忍者ブログ
自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
[45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

産休で時間ができたので、
Bluetooth接続のキーボードと、
最近評判の良いアプリのインストールをしてみた。
いずれも快調。
すばらしい。

特にキーボード。
予想では色々と不具合があって、
直接入力と比べて一長一短かと思ったが、
ところがどっこい、
普通のPCと同様にサクサク入力ができる。
携帯の方でATOKが入っているので変換もおかしくならない。
まぁこの文章も練習がてら入力しているんだけど、
レスポンスも問題なく、
順調に執筆ができている。

今回はキーボードがどうなるか読めなかったので、
2000円のしょぼいやつにしたが、
これなら7000円のPCと同じキーピッチがあるものにしても良いな。

我が家の光回線は、
もっぱらボクの暇つぶしと、
ヨメのレシピ確認程度にしか使われていなかった。
最近、ヨメがスマホに転向したので、
ぶっちゃけ家にネット回線はいらない状態。

唯一、家で仕事メイルができなくなるのが難点で、
特にこれから育児のため半休状態が続くことを考えると、
やはりメイルのためだけでもネット回線が必要かと思っていたが、
これだけサクサクと入力できるなら、
なんら問題はないね。

家のネットって、月額いくらなんだろう。
その分ぐらいはうきそうです。

家に帰ったら解約手続きをしてしまおう。
そうしよう。
PR
結婚・出産は(特に女性にとって)人生の一大イベントらしい。
こうして「女性」をひとくくりにする言論というもの自体が、
大変に気持ち悪く不愉快なのだが、
今日はそういう話についてなので、
そこは現在の一般論的な部分として、
そのまま話を続けてみようと思う。

結婚業界や出産業界で蔓延する、
「めでたいめでたい」
「女性の晴れ舞台」
的な言い分には、
一理あるように思えるかもしれないが、
まったく理由になっていない気もする。
学校の文化祭だって、
受験だって就活だって、
その人の人生の一大イベントだと思う。

だから結婚出産について何をことさらに騒ぐのかと疑問だった。
でも少しわかってきた気がする。

結婚出産は、
他の誰でもない「ワタシ」が主体のイベントなのだね。
だから結婚式などで「二人で」とか言っているのも、
「ワタシ」が「二人で」と思っているだけで、
あくまであれは「ワタシ」の晴れ舞台でしかない。

それと同じ仕組みの感情で、
出産も「子の誕生」ではなくて、
「ワタシの出産」なのだね。
妊娠しているワタシを写真におさめる「妊婦ヌード」や、
出産しているワタシを他人に見せつける「出産立会い」は、
女性による激しい自己顕示欲の発露なんだ。
そう思った。

で、
これって女性自身が自然とそういう意識を持つってのもあるだろうけど、
多分に結婚・出産業界のプロモーションの影響もあると思うのです。
ゼ○シィなど結婚イベント関連の企業などの、
あの妙なテンションと世界観っていうのは、
女性の自己顕示欲を呼び起こす麻薬のようなものなんだろう、と。
「ほかでもない、アナタが主役なんですよ」と何度も何度も言い聞かせ、
その気にさせるビジネスモデルなのでしょう。

また、
生活観とは無縁なはずの芸能人たちが、
こうした結婚出産業界のシンボルとして機能していることも、
彼女たち芸能人、特にモデルや女優が、
自分自身を見せることを売りにする自己顕示欲の権化であることを考えると、
当然のことだと思えてくる。

女性の「野蛮」な部分につけこんだ、
巧妙なビジネスモデルであり、
現代モラルハザードの一端が、
ここにあると思うわけです。

ところで、
そう考えると、
それに対応する男性のイベントって、ないよね。
それが、
結婚・出産に関する女性の意気込みを、
男性がなかなか理解できない原因なのだとも思うのです。

まとまらないし、ひどい偏見だけど、
私的なブログだし、
思ったことは書いておこう。



人間社会のあれこれを、
「茶番」と「野蛮」に分類して捉えるというのは、
4・5年前の学生時代によく話題にした。

きれいな線引きが出来ているわけではないのだけれども、
簡単に言うと、
人間が生物として本能的に抱く感情から発露する言動を「野蛮」、
理性や知性、社会制度に基づく言動を「茶番」と呼ぶことにしている。

