自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
とある友人が下記のつぶやきをしていました。
「人材育成については様々なところで以前より議論されていますが、私の理解では、そういった枠組みでは実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変えることが難しいところが共通する課題です。もちろん、時代は変わりつつあると思いますが。」
まったくもってその通りだと思います。
(ボクの理解が彼の言わんとするところと合致していれば,ですが)
ナンタラ委員会やらナンタラ部会やらで理念やプランを話し合っても,
それが実践にまで落とし込まれることは多くなく,
むしろ実践に落とし込めることしか実施しない,というのが,
実態に近いのではないかと思います。
というか,
それ以前の問題でもあると言えましょう。
それはつまり,
「育成」というものが,
「いまだかつてメソッドとして確立されたことのないものである」ということです。
ここでいう「メソッド」ってのは,
人材育成をしようとする組織の組織人が共有するもののことで,
まぁ意識でも実質的なカリキュラムでも,どちらでもかまいません。
とにかく,
「メソッドがない」のに,
「メソッドの確立」より先に,
「実施」がうたわれているというのが,
いつまでたっても同じ議論を繰り返している根源的な理由だと思うわけです。
さらに踏み込んで,もっと言ってしまえば,
「人材育成」なんてものは,
そもそもメソッドに落とし込めるようなものではないのですよ。
育てようとする側も育つ側も,
それぞれがそれぞれ,百人が百個の人格であり,
それを高等教育段階で十把一絡げに扱おうなんていうのが,
ナンセンスなのです。
というようなことを踏まえると,
「研究業界の人材育成」の実態は,
いわゆる「良い人材」をいかに研究業界に流入させるか,という,
つまりは「育成」ではなく「発掘」「確保」なのでありましょう。
この部分についても古い議論で,
「とにかく院生を大量に集めて良いものをピックアップ」ということと,
「研究者の仕事としての魅力をアピールして優秀な人材を確保」というふたつが,
大体の場合の結論として出てきます。
しかしそれがうまく機能していないことも事実で,
前者については,
確保したい人材を確保した後の,
「人材以外の卒業生」をどうやって「処分」するかという問題があり,
それは実際に起こっている「ポスドク問題」が何よりの証拠です。
後者については,
「人材」はオリコウサンなので,
「ポスドク問題」みたいなものがあるブラックな業界を敬遠し,
華やかでサラリーの高い一流民間企業を指向していきます。
人材育成の大体の現状は,こんな感じだと思います。
では現実問題として,今後どうすれば良いのか。
大事なことは,
冒頭の友人氏の指摘するところの,
[実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変える]
ということです。
ボクの提案は,
・研究業界で働く人数の増加
・研究業界内での職種の多様化
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
です。
「研究業界で働く人数の増加」というのは,
先の人材確保論で述べたように,
全体の人数が多ければ,確率的に出現する人材の数が増加するということです。
「研究業界内での職種の多様化」というのは,
技術や事務,広報といった支援職を,
パートタイムではなく正規の職種として設定することです。
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
たとえば技術職は「研究者くずれ」ではなく,
「技術専門職」であるというような専門性の確立です。
意外と根深い問題だと思っています。
こうすることで,
院生を大量にしても「自前で」「人材以外」を「処分」出来るので,
「業界のブラックさ」は解消に向かい,
「研究者」という職種の魅力も向上するのではないでしょうか。
というようなことを,
細かいことはすべてすっ飛ばして考えると,
一番の問題は,
財源の確保です。
そこですぐに「だからパイを大きくしろ」と訴えるから,
いつまでたっても同じ場所にいるんだと思います。
パイの切り分け方で解決しようじゃないですか,と。
研究機器のシェアだとか,
時間の配分だとか,
あるいは給与水準だとか,
そういう部分を工夫して,
「個々の研究/私生活の実体的な実入り」は悪くなるかもしれないけども,
「人材が流入する」とか「いわゆる雑用が減る」とか,
「業界がハッピーになる」ということでは,
納得できないものでしょうかね。
「いいからオレにカネをよこせ」
って皆が言ってる現状では,
何をどう議論したって,
人材育成なんてうまくいきませんよ。
ってか,
「いいからオレにカネをよこせ」
みたいな思想の人が,
「人材育成」によって生み出されると思うと,
グッタリしてしまいますね。
またグダグダしちゃった。
「人材育成については様々なところで以前より議論されていますが、私の理解では、そういった枠組みでは実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変えることが難しいところが共通する課題です。もちろん、時代は変わりつつあると思いますが。」
まったくもってその通りだと思います。
(ボクの理解が彼の言わんとするところと合致していれば,ですが)
ナンタラ委員会やらナンタラ部会やらで理念やプランを話し合っても,
それが実践にまで落とし込まれることは多くなく,
むしろ実践に落とし込めることしか実施しない,というのが,
実態に近いのではないかと思います。
というか,
それ以前の問題でもあると言えましょう。
