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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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学部の授業,つまりは「研究者にならない学生」に対して,「大学教員」はどういうメンタリティで向かい合うのか。また,そんな学生に向けて,何を伝え,何が伝われば,端的にはどういう人間になってくれれば,それが大学教育なのか,ということを確立できているか(教育哲学)。さらにはそれを実現するための方法論は確立できているか(教育技術)。仮に確たる哲学と技術があるとして,それは組織としての大学が標榜する大学教育との間に齟齬はないか,あるいは大学のカリキュラムなど諸制度とのかみ合わせはあるのか(大学と大学教員)。


現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。


大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。



というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。

なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。

===========
大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
===========

みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。

こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。

まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。

「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。

大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。

研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。




頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
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一番言いたいことは,
「研究者が自らの保身のために大学教員職を利用し,大学の存在を貶めている」
ってことなんだな,って気がしてきた。
ようするにその「不潔さ」がイヤで,
自分がその「不潔」な世界に迎合して職をえることが我慢できないんだな。


色んな理由は見つけてきているけども,
「自分が研究活動をしたい」
ってのが,まずなにより先にあって,
それに付随して,
「学生と一緒にやりたい」
「後継者を」
「教育が」
があるんじゃなかろうか。
そういう人が大半なんじゃなかろうか。

「それなら研究者になれば良いじゃないか」ということなんだけど,
現在の社会運用上,
「研究者職」の大きな受け皿が「大学教員職」だから,
大学教員になっているわけで,
たとえば「研究」を本務とするような「研究所」が多数あれば,
そこが研究者の受け皿になっていれば,
研究者でいたい人は大学教員になんかならないんじゃないか。

その次に考えていきたいのは,
動機はともかくとして,
大学教員になった以上は,
「大学」とか「大学教育」ってものを必ず考えるべきだってこと。
考えるべきなんだけど,
その作業において,研究作業では当然で必須として行っているような,
「過去の知見」を調べた上で「自分の考えを確立」する,
って作業がまったく行われてなくって,
単なる経験的私見だけで「大学」とか「大学教育」を考えてる。
だから,
かなり「研究者の都合」に偏った「大学観」「大学教育観」「大学教員観」を,
臆面もなく主張できるんだろうなぁ,と。
その「不潔さ」に,気付くことすら出来ないんだなぁ,と。

たとえば,
「何が教育学者だ」
「おれは子供の教育もしてるし,学生の指導もしている」
「あいつらの言っていることは机上の空論だ。現場を見ていない」
みたいなことを言えてしまうのも,
そういう偏狭さゆえなのだろう。
「自然科学」は「客観的」で,「社会科学」は「主観」から逃れえない,
という前提があるのかな。

以前,社会的共通資本としての研究者ってまとめかたをしたけど,
「研究者」ってだけでも,その役割をまっとうせず,権利を主張しているわけで,
これに「教員」って要素も加えたら,本当にヒドイ有様だと思う。
「給料あげろ」とか「採用枠増やせ」とか,
なんて「自分に甘い」職業的規範なんだろうか。


まとまってないから,ただのグチになってしまった

「大学の教育力」金子
「大学とは何か」吉見
「落下傘学長奮闘記」黒木
「アメリカの大学・ニッポンの大学」苅谷
(「学校って何だろう」苅谷)

もうずっと「大学」ってものについて考えがまとまらなくて,
航海の間に関連書籍を読んでみた。
大学本というと「入試本」とか「就活本」が多いのだけれど,
上記はいずれも「大学」自体にフォーカスしたものだった。

大枠でザックリまとめるなら,重要な点は2つ

(1)「フンボルト理念」の確立と普及
「フンボルト理念」については,それ自体が解釈のわかれるところかもしれないが,
とりあえず一番大雑把に言えば「大学教育は研究を通じて達成される」ということ。
これは大学教員が研究者であるという,現在の一般的な状況の原型であるわけだけど,
一方で,この理念においては,学生もまた研究者である(とボクには読めた)。
米国でうまれた大学院制度との比較もあるけれども,
現在の日本の状況は,大学教員の大半のアイデンティティが研究者であるという点で,
フンボルト的と言えるのではないだろうか。

