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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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安価で広く視聴されているメディア。

82年生まれの自分が育った環境だと,新聞・テレビ・週刊誌・マンガ。
テレビを除けば,もっと上の世代でもそう変わらないだろう。
家の中に「転がっているメディア」がこれ。

95年生まれの育った環境だと,電子媒体が出てくる。
Yahoo!などニュースポータル・ブログ・ウェブ動画。
テレビは未だ有力。
マンガは衰えが見え始め,新聞・週刊誌を読む若者はほぼいない。

かつての新聞のクオリティがウンヌンはさておき,一定の水準ではあったはず。
出し手のところでクオリティコントロールがされているメディア時代から,
誰でも出し手になれるがゆえに,クオリティコントロールがされていないメディアの時代。
だからこそ受け手の「リテラシー」が重要になる。
しかし若年層の教育ではいまだ「教科書」というクオリティコントロールされたメディアがベース。

どの段階で,どのように,メディアのクオリティは千差万別であることを教えるか。
むずかしい。
家庭教育(非学校教育)の重要性が増していることは間違いない。

どうしたもんか。
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最近,80年代後半に起こったという「バブル」に興味がある。それも「どうしてバブルが起こったのか」ということじゃなくて「バブルは人の価値観にどのような影響を与えたのか」ということにすごく興味がある。

うかつな「世代論」については警戒しておく必要があると思う一方で,人格形成において社会環境の影響は無視できないものがあるとも思う。「キミは○○世代だから××だね」というような世代論と個人の性癖を直接的に結びつける言説はイカンが,個人ではなく集団として見た時には,およその傾向が浮かび上がるものだとも思う。

たとえば「戦争を知っている」世代(1935年以前に生まれた人々)は,最後の一線として「戦争はダメだ」「あんな想いは2度としたくない」と語る。たとえば大勲位とか主筆とか。それに対して今の社会で軍国化・排外主義を推進しようとしている人々は「戦争を知らない世代」=「全共闘世代」が中心になっているように見える(1940-1950年生まれ?)。戦争を知らないからこそなのだろうと感じている。

知識で知っていることと,経験で知っていることは,違う。それはもう,全然違う。

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それでバブルについて。

バブル期(1986-1991)にすでに社会人になっており(1965年以前に生まれた人々),かつ全共闘世代よりも後となると,およそ15世代(1950-1965年うまれ)であり,今の50歳-65歳にあたる。まさに今の社会の決定権を握っている世代。これを仮に「バブル世代」としよう。

ボクは研究業界で暮らしていて,この業界は基本的に大学から陸続きなので,バブル世代であっても,その渦中に身を置いた人は少ないと想像され,バブルという現象と向き合うにはむしろ例外的な集団なんじゃないかと思う。そのせいか,ボクは「バブルの頃はこんなことが・・・・」という「バブル語り」を聞いたこともあまりない。

バブルについて,金融・経済論とか,「スター」の物語とか,そういう風に語った書籍は多い。でもボクが知りたいのはそういうことじゃなくて,もっと身近な,市井の人々がどのような心象であったかとか,日頃の暮らしぶりがどうであったかとか,バブルの狂乱というものを体感したのはどういう人々なのかとか,そういうことが知りたい。

「バブル世代」の「バブル体験」が,この国の方向性に何らかの影響を与えうるほど大きなインパクトだったのか,あるいはアレは(特にメディア関係者が強く体験したからこそ)極端に誇張された思い出でしか無く「世代論」を形成するほどのものではなかったのか。どうなんだろうか。

とにかく「バブル」について市井レベルで理解しておかないと,どこかで何かの拍子に「バブル待望論」がむくむくと起こってきた時に,どう考えて良いのか整理できないと思う。バブル世代が退場する前に,色んな話を聞いておきたい。

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「ポストバブル世代」(1965-1975生まれ)は,幼少期にバブル報道に触れて知っているが,バブルそのものを体験していない世代。ITバブルと呼ばれる現象が起こったけども,その旗手と言われた人々の生年は三木谷(1965),堀江(1972),藤田(1973)でポストバブル世代が中心に見える。これはIT技術の発達時期がホリエモン世代の青年期と一致したという影響が最大要因なのだろうけども,彼らが「バブル」を直接体験していなかったことは,彼らの「遊び方」に影響を与えたんじゃないかとも思う。これは世代論とは関係無いけど。「ポストバブル世代」は「ロスジェネ世代」でもある。