それはつまり,
「育成」というものが,
「いまだかつてメソッドとして確立されたことのないものである」ということです。
ここでいう「メソッド」ってのは,
人材育成をしようとする組織の組織人が共有するもののことで,
まぁ意識でも実質的なカリキュラムでも,どちらでもかまいません。
とにかく,
「メソッドがない」のに,
「メソッドの確立」より先に,
「実施」がうたわれているというのが,
いつまでたっても同じ議論を繰り返している根源的な理由だと思うわけです。
さらに踏み込んで,もっと言ってしまえば,
「人材育成」なんてものは,
そもそもメソッドに落とし込めるようなものではないのですよ。
育てようとする側も育つ側も,
それぞれがそれぞれ,百人が百個の人格であり,
それを高等教育段階で十把一絡げに扱おうなんていうのが,
ナンセンスなのです。
というようなことを踏まえると,
「研究業界の人材育成」の実態は,
いわゆる「良い人材」をいかに研究業界に流入させるか,という,
つまりは「育成」ではなく「発掘」「確保」なのでありましょう。
この部分についても古い議論で,
「とにかく院生を大量に集めて良いものをピックアップ」ということと,
「研究者の仕事としての魅力をアピールして優秀な人材を確保」というふたつが,
大体の場合の結論として出てきます。
しかしそれがうまく機能していないことも事実で,
前者については,
確保したい人材を確保した後の,
「人材以外の卒業生」をどうやって「処分」するかという問題があり,
それは実際に起こっている「ポスドク問題」が何よりの証拠です。
後者については,
「人材」はオリコウサンなので,
「ポスドク問題」みたいなものがあるブラックな業界を敬遠し,
華やかでサラリーの高い一流民間企業を指向していきます。
人材育成の大体の現状は,こんな感じだと思います。
では現実問題として,今後どうすれば良いのか。
大事なことは,
冒頭の友人氏の指摘するところの,
[実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変える]
ということです。
ボクの提案は,
・研究業界で働く人数の増加
・研究業界内での職種の多様化
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
です。
「研究業界で働く人数の増加」というのは,
先の人材確保論で述べたように,
全体の人数が多ければ,確率的に出現する人材の数が増加するということです。
「研究業界内での職種の多様化」というのは,
技術や事務,広報といった支援職を,
パートタイムではなく正規の職種として設定することです。
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
たとえば技術職は「研究者くずれ」ではなく,
「技術専門職」であるというような専門性の確立です。
意外と根深い問題だと思っています。
こうすることで,
院生を大量にしても「自前で」「人材以外」を「処分」出来るので,
「業界のブラックさ」は解消に向かい,
「研究者」という職種の魅力も向上するのではないでしょうか。
というようなことを,
細かいことはすべてすっ飛ばして考えると,
一番の問題は,
財源の確保です。
そこですぐに「だからパイを大きくしろ」と訴えるから,
いつまでたっても同じ場所にいるんだと思います。
パイの切り分け方で解決しようじゃないですか,と。
研究機器のシェアだとか,
時間の配分だとか,
あるいは給与水準だとか,
そういう部分を工夫して,
「個々の研究/私生活の実体的な実入り」は悪くなるかもしれないけども,
「人材が流入する」とか「いわゆる雑用が減る」とか,
「業界がハッピーになる」ということでは,
納得できないものでしょうかね。
「いいからオレにカネをよこせ」
って皆が言ってる現状では,
何をどう議論したって,
人材育成なんてうまくいきませんよ。
ってか,
「いいからオレにカネをよこせ」
みたいな思想の人が,
「人材育成」によって生み出されると思うと,
グッタリしてしまいますね。
またグダグダしちゃった。
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大学や会社の昼休みにサッカーをするわけで,
それは素人サッカーなわけで,
各人の技術・体力レベルは全然違うわけで,
さらに昼サッカーへの取り組み方も違うわけで,
その辺りは必ず加味してやらないと,
単に必死で試合をするのでは,
楽しめない人が生じてしまうと思うのです。
だからボクは勝敗にはさほどこだわらず,
それぞれが活躍できて,
少なくとも楽しくないとは思わないような,
そういう展開になるように努力をしているつもりです。
それはある意味で,
ガチ格闘技とプロレスの違いのようなものでもあります。
(レベルが高いがゆえにオナニードリブルを繰り返す人が一番困りますよね・・・)
ボクが心がけているのは,
「こうしよう」というサッカー戦術上の指示は山ほど出す。
それは皆でサッカーというスポーツをより深く楽しむため。
一方,
プレーの結果,特にうまくいかなかったことについては,
まったく責めないようにしている。
特に技術のせいでうまくいかなかったことには,
「狙いは良いよ!」とか「面白い!」とか言うようにしていて,
それは「自分がヘタクソだから」みたいな負い目をもってほしくないからで,
つまりこの場合は,
サッカー自体はどうでもよくて,
「皆で昼休みに楽しくやってるんだよ」という部分を重視しているわけです。
しかしこの辺りもサジ加減が微妙なところで,
いくつかの困ったパターンがあります。
一番多くて典型的のは,
「ごちゃごちゃ言われんと好き勝手やりたい」タイプ。
プレーヤーとしてサッカーを続けてきている人に多い。
でも大抵の場合,サッカーの戦術的理解がないので,