そう考えると、
茶番に該当するものはすべて、
何らかの決まりや思惑の範疇での言動なので、
本当の本当の本質的には、
特にその決まりや思惑の外部にいる人にとっては、
なんら意味をもたないことである可能性が高い。

たとえば、
野蛮というと格闘技などを思い浮かべるわけだけども、
ボクシングを例にとると、
確かに殴り合うさまは一般的な意味で野蛮に見えるかもしれない。
しかしあれは、
両者が合意の上でリングにあがり、
手以外は使わないなどのルールがあり、
ダウンしたらそれ以上は攻撃を加えないという決まりがあり、
という枠組みの中での話にすぎない。
そういう意味で、
ボクシングは茶番であるといえる。

ボクサーはどうだろうか。
荒ぶる攻撃的な精神性(=野蛮)で相手を攻撃している部分もあるだろう。
それでもルールの範疇でのことであり、やはり茶番である。
(耳を食いちぎるなんてのは野蛮だけども・・・)

ではボクシングの観客はどうだろう。
野球やサッカーを観戦するようにスポーツとして見ているなら、
それは茶番を楽しんでいるのだろうけども、
人が殴り殴られる様を見て興奮しているのであれば、
それは彼の中の野蛮さを満足させているのだろう。

トレーニングを積むにあたって、
メダルや順位など外的要因に動機づけられているのであれば、
それは茶番のためのトレーニングで、
自分の体と向き合って単にうまくなりたいというのが動機であれば、
それは野蛮なトレーニングだろう。

自分の成し遂げた研究成果を誇るのなら、
それは研究業界という範疇での茶番であろうけども、
素晴らしい成果を上げた自分を誇るのであれば、
それは自己顕示欲や名誉欲にかられた野蛮なメンタリティだろう。


こうして世の中の物事を茶番と野蛮で分類していくと、
生物的で、本能的で、感情的で、私的なものが、野蛮
社会的で、理性的で、知的で、公的なものが、茶番
というようなことになるのか。


そしてこれはボクの考えだけども、
自分の野蛮な部分は他人に見せるべきではないし、
同時に、
他人の野蛮な部分には踏み込むべきではない。


ここからは本当にまとまっていないのだけども、
社会を形成し生活を営んでいる人間関係において、
野蛮さは社会を崩壊させうる危険性があると思う。
(非社会性の心象・事象だから)
にもかかわらず、
最近、社会でもてはやされているものは、
多くが茶番であった領域に野蛮が侵食したものが多い。

たとえば政治。
従来、政治といえば、
フィクションにフィクションを重ね、
利害関係を調整し、
互いにそろばんをはじいて、
持ちつ持たれつで、
物事を決定する方式を採用してきた。
壮大な茶番であった。
しかし近年は、
有権者の感情を扇動し、
政敵を完全に否定し、
勝者が正義であるという方式が跋扈している。
これは野蛮である。

たとえばテレビ番組。
いまテレビで流行しているのは、
グルメ・クイズ・容姿の美醜。
いずれも「楽しむ」という茶番的感情の前に欲望があり、
欲望(食欲・知識欲・性欲)が満たされるがゆえに「楽しい」と感じるものである。

たとえばスポーツ。
一年を通して覇を競うプロスポーツ興業が不人気である一方、
学生スポーツやオリンピック、W杯といった「負けたらおしまい」的なコンペが人気なのは、
実際のところはスポーツ自体は楽しまれておらず、
単に結果論、生物におきかえれば「生死を賭けた」勝負という、
残虐な物語に関心があるのみだからであろう。


といった具合で、
世の中には茶番と野蛮があって、
野蛮は本来、公に語られるべきでない、
いわゆる秘め事であるべきものであるのに、
最近では秘め事の魔力に侵されてしまって、
つまりは倫理のタガが外れており、
それが社会という茶番システムの不調の根源的な部分にある、という話です。


いや、
こんな着地点の予定ではなかったのだけどね。

そろそろここらで中締めということで。
続きはまた。


アタシは地球科学のことしかわかりません。

研究をすることの第一の目的は,
地球というもので何が起こっているのか,
ということを知ることにある。
それは地球上の生命活動も,
他の天体と地球との比較も,
同じことなのだろうとは思う。