「ケータイ世代」(1975-1985生まれ)が次に来る。ポケベル・PHS・携帯・iモードが中高大学生に普及した時期に中高大学生だった世代。また1995年にWindows95が発売され,当時はテレホーダイだったが,10年後の2005年には高速通信時代がはじまっている。身近な例では,中学時に1つ上の姉がポケベルを持ち,ボクは高校に入ってまずPHSを持ちすぐiモードケータイに移った。この世代は,根本的なコミュニケーション手段が変わったので,これ以前とこれ以降では,根本的な違いがあるように思う。なお1980年生まれが「松坂世代」で,1981年生まれが「キレる17歳世代」(凶悪少年犯罪多発)。関西バイアスで言えば1995年に阪神大震災。

ちなみに研究業界的には,1975年頃に生まれた世代は,ちょうど大学院重点化世代で研究者の数がすごく多い。だから同時に1975-1985年生まれが「ポスドク問題世代」でもある。また汎用コンピュータが一般家庭にも雪崩れ込んできた世代でもあるので「研究にコンピュータを使う世代」でもある。WordやExcelとか言った意味では無くインフォマティクス的な意味で。

ちなみにちなみに「アダルトビデオ」の爆発的普及は1985年頃かららしく「ポストバブル世代〜ケータイ世代」が思春期にこれと触れる世代である。これは表立って語られないだけで思想形成にかなり大きな影響を与えていると思うので「世代論」の軸として有効な気もしているのだが,果たして。

自分より若い世代のことはよくわからない。1985-2000年生まれだと,どうなんだろうか。この世代に影響を与える2000-2010年というと,技術的には高速通信,ネット動画世代か。世相というか社会事件としては,なんだろう。2001年9.11が直接的に世代に影響を及ぼしているとは思えないけども,グローバル化を中心とした社会の不安定化なのかなぁ。まだ世代論で解析できるほど時間が下っていないと考えるしかないか。

2011年に東日本大地震なので,これを就職前に経験している世代となると,1990-2000年生まれで,大きな影響を受けているように思われる。2010年頃からスマホ・Wi-Fiが普及している。
ふたたび『非モテの品格』より
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6E5WYZ/

ジェンダーとしての男性の弱さを「自分の弱さを認められない弱さ」あるいは「社会的な男性への目線(男性は女性より良い立場が与えられている)を理解しているがゆえに自分の弱さを開陳できないことで生じる葛藤(弱さを感じるが同時に弱さを否認したがる)」について。

なんとなくボクの中にモヤモヤとあったものの正体は,これに近いんじゃないかと思った。ボクにとっての「弱さとは何か」という部分を明確に同定することは難しいけども,おそらくルサンチマン的なモノだけでは説明できないものがあって,それがこのモヤモヤ感の本質なのかもしれない。

広い意味で先天的な条件で「恵まれている人」に対して,もはや嫌悪感と言ってもいい非常に強い嫉妬を抱いてきた。体が丈夫だったり,親が金持ちだったり,男性だったり。そういう意味で。それはたぶんボク自身が,体がそれほど丈夫じゃなかったし,親はまぁ金持ちではなかったし。幼少期から心の奥にそういう気持ちがあったからか,世間的に典型的な「男同士でつるむ」的なことはあまりなかった(今も得意ではない)。

それでもなんとか生きてきて大人になると,もう親がどうこうというのは関係のない年齢になる。自身の体についても適当に暮らしていける程度には収束している。(汗をかいたらただちにシャワーを浴びないと酷いことになるとか,そういうことはあるけども,注意すれば克服可能な範囲になっている)

20代後半から30代は,おそらく女性が女性性と向き合う時期であり,そういうことはなんとなく頭では理解できるので,男性性の相対的優位さのようなモノを感じずにはいられない。また同時に,職業環境としては,ジェンダーや健康などを度外視した客観性を標榜する競争的な雰囲気があり,その中に身を起き続けることになっていた。たとえば業績リストにはジェンダーや健康状態は記載しない。たとえば今の日本では,男性が職を見つけて引っ越す時に(離職して)ついていく女性はそれなりにいるだろうけども,女性が職を見つけて引っ越す時に(離職して)ついていく男性はほとんどいない。