こういうタイプが奮闘すると,
結果的にチーム全体の機能を低下させてしまい,
楽しくないサッカーの元凶になってしまうことがシバシバ。
こういうタイプは,
そもそも声かけ自体にさほど重要性を感じていないので,
それが戦術的だろうと,モチベーション的だろうと,
声かけ自体を聞く気が無いというか,
もっというと「いらない」と思っているっぽい。
まぁ「パスくれ」は言うんだけどね。自分はパスしないくせに。
あんまり具体的に書くと色々とアレで,
抽象的に書くと吐き出し切れていなくて,
中途半端になってしまうねぇ。
Tweet
それは素人サッカーなわけで,
各人の技術・体力レベルは全然違うわけで,
さらに昼サッカーへの取り組み方も違うわけで,
その辺りは必ず加味してやらないと,
単に必死で試合をするのでは,
楽しめない人が生じてしまうと思うのです。
だからボクは勝敗にはさほどこだわらず,
それぞれが活躍できて,
少なくとも楽しくないとは思わないような,
そういう展開になるように努力をしているつもりです。
それはある意味で,
ガチ格闘技とプロレスの違いのようなものでもあります。
(レベルが高いがゆえにオナニードリブルを繰り返す人が一番困りますよね・・・)
ボクが心がけているのは,
「こうしよう」というサッカー戦術上の指示は山ほど出す。
それは皆でサッカーというスポーツをより深く楽しむため。
一方,
プレーの結果,特にうまくいかなかったことについては,
まったく責めないようにしている。
特に技術のせいでうまくいかなかったことには,
「狙いは良いよ!」とか「面白い!」とか言うようにしていて,
それは「自分がヘタクソだから」みたいな負い目をもってほしくないからで,
つまりこの場合は,
サッカー自体はどうでもよくて,
「皆で昼休みに楽しくやってるんだよ」という部分を重視しているわけです。
しかしこの辺りもサジ加減が微妙なところで,
いくつかの困ったパターンがあります。
一番多くて典型的のは,
「ごちゃごちゃ言われんと好き勝手やりたい」タイプ。
プレーヤーとしてサッカーを続けてきている人に多い。
でも大抵の場合,サッカーの戦術的理解がないので,
こういうタイプが奮闘すると,
結果的にチーム全体の機能を低下させてしまい,
楽しくないサッカーの元凶になってしまうことがシバシバ。
こういうタイプは,
そもそも声かけ自体にさほど重要性を感じていないので,
それが戦術的だろうと,モチベーション的だろうと,
声かけ自体を聞く気が無いというか,
もっというと「いらない」と思っているっぽい。
まぁ「パスくれ」は言うんだけどね。自分はパスしないくせに。
あんまり具体的に書くと色々とアレで,
抽象的に書くと吐き出し切れていなくて,
中途半端になってしまうねぇ。
「海外組だからって理由だけで呼ぶのはいかがか」
「試合に使わないなら呼ぶなよ」
みたいな意見がある。
はっきり言って,ナンセンスだ。
まずは後者の意見。
そもそも試合に使える人数は限られていて,
招集23人に対して親善試合でも17人。
たとえレギュラー組を呼ばなくても,
使われない選手というのは必ず発生する。
それでもザックが招集するのはなぜか。
視聴者は試合しか見られないから「意味ない」というが,
ザックからしたら手元において数日練習できるので,
たとえ90分の試合に1秒も出ていなくても,
十分な意義があるわけだ。
結果が出ていない海外組を呼ぶのも,
ここにカラクリがあると考えれば話の筋目が通る。
まず,
ザックは彼らのかつての(Jリーグでの)パフォーマンスから,
ベーシックなテクニックなどには大きな信頼をすでに持っている。
一方,
彼らは海外のクラブで試合に出ていないからこそ,
現状のフィジカルやインテリジェンスについては,
練習に呼んでその状況を確認する必要がある。
もっと踏み込めば,
海外でうまくいっていない理由を代表の練習で掘り起こし,
指摘し,修正してやることで,
クラブに戻った時に活躍できるようにしてやろう,
それで良くなれば中期的な代表の強化につながる,
そんな意図が働いているのかもしれない。
そこでJリーグで活躍しているけど代表に呼ばれない組だが,
彼らの場合はJリーグでずっと出場しているので,
ザックは手元に置かなくても,
試合をしっかりと観察していれば,
能力や特徴が手に取るように把握できる。
さらに所属チームで選手に課されているタスクも把握できる。
これがザックの作ろうとしているチームで期待するタスクと違う場合,
すでにうまくいっている「型」が選手にあるだけに,
代表でまったく異なる任を負わせ不調に陥るというリスクが大きい。
とか考えると,
宮市や宇佐美や森本を呼んでいることや,
寿人や闘莉王を呼ばないことは,
別になんら不思議じゃないし,
それでもってザックをダメ監督というのは違うんじゃ無いか,と。
逆に,そういう意味だからこそ,
前田のところに大迫,
岡崎のところに大前,
遠藤のところに柴崎,
長谷部のところに米本,
とか,
今のところバックアップの薄いところに,
若手を呼んでほしいよね。
Tweet
「試合に使わないなら呼ぶなよ」
みたいな意見がある。
はっきり言って,ナンセンスだ。
まずは後者の意見。
そもそも試合に使える人数は限られていて,
招集23人に対して親善試合でも17人。
たとえレギュラー組を呼ばなくても,
使われない選手というのは必ず発生する。
それでもザックが招集するのはなぜか。
視聴者は試合しか見られないから「意味ない」というが,
ザックからしたら手元において数日練習できるので,
たとえ90分の試合に1秒も出ていなくても,
十分な意義があるわけだ。
結果が出ていない海外組を呼ぶのも,
ここにカラクリがあると考えれば話の筋目が通る。
まず,
ザックは彼らのかつての(Jリーグでの)パフォーマンスから,
ベーシックなテクニックなどには大きな信頼をすでに持っている。
