自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
前回は「論理と判断は直結しない」と言ってみた。
今回は「判断」を決める「判断基準」について。
判断ってのが論理と直結しない以上,
判断基準は本質的にすごく私的なものということになる。
個々人の人生哲学のようなものだ。
たとえば肉を買いに行って,
1000円の米産と,
1500円の日本産とが並んでいて,
「同じ肉なんだから安い方が良い」と思うか,
「日本産の方が安全安心な気がする」と思うか,
「日本の(あるいは米国の)農家を応援します」と思うか,
そんな判断基準は大変に私的なことだ。
誰でも自分で決めて勝手にやれば良い。
でもそんな私的な判断基準を貫こうというのは,
なかなか簡単なものではない。
たとえば自分自身で「日本の農家を応援したい」と思っていても,
もう本当に経済的に困窮してしまっていたら,
1500円より1000円の方が大変に助かるわけで,
1000円の米国産を買ってしまいたい気持ちが大きくなってくる。
自分の哲学を,自分の置かれた状況が許さない,ように思える。
そこで米国産に手を出す人もいるだろう。
それを「君は軟弱だ」と言って責めようとは思わない。
なぜなら「確たる判断基準を持たない」というのも,
それはそれで何の問題もなく存在していい1つの判断基準だから。
もちろん「毎回毎回判断に悩む」ということはあるだろうけども,
悩むことすらも楽しめてしまえば,本当に何の問題もない。
楽しい人生を送ることが出来るだろう。
そういう意味で,
確たる判断基準を持つということは,
大変に窮屈で息苦しい人生を歩むことを受け入れることかもしれない。
たとえば「米国産は汚染が懸念されるから」と考えて忌避し,
しかし日本産を買うほどの経済的な余力もない。
そんな状態に陥ってもなお,
「汚染した(しているかもしれない)モノなど食べたくない」と言って,
栄養失調に陥り死に至ることもあるだろう。
「健康を害するものを食べるぐらいなら餓死する」という判断は,
他人から見れば滑稽に映るかもしれない。
でも当の本人からすれば,自らの信条を貫徹したに過ぎない。
判断基準というのはそういうものだ。
では,
私が何を食べるかのような極めて私的なことではなく,
たとえば会社での振る舞いなど,
公的な場での判断ではどうだろうか。
会社で上司から仕事を言い渡される。
1つは,
自分ではやりたくない仕事であっても,
「会社の業績のためだ」と思ったり,
「上司に逆らうのは面倒だから」と思ったり,
「出世したいから」と思ったり,
判断基準は色々とあるかもしれないが,
とにかく実際には言われたことをやるケース。
仕事が大好きで進んでやるというのもコチラだ。
一方で,
「やりたくないことはやりたくない」と思ったり,
「この仕事は会社のためにならない」と思ったり,
「あの上司の言うことは聞きたくない」と思ったり,
結果的に見れば,とにかく仕事をしないケース。
いずれにしても,
個人の判断基準については,他人が強要することは出来ない。
しかし,
公的な機能に属している以上,
振る舞いは公的な判断基準に則したモノであることが求められる。
それは個人に対して公的な機能が判断基準を強要しているわけではない。
繰り返すが,判断基準は哲学であり,強要される性質のものではない。
そうではなくて,
私的な判断基準とは別物として,
公的な機能の判断に従うことが求められるということである。
だから,
公的な機能の判断と私的な判断が異なった場合に,
個人がとれる態度は基本的には2つで,
自らの判断基準を歪めるか,
公的な機能から離脱するか,だ。
いずれも個人に多大な負担が襲いかかる。
自身の判断基準を持つということは,
そういう負担を抱え込むことを引き受けると言うことだ。
そこまでして判断基準を持つ必要なんて無いとすら思える。
しかしそう言っても論理と判断は直結しないわけで,
判断基準というのは何かわからないが自分の中にあるモノなのだから,
それはもう,いかんともしがたい。
確たる判断基準を持って社会生活を営むと言うことは,
公に属しながら私を貫かんとすることであり,
本質的には矛盾を抱えており,
