこんなを諸々と考えた時に,
核家族の限界のようなものが見えている気もして,
そういう話もしっかり考えていきたいな,と。
そんな折りに,
敬愛する友人のラボで行うセミナーに向け,
「名前の通り慎ましい性格というわけでは全くなく、
どんな場でも自分の主義主張を臆せず主張する人物です。
業界の大御所にも強い口調で堂々と物を言う様には、
いつも聞いてる側がヒヤヒヤさせられますが、
自然科学にせよ社会問題にせよ、
原理原則に立ち返ることを疎かにせず、
かつアイデアに富んだ意見を出すので、
彼の周囲はいつも賑わっています。」
という人物紹介をしてくれました。
そうでも無いんだけどなぁ,と思う部分もありますが,
そういう人物であってほしい,とか,
こういう人物がいてほしい,とか,
そういった期待感みたいなモノのあらわれでもあるかと思うので,
逃げ腰になるのはガマンして,
こういう力強い生き方をしっかりしていけば良いのかな,と,
勇気をもらったのでありました。
伊平屋北熱水域掘削事後調査です。
本当はね。
でもアトノセサクサクな課題が目白押しで,
理由書やら要望書やらを提出して,
「今が旬」な研究を色々と実施してきました。
すっかり秋めいてきて,
子供のお風呂のタイミングで体が冷えてしまう日々が続き,
那覇行きの前々日ぐらいから体調が悪くて,
那覇入りしてからもダメダメでした。
そんなまま出港し,寒冷前線にバンバン揺らされて,
「なつしま」では初のゲロ酔いをしてしまった。
2日目はまったく食事できず。
でも夕食代わりに作ってもらったお粥を食べて快復。
胃が荒れていたのが落ち着いた感じ。
その後は万全ではないものの酔うことも無く過ごせました。
お粥最強説。
今回は同行取材があり,
那覇入りして琉大に行ったりなんだりした。
2010年のテレビ取材は面倒だったけども,
今回は支援事務の人にも同行してもらえたおかげで,
あまりケアせずとも何とかなった。
サイエンスの取材だとロジックやネタの数が重要なのだろうけど,
クリエイティブ系の取材だから,経験の多様性が重要なのだろうな,
とか思ってたけど,
そういう方向で対応するほどコチラに余裕がなかったのは残念。
まぁどんな作品になるか(そもそも作品になるのか)というあたりは,
誰にもわかりませぬ。
期待して待とう。
肝心の研究の方はと言うと,
ほぼすべての任務が出来たのではないか,と。
論文になるような成果や,
今後の研究に明るい話題となるような結果が得られた,と感じました。
首席をする時には,
海洋(あるいは熱水)に縁遠い分野の人にもどんどん参加してもらい,
そこでの研究や交流が次の何かになっていけば良いなと願っているので,
今回,たとえばブレアさんとタカイさんとか,
そういう交流の場になったのは非常にポジティブに考えておるわけです。
内容のない薄っぺらな感想文ですが,
今回の航海はそんな感じでした。
Tweet
本当はね。
でもアトノセサクサクな課題が目白押しで,
理由書やら要望書やらを提出して,
「今が旬」な研究を色々と実施してきました。
すっかり秋めいてきて,
子供のお風呂のタイミングで体が冷えてしまう日々が続き,
那覇行きの前々日ぐらいから体調が悪くて,
那覇入りしてからもダメダメでした。
そんなまま出港し,寒冷前線にバンバン揺らされて,
「なつしま」では初のゲロ酔いをしてしまった。
2日目はまったく食事できず。
でも夕食代わりに作ってもらったお粥を食べて快復。
胃が荒れていたのが落ち着いた感じ。
その後は万全ではないものの酔うことも無く過ごせました。
お粥最強説。
今回は同行取材があり,
那覇入りして琉大に行ったりなんだりした。
2010年のテレビ取材は面倒だったけども,
今回は支援事務の人にも同行してもらえたおかげで,
あまりケアせずとも何とかなった。
サイエンスの取材だとロジックやネタの数が重要なのだろうけど,
クリエイティブ系の取材だから,経験の多様性が重要なのだろうな,
とか思ってたけど,
そういう方向で対応するほどコチラに余裕がなかったのは残念。
まぁどんな作品になるか(そもそも作品になるのか)というあたりは,
誰にもわかりませぬ。
期待して待とう。
肝心の研究の方はと言うと,
ほぼすべての任務が出来たのではないか,と。
論文になるような成果や,
今後の研究に明るい話題となるような結果が得られた,と感じました。
首席をする時には,
海洋(あるいは熱水)に縁遠い分野の人にもどんどん参加してもらい,
そこでの研究や交流が次の何かになっていけば良いなと願っているので,