(2)近年の爆発的な大学大衆化
経済的な発展と資本主義の浸透によって,
大学進学が広く一般的になってきた。
(技術的専門職よりも,いわゆるサラリーマン的職種が増えたし)。
今では進学率50%を超えるが,少子化とあわさればもっと高い数字になるだろう。

これらの2点は,うまく融合できない。
それは研究それ自体は,経済活動への寄与を指向するものではない。
にも関わらず,
労働年齢にある若者の大半が数年にわたって研究に従事する(大学に在籍)というのは,
「大学の存在」を可能にする「社会」を維持する力を,
「大学の存在」自体が滅していると考えることができる(かもしれない)。

国民が広く教育を受け,その知性や理性を磨き,人間・世界理解を深めることは,
それ自体は極めて社会的に有効で望ましいことであるし,
それこそが,大学に期待されていることの本質であろう。
そう考えた時に,
フンボルト理念に基づく大学教育ってのがはたして有効なのだろうか。

特に科学技術が高度に専門化・細分化されている現代では,
研究に従事することで獲得できる知識というのは,
ある特定の範囲でのみ有効な知識でしかない。
これに対してよく行われる反論は,
【研究をする中で磨かれる「考え方」こそが大学教育の本丸】という主張である。
しかしこの主張は,あえて辛辣に言えば,
大学教員側が「大学教育」から目を背け「研究」に逃げこむ言い訳であり,
「考え方」を教えるメソッドを持ち合わせていないことを端的に表しているのではないか。

大学教員にとっては,自らが研究を進めたいという中で,
高校卒業生に「考え方」を教育する術をもたず,
高校卒業生はいきなり研究をさせられるほど知識も考え方も持ち合わせておらず,
程度の低い知識の伝達の場にすぎない授業に従事せねばならない。

産業界,あるいは大きく社会一般にとっては,
労働年齢にある若者が一定期間,社会に寄与しないことは損失である。

高校生にとっては,
はげしい大学受験という負担があるが,
大学にいるのは上記のような大学教員による大学教育で,
大学在学中から上記の社会からにらまれている。

ということで,
話を今日のお題に持っていくと,
誰も幸せになれない「大学」の現状を作っているのは,
「大学教育」が未発達であるせいではないだろうか。

もう一度,大雑把に整理すると,
「先端研究」と「大衆化」という正反対のベクトルが,
【大学教員】と【産業界・社会】のうちにあって,
【大学生】や【大学という場】が乖離させられる状況にある。
正反対のベクトルが敵対するのに加え,
間にいて乖離させられるモノもある。
三者の誰もが不幸になる。
これが現在の日本の大学の現状である。

ちなみにアメリカの大学の状況はと言うと,
アメリカの大学に行ったこと無いからわからないけども,
学部教育の大きい部分を,大学院生TAが担っているらしい。
そして,
大学生が,大学教員では無く,TAからしか学べないこと,
院生TAが,本来やりたい研究では無くカネ稼ぎのTAに時間をとられすぎること,
の2つが,アメリカでの大学問題となっているらしい。

【2つ以上の問題を同時に解決できることを,アイデアという】
ってのは任天堂の社長だったかな。
とにかく,そういうアイデアを考える必要がある。

ボクの現在の考えは,
現状の【大学教員】の部分を【教員】と【研究者】に割ること。
古い人には「それは教養部時代に戻るだけじゃ無いか」と言われるだろうけども,
今のところ,三者問題を同時に解決するには,それしかないし,
教養部とは少し仕組みを変えていけば,うまくハマル気もする。
ある意味では,大学院重点化の本質なのかもしれないが,
大学院教員と大学教員を明確に分離してしまえば良い,という考え方である。

つまり,
「現在の大学教員」は「大学院教員」となって,研究に従事する。
「新設の大学教員」は「大学教員」となって,学部教育に従事する。
「新大学教員」は高校教員と研究者の間ぐらいの位置付けになるかもしれない。
博士号を持つなど何か専門性を有する人が,
一定の教育メソッドなどを学んだ上で「新大学教員」になる仕組み。

大学生は,教育メソッドを有する教員から学べる
大学院教員は,研究に従事する時間が増える
大学は,大学の理念に基づく教育メソッドを普及させ特色を出せる,
産業界・社会は,大学でより成熟した大人が増えればより良くなる,など,
悪いことはないと思う。

