忍者ブログ
自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
[4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]
この記事は、敬愛する @rei_nari さんにインスパイアされたものだ。
『教員公募にしろ予算申請にしろ実験手法にしろ実験器具にしろ、未出版の研究核心部以外は積極的に情報を共有して、お互いの培ってきたTipsなどを活用し合うのが良いと思っている』
『特に所属など環境依存での情報格差を埋めるのに、SNSを介した情報交換はとっても有効だと思う』
https://twitter.com/rei_nari/status/1386854738356948995?s=20
本当にその通りだと思う。
ちょっとしたtipsの差で採否が決まる世界(でtipsを独占して勝つ)より、
中身勝負のガチ世界の方が、科学の価値は絶対に高め合える。
そしてそのガチ世界で、採択を勝ち取る方が、カッコいいじゃないか。
勝負じゃないけど、意識として。


数年前に認識して以来ずっと気になっているライジングサンの記事にも触発された。
yokaのblog『科研費若手落ちた』
https://yokazaki.hatenablog.com/entry/2021/04/27/000354「当時は猛々しく「これを若手研究で出すのはもったいない」とさえ思って」
「やはり納得ができないし、何が悪かったのかが良く分からない」
「一体どこが伝わらなかったのかのフィードバックがあれば」


ボクは学位取得以来10年超、応募できる機会があれば応募してきた。
採択されたこともあるし、不採択だったこともある。
平均的な採択率から見れば、採択率は高いと思う。
なお科研費の審査員をしたことはない。
そんなボクが「大体こんな感じが通りやすいかな」と思っている指針。


まず「採否は審査員ガチャか」について。
これは「採択率による」。
若手や基盤など30%程度の採択率があるなら、ガチャ要素は低い。
挑戦的研究や創発など10%を切る採択率になってくると、ガチャ要素が高い。
この辺り、1件辺りの審査員の人数、各人の持ち点から、統計的に説明できると思う。

これを前提として、申請書の書き方では、
挑戦的研究等では「最高点」を、若手基盤では「高い平均点」を、目指す。


最高点を目指すと、ピーキーに仕上げる必要がある。
かなりの盛り付けも必要かもしれない。
そうすると、渋めの審査員から毛嫌いされる可能性もある。
この辺りの狙いを定める部分に、ガチャ要素がある。

採択率ではなく、採択数で考えても、ガチャ要素がある。
「どんな公募でもアレが出てきたら勝てない」というS級妖怪がいる。
採択枠をS級だけで埋められてしまうと、もうどうしようもない。
S級と競合しないことを祈るのみ、というガチャ要素だ。


高い平均点を取るには「平々凡々、普通に書く」に限る。
ごく平凡な話を、ごく平凡なまま、しかし確実に着実に書く。
「とても面白い研究」でなくても、「確かに成果が出そうな研究」であれば良い。

rei_nariさんやyokaさんのエントリーを読んで、おそらく「書き過ぎ」なのだと感じた。
「平均点」路線でなく「最高点」路線で書いて、実現可能性などで低評価だったのではないか、と。
というのも、ボク自身が、これを経験しているからだ。
「最高点」路線の若手Aが不採択で、翌年に内容を削って「平均点」路線に変えて採択された。
同じ失敗を基盤Bの申請でもやっている。
不採択だった申請書から盛り込み過ぎた内容を削って、翌年に採択された。


ここで定性的に「書き過ぎ」ないで「着実な内容」に仕上げると言っても、役に立たない。
ここまで読み進めてくれた奇特な読者に、ボクの指針を紹介したい。
なお、この指針が常に正しい保証はないので、適当に考えて欲しい。

とても簡単だ。

2年500万なら「2年目にレター1報」、
3年2000万なら「2年目にレター1報、3年目にフル1報」
これだけ。
これ以上の成果を出すような内容は盛り込まない。
「アレもコレも」は自重する。