今回,たとえばブレアさんとタカイさんとか,
そういう交流の場になったのは非常にポジティブに考えておるわけです。
内容のない薄っぺらな感想文ですが,
今回の航海はそんな感じでした。
今度おいサダオカ,ぁぁ,詰め襟からぁ,今度あれだなぁ,おい,洋服着るんだなぁ。えぇ?初めてか?洋服着るの。ふぅん。そう。いいか,うれしいか,洋服着て。洋服どんなやつだ。んぅ,ブレザー?(コクリ)ブレザーのやつ,ふーん。作ったの?こっちで作ったのか?(いえ,もう,あの,買ったんです)買ったのか。ようあったなお前のぉ,このぉ,いわゆるリーチにぃ,ようあったなぁ。
http://www.youtube.com/watch?v=L-paXCK2OOc&feature=youtu.be
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/L-paXCK2OOc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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http://www.youtube.com/watch?v=L-paXCK2OOc&feature=youtu.be
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奨励賞をもらいました。
奨励賞は「該当年に満35歳未満」が対象なので,
30歳のボクはかなりの年数が残っており,
その部分を考慮すると,かなり高い評価を受けているのだな,
と実感しております。
特に地球化学会では,
4年生の時に参加した若手会以来,悪目立ちが続いていて,
「結局あいつのサイエンスってどうなの!?」
みたいな状況だったので,
奨励賞という形で研究者としての存在を示せたことも良かったです。
授賞式については正装も考えましたが,
前日までに会場で感じられた政治的な雰囲気に辟易し,
もっとはっきりと言ってしまえば,
学会を醜い政治活動の場に貶めている人々への抗議の意味で,
権威に対して敬意を示さない服装に決めました。
受賞講演はスライド無しでのトークというスタイルにしました。
それは推薦者である恩師G先生から,
「後世に残る講演を期待します」
というメイルをもらっていたというのが大きな理由です。
(学会発表のテンプレ打破に挑戦するというのも理由です)
スライドが無いとはいえ,
事前に色々なパターンでの内容を用意して,
全部喋れば60分ぐらいになる構成でしたが,
あれよあれよで15分ぐらいで予定していた着地点に到達し,
尻つぼみなトークになってしまいました。
大反省です。
講演で重視したことは,
研究をはじめた経緯とモチベーションについて,
さらにそのキッカケとなった人との関わりについてで,
研究内容については話さないことに決めていました。
とはいえ,
興奮してしまって大部分をすっ飛ばしてしまったのですが,
もっとも言いたかった,
「研究/科学ってものの意義/面白さがいまだにわからないで悩んでいる」
という部分は率直に伝えられたかな,と思っています。
講演後の質疑で問われてこたえたとおり,
特に受賞対象となったこれまでの自分の研究には納得していないので,
まだまだ踏ん張っていかねばならぬと思っている次第です。
「今年は地震生命圏でいく」と決めているので,
一般講演は地震生命圏にしてみました。
受賞講演の効果もあってか狭い会場が埋まりましたが,
こちらのコンディション不良が響き,
面白い話に出来なかったのが悔しいところです。
今回は反省が残る参加になってしまったので,
来年は(参加するのか!?)また違った形で,
何かを提案してみようと思います。
Tweet
奨励賞は「該当年に満35歳未満」が対象なので,
30歳のボクはかなりの年数が残っており,
その部分を考慮すると,かなり高い評価を受けているのだな,
と実感しております。
特に地球化学会では,
4年生の時に参加した若手会以来,悪目立ちが続いていて,
「結局あいつのサイエンスってどうなの!?」
みたいな状況だったので,
奨励賞という形で研究者としての存在を示せたことも良かったです。
授賞式については正装も考えましたが,
前日までに会場で感じられた政治的な雰囲気に辟易し,
もっとはっきりと言ってしまえば,
学会を醜い政治活動の場に貶めている人々への抗議の意味で,
権威に対して敬意を示さない服装に決めました。
受賞講演はスライド無しでのトークというスタイルにしました。