今日は特にまとまっていないので,
ダラダラと書きすすめていく。

ようするに,
「地球」の「真理」に触れるために,
「科学」という手段をつかって取り組んでいる。
それが今の「研究」である,と。

また,
もちろん1人で完遂することなど出来ない大事業だから,
「巨人の肩の上に立つ」ことで知見を繋いでいく必要があり,
「科学研究」の手法の1つとして「論文」というものを経由している。

論文は知を伝承するための手段であるから,
極力客観的に書かれていなければならない。
もちろん,一方で,著者の観念を載せることも重要である。

すべての論文は「真理」に触れるための足場であるが,
ときに誤っていたり,嘘を書いていたりする可能性がある。
そのリスクを除去するために採用されているのが,
専門家による相互検証,ピアレビューシステムだ。

ピアレビューでは,
難点の修正もさることながら,
さらなる利点の掘り出しを要求することもある。
そうして著者と査読者による共同作業で,
論文が作り上げられる。
そもそも研究者は,著者であろうが査読者であろうが,
論文を経由して真理に触れんとする人間であるから,
この著者と査読者の共同作業については,
原理原則にのっとった妥当な方法だと言える。


と,いうようなことなのだけど,
一方で,
論文を経由しなければならないというのは,
大変にまどろっこしい。

研究をしていると,
論理性を追求した論文という体裁では伝えきれない,
「ニュアンス」のようなものがある。

たとえば実験室でのデータしか見たことがない人と,
実際に観測に出かけた人とでは,
データの見え方も違うだろう。
極端に言ってしまえば,
観測データを再現できるモデルが構築できても,
モデルで描写したことは現場では明らかに起こりえない,
なんてこともある。

「真理」に近づくには,
論理性とともに,
感性のようなものが,
あるいは論理性以上に必要だと思う。

まぁいわゆる「帰納と演繹」の話なのだけどね。

つまり,
研究者として,
穴だらけではあってもビジョンを持っていることが大前提で,
それがあるからこそ,
個々の論文が意味を持つのだと思う。
「vision-driven」と「result-driven」になるのかなぁ。


なんか違う話になってきたな。

論文を投稿して,
「それは統計的に有意なのか?検定せよ」
とかコメントがくると,
「統計的に有意じゃなくても直感的にそうに決まってる」
と感じる。
もちろん,
統計解析は真理に近づくための1つの有効な手段ではある。
しかし,
「統計的な有意性が”正しさ”と同義」
と決めつけたような思考では,
真理から離れてしまうリスクがある。
ボクはそう思う。

でも論文は査読を通らなければ公表されないので,
”査読を通るために”,
査読を受ける前にあらかじめ統計解析を実施する,
という態度が発生してしまう。
こうなってくると,
統計解析は単に査読をくぐり抜ける作法に過ぎず,
真理に近づかんとする当初の目的から離れていってしまう。

これはピアレビュー制度のリスクで,
議論が真理のためでなく査読のためになった時,
論文も,そのための研究も,
単なる研究者社会での「おままごと」に成り下がってしまう。

あるいは,
査読を通るため,というスケベ心がなかったとしても,
いつの間にか「既報論文と同じ議論をすることが正しい」と思い込んで,
どんなデータでも一律に同様の解析を施してしまうのは,
リスクが大きいと思う。
科学という手段の矮小化と言えるかもしれない。
そういう研究の仕方は,本当につまんない。


で,まぁ何が言いたいのか,です。

「論文だけで真理に近づくのは限界がある」ということです。

じゃあどうするのか,ですが,
口頭での議論です。
論理性と直感を寄せ集めて,
議論を繰り返し,
「きっと真理はこうなっている」という,
根拠のない確信のようなものを醸成し,
それに基づいて論文を執筆するのです。

要するに,
論理性と直感は並び立たねばならないもので,
「論文=科学/研究」という風潮には,
大変な違和感を覚えている,ということです。


むりくりまとめると,
論理と証拠の積み立てである論文執筆と,
論文と直感から醸成される確信的ビジョンを,
行ったり来たりしながら,
研究を進めていきたいと思っている,ということでしょうかね。
航海に参加すると,
「このサンプルは自分のじゃなくて誰それのサンプルです」
とか言う人がいる。
まったくもってなっとらん。
それに関わった以上,
関わったすべての人にとって,
それは「自分の試料」だろう。

分析についても同じことがままある。
「これは自分の分析じゃなくて誰それさんの分析です」
なんて人がいる。
でもそんなことはありえないだろ。

じゃあ今お前がやっている作業はなんなんだ?分析じゃないのか?
その分析の主体はお前じゃないのか?じゃあ誰なんだ?
その分析値はどうなるんだ?論文にはならないのか?
論文になった時に誰がどうやって分析したと記述するんだ?