とはいえ,
現状の教員に加えて,新教員を設置できるほど,人件費もないので,
現在の大学教員から,半々ぐらいで振り分ける必要が出てくるだろう。
「任期付の研究者たる大学院教員」と「任期無の教育者たる大学教員」にわけるのは,
大変に困難な作業だろうけども,
いずれ避けては通れない道なんだし・・・。


(じかんぎれ)


まぁとにかく一番言いたい部分は,
今の大学の問題点は,システム云々以前の問題として,
「大学教育」ってソフトの部分が,
三者問題で三者ともが目を背けるピットフォールになっているってことです。
昨日のはあまり言いたいことが言えてなかった。

権力構造でもなんでも,
ある主張とか論説には論理構造があって,
それを否定するのに,
その相似形の論理構造でいくと,
結局,相似的に同じ場所で失敗してしまう。

すごく難しいんだけど,
何かを否定的に見るとか,
何かを否定したいと思って論理を構築する時に,
極めて大事なことで,
かつ,
気を許すとすぐに巻き込まれてしまう。

権力構造はわかりやすくて,
教師ー生徒の関係が,
行政ー学校の関係と相似形で,
権力を用いた強制という部分が,
まさに相似形。
体罰がダメだと言った論理と,
行政が入試停止を命じる論理は,
相似形なのだ。

だから,
今,自分が嫌悪感を抱いている当の事象について,
どういう構造の論理で構築されているかを理解して,
次にそれに対する自分の考えというのが,
それと相似形に陥っていないかを自己点検して,
その上で自分の考えを伝えきらねばならない。


でも,
現在の科学ってのは,
延々と繰り返される相似な論文の積み重ねで進んでいて,
それが何とも,非常に,不愉快なわけです。
必ずどこかで論理と判断(あるいは感覚)のミゾをジャンプせねばならないのに,
論文のフォーマットという相似形にからめとられて,
それが出来ない構造になっている。
まぁ,だから,
招待総説とか,教科書とかで,
シレっと自説を展開するのが面白いのだろうけども。
それは次善の策という気もして。
体罰については言いたいことが多いのだが,
一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。


まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。

ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。

「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。

「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。

でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。

今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。

少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。

================================

権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。

特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。

うちの大将と話をしていて,
「生命探査」に代表される「アストロバイオロジー」,あるいは,
「生命とは何か」
について考えていたことがクリアになってきたので記録しておく。
まずは2012年7月時点で書いた奨励賞講演の要旨を転載。

====
「生命」(life)とは活動であって「生物」(living thing)とは生命を担う物質である。このため,ある生物が生命を失ったその瞬間(というものがあるとすると),その生物は生物でなくなるが,かつて生物であった物質群はその物質群のままである。また生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される。このため,地球の始原生命あるいは地球外生命を考える時,つまり痕跡物質のみから生命の有無を議論せねばならない時,かつて生物であっただろう物質(複雑な有機物群)を探索することはあまり有効ではない。
====

こんなことを漠然と考えているのだけれども,
中でも重要だと思っているのが,
【生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される】
という部分。

この文章を書いた時点で念頭にあったのが,
「隕石に有機物が!すわ宇宙生物!」
みたいな現状の否定というか,
「生命ってそういうことじゃないだろ」
っていうアンチテーゼだったので,
かなり偏った書き方になってしまっている。
そしてそれが自縄自縛として作用していて,
自分に身近な科学分野の考え方が置き去りだった。

上記の文を読んで感じることは,
「物質というのは,本質的に時間の情報を持たない」
という安易な仮定を置いてしまっていること。

化学分析では,物質から時間の情報を取り出すことはできない。
放射性同位体による年代測定は時間の情報じゃないか,
と言われるかもしれないが,
あれは「ある時間」の情報ではあるが,
「時間的に異なる二点」の情報ではないので,
ここでの議論とは意味合いが違う。

でも,だからといって,
本当に物質には時間の情報がないのか,といえば,
そんなことは,まったくない。

たとえば海底堆積物は,
鉛直方向の空間分布が,
そのまま時間軸となって記録されているわけで,
化学分析のミクロな視点(物質)ではなく,
地質学的なマクロな視点(物質群)で見た場合,
「物質(群)は確かに時間の情報を有している」
のである。