それは推薦者である恩師G先生から,
「後世に残る講演を期待します」
というメイルをもらっていたというのが大きな理由です。
(学会発表のテンプレ打破に挑戦するというのも理由です)
スライドが無いとはいえ,
事前に色々なパターンでの内容を用意して,
全部喋れば60分ぐらいになる構成でしたが,
あれよあれよで15分ぐらいで予定していた着地点に到達し,
尻つぼみなトークになってしまいました。
大反省です。
講演で重視したことは,
研究をはじめた経緯とモチベーションについて,
さらにそのキッカケとなった人との関わりについてで,
研究内容については話さないことに決めていました。
とはいえ,
興奮してしまって大部分をすっ飛ばしてしまったのですが,
もっとも言いたかった,
「研究/科学ってものの意義/面白さがいまだにわからないで悩んでいる」
という部分は率直に伝えられたかな,と思っています。
講演後の質疑で問われてこたえたとおり,
特に受賞対象となったこれまでの自分の研究には納得していないので,
まだまだ踏ん張っていかねばならぬと思っている次第です。
「今年は地震生命圏でいく」と決めているので,
一般講演は地震生命圏にしてみました。
受賞講演の効果もあってか狭い会場が埋まりましたが,
こちらのコンディション不良が響き,
面白い話に出来なかったのが悔しいところです。
今回は反省が残る参加になってしまったので,
来年は(参加するのか!?)また違った形で,
何かを提案してみようと思います。
体の外にある「情報」を,
内側に取り込んで「知識」とし,
解釈することで「知恵」を得る。
00年代にノーベル賞を取った人の言葉の意訳。
これが気に入っていて,
これを軸に,
「IT時代の教育論」みたいなものが出来るのではないかと,
悶々と考えてはいるものの,
クリアカットには表現できないでいる。
言いたいことは,つまりこういうこと。
かつては辞書や洋書,古書や専門書などなど,
あるいは雑誌でもなんでも良いのだけど,
情報へのアクセスが物理的/経済的/社会的に制約されていた。
身近に無ければ入手できないし,
高い本は買えないし,
大学の図書館には大学関係者しか入れなかった。
だから,
情報を仕入れて知識とする部分の障壁が大きすぎて,
情報-知識のルートを獲得できた人だけが知恵を得られるような時代だった。
それはたとえば明治維新とか,
漱石や諭吉は洋書にアクセスして,
西洋文化を翻訳/解釈して,
そこから抽出したエッセンスでもって教育していた。
つまりは情報の獲得が制限された中で,
情報から知識への吸収効率を100%に近づけることが第一にあって,
さらにその先に知恵の獲得があった。
いや,もしかすると,
知識の獲得自体が知恵の獲得であったのかもしれない。
時代は飛んで,IT時代。
ウィキペディアやグーグルなどの登場は,
誰でもが情報へアクセスできる状況を作り出し,
「外部脳」という言い方までされるほど,
情報と知識の間の隔たりはわずかなものになった。
そうすると新たな問題,というか,
そういう時代にはどこが教育のキモになるのか,
ということを考える。
もう一度,過去に戻る。
外国から流入する情報は,
かつては書籍/出版という労力/経費のかかるものを経由していたから,
そこでクオリティコントロールがなされていたがために,
アクセスできる情報には一定の価値があり,
それを吸収することは知識なり知恵なりが獲得できる,という保証があった。
では現代はどうだろうか。
ネット情報の発信源は不特定で,情報自体は大量で,
クオリティコントロールがされているとは言いがたい。
そんな情報を100%吸収して知識にしても,
知恵につながるとは言いがたい。
まぁ,
外部脳と考えれば,
もはや情報は知識とイコールなので,
吸収する必要すらないのだけれども。
じゃあ,いよいよ,そこで,
現代で必要な能力,
現代で生き知恵をつけるには何が必要なのか。
それは,
カオスな情報を切り分け,分割し,あるいは統合し,並べ替え,
その中に潜むプリンシプルを抽出する,
あるいはそれを表現し直すこと,
なのではないか。
「虚実入り乱れる表裏一体の社会で清濁を併せ飲む」
「情報の海から一筋の切り口を見出す」
そういう能力こそが,
この社会を生きるのに重要でベーシックなものであり,
これを醸成することが,
現代教育のキモなのではないだろうか。
そうやって考えた時に,
教科書や授業をベースにする教育というのは,
前時代的で,
つまり,教科書や授業ってものは,