そういう「男性性が圧倒的に有利」な状況にあって,所与の条件としての男性性という恵まれた状態にある自分に無頓着で,他の視点からの不遇をことさら主張する男性には嫌悪感を抱いてきた。また時にそれが自分自身にむかい自己嫌悪も感じてきた。それが転じて,そういう状況の女性をサポートしたい気持ちも芽生えたりもした。自分は研究業界のことしか知らないし,研究業界の人ぐらいしか接する機会もないので,とりあえず研究業界の(いわゆる)女性問題については色々と考えたり,ちょっと行動したりしてきた。

また子供を持つことになって,子供の境遇についても考えることが増えた。経済状況とか,サポート環境とか,諸々について。とにかく子供の問題は,生まれた環境と健康に強く依存する。家庭の問題は千差万別で一概には言えないけども,うちの子供については「まぁ大体こんなもんでしょう」という範囲にはおさまっていて,相対的には恵まれた方に位置していると思う。こうやって恵まれているウンヌンと評価することが問題の根源ではあるのだけれども,まぁそう思うということで。

それで今のボクのモヤモヤについて思い至るのは,ボクは『自分の中にある基準で「弱い立場にある」と判定した上でしか他人に優しくできない』ということだ。またその圧倒的に下品な『優しさ』に気付きつつあり自己嫌悪を抱いている。さらにボク自身の妻子について「弱い立場ではない」と判定しているがゆえに優しくできないでいるということもある。ここで自分の妻子に対して「弱者でない」と判定しているのは,世の妻・子供と,それぞれ妻同士・子供同士を比較した場合の判定だ。

一方で,家庭内においては,妻子は圧倒的に弱者である。妻は専業主婦なので経済的に自立することが困難で,彼女の環境はボクの一存で決めることができるため(深い部分で)彼女はボクに逆らうことができない。子供は肉体的にも経済的にも精神的にも親にはかなわない。だから家庭においてボクは常に強者であるという現実がある。

それで,一体なにがこんなにモヤモヤさせられるのかということを突き詰めて考えると,結局のところ自分が自動的に「強者」になってしまっているということ自体に,モヤモヤの原因があるんじゃないかと。ボクは強者であるがゆえに「剥き出しの感情」を吐露することができない。なぜならボクが感情を吐露することはそのまま弱者に対する「暴力」になってしまう。一方で妻子が感情を吐露しても,それは単に感情の吐露以上の意味をもたない。だからボクは強く抑制的に暮らしている。しかし妻子は時に感情を吐露してくる。するとその感情の中身に加えて,「感情を吐露する」という行為に対して不快感を覚える。その不快感は,自分が感情を吐露できないことからくる「ある種の嫉妬」なのかもしれない。しかしこの「弱者に対して嫉妬する」ということの,その下品さに対して,自分自身が嫌悪感を抱く。

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自分が強者である状況では,強者であるがゆえに,感情を吐露できない。
自分が弱者である状況では,弱者であることを認めたくないがゆえに,感情を吐露できない。

まずは,弱者である案件について,弱者であることを認めてしまうことからはじめよう。
弱者である不遇を騒ぎ立てるのではなく,その気持ちをそのままに。
そうすれば,もう少し上手に,感情を吐露できるようになるかもしれない。

その先に,強者である状況での振る舞いが見えてくるかもせいれない。
2016念頭の目標を見て愕然とする。達成率は10%にも満たない。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20160103/