例に出したので海洋堆積物を用いて話を進めると,
海底堆積物を単純に海洋からふりそそぐ物質の堆積物として,
つまり鉛直軸を時間軸の記録として見るのが,
古典的な海底堆積学だったのだろう。
あるいは地球化学的な視点で,
つまり海洋と物質を授受する1つのリザーバーとして,
海底堆積物を構成する物質と間隙水組成が調べられていた。
その後,
生命地球科学的な研究が進展してきたことで,
堆積物は活動的な生命活動の場として見られるようになり,
膨大な体積を有する極限環境生命圏として考えられ,
その場における生命活動自体に強い関心が持たれるようになっている。
たとえば採取した堆積物をラベルして,
代謝活性試験などを行っているわけである。

でも,
あるいは一定の生命地球科学的な海底堆積学が進捗したからこそ,
本質的な部分を見落としていたのかもしれない。
それは,ごくごく単純で,
堆積物は鉛直方向には,やはり時間の情報だということ。

海底堆積物の中で起こっていることを議論する時,
直感的な理解を助けるため,実際に合わせて,
縦軸に深さを,横軸に物質濃度をとって記載している。
しかしこれを反時計回りに90度まわしてやれば,
つまり,
横軸を深さ,縦軸を物質濃度にしてやれば,
ある物質の時間的な変化に読み替えられ,
それは堆積物をマクロな視点で一個の生物と捉えた時の,
その生物体内で起こる代謝を見ていることと等しくなる。

もちろん堆積物中では,生命活動以外にも,
物理的なモノの移動や,非生物化学反応も起こる。
しかし「物の運動」や「化学反応」は,
運動が位置と時間の関数で,
反応が元素と時間の関数で,
それらは厳密な法則に支配されていて,
理論と実際が無矛盾で説明が可能である。
だから,
理論的に予想される部分からの逸脱は,生物活動の仕業と見なせる。
もっと踏み込んで言えば,
物理運動・化学反応の法則性からの逸脱こそが「生命」なのだ。

海底堆積物の柱状試料の一部を切り取って,
生物に特異なDNAのような有機物を見つけたり,
ラベル培養で活性を取ったりしなくても,
柱状試料の化学組成の鉛直分布それ自体が「生命」の証拠なのだ。

この考え方は地球科学的な部分を取り除いても成り立つ。
まず生物がいて,
それが促進する化学反応群が生命活動で,
だから生命活動を把握することで生物の存在を把握しよう,
ということではない。
そうではなくて,
物理や化学ではどうにも説明できない化学反応(群)があれば,
それこそが生命活動であって,
仮にそれを担う物質群が存在しているならば,
それを(あるいは便宜的に)生物と呼ぼうではないか,
という考え方である。

この考え方は海底堆積物でも宇宙でも同じ事で,
つまり大事なことは,
「ある場における連続的な地質記録と物質分布の把握」
である。
研究者が議論しているもので言えば,
シーケンスとかプロファイルと呼ばれるものがインポータントなのである。

異なる時間の情報を1つの物質群の中に有するモノがあり,
そこに不自然な何かが見出されれば,
そしてそれが外的な要因が作用したものでなければ,
それこそがその場に起こった生命活動の履歴であるのだから,
まさに「生命探査」の目的を達したことになるのである。




こういうような考え方は,
もしかすると皆は当然のこととして持っているのかもしれない。
この話をすると,
「そんなん当然でしょ」
「XXがYYに書いてるじゃない」
みたいに言われるかもしれない。
それについては,本当に不勉強で申し訳ない,としか言えないです。

とある友人が下記のつぶやきをしていました。

「人材育成については様々なところで以前より議論されていますが、私の理解では、そういった枠組みでは実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変えることが難しいところが共通する課題です。もちろん、時代は変わりつつあると思いますが。」

まったくもってその通りだと思います。
(ボクの理解が彼の言わんとするところと合致していれば,ですが)

ナンタラ委員会やらナンタラ部会やらで理念やプランを話し合っても,
それが実践にまで落とし込まれることは多くなく,
むしろ実践に落とし込めることしか実施しない,というのが,
実態に近いのではないかと思います。