一方,
彼らは海外のクラブで試合に出ていないからこそ,
現状のフィジカルやインテリジェンスについては,
練習に呼んでその状況を確認する必要がある。
もっと踏み込めば,
海外でうまくいっていない理由を代表の練習で掘り起こし,
指摘し,修正してやることで,
クラブに戻った時に活躍できるようにしてやろう,
それで良くなれば中期的な代表の強化につながる,
そんな意図が働いているのかもしれない。
そこでJリーグで活躍しているけど代表に呼ばれない組だが,
彼らの場合はJリーグでずっと出場しているので,
ザックは手元に置かなくても,
試合をしっかりと観察していれば,
能力や特徴が手に取るように把握できる。
さらに所属チームで選手に課されているタスクも把握できる。
これがザックの作ろうとしているチームで期待するタスクと違う場合,
すでにうまくいっている「型」が選手にあるだけに,
代表でまったく異なる任を負わせ不調に陥るというリスクが大きい。
とか考えると,
宮市や宇佐美や森本を呼んでいることや,
寿人や闘莉王を呼ばないことは,
別になんら不思議じゃないし,
それでもってザックをダメ監督というのは違うんじゃ無いか,と。
逆に,そういう意味だからこそ,
前田のところに大迫,
岡崎のところに大前,
遠藤のところに柴崎,
長谷部のところに米本,
とか,
今のところバックアップの薄いところに,
若手を呼んでほしいよね。
年始の宴会を過ぎた頃からダイエットをはじめた。
動機は色々とあって,もう一度フルマラソンとか,体質の改善とか,
まぁとにかく太り気味で醜かったことは間違いないのでやってみた。
やったことは,
体重と食事内容を朝晩に記録する,夕食は炭水化物を抜く,の2点。
夕食の茶碗に白米を盛るかわりに冷や奴を盛って,それ以外は普通の食事。
間食は控え,朝食のコンビニパンもやめ,牛丼や弁当にした。
2月末時点で86から70まで16キロも落ちて,あとはそのまま今に至る。
体重の数字はさておき,体型は完全に変わった。
脂肪とともに筋肉も落ちたようで,体感的には衰えた。
痩せたことで体質が今まで以上に繊細になった。
酒でも船でも酔いやすくなったし,すぐに胃が痛くなるようになった。
今までが鈍感だったと考えれば,
これも改善と捉えられるのかもしれないけど。
肉体的には疲労の回復が遅くなった。
痩せていきながら筋肉をつけるべきだったが,何もしないまま。
2013年は簡単なトレーニングを日々続けようと思う。
あとは飲食習慣の改善。
東洋医学的に見てボクの症状は「冷・甘・水」が過剰で,
特に消化器系の内臓機能が低下している状態らしい。
中国整体のオッサンに言うには,
「生活習慣病は,生活習慣から病気になることではなくて,
そんな生活習慣が常態化していること自体がそもそも病気」らしい。
ということで,
最大悪とされるコーラ・ビールはもとより,
ケーキやチョコなどの加工砂糖製品もダメとのこと。
良い代替品を模索していかねばならないが,
とりあえず2013年は「冷・甘・水」を控える生活にしてみよう。
職業的には1月に面接をして3月にポスドクではない研究員になった。
いわゆる「読売グループ内の人事異動」もあって所属はかわったが,
仕事をする上では何も変化がないまま。
2012年は首席2回以外は航海に行っていない。D3以来の少なさ。
さらにコバヤシさんも卒業,コンノの加入もあって,
実験とか観測とかいう意味では本当に何もしていない1年だった。
その割には論文が出たわけでもなく,本当に何をしていたのかわからない。
6月に息子がうまれ7月から家族4人での生活をはじめた。
これまで目覚ましを使わず朝起きたらそのまま出勤する生活だったが,
朝は子供たちとご飯を食べてお風呂に入れてからの出勤になった。
朝のフレッシュな頭で仕事に向かうことが出来なくなった。
家庭内に書斎を作ろうと模索もしたが,
そもそも家で勉強や仕事をする習慣が無いし,
時間的な制約が大きくてうまく機能しなかった。
さらに子供が2人になると,母親1人ではカバー出来ないことが多く,
なにかと家庭的な任務に従事せねばならなくなった。
そんな生活をする中で,
核家族・専業主婦という形態に対する疑問が前よりも深まり,
精神的にしんどくなってきた。
自分が一人で家族を養うだけのカネを稼がねばならない中で,
その自分がカネを稼ぐ意味の仕事に従事できないというのは,
どう考えても矛盾に満ちていて,自分の現状に対して納得が出来ない。
何をもって家族なのかとか考え出すとキリがないので,
今に至ってなお悶々としながらの生活が続いている。
研究を続けること自体に対する罪悪感も日に日に増してきている。
科学が人の生活を豊かにするとしても,
やはり負の側面みたいなものもあって,
だから,
大勢で必死になってスピードをあげて取り組むものじゃないと思う。
科学の本質的な部分を考えると,
ってそれが何なのかは明確には言えないのだけれども,
「ゆっくりで良いじゃない」
「立ち止まって考えて,また歩き出せば良いじゃない」
と思っている。
でも今の科学業界は競争原理ばかりで,
科学の負の側面に気付きながらも,それを「必要悪」と言い張っている。
ボクの中にそれを「下品」と感じる部分があって,
そういうところから距離を置きたいと考えている。
とか言いながら,
当面の自分の生活のための稼ぎを得るために科学を続けていて,
そういう自分も下品だなぁと思っている。
政治や経済や社会の諸々をながめていて,
実質的な意味での教育の不調を感じる。
それは先に言った科学の負の側面に対する態度も含まれるけど,
日本人の知性や態度が,かなり危険な水域にきていると思う。
そう考えた時に,
教育という部分に自分が携わるべきなんじゃないか,
という気持ちが強い。
家庭内の教育,学校教員としての教育,それ以外の方法での教育。
今一番現実的な選択肢である,
「自身の子供と暮らしながら大学教員」