それは自分の身に怪物を飼っているようなものであろう。
少し話は変わる。
先の話の中で,
公と私の判断が異なった場合に個人がとれる態度は基本的に2つとしたが,
これには前提がある。
それは「公的な機能自体が確たる判断基準を有している」ということだ。
つまり上記の基本的な2つの態度以外に,
もう1つの態度がありえる。
それは「公的な機能の判断基準を変える」ということ。
通常,公的なものは,
私的なものに比して大きな存在であり,
多数の私の複雑な関係性の上に成立しているものであるから,
判断基準を変更することは容易ではない。
ましてや一個の私的な提案を受けて公的な判断基準を変えることは,
意図せずとも他の多数の私を軽視することにもつながる。
ここでこの論の重要な部分なので,あらためて記述するけども,
「私」というのは完全に「私」であって,
それぞれ互いに平等かつ独立した存在であり,
身分や立場による「重み付け」を持たないものである。
仮に「私」に「重み付け」がされて,
ある「私」ともう1つの「私」の間に差が生じるならば,
それはもはや「公」と見なされるべきである。
話は戻って,
公的な判断基準は私的な提案によって変わるか。
変わるためには,どのような条件が満たされるべきか。
絶対に守られるべきは,
公に属する「すべての私」に資する方向に向かう提案であること。
「特定の私」あるいは「大多数の私」に資するとしても,
「一部の私」が不利益を被るのであれば,
そのような変更には極めて慎重な態度が要求される。
しかし,
この「一部の私」にも例外はある。
それは「提案する私」である。
つまりこういうことだ。
「私は,この公に属するすべての私に資すると考え,
公の判断基準を変更することを提案する。
この変更に際して,私個人は不利益を被るが,
そのことについては考慮にいれていただかなくて結構」
こうした私からの提案が,
むしろこうした提案のみが,
公をより良きものにしていくのだろう。
また,
こうした公のために私をなげうった個人に対して,
同じ公に属する私が出来ることは,
公としてでなく,私として,
温かい眼差しを向けることだけである。
今のこの国の一般的な組織論では,
「多数の私の幸福」や「政治判断」が重視されているように思う。
ボクが懸念するのは,
公の組織で一定の権限を持つ立場にある人間が,
その個人の私的な判断基準のみに基づいて,
「すべての私の幸福」ではなく,
「多数派の幸福」のために,
公的な判断基準を変更していてることだ。
権限のある立場の人は,
たぶん,自身の判断基準に照らして,
最適と思われる判断を下しているのだろう。
そこに計画的な悪意はないと思う。
しかし,
完全に公に資すると判断した行動が,
あるいは「未必の故意」となっているかもしれない,
そういうことに対する自己評価が甘いのではないだろうか。
これは,
「自分の私的な判断基準の正しさを盲信している」
と言い換えられるかもしれない。
私的な判断基準というのは自身の思考の隅々まで浸透した怪物である,
という認識が不足しているのではないか。
もちろん,
権限を持つ立場の人が,
自分の利益のために公的判断基準を変更することは論外である。
しかしそんなことは,はなから論外であるし,
それを摘発,告発することは私的な領域を超えている。
別個の公的な機関による監視に期待するしかないのだ。
もちろん,
そういった現状のうまくいっていないこの国の組織を担っているのは,
多数の私である。
彼らが私的な満足を甘受しておきながら,
公的な判断基準に襲われる一部の私に気付かないことや,
あるいは,
公に属するすべての私の幸福を願う切実かつ純粋な私の要求に対し,
「私的な利益誘導」と冷ややかな視線を投げかける態度こそが,
この国の公的な活動を誤らせる要因である。
まとめると,
権限ある立場の人の誤った判断以上に,
こうした多数の私の,
他の私への無関心こそが,
一番の問題である。
それはつまり,
「自分が良ければそれで良い」という判断基準こそが,
この国を住みにくくしている原因であり,
「自分は少し不利益を被るけれども」という判断を皆が少しずつすることこそが,
すべての人にとって幸せな社会を構築する秘訣なのではないだろうか。