日常生活でアクセスできない情報を,
教科書や授業という装置を使って知識化させる装置であって,
かつては(寺子屋とかの時代では)一定の意味を持っていたが,
家庭でこれらにアクセスできる時代にあっては,
もはや意味を持たないのだろう。
もちろん,
初等・中等教育においては,
一定水準の必要最低限的な情報を強制的に知識化させる意味は,
ないわけではない(識字/四則演算/法治など)。
しかし,
高等教育においては,
もはや教科書や授業といった知識化装置は意味を持たない。
現代の高等教育で必要なことは,
「知恵化」能力の獲得だろう。
今のところ妙案があるわけではない。
しかし本質的には,
絶え間ない問答こそが,
唯一で最良の方法だろう。
ここでいう問答は,
自己問答でも,2者間でもかまわない。
「白熱授業」などは,多数がいる教室で,
自己問答の機会を提供していると解釈できる。
だからボクは徹底して問うことにしている。
「なんで?」
「本当に?」
「絶対?」
「例外は?」
別にネタは何だってかまわない。
スポーツでも,
芸能でも,
人間関係でも,
科学でも。
この話は,
自分が教育者になっていくと考えると,
絶対に外せない部分なので,
ちゃんと考えていきたい。
Tweet
内側に取り込んで「知識」とし,
解釈することで「知恵」を得る。
00年代にノーベル賞を取った人の言葉の意訳。
これが気に入っていて,
これを軸に,
「IT時代の教育論」みたいなものが出来るのではないかと,
悶々と考えてはいるものの,
クリアカットには表現できないでいる。
言いたいことは,つまりこういうこと。
かつては辞書や洋書,古書や専門書などなど,
あるいは雑誌でもなんでも良いのだけど,
情報へのアクセスが物理的/経済的/社会的に制約されていた。
身近に無ければ入手できないし,
高い本は買えないし,
大学の図書館には大学関係者しか入れなかった。
だから,
情報を仕入れて知識とする部分の障壁が大きすぎて,
情報-知識のルートを獲得できた人だけが知恵を得られるような時代だった。
それはたとえば明治維新とか,
漱石や諭吉は洋書にアクセスして,
西洋文化を翻訳/解釈して,
そこから抽出したエッセンスでもって教育していた。
つまりは情報の獲得が制限された中で,
情報から知識への吸収効率を100%に近づけることが第一にあって,
さらにその先に知恵の獲得があった。
いや,もしかすると,
知識の獲得自体が知恵の獲得であったのかもしれない。
時代は飛んで,IT時代。
ウィキペディアやグーグルなどの登場は,
誰でもが情報へアクセスできる状況を作り出し,
「外部脳」という言い方までされるほど,
情報と知識の間の隔たりはわずかなものになった。
そうすると新たな問題,というか,
そういう時代にはどこが教育のキモになるのか,
ということを考える。
もう一度,過去に戻る。
外国から流入する情報は,
かつては書籍/出版という労力/経費のかかるものを経由していたから,
そこでクオリティコントロールがなされていたがために,
アクセスできる情報には一定の価値があり,
それを吸収することは知識なり知恵なりが獲得できる,という保証があった。
では現代はどうだろうか。
ネット情報の発信源は不特定で,情報自体は大量で,
クオリティコントロールがされているとは言いがたい。
そんな情報を100%吸収して知識にしても,
知恵につながるとは言いがたい。
まぁ,
外部脳と考えれば,
もはや情報は知識とイコールなので,
吸収する必要すらないのだけれども。
じゃあ,いよいよ,そこで,
現代で必要な能力,
現代で生き知恵をつけるには何が必要なのか。
それは,
カオスな情報を切り分け,分割し,あるいは統合し,並べ替え,
その中に潜むプリンシプルを抽出する,
あるいはそれを表現し直すこと,
なのではないか。
「虚実入り乱れる表裏一体の社会で清濁を併せ飲む」
「情報の海から一筋の切り口を見出す」
そういう能力こそが,
この社会を生きるのに重要でベーシックなものであり,
これを醸成することが,
現代教育のキモなのではないだろうか。
そうやって考えた時に,
教科書や授業をベースにする教育というのは,
前時代的で,
つまり,教科書や授業ってものは,
日常生活でアクセスできない情報を,
教科書や授業という装置を使って知識化させる装置であって,
かつては(寺子屋とかの時代では)一定の意味を持っていたが,
家庭でこれらにアクセスできる時代にあっては,
もはや意味を持たないのだろう。
もちろん,
初等・中等教育においては,