というのが,
自分が関わることができる人間の数と強度を考えた時に,
果たして最適解なのかどうか,と悩む。
ものすごく身近にいる人に対して,
かなり強い強度で話をしても伝わっていないということがあったり,
逆にパッと会って話しただけで感じ入っていたり,
その辺りは判断が難しい。
極論的には,
家庭的な密着感で双方向性を重視するのか,
マスに対して投げっぱなしでいくのか,になるのかな。
ボクは「ああせい,こうせい」というのは極力言わないで,
「自分はこう考えている」「お前はどう考えているんだ」
というスタンスで他人と接するようにしている(つもり)。
でも,ボクがボクの意見を伝えた時に,
それを強要や強制や絶対解みたいに受け取られることが多くて,困る。
これまた悩ましい。
細かいところのあれこれはさておき,
つまるところ現実的な落としどころとしては,
「科学研究をしない大学教員」になりたいわけです。
理想的には「私塾」なのだけれども,
そうなると家族の問題がまたしても浮上したりして,
ぐるぐるしてしまいます。
2013年は,
「消費型科学研究からの脱却」とか,
「高等教育の理想と実践」とか,
そういうようなものを模索していくってことになるんだろうか。
まぁ,ゆっくりやっていこう。
Tweet
動機は色々とあって,もう一度フルマラソンとか,体質の改善とか,
まぁとにかく太り気味で醜かったことは間違いないのでやってみた。
やったことは,
体重と食事内容を朝晩に記録する,夕食は炭水化物を抜く,の2点。
夕食の茶碗に白米を盛るかわりに冷や奴を盛って,それ以外は普通の食事。
間食は控え,朝食のコンビニパンもやめ,牛丼や弁当にした。
2月末時点で86から70まで16キロも落ちて,あとはそのまま今に至る。
体重の数字はさておき,体型は完全に変わった。
脂肪とともに筋肉も落ちたようで,体感的には衰えた。
痩せたことで体質が今まで以上に繊細になった。
酒でも船でも酔いやすくなったし,すぐに胃が痛くなるようになった。
今までが鈍感だったと考えれば,
これも改善と捉えられるのかもしれないけど。
肉体的には疲労の回復が遅くなった。
痩せていきながら筋肉をつけるべきだったが,何もしないまま。
2013年は簡単なトレーニングを日々続けようと思う。
あとは飲食習慣の改善。
東洋医学的に見てボクの症状は「冷・甘・水」が過剰で,
特に消化器系の内臓機能が低下している状態らしい。
中国整体のオッサンに言うには,
「生活習慣病は,生活習慣から病気になることではなくて,
そんな生活習慣が常態化していること自体がそもそも病気」らしい。
ということで,
最大悪とされるコーラ・ビールはもとより,
ケーキやチョコなどの加工砂糖製品もダメとのこと。
良い代替品を模索していかねばならないが,
とりあえず2013年は「冷・甘・水」を控える生活にしてみよう。
職業的には1月に面接をして3月にポスドクではない研究員になった。
いわゆる「読売グループ内の人事異動」もあって所属はかわったが,
仕事をする上では何も変化がないまま。
2012年は首席2回以外は航海に行っていない。D3以来の少なさ。
さらにコバヤシさんも卒業,コンノの加入もあって,
実験とか観測とかいう意味では本当に何もしていない1年だった。
その割には論文が出たわけでもなく,本当に何をしていたのかわからない。
6月に息子がうまれ7月から家族4人での生活をはじめた。
これまで目覚ましを使わず朝起きたらそのまま出勤する生活だったが,
朝は子供たちとご飯を食べてお風呂に入れてからの出勤になった。
朝のフレッシュな頭で仕事に向かうことが出来なくなった。
家庭内に書斎を作ろうと模索もしたが,
そもそも家で勉強や仕事をする習慣が無いし,
時間的な制約が大きくてうまく機能しなかった。
さらに子供が2人になると,母親1人ではカバー出来ないことが多く,
なにかと家庭的な任務に従事せねばならなくなった。
そんな生活をする中で,
核家族・専業主婦という形態に対する疑問が前よりも深まり,
精神的にしんどくなってきた。
自分が一人で家族を養うだけのカネを稼がねばならない中で,
その自分がカネを稼ぐ意味の仕事に従事できないというのは,
どう考えても矛盾に満ちていて,自分の現状に対して納得が出来ない。
何をもって家族なのかとか考え出すとキリがないので,
今に至ってなお悶々としながらの生活が続いている。
研究を続けること自体に対する罪悪感も日に日に増してきている。
科学が人の生活を豊かにするとしても,
やはり負の側面みたいなものもあって,
だから,
大勢で必死になってスピードをあげて取り組むものじゃないと思う。
科学の本質的な部分を考えると,
ってそれが何なのかは明確には言えないのだけれども,
「ゆっくりで良いじゃない」
「立ち止まって考えて,また歩き出せば良いじゃない」
と思っている。
でも今の科学業界は競争原理ばかりで,
科学の負の側面に気付きながらも,それを「必要悪」と言い張っている。
ボクの中にそれを「下品」と感じる部分があって,
そういうところから距離を置きたいと考えている。
とか言いながら,
当面の自分の生活のための稼ぎを得るために科学を続けていて,
そういう自分も下品だなぁと思っている。
政治や経済や社会の諸々をながめていて,
実質的な意味での教育の不調を感じる。
それは先に言った科学の負の側面に対する態度も含まれるけど,
日本人の知性や態度が,かなり危険な水域にきていると思う。
そう考えた時に,
教育という部分に自分が携わるべきなんじゃないか,
という気持ちが強い。
家庭内の教育,学校教員としての教育,それ以外の方法での教育。
今一番現実的な選択肢である,
「自身の子供と暮らしながら大学教員」
というのが,
自分が関わることができる人間の数と強度を考えた時に,
果たして最適解なのかどうか,と悩む。
ものすごく身近にいる人に対して,