>科研費をゲットできれば,秋までにポスドクを雇用して,在外期間中の実験を進めてもらう
>人件費用の科研費は2口応募しているので,

->2口とも見事に落選。


>参加出来そうにもない航海プロポは書けないし,科研費もお休みになる

->航海プロポも書いたし科研費も書いた


>ツイッタジャンキーを卒業してブログに戻るのも目標

->あいかわらず。でも2017年からは・・・


>大学教育関係。まとまった分量を毎日,あるいは隔日ぐらいのペースで書きため

->まったくあかんかった


>朝晩に運動習慣をつけねば。朝はLSDで夜は筋トレかな。

->まったくあかんかった
2号はいま4歳半。2号は2歳手前でベラベラ喋り,話す内容もちゃんと考えられたものであることが多かった。逆に1号は皆の様子に合わせて振る舞うことを良しとするメンタリティが根深い。気弱で優しいが,自分で考えるというよりは誰かを模倣するような判断が多い。なので教育方針として,2号を18ヶ月先に生まれた1号に合わせるように,つまり今なら6歳児レベルで双子のように同じ扱いをすることにしている。

2号の行動原理は,とにかく甘やかしてほしいということにある。それも自由にさせてほしいのではなく,近くにいて常に褒めそやされ甘やかされることを求めている。生まれてから3年間,母+祖父母のいる家で,祖母が主担当として面倒を見ていたせいか,「大人は常に自分を見ていて甘やかしてくれる」というのが染みついているようだ。同じように育っても,やはり1号には「お姉さん気質」があって「大人に負担をかけない自分はエライでしょ」という立ち位置に入り込むので,7割方はうまくいく(残り3割は,そうじゃない,ということをやってより混乱を大きくする)。

4月から一緒に暮らしている実父は,子供を甘やかしてくれない。3号がいて,祖父母もいないので,大人の絶対数も足りていない。なにかと「父=1号2号」「母=3号」という配分になるのだが,ただでさえ自分に優しくない父が,しかも1号と半々でしか面倒を見てくれない。2号はそれが大いに不満らしく,すぐに母を求めて動き始める。それで父からも母からも叱られる。

2号が育った環境には同年齢の親戚が複数いたが,圧倒的に口が達者だった2号は,自由に振る舞っても大人に褒められてきた。そういう経験がある。また日本での幼稚園経験は4ヶ月のみだった。なのでコチラの団地キッズとうまく遊べない。まず言葉が通じない。また少し年齢が上の子供にフォローしていくことが出来ない(1号はこれがが得意。何となく皆に合わせて遊ぶので先方からも歓迎される)。むしろ自分主導で遊ぶべく皆の遊びを破壊してしまう。さらに年長者が相手をしてくれないと自分一人で遊べない。これが積もって,外で遊んでも楽しくない状況に陥ってしまっている。

泣き癖がついていて,ちょっとイヤな気分になるとすぐに泣く。家の中で泣かれるのは本当に不快になる。家が石造りなので音がよく響くというのもあるかもしれない。また泣くのは染みついた交渉術のようなもので,あやすために何かを出してくる/甘やかしてくれるというのを,無意識下に期待しているように見える。少なくとも,お母さんと二人になる時間がもたらされるとは思っている様子。しかしそのようにはいかない。

父母子が相互に負担を感じあっている現状は,間違いなく良くない。しかしだからといって,2号が機嫌良く暮らしていくことに重きを置くことは,思想的にも労力的にも不可能に近い。

「甘やかさないけど褒める」「褒めるけど甘やかさない」という親の方針がある。2号がこの違いに気付くのが先か,こちらがそれらを混合したうまい方法を見つけるのが先か。はたして。
今年は12月25日が日曜日だったので,その影響もあるのかもしれないが,記録として。

24日はEinsiedelnまで小旅行。湖フェリーが有料になっていた。街は閑散。修道院では礼拝?が行われてたけど,他の人々でも中に入ってヨサゲだったので入って,内側の美しい細工を見てボヘーっとする。礼拝?が終わった後,一番偉そうな僧侶?が纏っていた白い法衣をヨボヨボと脱いでいる様子が見られた。中にヒートテックとか着てるのか見たかったが子供がグズりだしたので退散。その後,丘に登って戻って帰宅。観光客っぽいのはチラホラいた(20組程度)。これが平常時と比べて多いか少ないかはわからん。なおEinsiedelnはクリスマスマーケットで有名だが,クリスマスマーケットは11月末から12月上旬までの開催なので要注意。