一定水準の必要最低限的な情報を強制的に知識化させる意味は,
ないわけではない(識字/四則演算/法治など)。
しかし,
高等教育においては,
もはや教科書や授業といった知識化装置は意味を持たない。
現代の高等教育で必要なことは,
「知恵化」能力の獲得だろう。
今のところ妙案があるわけではない。
しかし本質的には,
絶え間ない問答こそが,
唯一で最良の方法だろう。
ここでいう問答は,
自己問答でも,2者間でもかまわない。
「白熱授業」などは,多数がいる教室で,
自己問答の機会を提供していると解釈できる。
だからボクは徹底して問うことにしている。
「なんで?」
「本当に?」
「絶対?」
「例外は?」
別にネタは何だってかまわない。
スポーツでも,
芸能でも,
人間関係でも,
科学でも。
この話は,
自分が教育者になっていくと考えると,
絶対に外せない部分なので,
ちゃんと考えていきたい。
日韓戦でアレがああなったので,
少しマジメに考えてみた。
「このピッチの上、円陣を組んで、今、散った日本代表は、
私たちにとっては「彼ら」ではありません。
これは、私たちそのものです。」
スポーツを観戦する人,
特に母国や贔屓のチームを応援する人にとって,
「選手」は「彼ら」ではなく「私たち」そのものなのです。
いや,正確に言うならば,
「彼ら」は「私たち」ではなく「私」なのです。
「私」は選手の姿を通して「私」を見ているのです。,
でも,選手は,
選手の中の「私」は,
究極的にはピッチの上には存在しない。
ピッチの上の選手は,
あくまで競技/スポーツのフレームに則り行動しなければならないので,
それは「私」ではなく,
「その競技/スポーツの選手」という「役割を担う個体」でしかない。
だからピッチの上では,
それは90分の範囲では無く,
ロッカールームを出て,戻るまでは,
「私」的な行動というのは本来ありえないし,
厳に慎まなければならない。
つまり,
観戦者は選手に「私」を投影するため,
ひいては代表戦は観戦者にとって代理戦争となりうる。
しかし,
選手にとっては,それは単にその競技の試合であり,
そこに「私」の感情の入る余地はなく,
代表戦は代理戦争にはなりえないし,
競技の範疇で「戦争」をするなどもってのほかである。
もちろん,
試合前後の記者会見などでは,
私的な思いを吐いても良いし,
あるいは私的にはどうでも良くても,
観戦者を盛り上げるべく「私的を振る舞う」こともアリだと思う。
後者を突き詰めた形がいわゆる「プロ」なのだろう。
すべての選手が競技を成立させようとしない限り,
競技は成立しえないものである。
競技とはそういうものである。
人間の原始的で根源的な部分にはないもの,
つまりは「一定のルールに則る競技」という「フィクション」を経由することで,
はじめて両者の初期的な立ち位置に対等な関係が成立し,
その範疇で競うものが競技でありスポーツである。
つまり,
スポーツというのは,
競技者の茶番で成り立っているのである。
そこに競技者の私的な精神,
競技者の野蛮を持ち込むと,
もはや競技は成立しない。
競技は茶番であるからこそ,
現実社会とは地続きでは無い。
観戦者は無邪気に自己投影してもかまわない。
しかし競技者は,
競技するということの背景にある精神性,
俗に言うスポーツマンシップはまさにこれを指しているが,
競技はあくまでフィクションであるということを,
決して忘れてはならないし,
その範囲を逸脱した行動を取った場合には,
厳しく罰せられてしかるべきだと考える次第であります。
Tweet
少しマジメに考えてみた。
「このピッチの上、円陣を組んで、今、散った日本代表は、
私たちにとっては「彼ら」ではありません。
これは、私たちそのものです。」
スポーツを観戦する人,
特に母国や贔屓のチームを応援する人にとって,
「選手」は「彼ら」ではなく「私たち」そのものなのです。
いや,正確に言うならば,
「彼ら」は「私たち」ではなく「私」なのです。
「私」は選手の姿を通して「私」を見ているのです。,
でも,選手は,
選手の中の「私」は,
究極的にはピッチの上には存在しない。
ピッチの上の選手は,
あくまで競技/スポーツのフレームに則り行動しなければならないので,
それは「私」ではなく,
「その競技/スポーツの選手」という「役割を担う個体」でしかない。
だからピッチの上では,
それは90分の範囲では無く,
ロッカールームを出て,戻るまでは,
「私」的な行動というのは本来ありえないし,
厳に慎まなければならない。
つまり,