「It's none of your business」と,
「It's none of my business」とは,
対称ではない。

共同作業において,
前者には自己の分担に対する責任と自覚があり,
後者では共同作業全体に対しての責任と自覚が皆無だ。

激しい自己主張で他人の権利を侵害しない範囲で,
各々が当事者意識を持って物事に取り組まないと,
世の中は無責任な無法地帯になってしまう。

他人の権利を侵害することと,
自分が責任を持って物事にあたるのは,
まったくもって別問題だ。

この国の人間関係においては,
「It's none of my business」というあっさりした態度が好まれるが,
それと仕事上の立場でのあるべき態度は違う。

研究者は職業柄,仕事とプライベートの線引があいまいではあるが,
あいまいであるからこそ,
その線引に自覚的である必要がある。

と,
自戒も込めて。


河本問題。

事実だけでとらえると,
・河本母・河本ともに本当に困窮していた時に生活保護を受け始めた
・河本が年収数千万に至った
・その後も河本母は生活保護を受け続けた
・河本はその事実を把握し「もらえるならもらっとけ」と言った(という雑誌の第一報)
だろうか。

この話は,
法律に不備(親族の収入と支給の関係)があるとか,
運用(保護支給の審査)に問題があるとか,
そういう問題じゃ無い。

たとえ子に収入があろうとも,
手続き上は問題とされずに受給資格が認められているわけで,
その点で河本一家には非は無い。
(罪を犯していても裁判で無罪になれば被告に非は無いことになるのと同じ論理)

このほかにも色々な側面から色々なことが言われているけども,
大原則に立ち返ると,
「ある人の権利の行使を,第三者が否定することはできない」
ということだろう。

河本母に受給の権利があると判断された以上,
受給することには手続き上,問題は無い。
こうした状況下で,
第三者が「受給を辞退しろ」と強要することは,
「権利を侵すべからず」という大原則に反する。

ただし,
あくまで「権利」であって「義務」ではないので,
「受給しなければならない」わけではなく,
自発的に権利を放棄することは何の問題もない。

ということで,
今回の騒動から教訓というか問題点を洗い出すなら,
「実際は生活に足る金を持っていながら,
 権利を行使して生活保護を受給していた,という,
 河本家の卑しく醜い精神性」
だろう。


では醜いのは河本家だけなのだろうか。


30歳の平均年収は400万ほどらしい。
アレな話だけども,
ボクはこれより多くはもらっている。
なので,
生活に困るほど貧窮しているわけでもない。
ということもあって,
ボク自身,
子ども手当を受け取ることに逡巡があり,
子ども手当受給手続きをしないでおこうと思っていた。
しかし,
まぁ色々とあって,完全に納得したわけでは無いけども,
現在は子ども手当を受け取っている。

「子供が成長することが社会のためになり,
 ボクはその代行をしているにすぎない。
 私腹を肥やすためでは無い」
と思う(思い込む)ことで,
なんとか自分を納得させたのだと思う。
しかしこの騒動で忘れていたそうした初志を思い出し,
それこそ現状の自分の醜さに吐き気がする思いだ。


なんともタイムリーなことに,
昨日はうちの会社で給与減額に関する説明会があったらしく,
相当な不満の声があがったらしい。
(出てないから詳しくはわからないけども)

法的にも年度当初の雇用契約に反して減額するのは問題があるし,
任期付という特殊で不安定な契約形態の職員まで,
国家公務員に準じて一律減額というのはおかしくもある。
そもそも今回の公務員減給は政治パフォーマンスだと見る向きが大勢で,
そんなのに付き合わされるのは迷惑だという気持ちも理解はできる。

確かにボクもそう思う。
立ち話や飲み会では,
「任期付の減額が大きすぎる。
 理事長は半額にしろ!」
とか楽しんで言っている。

とはいえ,
とはいえ,だ。

普通の会社であれば,
会社の業績が傾けば給料は下がるだろうし,
無い袖は振れないわけだ。
逆に考えれば,
今までが超厚遇であっただけで,
(多くの人は)減給されたって今すぐ生活が立ち行かなくなるわけでも無い。
「任期付で不安定な若手研究者」とか言って嘆いている連中も,
実際のところは「晩酌はプレモルじゃないと」とか言ってる始末。
この現代社会で,
数パーセントの減給なんてことは容易に起こりうるわけで,
(経済自体がシュリンクしてるんだから)
「うちのローンが」とか「子供がたくさん」とか
あまり騒ぐのもどうか,と思うわけで,
実際のところ,
ボク自身は,
ボク自身の減給について特にごねることもなく受け入れるつもりでいる。