ボク(やrei_nariやyoka)は、同分野の研究者の中では、論文生産性が高い。たぶん。
もちろん上を見ればキリがないだろうけど、平均的な生産性と比べれば、十分に高い。
だから自分にとって「普通の生産性」であっても、審査員的には「ちょっと多い(無理がある)」と感じる可能性がある。
そこを差し引く必要がある。

KAKENデータベースで応募先の区分・種別を眺める。
あそこに掲載されているのは、当然ながら採択された課題だ。
採択率30%の世界では、アレらに「勝つ」必要はない。
アレらと同等であれば良い。
勝ちにいこうとすると、書き過ぎてしまう。

引き算は、とても勇気が要る。
不足で落とされるなら、過剰で落とされたい、かもしれない。
でも、落ちるのは落ちるのだから、通るには路線変更は必要だ。
PR
2020年10月26日菅義偉首相『国内の温暖化ガスの排出を2050年までに「実質ゼロ」』
2021年4月23日小泉進次郎環境相『2030年までに46%削減』

エネルギー問題と環境問題は、どちらも問題だけど、別問題だ。
違うけど似てる。
似てるけど違う。

エネルギー問題とは、
 [1]地球上で埋蔵資源が必ずいつか枯渇すること
 [2]現在のエネルギー供給は埋蔵資源に依存しているので困ること
という前提となる枠組みがあって、
そこに経済的視点が加わって、
 [3]埋蔵資源は地理的に偏在しており最後は国家間の交渉になること
 [4]日本には埋蔵資源がないので上記交渉では不利となること
 [5]日本が埋蔵資源を輸入し続ける限りは経済的不利を被り続けること
ということになる。

これらを解消する手段には、
 [a]世界的な再生可能エネルギー利用増大による埋蔵資源の省消費
 [b]日本国内の再生可能エネルギー利用増大
があげられる。

環境問題では、
 [6]火力発電時の二酸化炭素排出による気候変動・海洋酸性化などの問題
 [7]放射性廃棄物など、発電や発電機器を製造に伴う廃棄物による環境汚染
 [8]バイオマス発電など、発電に利用する材料生産に伴う生態系の大規模な破壊
 [9]メガソーラーや水力発電など、発電機器の設置に伴う生態系の大規模な破壊
などの懸念がある。

問題[6]の「二酸化炭素排出」を解消するには、
 [c]火力発電の総量を抑える
 [d]火力発電で発生した二酸化炭素を空気中に排出しないで隔離する
という打ち手がある。

手段[d]は、数ある問題のうち課題[6]だけを解決する。
気候変動による災害の激甚化や一次生産への影響は、世界各地ですでに起こっている。
二酸化炭素は蓄積するから、早く手を打つほど効果的だ。
先の政治家の発言が年限をきっているのも、そういう意味だろう。
そして「実質ゼロ」は明らかに手段[c]だけでなく手段[d]を念頭においている。
なぜなら手段[c]だけで「排出ゼロ」を実現したら、「実質ゼロ」ではなく「本質ゼロ」だからだ。

ここでエネルギー問題に立ち返る。
手段[d]は、エネルギー問題[1-5]をまったく解決しない。
エネルギー問題を解決するには、再生可能エネルギーへの転換(手段[c])が必須だ。
そして日本は、経済安全保障の観点(問題[3-5])から、エネルギー転換を急がねばならない。
手段[c]を早急に進めることは、単に環境問題の解決ではなく、国の行く末を担っている。

じゃあ『火力発電+二酸化炭素隔離:手段[d]』に意味がないかというと、そんなことはない。
手段[d]は、移行期的な措置としては、意味がある。

再生可能エネルギーの利用を拡大するのに課題[7-9]には注視しなければならない。
課題[7-9]には、これまでにない課題も含まれるから、予期せぬ新たな問題が起こる可能性もある。
事実、山間部へのメガソーラー設置に伴う生態系変容は実施後に発覚し、問題となっている。
エネルギー源ごとに、従来にない新たな環境影響評価が必要である。
また、再生可能エネルギーの産生には、技術的にまだ改善の余地がある。
とりわけ、スマートグリッドによる最適化が必須であるが、システムは未整備である。