観戦者は選手に「私」を投影するため,
ひいては代表戦は観戦者にとって代理戦争となりうる。
しかし,
選手にとっては,それは単にその競技の試合であり,
そこに「私」の感情の入る余地はなく,
代表戦は代理戦争にはなりえないし,
競技の範疇で「戦争」をするなどもってのほかである。
もちろん,
試合前後の記者会見などでは,
私的な思いを吐いても良いし,
あるいは私的にはどうでも良くても,
観戦者を盛り上げるべく「私的を振る舞う」こともアリだと思う。
後者を突き詰めた形がいわゆる「プロ」なのだろう。
すべての選手が競技を成立させようとしない限り,
競技は成立しえないものである。
競技とはそういうものである。
人間の原始的で根源的な部分にはないもの,
つまりは「一定のルールに則る競技」という「フィクション」を経由することで,
はじめて両者の初期的な立ち位置に対等な関係が成立し,
その範疇で競うものが競技でありスポーツである。
つまり,
スポーツというのは,
競技者の茶番で成り立っているのである。
そこに競技者の私的な精神,
競技者の野蛮を持ち込むと,
もはや競技は成立しない。
競技は茶番であるからこそ,
現実社会とは地続きでは無い。
観戦者は無邪気に自己投影してもかまわない。
しかし競技者は,
競技するということの背景にある精神性,
俗に言うスポーツマンシップはまさにこれを指しているが,
競技はあくまでフィクションであるということを,
決して忘れてはならないし,
その範囲を逸脱した行動を取った場合には,
厳しく罰せられてしかるべきだと考える次第であります。
子供の頃に学校で第一次産業とかなんだとか習って,
その分類はテストに出てきたと思うんだけども,
分類基準みたいなものがなかなか飲み込めなくて,
なんとなく苦手意識みたいなものがあったことを覚えている。
ものすごく偏った記憶だけども。。。
なのであらためて考えてみた。
自分で考えてみたことなので,
元々の教科書的なクラークの分類とは異なるのだろうけど,
それはそれ,これはこれ。
はじめにまるっと書いてしまうと,
・一次産業:人間が食料を獲得するための産業
・二次産業:一次産業の効率を向上させるための産業
・三次産業:二次産業の効率を向上させるための産業
・以下続く
ということにしてみた。
考え方としては,
人間は食料が無いと生きていけない。
これを逆に見直して,
生きていくのに不可欠なものだけを一次産業ということにする。
だから農業とか漁業とかは一次産業。
一次産業の成否で人間がコントロールできるのは効率だけで,
食料の総量は食料となる生命の繁栄力に依存する。
人間はコントロールできないから,その部分は産業では無い。
あくまで食料を獲得することが一次産業。
つづいて二次産業は,
一次産業の効率を向上させるための産業としてみた。
たとえば農業重機があれば農地面積を拡大できるし収穫も効率化する。
だから,その重機を作る産業は二次産業。
漁業だったら船をはじめとする漁具の生産が二次産業だし,
岸壁の整備も二次産業に分類できる。
車や道路だって人や食料を運搬する効率を向上させるモノだから,
これらの作成や整備も二次産業。
さらに言えば,
天候に強く外敵から襲われない環境の整備(家の建築)も,
生存のための家事負担を軽減させ,
一次産業に従事する時間を増加させるという意味で,
二次産業に分類できる。
じゃあ他の職業が三次産業なんだろうか。
広告とか金融とか人材派遣とかは,
二次産業の円滑化という意味で三次産業っぽい気はする。
でも中間マージンであって産業じゃ無い感じもする。
飲食業や医療に関わる職業は,
どう扱っていいのかわかんないけど,
一次産業や二次産業の従事者が元気になって作業効率があがる,
って考えるなら,
三次産業と呼んでもいい気もする。
と,
簡単にまとめるとこんな感じのことを考えて,
そこを出発点にしてみると,
三つのことを考えることができる。
一つ目は,グローバル経済と国家経済。
「日本はモノ作り立国」とか何とか言ってるけど,
それはつまり二次以上の高次産業のことなわけだ。
でも二次産業は一次産業あってのことだろうから,
じゃあ一次産業はどこにいったのよ,と思い,
それはたぶん輸入なんだろう。
「産業の空洞化」って言葉を使う時は,
「部品と製品化」の分業が国内外に分離することを指すのだろうけど,
「一次産業と二次産業が国内外で分離」することは,
なんて言えば良いのだろうか。
グローバル経済の観点で見れば,国内外に垣根は無いから,
空洞化なんてことは原理的に存在し得ないんだけども,