で,
話を元に戻すと,
いったい何が問題だったのか,ということ。


うちの会社の人々が,
「減給,受け入れ難し!」
「契約違反だ!」と言って,
自身の雇用契約上の権利を主張する。

河本母が,
権利が認められたから生活保護を受給していた。

何の違いがあるのか。

どちらも等しく「権利の行使」であって,
どちらも等しく「卑しく醜い」と思う。

ある人が卑しくて醜い。
でもそれは,その人がそういう人であるということであって,
それ以上の意味はまったくない。
だから社会問題ではない。

これを社会問題とするならば,
「品性下劣な人々で社会が構成されている」ということが,
問題なのだろう。
だから生活保護の支給基準の見直しとかそういう施策には意味がなく,
やはり本質的な教育の問題なのだ。(もちろん学校教育だけの話じゃない)


もう1つ。
ここまで考えてきた通り,
河本一家は権利を行使しただけであって,
これを糾弾することは重大な権利の侵害である。
それを国会議員が,
ネットを通じて「調査する」と宣言したことの方が,
よほど大きな問題だと思う。

その程度の社会観念しか持たないものが国会議員をしていて,
それを後押しする国民が多いという現状は,
生活保護の不正受給者が多数いるという事実を凌駕するほどに,
この国が「品性下劣」であることを示していると思う。


端的に「未熟」である。
卑しく醜いと言うことは,つまりは未熟であるということだ。
こうして他人を攻撃する文章を書かずにはいられないボクも未熟だ。
福澤諭吉の言うところの「独立自尊の精神」が必要だ。
観測ベースの,
しかも再現性のないモノ(不均質・現場培養)ばかり扱ってきたので,
研究プラン・デザインというものに対して,
曖昧な態度でいることが多かった。
特に潜航調査などでは,
試料自体が通常は入手困難なので,
「採れたモノの中で議論」という逃げ道があった(今もあるけど)。

でも最近になって培養実験や分析法の精査などをしていると,
やはり大事なことは,
「実験デザイン」なのだと痛感させられる。

「コレがわかれば世界はひらける」ということに気付くのは,
あるいはある種の才能が効いてくるのかもしれない。

一方で,
「じゃあ,何をどうすれば,それが明らかになるか」
という部分については,
才能なんか関係なくて,
「不断の文献調査」と「思考実験に基づく実験デザイン構築」だ。
とはいえ,
それだって別に仰々しいものではない。

修士をとったぐらいで普通に身につけているべきもので,
目の前の可能性と,その分岐した先にまたある分岐とを,
アミダクジだかトーナメント表だかフローチャートだかのようにして,
自分の到達したい部分に至るために,
どの可能性でポジティブ(応答あり)な結果を得て,
どの可能性でネガティブ(応答なし)の結果が得られれば良いのか。
証明したい事実に対して,
1つの実験操作が逆・裏・対偶のどの関係にあるのか。
それらをしっかりと考えて,考えて,取り組む。

ここでの見定めがハッキリしていないと,
実験なんてモノは無限にできてしまうものなので,
ただ時間を浪費するだけに終わってしまう。
そんなのは自分のカネでやる趣味であって,研究ではない。

よくよく考えてデザインしたプランで実験に取り組みはじめた後も,
予想だにしない結果が出てきた時は,
はじめにデザインをした際のプリンシプルに立ち返って,
「結局,どういう結果が得られれば自分の研究はゴールするのか」
を自分自身(と実験結果)に問い続けねばならない。

それはたとえば,
論文が「導入ー手法ー結果ー考察」から構成されているように,
一個一個の実験操作にも「導入ー手法ー結果ー考察」が必要だということだろう。

良い論文,良い研究というのは,
やはりデザインがはっきりしていて,
最小のデータで主張を押し出すことにあるんじゃないか。

学生の場合,何も考えずにバカみたいに時間を使って実験しても,
「結果ー考察」の部分はゼミなりで先生が修正してくれるので,
なんとなく通過できてしまうかもしれない。
でも,博士をとって独り立ちした研究者と呼ばれるに至るに,
そこの部分は,自分でしっかりと見定める必要がある。
それが出来ないのであれば,
それは学位こそ持っていれども独り立ちした研究者ではない。