『2030年排出46%削減』を、手段[c]のみで実現することは、かなり困難である。
10年間で再生可能エネルギー自給力を現在の数倍まであげるのは、現実的ではない。
手段[c](エネルギー転換)を早期に進めるが間に合わず排出過剰となった分について、
手段[d](二酸化炭素隔離)による「実質削減」で補填するというのが、現実的な路線だろう。


『ところで、その"かくり"ってのはどうやって実現するんだい?』
「そりゃお前、虎の威を借るのさ」
『お上から押しつけるってのかい』
「押しつけたってどうにもならんよ」
『じゃあどうやるのさ』
「決まってるだろ、虎といえば」
『阪神タイガース』
「かくりといえば」
『郭李』
「そう、90年代のダメ虎を支えた郭李」
『あの暗黒の....(はっ!)』
「(それや!暗黒の深海に隔離や!)」



以下は学術会議の某分科会で用意したけど使われなかった文章
ver190503 kawagucci

電力は現代社会生活に不可欠であり、安定的な電力供給は憲法25条にうたわれる生存権を保障するものです。
日本のエネルギー自給率はここ数年、10%を下回っています。

低エネルギー自給率は、国内エネルギー消費量(14*1018J/y)に対し、国内産生エネルギー供給では及ばない大部分を、輸入燃料資源の利用に依存していることを意味します。
輸入燃料資源への依存は、経済性や安全保障上の問題があり、国民生活の持続的発展において巨大なリスクです。

たとえば家庭部門のエネルギー消費は全体の15%ほどですが、これさえも国内産生エネルギー供給ではまかなえていないのです。
照明のLED転換などによるエネルギー消費量抑制が期待されますが、国民生活や産業活動の発展を考慮すると、大幅な消費量削減は極めて困難です。
つまり、エネルギー問題の根本的課題は『国内産生エネルギー供給"力"の向上』にあります。

我が国にはわずかな埋蔵燃料資源しかありません。
深海底メタンハイドレートなど非在来型埋蔵資源採掘に期待が寄せられていますが、埋蔵量評価や採掘技術開発はいまだ不十分で、経済合理的に利用できる可能性は不透明です。

我が国はその地質・地形的特徴から、多様な再生可能エネルギーの利用が期待できます。
既存の水力発電や風力発電に加え、山間部では火成活動を利用する地熱発電が、沿岸部においては波力や温度差などを利用する多様な発電法が提案・利用されています。
再生可能エネルギーは、発電量が環境要因に左右される上に大規模化が困難なことが課題でしたが、発電・蓄電・送配電のICT管理による最適化(いわゆるスマートグリッド構想)によって、この課題は技術的に解決できる状況が整いつつあります。
換言すれば、再生可能エネルギーの効果的な利用にはスマートグリッドの確立が必須であり、両者を一体として確立・運用する技術的・法的・経済的な体制の構築こそが、取り組むべき喫緊の課題です。

エネルギー問題は、国内問題であると同時に、人類が抱える地球規模の問題でもあります。
グローバル化の著しい現代にあって、燃料資源の枯渇危機は国家間の緊張を高めます。
原子力発電は、必ず生じる放射性廃棄物の処理および生じうる事故への対処の両面で、いまだ人類はその解決法を有していません。
燃料資源の利用は二酸化炭素の放出を伴い、気候システムの温暖化には疑う余地がなく、海洋酸性化の進行も観測されています。
再生可能エネルギーにおいても、人為的介入による生態系構造の改変は不可避であり、その環境影響評価は十分とは言えません。

こうした問題に対し、学術的成果や模範事例の提示などを通じて、我が国も積極的に貢献すべきです。
2021年4月の緊急事態宣言で、東京都がとても広範な業種に制限をかけるという話題。
たとえば「本屋で感染拡大するってのか?そんなわけないだろ!」などの意見がある。
とてもよくわかる。
本当にその通りだと思う。