かなり強い強度で話をしても伝わっていないということがあったり,
逆にパッと会って話しただけで感じ入っていたり,
その辺りは判断が難しい。
極論的には,
家庭的な密着感で双方向性を重視するのか,
マスに対して投げっぱなしでいくのか,になるのかな。
ボクは「ああせい,こうせい」というのは極力言わないで,
「自分はこう考えている」「お前はどう考えているんだ」
というスタンスで他人と接するようにしている(つもり)。
でも,ボクがボクの意見を伝えた時に,
それを強要や強制や絶対解みたいに受け取られることが多くて,困る。
これまた悩ましい。
細かいところのあれこれはさておき,
つまるところ現実的な落としどころとしては,
「科学研究をしない大学教員」になりたいわけです。
理想的には「私塾」なのだけれども,
そうなると家族の問題がまたしても浮上したりして,
ぐるぐるしてしまいます。
2013年は,
「消費型科学研究からの脱却」とか,
「高等教育の理想と実践」とか,
そういうようなものを模索していくってことになるんだろうか。
まぁ,ゆっくりやっていこう。
論文には「英語の文法」以上に,
「論文としての体裁的な文法」ってのがある。
「型」みたいなもの。
パラグラフの構成,パラグラフ内の文の構成。
どんな論文でも,
たいていは一定の型にはまった中で,
それぞれの主張を展開しているわけで,
たくさん読んでそれを骨身に染み渡らせておけば,
論文を書くこと自体はそこまで苦痛にならないはず。
はず,というのは,
自分がいまだその境地に到達できていないから。
わかっちゃいるんだけど,
書き出すとダメになってしまう。
論文を読む習慣をつけないとね。
このサイエンスの世界で,
今すべき研究テーマみたいなものは,
もう何も考えなくてもどうにかなるところまできているから。
読もうね。
研究を続けるのなら。
Tweet
「論文としての体裁的な文法」ってのがある。
「型」みたいなもの。
パラグラフの構成,パラグラフ内の文の構成。
どんな論文でも,
たいていは一定の型にはまった中で,
それぞれの主張を展開しているわけで,
たくさん読んでそれを骨身に染み渡らせておけば,
論文を書くこと自体はそこまで苦痛にならないはず。
はず,というのは,
自分がいまだその境地に到達できていないから。
わかっちゃいるんだけど,
書き出すとダメになってしまう。
論文を読む習慣をつけないとね。
このサイエンスの世界で,
今すべき研究テーマみたいなものは,
もう何も考えなくてもどうにかなるところまできているから。
読もうね。
研究を続けるのなら。
将来を悩んだってはじまらないのだ。
今,目の前のことをやるしかないのだ。
そういう言葉ってのは,
ある意味で救いで,
あるいは逃げ道を用意してくれているわけで。
じゃあ他ならぬお前がすることは,
むこうから流れ着いたものを処理するだけなのかい,ってことで,
悩ましい。
悩ましい日々。
困った。
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今,目の前のことをやるしかないのだ。
そういう言葉ってのは,
ある意味で救いで,
あるいは逃げ道を用意してくれているわけで。
じゃあ他ならぬお前がすることは,
むこうから流れ着いたものを処理するだけなのかい,ってことで,
悩ましい。
悩ましい日々。
困った。
要領よく勉強してそれなりに良い大学に入り,
大学では授業もそこそこにサークル活動を謳歌し,
研究室に配属されてからは先生の言うことをよく聞き,
若手の会などにいそしみつつ,
「この仕事を終えたら」と言いつつドクターに進み,
学振DCをもらい周囲からも優秀と言われ,
無事学位を取得し特任助教などになり,
引き返せなくなり教員職にたくさんアプライして,
どこかの教員に採用される。
って考えて,
そんなやつが大学教員なのかと思う。
もちろん,あくまで悲観的に妄想した場合の一例。
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大学では授業もそこそこにサークル活動を謳歌し,
研究室に配属されてからは先生の言うことをよく聞き,
若手の会などにいそしみつつ,
「この仕事を終えたら」と言いつつドクターに進み,
学振DCをもらい周囲からも優秀と言われ,
無事学位を取得し特任助教などになり,
引き返せなくなり教員職にたくさんアプライして,
どこかの教員に採用される。
って考えて,
そんなやつが大学教員なのかと思う。
もちろん,あくまで悲観的に妄想した場合の一例。
教員という身分をえたものであれば,
教育というモノについては誰しもが,
「かくあるべし」
というような考えがあるのだろうと思う。
でもその「かくあるべし」が本当に理想的なモノなのか。
もちろん教育には絶対解などないのだけれども。
いま現在の実態として,
まず個人が自身の人生キャリアとして,
自身が「教員になる」ことが先立っていて,
あくまで「教育かくあるべし」はその後付けであったり,
あるいは方便でしかなかったり,
そういうことはないだろうか。
小中高の教員の場合は,
教育=教員なので,
その思いや技術の質は横に置いておいたとしても,
あくまで教員と教育は強く結びついているように思われる。
大学教員公募は,
その実態が一般の大学生にはまったく知られていないだろうけど,
基本的には教育能力・資金獲得能力などが審査されており,
教育方針や教育技術といった部分はほとんど問われない。
そうして選らばれた人が教員になり,大学教育を担う。
そんな教員に学ぶところが,大学なのである。
研究を大学の存在意義の第一義とするならば,
それでも問題はないのかもしれない。
でもやはり「教育大学」とか言い出すと,
この部分は大問題になってくる。
もう「最先端の研究を通じた教育」というのは詭弁ですらなくなる。
どうするの?