航海・プロポ・外部発表に追われている中でも,
少しの時間でもしっかりと整理していれば,
一点突破の美しい実験デザインは可能なはず。

特に「特殊培養×特殊分析技術」なのだから,
良い結果が出るのは当たり前。
実験デザインの時点で勝負は決まっているのだ。
「理科離れ」問題について,
ただ単に考えたり,
ブログやツイッターにグチのようなものを綴っても,
何の解決もしない。
こういうものは,
出口がないと自己満足で終わってしまう。
それでは意味がない。

学問のすすめで福澤諭吉は,
「国の文明は,
 お上や下小民が作るべきでなく,
 その中間から興るべきものだ」
と述べている(意訳)。

その中間というのは,
たぶん自分で考えることができる自立した市民で,
今の自分なんかはまさにそれにあたるのではないか,
と思う。
もちろん,諭吉はこの立場を徹底したから,
国の機関ではなく私塾を運営したわけだろうし。

で,
盲目的に「理科離れ」という言葉を使い,
自らの文明をおとしめている現状は憂うべきものであり,
それをたださんとすることが,
ボクのような中間の市民の役割だと思う。

そこで何をどうすれば良いか,つまりは,
「お上」が耳を傾けるような方法で,同時に,
「下小民」も納得するような方法は,何があるか。

現在の日本で下小民の納得を得ることを考えると,
たぶんテレビメディアなのだろう。
まぁ,お上もたぶんにその影響を受けるだろうけども,
お上を納得させるには,きちんとした「モノ」も必要だろう。

そう考えると本を書くのが一番なのかもしれない。
調べてみたら,新書は大体12~15万字らしい。

集まって未来を語るのが好きな類の若手研究者の集団で,
「理科離れ」の実態についての調査をやって,
それをまとめて本に出来ないモノかな。
誰もやってくれなきゃ,
自分でやるしかないのか?
それはシンドイぞ。

社会のあれやこれやを考えているわけだけど,
そんな中で友人(だと勝手に思っている)による,
「端的に、この国は人権概念が薄い」という思いにドキリとさせられる。
もっとも端的に言ってしまえば,そういうことだと思う。

この国で「人権」というと,
「人」の「権利」という具合で,
「私には人権がある」という感じで,
なんというか「主張」のようなニュアンスに感じられる。
これはたぶんに教育上の問題で,
社会科の授業で「人権」について教えている人が,
そういう具合に教えているので,
なんとなく,そんな具合に考えるようになっているからだろう。

別にちゃんと勉強したわけではないので,
正しいかどうかはわからないけど,
というか,人権ってのはおそらく概念的なもので,
これは人権,これは人権じゃない,みたいな,
クリアカットにできる性質のものじゃないんだろうけど,
それでも人権ってものの本質のようなモノは感じている。

「私には人権がある」というような類のものではなくて,
「他人の人権を侵してはならない」という類のものだと思う。

人権というのは個人に付与されている何かではなくて,
「何人たりとも誰かに何かを強要してはならないという意識」を,
強要された側の個人から見たものなのだろう。
だから人権について考える時に,
まず人権というものが存在すると考えると,
かえって人権という概念の本質に近づけないのだと思う。
社会科の教科書的には「人権は個人に備わった権利」なのかもしれないが,
そうではなくって,
「誰かに何かを強要してはならない」ってことの裏返しが人権なのだろう。

だから人権ってのは,
侵された時に認識されるもので,
(それは実際に,でなくても思考上かもしれないが),
かならず相手を迂回するものである。

一人称で人権を語る人々がいて,
それがモノとカネが行き交うだけの市場経済と合わさると,
もはや本当の意味での人権はないがしろにされて,
人権意識が希薄な社会が形成されるのだろう。

人権に立ち返ると,
「誰かに何かを強要する権利は誰にも付与されていない」ということで,
それを裏返して読んだ時に
「人は誰からも何も強要されずに生きる権利を有する」となる。