マスクを外して顔を近づけて会話をするのが「高リスク行為」で、
抑制の効かなくなる飲酒を伴う長時間飲食は「高リスク場面」だから、
「飲食店だけでも規制すれば、集団としての感染拡大防止にかなり効果がある」って説明して、
その上で飲食店に補償金を出せば良いんだよ。
その補償金を用意するためにも、低リスク業態はバンバン働いて経済を動かすのが良い。

ここまでの知見に基づいて、普通に考えると、そういうことになる。
でも、政治判断は違う。
なぜか。

今回の措置は「なんで飲食店だけがダメなんだ」という「声に寄り添った」結果だ。
説明を放棄して、感情にもたれかかる。
政治に限らず、何年も繰り返してきた、この国のお作法。

「丁寧に説明する人」よりも「声に寄り添ってくれる人」を政治家にしてきた、必然的帰結。

民主主義の要諦は、国民の教育水準。
高等教育の責任は重い。

〜〜〜〜〜〜〜
「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。
愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。
『学問のすすめ』福沢諭吉
〜〜〜〜〜〜〜
主著者・コレスポ著者・共著者で、役割が違うみたいな話。
まぁ実践的にはそうかもしれん。
でも一応の理念上は、すべての著者は等しく責任があるという設定じゃないのか。

ボクはそう(すべての著者の責任は等しいという理念があると)思っているのだけど、
大部分の人はそう思ってはいないように感じる。
これはジャパンだからなのか、国際的にそうなのか、それはわからんけども。


コレスポについては、単なる連絡担当係だと思っている。
だから全然重視していない。
慣習的にボスキャラである証拠みたいになってるけど、そんなん知らん。
投稿作業みたいな面倒なことを担当してくれるんだから「どうぞどうぞ」である。


自分が共著者である場合。

自分が主著者で書き進めるのと同じ強度で原稿に向かう。
世間的には「主著者を尊重して」「主著者の書きたいように」という意識があるようだ。
そこは中身の意味で、つまりデータの吟味を一番深くしているだろうから、
詳細な部分の書きぶりに見えない背景があっての文脈が込められていることもあると思う。
そんな文脈を残しておくべきだろうと考えることも、ありえるとは思う。

でも、まずはそんなことは忖度しないで、書いてあることをそのまま読んでコメントする。
まったくの書き直しや、大規模な組み替えも提案する。
共著者側から提示されるものに対して、主著者がどう対応するかの問題であって、
最初から主著者(の心情?)を慮って、共著者側から薄い反応しか返さないのは、ありえない。
ありえないというか、原稿を向上させる意味で、それじゃ役立たずだ。

主著者が共著者のコメントを反映するか否かは、主著者の判断だ。
その結果、共著者として重要だと思うコメントが反映されないならば、
なぜ反映しないのかと説明を求める権利が共著者にはあるし、主著者はそれに回答する義務がある。
それが出来ない場合は(過去に実際そういう事態があったけど)、共著者から抜ける。
投稿原稿に責任が持てない(納得がいっていない)以上、著者であり続けるべきではない。


自分が主著者である場合。
ボクは自分が共著者である場合と同じぐらいの貢献を、共著者に求める。
求めるけど、返ってくるのは「一般的な共著者」の水準の内容でしかない。
これはとても困る。
困るんだけど、それ以上のことを要求は(基本的には)しない。
たぶん、共著者としては「主著者のことを慮って」いるのだろうから。
そんな配慮はいらないし、その心持ちは原稿の向上に振り向けてもらいたい。

まだ原稿にインプットが欲しくて回覧した時には何の返事もしなかった共著者が、
投稿原稿への承認を求めるメイルには即レスだったりすることは、しばしばある。
しばしばというか、とても頻繁にある。
共著業績が増えてラッキーとか思っているのだろうか。
そういうのマジファ◎ックです。
研究者の看板を降ろしてもらいたいね。


じゃあ「著者に誰を含めるのか」という、いつもの問題になる。

ひとつは「ラボテクは共著に加えるべきか」問題。
うちの研究所では「会社が人件費を払っている職員」であるラボテクが多い。
論文に使うデータの多くは、ラボテクから出てくる。
研究成果への貢献はとても(とてもとても)大きい。
しかし、うちのラボテクの多くは、英語の原稿を通読できる能力がない。