25日はほぼすべての店が閉まっていた。1号と2人でStadelhofenから新市街をHBまで歩いたが,販売店はすべて閉店,小規模な飲食店がチラホラと開けている程度。HB構内でも販売店は閉めているところが多い。Migrosは開いていた。スタバ・バーキン・パン屋・カフェなども開いていた。地元に戻ったらなんと行きつけのケバブ屋が開いていた。ついつい買ってしまう(帰宅したらやはりヨメ氏が夕飯を用意していた)。湖沿いのホテル直結のバーも開いていた(そして壮年の人々が元気に飲んでいた)。

26日(月)は家から出なかったが,スーパーをはじめどこの店も閉まっているらしい。「25日は家族とダラダラ家で飲んで過ごして26日はそのままゆっくり寝続ける」ということだろうか。

27日は地元スーパーも開いていた。街には行かなかったので様子はわからん。

なお我が家。25日朝食を2号がゲロ。38度超。何を食べても吐く。26日には回復も食事制限を課した。27日朝は3号がゲロ。ヨメ氏も38度。生き残って退屈な1号と,退屈から解放された2号がうるさい。なんとか母親を隔離すべく,普段は制限を課しているDVD鑑賞も無限開放デーとする。結果的にそれがクリスマスプレゼントということになったかね。
『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書) Kindle版
杉田俊介 (著) 』が面白い。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6E5WYZ/

ここ最近ずっとモヤモヤして悩んでいることの根底にあるのは何かと考えている。
人生の大きな目標みたいなもの
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20161216/

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ジェンダー・健康・就職・家庭などの意味で,非常に恵まれた状況にいる自分というのが,前提条件としてそびえ立っている。つまり社会的弱者とは認定されず,むしろ言外ながらに「恵まれた人」「うまくいっている人」という目で見られる状況にある。しかし自分の中には,もちろん他人と比べた時には些末なことかも知れないけど,少なくとも自分にとっては重大な問題が心の真ん中に大きな塊として鎮座している。体調面で言えば,巻爪とか,不整脈とか,肥満とか,風邪ひきやすいとか,姿勢が悪いとか,二日酔いがひどいとか,なんだかんだと。

それと同じぐらいにまとわりついてくるモノとして,男性であり,定年制職をえた研究者であり,家庭の主たる収入源である,ということがある。毎月のように風邪をひくといっても生理がこないことを考えればチョロいもんかもしれん(これはわからんけど)。飲み会の会話が不愉快なことはあっても「相手いないの?」「30すぎてどうこう」「この後どう?」とか直接セクハラかまされることもない(これは女性が男性をいじってもあまりセクハラと言われないという別の問題もあるけども)。任期切れに悩むこともないし,だから明日の我が身を憂う必要もない(研究業界の行方とか我が社の現状は憂うべき状況にあるけども)。たとえば夫婦仲が決定的に破綻したとして,自分には収入があるのだ(もちろん慰謝料や養育費は発生するだろう)。

======(以下一般論)======

しかし一方で,これをまったく逆さまに見ると,それはそれで違う景色が見える。つまり一般に社会的弱者とされている人々の状況を踏まえた上で,もう一度男性の側に立って考えると,そこには「強者だから良いでしょ」という風に「無視されている男性ならではの悩み・弱さ」が見つかるのでは無いか。

性差による社会的・肉体的障壁があるにも関わらず女性に男性並みの働きが求められる。でもこれを裏返すと,障壁が無い男性が女性と同等の仕事しかしないことは,それはそれで問題と言える。そんなことを言うと「そういうことを言っているから永久に女性と男性が対等にならないんじゃないか」と言われるかもしれないし,じゃあ「余力がある男性がペースを落とすことが社会的に(会社的に?)許されるか」というとそうでもない。男性にとっては「頑張れば,ずるい」「頑張らねば,しっかりせい」というダブルバインドである。これは家庭の役割を抜きにした,単に肉体的な話だけでも,まぁそういうことになる。

たとえば,子供が3人いて当面働く意志のない専業主婦の家庭がある(うちがモデルケース)。この状況にあって,男女の対等とはどのように達成されるのか。「父は外で稼ぎ,母は家を回す」という役割分担が,差別的で平等ではないというなら,どのようにして平等が実現されるのだろうか。この場合の差別性は潜在的な意志の実現可能性に依存すると思うけども。つまり「専業主婦でいたい」という妻を持つ夫は「負担を強いられる社会的弱者」に位置付けられることはないのだろうか。「そういう希望を持つ人を妻に選んだのはあなた」という言い分が成立するのならば,「家庭を顧みないで働いてばかりいる夫」を選んだ人が責め立てられるのは不条理だ。だからといって専業主婦を責め立てろというわけではない。そこはそういう風にはならない。単に「働く気がない妻」と「家事をしない夫」に対等性があるのかということ。