だから人権意識を持って社会活動を営むと言うことは,
「私には人権が存在する」ということではなくって,
「私は誰かに何かを強要するようなことはしない」ということなのだろう。
そしてそれは家族でも友人でも会社でも,もちろんそうあるべき。

「私には権利があるから」という主張をしたければ,
「私の権利の行使が誰かの権利を侵していないか」を同時に吟味しなければならない。
それなしに,自分の権利だけが先に存在するということは,ありえない。

すべてのベースにこういうことがあって,
その上で個人の権利について,
国や組織や法律との間で,管理したり保護したりという関係が生じる,
そういう順番でものを考えるべきなんじゃないかと思う。

よくわからん。
ちゃんと勉強せねば。

思わぬところで信頼を得ていたり,
いつまでたっても信頼してもらえなかったりする。
それは相手によるものなので,
正直言って,自分自身ではどうしようもない。
困ったことではあるけど,仕方ない。


この数年,特に気をつけていることだけど,
社会ってのをドンドン突き詰めていくと,
どんなことであれ結局最後に行き着くのは,
「人間の生身性」「生身の人間」みたいな部分である。
だから,
「生身の人間」を損なうような言動は慎むようにしている。

たとえば心理的には,
論理的にどれだけ正しいことでも,
納得できないことは納得できないし,
論理的でなかったり根拠がなかったとしても,
なぜか確信的に納得できることもある。
これは震災後により顕著に表れた「安全と安心は別物」っってのに,
非常に顕著にあらわれている。

肉体的な限界というのもあって,
たとえ「やればできる」ことだったとしても,
「やれない」ような肉体的な状況もある。
たとえば,
「時給1000円でも年収870万は可能」ってのは事実で,
「24時間365日休まず働いたら」確かに到達できるけど,
どう考えてもそんなのはムリ筋。
ムリというのは嘘吐きの言葉」っていうワタミの言葉は,
人間が生身であることに対する敬意をまったく欠いている。
(震災が無ければこの人が都知事だったと思うと・・・)

生身であるということは,
それぞれがまったく同一であるということはありえなくって,
つまり「生身の限界」は個々に違っているということ。
たとえば男性と女性は生身の肉体が根本的に違う。
でも,
それぞれの個人の生身というのは,
男女間の肉体の違いと同じぐらい,
それぞれが根本的に異なるものである。

社会というものが個人の集合である以上,
「個人の生身はそれぞれ異なるものである」という点をスタートにして,
その上で社会的な属性(年齢とか性とか)で分類する方が,
社会の構成を認知する上では間違いが少ないのではないだろうか。

極端なフェミニズムが受け入れられないのは,
男女の違いが何よりも大きな個人間の違いであるような印象を与え,
たとえば女性同士での個人の違いみたいなものが矮小化されているからかもしれない。
市場原理主義を社会システムの大黒柱に据えると,
経済的観点では人間の生身性がそもそも考慮されていないので,
生身の人間として先に限界を迎えた人が置いてけぼりを食うことになるだろう。

人間同士のつきあいでも重要なことは,
「論理的な正しさ」や「社会的な属性」なんかではなくて,
「生身に対して敬意を持って接する」ことができるかどうかだ。
人間同士の関係性の根はそこにあると思う。

相手を信頼することの大前提には,
「この人は自分の生身に危害を加えようとしていない」ということがある。
たとえ相手が意図していなかったとしても,
自分の生身の傷つきやすい部分に触れてくるならば,
やはりその人を信頼することは難しい。
そのあたり,いわゆる「人間性」なのだろう。

危害を加えるとは少し違うけども,
ボクが強く不快感を抱く人間というのは,
「自分の正しさを信じてやまない」タイプの人。
こういう人は,
「相手には個別の事情がある」という部分に敬意がなく,
無意識に相手の個人の尊厳という部分を傷つけているのだと思う。
ボクはそう感じる。

逆に信頼をよせられる相手というのは,
自分に危害を加えないことに加え,
自分の生身の部分に敬意を示してくれる人。
それには二通りあって,
傷つきやすい部分に気付いた上で振る舞う人と,
はじめから生身の部分では接点を持たないようにする人。
いわゆる「わかりあえる仲」と「一定の距離を持って接する相手」。
個人的な信頼と,社会的な身分としての信頼,なのかもしれない。

まったくまとまらないな。
やめやめ。

プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
ブログ内検索
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
アクセス解析
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) kawagucci's Weblog All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]