ボクは「英語を読めない人は原稿に責任を持てない」という理由で「著者に含めない」ことにしている。
要するに「研究に対する貢献」よりも「原稿に対する責任」の方を重視する。
だからもちろん、英語の読み書きが出来る人は、ラボテクだろうが著者に加える。

この辺りは、同部署の同僚でも、人によって判断が異なる。
多くの場合は「著者に含める」ようにしていると思う。
おそらく、ラボテクの人事評価に配慮しているのだろう。
あるいは「誰も損はしない」のだから著者に加えるという判断もあるだろう。
他人の判断については、思うところはあるが、口は挟まない。

ボクの中では、ラボテクどうする問題よりも厄介なのが、研究者の共著者だ。
先に述べた「看板を降ろしてもらいたい」部族の方々。
成果に関わるデータを出している。
個人の能力として論文の読み書きは出来る。
だから最初から著者群に加えることになる。
しかし、とにかく原稿に対してウンともスンとも言わない。
でも投稿承認のメイルには返事をする。
とても(とてもとても)態度が悪い。

なんだかなぁ、である。
アイデア勝負の論文を投稿していたのだけど、とても厳しい査読結果が返ってきた。
コメントを読むと「まったくおっしゃる通り!」という内容。

今回の論文に限らず、厳しい査読結果に触れるとフッと湧き上がる思いがある。
査読者が、ボク自身よりも、一番真摯にボクの研究に向き合ってくれている、と。
じっくり検討して最後まで詰め切って書いたという自信がないからなんだろうな。
あるいは、勉強不足の自覚があるから、そこを突かれて狼狽しているのかもしれない。

さらに、これは自分の暗部だなぁ、と嫌な気分になるのだけども。
その流れで、一緒にやってる研究者を呪ってしまうのだよね。
議論してくれない、高めあってくれない、と。
「こんなアイデアを考えた!」と吹っかけた時に「結構なお点前で」的な反応しか無い。

レベルが低いんだよ、みんな。
そしてそれ以上に自分。
39になった。
このままいけば、次は40だ。
年齢はただの数字だし、ましてキリ番()に意味はない。
しかし、自己変革する理由にするには最適だ。

最近、肉体的不調が続いている。
数年つづく左太股外側の神経不調。
上半身左側に偏る腰・背中・脇・首の癖と痛み。
右手首から前腕にかけての鈍痛(12月航海以降か)。
首のアトピー(マスク代わりフェースカバーのこすれ)。
などなど。

コロナ禍の一年、360日ほど飲酒して、毎日コーヒーと甘いものを食べた。
目に見えて体型も体重も悪化した。
目に見えない内臓機能も、たぶん悪化している。

39歳の2021年度は、何はなくとも、体調回復に努める。

まずはダイエット。
2008年2月の東京マラソンで68kg、その後の1人暮らしダイエットで72kg。
40歳は、少なくとも72kg、出来れば70kgで迎える。
多少、筋肉が落ちてもかまわない。
運動量はすでに十分なので、無闇に食べなければ、すぐに痩せるはず。

次に飲酒習慣の改善。
まあ飲まないだけだから、やればできる。

あとは大量飲水の習慣。
乾燥肌を避け、筋肉を柔らかくする。
食事とコーヒー以外に、1日2Lの水道水。

いきなり20日間の航海なので、徹底してみようと思う。
0から1を見出す
1を8まで進める
8を10まで仕上げる

ボク自身は、
0から1が出来ないかと考えることが好きで、
1から8を素早くすることが得意で、
8から10はまったく苦手で興味もない

この辺りに、研究の進め方の個性が出ると思う。
何もしない日々が過ぎていく。
これが「定年制ボケ」なのだと言われたら、それまでだ。
研究に対する内発的動機がないから、強制力がないと研究から離れてしまうのだ。
書かねばならないデータはある。
しかし、どうにも没入できない。