というか,
それ以前の問題でもあると言えましょう。

それはつまり,
「育成」というものが,
「いまだかつてメソッドとして確立されたことのないものである」ということです。
ここでいう「メソッド」ってのは,
人材育成をしようとする組織の組織人が共有するもののことで,
まぁ意識でも実質的なカリキュラムでも,どちらでもかまいません。
とにかく,
「メソッドがない」のに,
「メソッドの確立」より先に,
「実施」がうたわれているというのが,
いつまでたっても同じ議論を繰り返している根源的な理由だと思うわけです。

さらに踏み込んで,もっと言ってしまえば,
「人材育成」なんてものは,
そもそもメソッドに落とし込めるようなものではないのですよ。
育てようとする側も育つ側も,
それぞれがそれぞれ,百人が百個の人格であり,
それを高等教育段階で十把一絡げに扱おうなんていうのが,
ナンセンスなのです。


というようなことを踏まえると,
「研究業界の人材育成」の実態は,
いわゆる「良い人材」をいかに研究業界に流入させるか,という,
つまりは「育成」ではなく「発掘」「確保」なのでありましょう。

この部分についても古い議論で,
「とにかく院生を大量に集めて良いものをピックアップ」ということと,
「研究者の仕事としての魅力をアピールして優秀な人材を確保」というふたつが,
大体の場合の結論として出てきます。

しかしそれがうまく機能していないことも事実で,
前者については,
確保したい人材を確保した後の,
「人材以外の卒業生」をどうやって「処分」するかという問題があり,
それは実際に起こっている「ポスドク問題」が何よりの証拠です。

後者については,
「人材」はオリコウサンなので,
「ポスドク問題」みたいなものがあるブラックな業界を敬遠し,
華やかでサラリーの高い一流民間企業を指向していきます。

人材育成の大体の現状は,こんな感じだと思います。

では現実問題として,今後どうすれば良いのか。
大事なことは,
冒頭の友人氏の指摘するところの,
[実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変える]
ということです。

ボクの提案は,
・研究業界で働く人数の増加
・研究業界内での職種の多様化
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
です。

「研究業界で働く人数の増加」というのは,
先の人材確保論で述べたように,
全体の人数が多ければ,確率的に出現する人材の数が増加するということです。

「研究業界内での職種の多様化」というのは,
技術や事務,広報といった支援職を,
パートタイムではなく正規の職種として設定することです。

・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
たとえば技術職は「研究者くずれ」ではなく,
「技術専門職」であるというような専門性の確立です。
意外と根深い問題だと思っています。

こうすることで,
院生を大量にしても「自前で」「人材以外」を「処分」出来るので,
「業界のブラックさ」は解消に向かい,
「研究者」という職種の魅力も向上するのではないでしょうか。

というようなことを,
細かいことはすべてすっ飛ばして考えると,
一番の問題は,
財源の確保です。

そこですぐに「だからパイを大きくしろ」と訴えるから,
いつまでたっても同じ場所にいるんだと思います。
パイの切り分け方で解決しようじゃないですか,と。

研究機器のシェアだとか,
時間の配分だとか,
あるいは給与水準だとか,
そういう部分を工夫して,
「個々の研究/私生活の実体的な実入り」は悪くなるかもしれないけども,
「人材が流入する」とか「いわゆる雑用が減る」とか,
「業界がハッピーになる」ということでは,
納得できないものでしょうかね。

「いいからオレにカネをよこせ」
って皆が言ってる現状では,
何をどう議論したって,
人材育成なんてうまくいきませんよ。
ってか,
「いいからオレにカネをよこせ」
みたいな思想の人が,
「人材育成」によって生み出されると思うと,
グッタリしてしまいますね。


またグダグダしちゃった。
大学や会社の昼休みにサッカーをするわけで,
それは素人サッカーなわけで,
各人の技術・体力レベルは全然違うわけで,
さらに昼サッカーへの取り組み方も違うわけで,
その辺りは必ず加味してやらないと,
単に必死で試合をするのでは,
楽しめない人が生じてしまうと思うのです。