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今回は「判断」を決める「判断基準」について。
判断ってのが論理と直結しない以上,
判断基準は本質的にすごく私的なものということになる。
個々人の人生哲学のようなものだ。
たとえば肉を買いに行って,
1000円の米産と,
1500円の日本産とが並んでいて,
「同じ肉なんだから安い方が良い」と思うか,
「日本産の方が安全安心な気がする」と思うか,
「日本の(あるいは米国の)農家を応援します」と思うか,
そんな判断基準は大変に私的なことだ。
誰でも自分で決めて勝手にやれば良い。
でもそんな私的な判断基準を貫こうというのは,
なかなか簡単なものではない。
たとえば自分自身で「日本の農家を応援したい」と思っていても,
もう本当に経済的に困窮してしまっていたら,
1500円より1000円の方が大変に助かるわけで,
1000円の米国産を買ってしまいたい気持ちが大きくなってくる。
自分の哲学を,自分の置かれた状況が許さない,ように思える。
そこで米国産に手を出す人もいるだろう。
それを「君は軟弱だ」と言って責めようとは思わない。
なぜなら「確たる判断基準を持たない」というのも,
それはそれで何の問題もなく存在していい1つの判断基準だから。
もちろん「毎回毎回判断に悩む」ということはあるだろうけども,
悩むことすらも楽しめてしまえば,本当に何の問題もない。
楽しい人生を送ることが出来るだろう。
そういう意味で,
確たる判断基準を持つということは,
大変に窮屈で息苦しい人生を歩むことを受け入れることかもしれない。
たとえば「米国産は汚染が懸念されるから」と考えて忌避し,
しかし日本産を買うほどの経済的な余力もない。
そんな状態に陥ってもなお,
「汚染した(しているかもしれない)モノなど食べたくない」と言って,
栄養失調に陥り死に至ることもあるだろう。
「健康を害するものを食べるぐらいなら餓死する」という判断は,
他人から見れば滑稽に映るかもしれない。
でも当の本人からすれば,自らの信条を貫徹したに過ぎない。
判断基準というのはそういうものだ。
では,
私が何を食べるかのような極めて私的なことではなく,
たとえば会社での振る舞いなど,
公的な場での判断ではどうだろうか。
会社で上司から仕事を言い渡される。
1つは,
自分ではやりたくない仕事であっても,
「会社の業績のためだ」と思ったり,
「上司に逆らうのは面倒だから」と思ったり,
「出世したいから」と思ったり,
判断基準は色々とあるかもしれないが,
とにかく実際には言われたことをやるケース。
仕事が大好きで進んでやるというのもコチラだ。
一方で,
「やりたくないことはやりたくない」と思ったり,
「この仕事は会社のためにならない」と思ったり,
「あの上司の言うことは聞きたくない」と思ったり,
結果的に見れば,とにかく仕事をしないケース。
いずれにしても,
個人の判断基準については,他人が強要することは出来ない。
しかし,
公的な機能に属している以上,
振る舞いは公的な判断基準に則したモノであることが求められる。
それは個人に対して公的な機能が判断基準を強要しているわけではない。
繰り返すが,判断基準は哲学であり,強要される性質のものではない。
そうではなくて,
私的な判断基準とは別物として,
公的な機能の判断に従うことが求められるということである。
だから,
公的な機能の判断と私的な判断が異なった場合に,
個人がとれる態度は基本的には2つで,
自らの判断基準を歪めるか,
公的な機能から離脱するか,だ。
いずれも個人に多大な負担が襲いかかる。
自身の判断基準を持つということは,
そういう負担を抱え込むことを引き受けると言うことだ。
そこまでして判断基準を持つ必要なんて無いとすら思える。
しかしそう言っても論理と判断は直結しないわけで,
判断基準というのは何かわからないが自分の中にあるモノなのだから,
それはもう,いかんともしがたい。
確たる判断基準を持って社会生活を営むと言うことは,
公に属しながら私を貫かんとすることであり,
本質的には矛盾を抱えており,
それは自分の身に怪物を飼っているようなものであろう。
少し話は変わる。
先の話の中で,