研究グループとしてどうかとなると、よりダメだ。
互いの顔が見えすぎるほど見えるのに、研究の中身が見えない。
とても(とてもとてもとても)悪い状態にある。
ある種の「不信感」とさえ言えるかもしれない。
ここまで至ってしまうと、如何ともしがたい。
この部分の対策は、本気で考えている。

じゃあ狭義の研究を離れて、広義の研究はしているのかというと、こちらもダメだ。
手を広げるフェーズであることには意識的だが、それぞれの勉強があまりに不足している。
それぞれの計画で、孤独に進めるしかない状況は、かなりツラい。
議論しながら修正して進んでいきたいが、議論の壁になる相手が見つからない。
グループとしての機能不調が、ここにも関わってくるわけだ。

立ち直れなくなるほどツラくなる前に、劇的な手を打つしかない。
そんなことはしたくないけど、仕方ないのだろう。

まずは整理・整理・整理
メッシ問題。

世界最高のプレイヤーであるメッシ。
ピッチ上ですべてを解決できるプレイヤー。

メッシは、単にプレイヤーとして優れているだけだ。
いや、プレイヤーとして優れているだけ"だった"、という話をこれからするのだけども。

メッシの存在は、もはやイチプレイヤーとしての枠を超えている。
メッシのプレイは、ピッチ上の問題を隠してしまう。
選手の人事はもちろん、監督の人事にも、メッシの意見は影響を及ぼすという。

メッシの在籍期間はクラブ最長である。
メッシをかわいがったコーチや先輩、対等に話ができるプレイヤーは、クラブを去っている。

メッシのアイコンとしての価値は、クラブの価値と比肩している。
経営陣も、メッシの意向は無視できない。

メッシが少し不満を漏らせば、周囲があわてふためく。
メッシが少し褒めると、贔屓と嫉妬が渦巻く。
本人はまったく望んでいないのに、すべてがとても大きく受け取られる。

メッシは、たぶん、ただ単に楽しいサッカーをプレイしたいだけなのに。
メッシが楽しみを求めることが、大きなことになりすぎている。
そういう存在になってしまったメッシは、この後、どうすべきなんだろうか。

バルセロナに残ってプレイを続けるのか。
バルセロナを去ってプレイを続けるのか。
プレイを止めるのか。

王の末路を造ることは、難しい。
王の末路は、本人にしか造れない。
王として最大の仕事であると同時に、とても私的なことだ。
しかし研究指導が失敗する類型というのは確実にある。
それは避けねばならん。

弊社には国際ポスドク制度というのがある。
年々名前が変わっている気がするが、制度としては変わっていない。
分野を問わず、何でも良いから、弊社で研究をしたいポスドクを公募する。
毎年6名ぐらい採用枠がある。
任期は3年間、公募にかかる書類はすべて英語、というもの。
1次が書類審査、2次が全職員参加可能な公開セミナー。
それなりに妥当なメンバーが選出されているように思う。

「好きなことをやっていい」
「ファシリティは自由に使っていい」
そういう呼びかけをしている。これは非常に魅力的である。
しかし現実には、うまく回っていない。

既存の職員は「国際ポスドクは(便宜上の所属はあるが)自由独立である」と言われている。
これを真に受けて「余計なことは言わないよう」に接する。
そもそもシャイなので、そんな態度をとろうとすると、まったく会話が発生しない。

何も知らないところにポンと放り込まれて、誰に何を聞けば良いかもわからない。
そんな状態に置かれる国際ポスドク達。

教育や指導の要諦は「待つ」「引き出す」と言われている。
しかし間違えてはいけない。
「待つ」というのは「何もしない」ではない。
「引き出す」というのは「引っ張りだす」ではない。
安全安心な場を作って、適当に刺激を加えて、「待つ」のだ。

そうすると、研究指導の要諦は「便宜を図る」ことなのかもしれない。

必要十分な水準を想定して情報と素材と機会を紹介する。
ハードルの低い投書箱として存在しておく。
適当なタイミングで飴(と鞭)を差し出す。

そんなことを考えている。
プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
ブログ内検索
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
アクセス解析
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) kawagucci's Weblog All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]