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教育というモノについては誰しもが,
「かくあるべし」
というような考えがあるのだろうと思う。
でもその「かくあるべし」が本当に理想的なモノなのか。
もちろん教育には絶対解などないのだけれども。
いま現在の実態として,
まず個人が自身の人生キャリアとして,
自身が「教員になる」ことが先立っていて,
あくまで「教育かくあるべし」はその後付けであったり,
あるいは方便でしかなかったり,
そういうことはないだろうか。
小中高の教員の場合は,
教育=教員なので,
その思いや技術の質は横に置いておいたとしても,
あくまで教員と教育は強く結びついているように思われる。
大学教員公募は,
その実態が一般の大学生にはまったく知られていないだろうけど,
基本的には教育能力・資金獲得能力などが審査されており,
教育方針や教育技術といった部分はほとんど問われない。
そうして選らばれた人が教員になり,大学教育を担う。
そんな教員に学ぶところが,大学なのである。
研究を大学の存在意義の第一義とするならば,
それでも問題はないのかもしれない。
でもやはり「教育大学」とか言い出すと,
この部分は大問題になってくる。
もう「最先端の研究を通じた教育」というのは詭弁ですらなくなる。
どうするの?
尖閣の問題と,
在沖縄米軍の問題と,
それぞれを考えてみる。
尖閣は,
中国としては,
周辺海域の資源が目的,
日本としては,
「日本の領土が奪われる」ことが問題。
在沖縄米軍は,
米軍としては,
中・朝・露に睨みの効く地理的要因と,
在外米軍維持による経済効果が目的。
日本としては,
事故事件など地元民の生活環境が悪いという問題と,
国内に米軍がいるという問題。
そう考えると,
「尖閣国有化」とか,
「国外,最低でも県外」とか,
なんか大事な部分を外しているように思うわけで。
諸々の問題を解決できる方策として,
禁じ手無しとして色々と考えて,
EU設立にならったりして,
かわぐちかいじの「太陽の黙示録」にも影響を受けたりして,
考えてみた。
【台沖亜連】構想
骨子としては,
・台湾と沖縄諸島を統合し独立国とする
・国連もしくはEUのアジア版(亜連)の本部を置く
というもの。
頭文字で【台沖亜連】たいちゅーあれん
三方一両損的に,
・中国は台湾の独立を承認
・日本は沖縄を失う
・米国は在沖米軍を失う
という側面も。
「沖縄に生活している人の心情を」とかいうのは,
ちょっと先送り。
あくまでシステム論というか,
本当の意味での机上の空論というか,
そういうもの。
現地の人の心情は,現地の人にしかわからないので,
「ヒドイ」とも「飲み込め」とも言えない。
だからそこは本論では考慮しない。
新しく出来る国(台沖)は,
・国の本体は現台湾がベース
・現沖縄本当に亜連本部などを設置
・周辺海域資源・IT・環太平洋物流拠点・観光などで経済活動。
・周辺海域での漁業は自国内消費に留め,黒潮/東シナ生態系の保護区に
・現米軍基地の譲渡を受け台沖自衛隊の拠点に,武装するも非戦(スイス式?)
などを想定し,軍事的/経済的/外向的な緩衝地帯となる。
亜連は,
・常任理事国に拒否権を与えず,日中が常任理事国入り
・常任理事国に拒否権を与えるが,日中は常任理事国に入らない
など,日中で影響力を等しくしておく。
中国は台湾と東シナ資源を失うも,
太平洋への航路から日本がいなくなるという利点が。
日本は在日米軍問題が(現地問題としてではなく国家間問題としてのみ)解決し,
対中尖閣問題も争点から消失。
米国は新たな経済マーケットとして利用すれば良い。
(台沖は一次産業が弱く,三次産業・輸入依存となるため)
まさに机上の空論だけど,
たとえば20年後の世界を想定すると,
こういうことを考える方がリアリスティックなんじゃないか,
と考えたりするわけです。
Tweet
在沖縄米軍の問題と,
それぞれを考えてみる。
尖閣は,
中国としては,
周辺海域の資源が目的,
日本としては,
「日本の領土が奪われる」ことが問題。
在沖縄米軍は,
米軍としては,
中・朝・露に睨みの効く地理的要因と,
在外米軍維持による経済効果が目的。
日本としては,
事故事件など地元民の生活環境が悪いという問題と,
国内に米軍がいるという問題。
そう考えると,
「尖閣国有化」とか,
「国外,最低でも県外」とか,
なんか大事な部分を外しているように思うわけで。
諸々の問題を解決できる方策として,
禁じ手無しとして色々と考えて,
EU設立にならったりして,
かわぐちかいじの「太陽の黙示録」にも影響を受けたりして,
考えてみた。
【台沖亜連】構想
骨子としては,
・台湾と沖縄諸島を統合し独立国とする
・国連もしくはEUのアジア版(亜連)の本部を置く
というもの。
頭文字で【台沖亜連】たいちゅーあれん
三方一両損的に,
・中国は台湾の独立を承認
・日本は沖縄を失う
・米国は在沖米軍を失う
という側面も。
「沖縄に生活している人の心情を」とかいうのは,
ちょっと先送り。
あくまでシステム論というか,
本当の意味での机上の空論というか,
そういうもの。
現地の人の心情は,現地の人にしかわからないので,
「ヒドイ」とも「飲み込め」とも言えない。
だからそこは本論では考慮しない。
新しく出来る国(台沖)は,
・国の本体は現台湾がベース
・現沖縄本当に亜連本部などを設置
・周辺海域資源・IT・環太平洋物流拠点・観光などで経済活動。
・周辺海域での漁業は自国内消費に留め,黒潮/東シナ生態系の保護区に
・現米軍基地の譲渡を受け台沖自衛隊の拠点に,武装するも非戦(スイス式?)