公と私の判断が異なった場合に個人がとれる態度は基本的に2つとしたが,
これには前提がある。
それは「公的な機能自体が確たる判断基準を有している」ということだ。
つまり上記の基本的な2つの態度以外に,
もう1つの態度がありえる。
それは「公的な機能の判断基準を変える」ということ。
通常,公的なものは,
私的なものに比して大きな存在であり,
多数の私の複雑な関係性の上に成立しているものであるから,
判断基準を変更することは容易ではない。
ましてや一個の私的な提案を受けて公的な判断基準を変えることは,
意図せずとも他の多数の私を軽視することにもつながる。
ここでこの論の重要な部分なので,あらためて記述するけども,
「私」というのは完全に「私」であって,
それぞれ互いに平等かつ独立した存在であり,
身分や立場による「重み付け」を持たないものである。
仮に「私」に「重み付け」がされて,
ある「私」ともう1つの「私」の間に差が生じるならば,
それはもはや「公」と見なされるべきである。
話は戻って,
公的な判断基準は私的な提案によって変わるか。
変わるためには,どのような条件が満たされるべきか。
絶対に守られるべきは,
公に属する「すべての私」に資する方向に向かう提案であること。
「特定の私」あるいは「大多数の私」に資するとしても,
「一部の私」が不利益を被るのであれば,
そのような変更には極めて慎重な態度が要求される。
しかし,
この「一部の私」にも例外はある。
それは「提案する私」である。
つまりこういうことだ。
「私は,この公に属するすべての私に資すると考え,
公の判断基準を変更することを提案する。
この変更に際して,私個人は不利益を被るが,
そのことについては考慮にいれていただかなくて結構」
こうした私からの提案が,
むしろこうした提案のみが,
公をより良きものにしていくのだろう。
また,
こうした公のために私をなげうった個人に対して,
同じ公に属する私が出来ることは,
公としてでなく,私として,
温かい眼差しを向けることだけである。
今のこの国の一般的な組織論では,
「多数の私の幸福」や「政治判断」が重視されているように思う。
ボクが懸念するのは,
公の組織で一定の権限を持つ立場にある人間が,
その個人の私的な判断基準のみに基づいて,
「すべての私の幸福」ではなく,
「多数派の幸福」のために,
公的な判断基準を変更していてることだ。
権限のある立場の人は,
たぶん,自身の判断基準に照らして,
最適と思われる判断を下しているのだろう。
そこに計画的な悪意はないと思う。
しかし,
完全に公に資すると判断した行動が,
あるいは「未必の故意」となっているかもしれない,
そういうことに対する自己評価が甘いのではないだろうか。
これは,
「自分の私的な判断基準の正しさを盲信している」
と言い換えられるかもしれない。
私的な判断基準というのは自身の思考の隅々まで浸透した怪物である,
という認識が不足しているのではないか。
もちろん,
権限を持つ立場の人が,
自分の利益のために公的判断基準を変更することは論外である。
しかしそんなことは,はなから論外であるし,
それを摘発,告発することは私的な領域を超えている。
別個の公的な機関による監視に期待するしかないのだ。
もちろん,
そういった現状のうまくいっていないこの国の組織を担っているのは,
多数の私である。
彼らが私的な満足を甘受しておきながら,
公的な判断基準に襲われる一部の私に気付かないことや,
あるいは,
公に属するすべての私の幸福を願う切実かつ純粋な私の要求に対し,
「私的な利益誘導」と冷ややかな視線を投げかける態度こそが,
この国の公的な活動を誤らせる要因である。
まとめると,
権限ある立場の人の誤った判断以上に,
こうした多数の私の,
他の私への無関心こそが,
一番の問題である。
それはつまり,
「自分が良ければそれで良い」という判断基準こそが,
この国を住みにくくしている原因であり,
「自分は少し不利益を被るけれども」という判断を皆が少しずつすることこそが,
すべての人にとって幸せな社会を構築する秘訣なのではないだろうか。
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