だからボクは勝敗にはさほどこだわらず,
それぞれが活躍できて,
少なくとも楽しくないとは思わないような,
そういう展開になるように努力をしているつもりです。
それはある意味で,
ガチ格闘技とプロレスの違いのようなものでもあります。
(レベルが高いがゆえにオナニードリブルを繰り返す人が一番困りますよね・・・)

ボクが心がけているのは,
「こうしよう」というサッカー戦術上の指示は山ほど出す。
それは皆でサッカーというスポーツをより深く楽しむため。
一方,
プレーの結果,特にうまくいかなかったことについては,
まったく責めないようにしている。
特に技術のせいでうまくいかなかったことには,
「狙いは良いよ!」とか「面白い!」とか言うようにしていて,
それは「自分がヘタクソだから」みたいな負い目をもってほしくないからで,
つまりこの場合は,
サッカー自体はどうでもよくて,
「皆で昼休みに楽しくやってるんだよ」という部分を重視しているわけです。

しかしこの辺りもサジ加減が微妙なところで,
いくつかの困ったパターンがあります。
一番多くて典型的のは,
「ごちゃごちゃ言われんと好き勝手やりたい」タイプ。
プレーヤーとしてサッカーを続けてきている人に多い。
でも大抵の場合,サッカーの戦術的理解がないので,
こういうタイプが奮闘すると,
結果的にチーム全体の機能を低下させてしまい,
楽しくないサッカーの元凶になってしまうことがシバシバ。

こういうタイプは,
そもそも声かけ自体にさほど重要性を感じていないので,
それが戦術的だろうと,モチベーション的だろうと,
声かけ自体を聞く気が無いというか,
もっというと「いらない」と思っているっぽい。
まぁ「パスくれ」は言うんだけどね。自分はパスしないくせに。


あんまり具体的に書くと色々とアレで,
抽象的に書くと吐き出し切れていなくて,
中途半端になってしまうねぇ。


「海外組だからって理由だけで呼ぶのはいかがか」
「試合に使わないなら呼ぶなよ」
みたいな意見がある。

はっきり言って,ナンセンスだ。
まずは後者の意見。
そもそも試合に使える人数は限られていて,
招集23人に対して親善試合でも17人。
たとえレギュラー組を呼ばなくても,
使われない選手というのは必ず発生する。

それでもザックが招集するのはなぜか。
視聴者は試合しか見られないから「意味ない」というが,
ザックからしたら手元において数日練習できるので,
たとえ90分の試合に1秒も出ていなくても,
十分な意義があるわけだ。

結果が出ていない海外組を呼ぶのも,
ここにカラクリがあると考えれば話の筋目が通る。
まず,
ザックは彼らのかつての(Jリーグでの)パフォーマンスから,
ベーシックなテクニックなどには大きな信頼をすでに持っている。
一方,
彼らは海外のクラブで試合に出ていないからこそ,
現状のフィジカルやインテリジェンスについては,
練習に呼んでその状況を確認する必要がある。
もっと踏み込めば,
海外でうまくいっていない理由を代表の練習で掘り起こし,
指摘し,修正してやることで,
クラブに戻った時に活躍できるようにしてやろう,
それで良くなれば中期的な代表の強化につながる,
そんな意図が働いているのかもしれない。

そこでJリーグで活躍しているけど代表に呼ばれない組だが,
彼らの場合はJリーグでずっと出場しているので,
ザックは手元に置かなくても,
試合をしっかりと観察していれば,
能力や特徴が手に取るように把握できる。
さらに所属チームで選手に課されているタスクも把握できる。
これがザックの作ろうとしているチームで期待するタスクと違う場合,
すでにうまくいっている「型」が選手にあるだけに,
代表でまったく異なる任を負わせ不調に陥るというリスクが大きい。

とか考えると,
宮市や宇佐美や森本を呼んでいることや,
寿人や闘莉王を呼ばないことは,
別になんら不思議じゃないし,
それでもってザックをダメ監督というのは違うんじゃ無いか,と。

逆に,そういう意味だからこそ,
前田のところに大迫,
岡崎のところに大前,
遠藤のところに柴崎,
長谷部のところに米本,
とか,
今のところバックアップの薄いところに,
若手を呼んでほしいよね。
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