などを想定し,軍事的/経済的/外向的な緩衝地帯となる。
亜連は,
・常任理事国に拒否権を与えず,日中が常任理事国入り
・常任理事国に拒否権を与えるが,日中は常任理事国に入らない
など,日中で影響力を等しくしておく。
中国は台湾と東シナ資源を失うも,
太平洋への航路から日本がいなくなるという利点が。
日本は在日米軍問題が(現地問題としてではなく国家間問題としてのみ)解決し,
対中尖閣問題も争点から消失。
米国は新たな経済マーケットとして利用すれば良い。
(台沖は一次産業が弱く,三次産業・輸入依存となるため)
まさに机上の空論だけど,
たとえば20年後の世界を想定すると,
こういうことを考える方がリアリスティックなんじゃないか,
と考えたりするわけです。
文科省から,
「研究トップ30大学のみに資源を投下し,
これを研究大学とし,
残りは教育大学とする」
みたいな方針がチラリと見え隠れしているとか。
(以下,理系に限る話かも)
「学問の多様性の維持」とか,
「基礎科学は広い裾野が必要」とか,
研究者側からはそういう声があがるだろうけど,
一方でそういうことを言い出すとキリがない。
なぜなら,
科学技術史上,そんな状況になったことがないから。
これまで科学技術は,
裾野の拡がりと頂点の高さを,同時に大きくしてきた。
いわゆる「ピラミッド型」の発展
だから,
裾野の狭い「タワー型」の発展が,
本当に可能かどうか,値踏みすることは難しい。
なので,やはり,そこを議論の軸にすることは出来ない。
(結論でないから)
議論すべきは,
「先端研究と隔離された高等教育」
というものが存在しうるか否か。
文科省の方針で言うところの,
「研究大学」は,現在の大学にエッジを効かせたようなもので,
想像することは難しくない。
しかし一方,
「教育大学」は,難しい。
「教育大学」が,
専門学校や高専のような,
(と言ってもボクは内状を知らないので語れないが)
職業的な出口が比較的明示されている中での技術習得が,
教育目的の大きな軸の一つとなっているようなモノであれば,
それはやはり専門学校や高専であって,
「大学」では無いだろう。
結局のところ,
いつも行き着くところは同じで,
「大学」での「高等教育」とは何なのか,
何を目的としているのか。
少なくとも,
「科学技術の専門的知識を身につける」ことでは無いはずだ。
もっともっと,
「大学における教育」の意味を,
真剣に考えていかねばならないし,
それを抜きにして,
大学の研究機能強化や,
研究体制の改善などと話していても,
何も結論は出せないのだ。
それには,多様な大学の実態についての見聞を広めることが大事で,
学生としても教員としても,
旧帝大など先端研究大学しか経験したことが無い人が,
アレコレと議論できるようなものではないのだろう。
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「研究トップ30大学のみに資源を投下し,
これを研究大学とし,
残りは教育大学とする」
みたいな方針がチラリと見え隠れしているとか。
(以下,理系に限る話かも)
「学問の多様性の維持」とか,
「基礎科学は広い裾野が必要」とか,
研究者側からはそういう声があがるだろうけど,
一方でそういうことを言い出すとキリがない。
なぜなら,
科学技術史上,そんな状況になったことがないから。
これまで科学技術は,
裾野の拡がりと頂点の高さを,同時に大きくしてきた。
いわゆる「ピラミッド型」の発展
だから,
裾野の狭い「タワー型」の発展が,
本当に可能かどうか,値踏みすることは難しい。
なので,やはり,そこを議論の軸にすることは出来ない。
(結論でないから)
議論すべきは,
「先端研究と隔離された高等教育」
というものが存在しうるか否か。
文科省の方針で言うところの,
「研究大学」は,現在の大学にエッジを効かせたようなもので,
想像することは難しくない。
しかし一方,
「教育大学」は,難しい。
「教育大学」が,
専門学校や高専のような,
(と言ってもボクは内状を知らないので語れないが)
職業的な出口が比較的明示されている中での技術習得が,
教育目的の大きな軸の一つとなっているようなモノであれば,
それはやはり専門学校や高専であって,
「大学」では無いだろう。
結局のところ,
いつも行き着くところは同じで,
「大学」での「高等教育」とは何なのか,
何を目的としているのか。
少なくとも,
「科学技術の専門的知識を身につける」ことでは無いはずだ。
もっともっと,
「大学における教育」の意味を,
真剣に考えていかねばならないし,
それを抜きにして,
大学の研究機能強化や,
研究体制の改善などと話していても,
何も結論は出せないのだ。
それには,多様な大学の実態についての見聞を広めることが大事で,
学生としても教員としても,
旧帝大など先端研究大学しか経験したことが無い人が,
アレコレと議論できるようなものではないのだろう。