実際には国家という枠組みで地球上の人類が生活しているわけで,
(今まさに日本と周辺諸島の領土問題が大変なわけで)
国家経済を考えると,
一次産業の空洞化は大変な問題かもしれない。
何が問題って,
食料自体を輸入に頼っていることも大問題なんだろうけども,
それに加えて,
「一次産業なき二次産業」は成立しないわけで,
つまりは,
「一次産業しかない国」と「二次産業しかない国」があって,
グローバル経済でグルグルしている間は問題ないけども,
ある時にそれぞれの国家経済に分断されるとなると,
どっちが生き残るのって,そりゃもちろん前者なわけで,
今なんとなく後者の方が先進的みたいな考えでいるかもしれないけど,
そんなこと全然なくて,
我々が人間で,国家という枠組みで生きている以上,
最低限,人口をまかなうだけは,
国内に一次産業があるべきだし,
その一次産業を支える二次産業も必要だろう。
そのパッケージが国内に整備されていて,
その前提があってはじめて,
残りの余剰人口的な部分で,
三次産業なりグローバル経済なりを回せば良い。
二つ目は,燃料エネルギーや鉱物などの非食料資源について。
こうした資源は,直接人間が食べるわけじゃ無いので,
資源の獲得は一次産業には分類されない。
一方で,
こうした資源は二次産業に不可欠な基礎となっている。
それはつまり,
二次産業より一段低次ということであって,
そうすると一次産業なのか,ということになる。
ボクはこの部分,つまり,
「資源獲得は一次産業なのか」
という問いは,結構重要な意味を持っていると思っている。
今,一般に世間に流通している観念的には,
資源獲得は自然からモノを取り出すという意味で,
感覚的には一次産業ということになっている気がする。
でも,決定的に,
資源は食料では無いし,
二次産業が無ければ無用の長物である。
だから資源獲得は,
二次産業の一部と見なす方が良いと思う。
まぁこの部分の考え方が,
先のグローバル経済と国家経済の部分の要諦でもあって,
難しいところなのだろうけども。
で,
最後の一つは,科学研究は何次産業なの,ってこと。
科学に対する「なんの役に立つんですか」は,
科学研究活動を高次産業として捉えているものだと思う。
たしかに先端的な科学からうまれる技術は,
高次産業にあたるし,
その技術を生み出すための科学は,
その技術より一次分だけ高次な産業と捉えられるだろう。
でも,
技術開発のためじゃない科学は,
どう扱ったら良いんだろうか。
つまり,
超高次産業なのか,否か。
否,というのは,
そもそも産業構造にカウントできないものってことで,
何次産業でもありませんよ,という立場。
芸術関係も,同じようなことを考えてしまう。
ということをボンヤリ考えていたら,
水泳の雑誌で,
鈴木大地と佐藤克さんが対談していて,
そこでの佐藤さんの,
「科学は考え方の幅を広げるもの」
という考えに膝を打った次第。
なるほどね。
(しかしバイオロギング装置でバサロを解析ってのは面白い)
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その分類はテストに出てきたと思うんだけども,
分類基準みたいなものがなかなか飲み込めなくて,
なんとなく苦手意識みたいなものがあったことを覚えている。
ものすごく偏った記憶だけども。。。
なのであらためて考えてみた。
自分で考えてみたことなので,
元々の教科書的なクラークの分類とは異なるのだろうけど,
それはそれ,これはこれ。
はじめにまるっと書いてしまうと,
・一次産業:人間が食料を獲得するための産業
・二次産業:一次産業の効率を向上させるための産業
・三次産業:二次産業の効率を向上させるための産業
・以下続く
ということにしてみた。
考え方としては,
人間は食料が無いと生きていけない。
これを逆に見直して,
生きていくのに不可欠なものだけを一次産業ということにする。
だから農業とか漁業とかは一次産業。
一次産業の成否で人間がコントロールできるのは効率だけで,
食料の総量は食料となる生命の繁栄力に依存する。
人間はコントロールできないから,その部分は産業では無い。
あくまで食料を獲得することが一次産業。
つづいて二次産業は,
一次産業の効率を向上させるための産業としてみた。
たとえば農業重機があれば農地面積を拡大できるし収穫も効率化する。
だから,その重機を作る産業は二次産業。
漁業だったら船をはじめとする漁具の生産が二次産業だし,
岸壁の整備も二次産業に分類できる。