これは現状認識にとどまらず,将来的なポテンシャルの意味でも言える。仮に夫が現職を辞めて挑戦したい冒険的な将来計画を抱いたとして,一方には収入のない妻と3人の子供がいる。この悩みにかかる精神的負担は「持つものの特権であり負担とは言えない」のだろうか。つまり,夫には選択肢があるかわりに絶えず決断を強いられる負担もある(妻には選択肢がないが(その存在だけで)絶えず夫を「脅迫」している)。

逆の立場は一般に広く考えられている。つまり,(現状専業主婦である)妻には復職したいが子供がいるという悩みがある。この場合,妻の復職は妻の判断であり,夫はこれを妨げることは(社会正義的に)許されない。しかし夫の生活は妻の決断いかんで大きく変わる(変えられてしまう)。この状況で妻が自由に決断できる社会が奨励されているのであれば,先にあげた状況で,夫が自由に決断できる社会であるべきではないか。つまり専業主婦である妻を「捨てた」という言い分は成立しないのでは無いか,ということである。

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そんな脳内シミュレーションを繰り返すと「マジョリティあるいは優位にあるがゆえの悩みがある」という現実に加え「それを暴露することが社会正義(ポリティカルコレクトネス)的に許されないという悩み」というのもあるよね,というようなことが,『非モテの品格』では述べられている,のだと思う。

だから,職場でもなく,家庭でもない,第三の居場所というのを求めている心にあるのは,そういうことなのかもしれない。仕事の比較や社会的「かくあるべし」が責め立てられない,あるいはニュートラルでラディカルにそういう話題が言い合える居場所というのが,自分にとって理想的な「居心地の良い空間」なのだ。それの半分,より精神的な部分はインターネットが満たしてくれている。もう半分の,より身体的な部分が満たされるような居場所については,完璧を求めないなら「職場にいる気の置けない仲間達」がそれにあたる。仕事と完全に切り離されない点は残念だけど,非常に近い距離に居場所があるというのは悪くない。仕事から切り離されていて,しかも求める時に与えられるような近い距離にある居場所を見つける(あるいは作る)ことは,とても難しい。
スイスで暮らしていて「良いなー,日本でもやれば良いのにー」と思っている2つのこと。1つは電車の運賃変動制。もう1つは2段階消費税。

スイス連邦鉄道(SBB)は車内改札制。駅に改札機はなくて(回数券用のものはあるけど)車内改札が抜き打ちでやってくる。まぁこれは今日の本題じゃない。運航ダイアは基本的に「毎時xx分とyy分」と30分間隔固定で,車両の編成数が混雑時と閑散時で異なっている。ボクが通勤に使っている「S7」路線だと,基本単位が「2等2両+1等1両」で,閑散時は1ユニットだが,通勤時などは4ユニットになる。ちなみに朝の通勤通学ピーク時間帯は07時台で,4ユニットでも席が埋まるので通路に立ったり(2階建てなので)階段に座ったりする人が発生する。日本のように押し合うほどにはならない。これも本題じゃなかった。

本題。SBBのネットシステム(と車掌の改札端末)は充実していて,チケットをウェブで購入してプリントアウトしたバーコードを持って行けば良い。それでそのウェブ購入する時に,「日」で指定するチケットと,「時間」まで指定するチケットを選べる。その「時間指定チケット」は同じ区間であっても時間帯によって値段が異なる。最大で半額ぐらいになる。ちなみに値段とは別に,車両の編成や混雑予想(3段階)も購入画面の時点で示される。

うちは早起きなので,土日にお出かけする場合は,往路は朝早めの時間指定安値チケット,復路は子供が何を言い出すかわからないので日指定の通常料金チケットにすることが多い。チケットが安いこともだが,長距離路線には「遊具車両」があるので,これが空いている時間帯にすることが,両親の疲労軽減にはとても重要だからだ(遊具車両の有無もウェブ購入時に確認できる)。これも本題じゃないな。

