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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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田中パピコ文科相によって,
大学認可を巡る話題が大きく取り上げられている。
「大学が多すぎる」というパピコの意見は,
感覚的に非常に納得いくものであるが,
突然の不認可とか,そういう手続き上の問題は,
関係者にとっては大迷惑であったろうと思う。
もちろんここには,
理屈と現実の乖離があって,
たとえ大臣が招集した諮問委員会であっても,
大臣が判を押さなければ許可は下りないわけで,
そういう部分をシャンシャンにしないことを,
「大臣の権限だ」とするか,
「それはあくまで形式上の手続きだ」とするか,
意見のわかれるところであると思う。

で,
そんなことはどうでも良くって,
今回の件でも(京大の入試問題漏洩でも),
結局のところ,
本質的に問われていることは,
「大学ってのは何をするところなのか?」
という一点以外にない。


「大学とはどういう場所であるのか」
という議論をする時に,
いつも直面する困難が,
ボクも含めた研究者がこれを話題にすると,
「研究か教育か」みたいな部分にフォーカスが集まりすぎること。
これは大学の本質を考える上ではすごく重要なんだけど,
ついつい「エフォート」的な意味の話題に陥りやすいので,
今回はちょっと横に置いておこう。

もう1つは,
「サークル活動などを通じた云々」もやめておこう。
それは本質的には大学とは無関係だ。
たとえば専門学校でも,無職でも,就職していたって,
サークル活動などは出来てしまうわけだから。


ということで,
ここから先で考える「大学」ってのは,
とりあえず,
理系・文系を問わず,
(そういう分類からの脱却こそが大学ですべきことなんだろうしね)
4年間の大学生活ということにしよう。

その4年間の中で,
学生は何を学ぶことが出来るのか(出来ないのか),
「学ぶモノ」はどういう類のモノなのか,
教員は学生の「学び」にどのように関与するのか,
あるいは関与しないのか,はたまた関与できないのか。

少なくともボクの中では,
かなり明確な指針があるのだけれども,
これが明確とは言いながらも感覚的な部分が大きく,
うまく文章に表現できる自信がない。
ないけども,続けていこう。

まずはじめに,
教員が学生に影響を与えうるか。
ボクのこたえはYES,大きく与えうる。
しかしそれは,
もちろん学生側の興味・関心・体調などに大きく依存する。

逆に,
「学生は教員から影響を与えられうるか」
言い換えれば,
「学生は教員から何かを学ぶことが出来るか」。
ボクのこたえはYES,大きく学びうる。

ただし,ここで言う学ぶモノは,
知識以外の何かであるべきであろう。
つまり,
グーグルに問えば一定の回答が得られるような,
そういう授業・問答を大学で展開しても,
そこで学生が学んだ知識は,
「大学でなければ学ぶことが出来なかった」
という類のモノではない。
仮に知識のみを学んだというのであれば,
それは「大学では何も学べなかった」,
あるいは「大学では何も与えられなかった」,
というのと同意であろう。

もちろん,
「これは絶対に大学でしか学びえないモノである」
というようなモノは存在しないと思う。
どんなことでも,どんなことからでも,人は学ぶことができる。
だからそういう極論はここでは置いておこう。

つまり,
大学における教育というモノで,
学生も教員も,
両者がまず大前提として共有すべきことは,
「大学は,知識を与え,学ぶ場所ではない」
という一点である。

じゃあ,
大学で教員が学生に与える影響というのは,
あるいは学生が教員から学ぶモノというのは,
いったい何なんだろうか。

それをボクの言葉にして表現するのが,難しい。

手垢のついた言葉で大意を伝えるなら,
「価値観の転換」とか,
「考え方を身につける」とか,
「知識の蓄積ではなく利用」とか,
「受験的な点数主義からの脱却」とか,
「世の中の問題に正解はない」とか,
そういうことになるけども,
これだとボクが本当に言いたいことは抜け落ちている。

たとえば以前書いたことだけれども,
「論理的に考えること」と「自分の行動を決断すること」の間には,
絶対的な断絶がある。
断絶があることを十分に理解して,
それでもそれを飲み込んで,
「論理的に考えた上で決断する」とか,
そういうようなこと。
こういったことを,学生には学んでほしいと思う。

とはいえ,
頑張って考えて書いてもこんな感じで,
「教えようとする何か」を表現することは難しい。
さらに教えようとしたことがそのまま学生に伝わるというモノでもない。
もっと言えば,こういう「教えたいモノを教える」というモデル自体が,
根本的な間違いであるとも思っている。

教員と学生の間で,
「知識」のように「考え方」なんかを「モノ」みたいに伝達しようというのが,
間違っている。
そうじゃない。

教員が出来ることは,
大学に入ってくる学生の中に構築された堅牢な思考方法,
それは,
「どこかに回答があるからそれを見つける」
「どの回答が正しいかは回答の発信源の質が保証している」
というようなモデルを,
打ち砕くことだけなんじゃないか,と思っている。

つまり教員が出来るのは,
「創造」や「構築」といったことではなくて,
むしろ,
「解体」や「破壊」といったことなんじゃないか,
ということ。

教員が学生の中にある「何か」を,
解体・破壊するような「何か」を発信し,
学生はそれを受けて「何か」が解体・破壊される。
そこまでが大学の機能。
その先に,
学生の中に「何」が創造され構築されていくかは,
それは個々の学生の中で起こることであって,
教員の側がタッチ出来ることではない。

大学で起こる学生の内面的な変化,
あるいはそれを教員が触媒するとしたら,
それは,
「子供を大人にする」
ということだろう。
そして「子供」と「大人」の違いが何かと言えば,
これも手垢のついた言葉ではあるが,
「主体性」とか「責任」とか,
そういう類のものなのだろう。
これを端的に表現している言葉が,
福澤諭吉が成熟した社会にあるべき人物像として啓蒙した,
「独立自尊」
であると思うが,
(ボク自身はこの思想に深く共鳴しているが)
福澤嫌いなんかもいるだろうから,
別に独立自尊のみを金科玉条と掲げるわけではないこともここに記しておこう。


で,
こういうことこそが「大学」に求められる機能であると思うのだが,
それを実現するために落とし込む方法論の部分は,
まだ考察が足りていないし,
大学システムとしての範疇を超えて,
教員個々人の資質・思想に依存する部分でもあろうから,
これはまた別の機会に,ということにしよう。
そうしよう。


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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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