車や道路だって人や食料を運搬する効率を向上させるモノだから,
これらの作成や整備も二次産業。
さらに言えば,
天候に強く外敵から襲われない環境の整備(家の建築)も,
生存のための家事負担を軽減させ,
一次産業に従事する時間を増加させるという意味で,
二次産業に分類できる。
じゃあ他の職業が三次産業なんだろうか。
広告とか金融とか人材派遣とかは,
二次産業の円滑化という意味で三次産業っぽい気はする。
でも中間マージンであって産業じゃ無い感じもする。
飲食業や医療に関わる職業は,
どう扱っていいのかわかんないけど,
一次産業や二次産業の従事者が元気になって作業効率があがる,
って考えるなら,
三次産業と呼んでもいい気もする。
と,
簡単にまとめるとこんな感じのことを考えて,
そこを出発点にしてみると,
三つのことを考えることができる。
一つ目は,グローバル経済と国家経済。
「日本はモノ作り立国」とか何とか言ってるけど,
それはつまり二次以上の高次産業のことなわけだ。
でも二次産業は一次産業あってのことだろうから,
じゃあ一次産業はどこにいったのよ,と思い,
それはたぶん輸入なんだろう。
「産業の空洞化」って言葉を使う時は,
「部品と製品化」の分業が国内外に分離することを指すのだろうけど,
「一次産業と二次産業が国内外で分離」することは,
なんて言えば良いのだろうか。
グローバル経済の観点で見れば,国内外に垣根は無いから,
空洞化なんてことは原理的に存在し得ないんだけども,
実際には国家という枠組みで地球上の人類が生活しているわけで,
(今まさに日本と周辺諸島の領土問題が大変なわけで)
国家経済を考えると,
一次産業の空洞化は大変な問題かもしれない。
何が問題って,
食料自体を輸入に頼っていることも大問題なんだろうけども,
それに加えて,
「一次産業なき二次産業」は成立しないわけで,
つまりは,
「一次産業しかない国」と「二次産業しかない国」があって,
グローバル経済でグルグルしている間は問題ないけども,
ある時にそれぞれの国家経済に分断されるとなると,
どっちが生き残るのって,そりゃもちろん前者なわけで,
今なんとなく後者の方が先進的みたいな考えでいるかもしれないけど,
そんなこと全然なくて,
我々が人間で,国家という枠組みで生きている以上,
最低限,人口をまかなうだけは,
国内に一次産業があるべきだし,
その一次産業を支える二次産業も必要だろう。
そのパッケージが国内に整備されていて,
その前提があってはじめて,
残りの余剰人口的な部分で,
三次産業なりグローバル経済なりを回せば良い。
二つ目は,燃料エネルギーや鉱物などの非食料資源について。
こうした資源は,直接人間が食べるわけじゃ無いので,
資源の獲得は一次産業には分類されない。
一方で,
こうした資源は二次産業に不可欠な基礎となっている。
それはつまり,
二次産業より一段低次ということであって,
そうすると一次産業なのか,ということになる。
ボクはこの部分,つまり,
「資源獲得は一次産業なのか」
という問いは,結構重要な意味を持っていると思っている。
今,一般に世間に流通している観念的には,
資源獲得は自然からモノを取り出すという意味で,
感覚的には一次産業ということになっている気がする。
でも,決定的に,
資源は食料では無いし,
二次産業が無ければ無用の長物である。
だから資源獲得は,
二次産業の一部と見なす方が良いと思う。
まぁこの部分の考え方が,
先のグローバル経済と国家経済の部分の要諦でもあって,
難しいところなのだろうけども。
で,
最後の一つは,科学研究は何次産業なの,ってこと。
科学に対する「なんの役に立つんですか」は,
科学研究活動を高次産業として捉えているものだと思う。
たしかに先端的な科学からうまれる技術は,
高次産業にあたるし,
その技術を生み出すための科学は,
その技術より一次分だけ高次な産業と捉えられるだろう。
でも,
技術開発のためじゃない科学は,
どう扱ったら良いんだろうか。
つまり,
超高次産業なのか,否か。
否,というのは,
そもそも産業構造にカウントできないものってことで,
何次産業でもありませんよ,という立場。
芸術関係も,同じようなことを考えてしまう。
ということをボンヤリ考えていたら,
水泳の雑誌で,
鈴木大地と佐藤克さんが対談していて,
そこでの佐藤さんの,
「科学は考え方の幅を広げるもの」
という考えに膝を打った次第。
なるほどね。
(しかしバイオロギング装置でバサロを解析ってのは面白い)