とにかく,時間帯によって値段を違えて,それで乗客数をコントロールして,混雑を緩和させようという試みは素晴らしい。素晴らしいので,ぜひ日本に導入して戴きたい。日本のあのアホみたいな激コミ。あれが精神に与える悪影響は,小さくない。当たり前すぎて受け入れてしまっているが,あんな生活を40年もするなんて,ちょっとどうかしてる。人間としての尊厳というか,なんというか。実際に犯罪の温床にもなっている。

Suicaなどの普及度はもはや「100%」と言えると思う(どこかに資料があるでしょう)。少なくとも混雑車両に乗るような人々の多くは定期券を使うだろうから,この層に限ればより普及率も高いだろう。ということで,Suicaを利用して,値段を変動させれば良いと思う。「安くなる」だとあまり得な気がしないなら「ポイントが貯まる」でも良い。むしろ定期券の場合は「乗る時間によって安くする」のは難しいから「ポイントで還元」の方が良いかもしれん。

これは紙の切符だった頃には困難だっただろうけども,Suicaの普及で導入ハードルは下がっている。つまり利用者側は何もしなくても,改札機のソフトを変えるだけで,無限に調整が可能だからだ。技術革新による社会問題解決。

きっと鉄道会社にとっても混雑ピークの解消は喫緊の課題のはず。ちょっとした工夫と,ちょっとした損失(安売りすることで損はするが,それもベース料金をあげれば補填可能だ)に目を瞑るだけで,劇的に社会が改善するなら,やらない手はない。もしかすると法的に運賃が縛られているのかもしれないが,それだってこれだけの社会問題なのだから,その辺の国会議員を連れてきて電車に乗せるデモでもすれば,一発でしょう。

2つめ。多段階消費税。個人経営の店でない限り,レジ機の普及率は100%に近いと思う。これもまぁ電子決済だ(?)。だから,品目と税率の対応さえ事前に決まっていれば,すぐにでも多段階消費税は導入可能だ。日用品は税率を下げ,非日用品は税率を上げる。たとえば飲食物/飲食店は2%,それ以外は10%。酒は消費税ではなく酒税で調整。それだけで社会格差の是正につながる。技術的には「明日にでも」導入可能だということは間違いない。

とはいえ,こちらの問題は多方面の業種に影響があって,中でも「声の大きい」製造業,端的に言えば車屋と家電屋,が猛烈に反対していることが原因でなかなか進んでいない様子。貧困世帯とか,生活格差とか,根本的な社会問題のはずだが,日本の政治は基本的にそういうことをあまり重く考えないし,「公的システムによる補助を通じたボトムアップ」よりも「会社の業績改善でプルアップ」の方が良いと考えているみたいなので,なかなか困る。というかいつまでも車屋や家電屋が大きい顔をしている社会というのがそもそも・・・。


「無理だ」という理由を見つけることは簡単だ。「変わった後の世界」を「想像」することは困難かもしれない。でも「変わった後の世界」の「ロールモデル」がすでに存在しているなら,それを見に行けば良いだけのこと。便利なこと,皆が助かること,社会全体の幸せの総和が大きくなりそうなことであれば(特定の個人にしわ寄せがいかないことも大事だよ),国を超えてそれを共有していけば良い。それでこそ「グローバリズム」なんじゃないかしら。
ボクの中でずっとモヤモヤしている部分の小さくない領域には,科学研究の功罪というか,将来的な成否というか,そんなものがある。それがあって,職業研究者をしていながらも,いまいち科学研究に「のれない」でいる。

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科学研究に終わりはない。おそらく。少なくとも今ボクが身を置いているような「生命の起源」なんてテーマについては「絶対に」解けないと言ってもいい。「絶対に」という言い方が科学的でないなら「おそらく300年後の時点ではまだ解けていないだろう」とした方がかもしれない。まぁとにかくそんな感じだ。だからこそやりがいがあるんだろうし,だからこそ多くの人を惹きつけているんだろうし,だからこそ少なくない資源が投入されているんだろう。

でも,たぶん,その部分に「のれない」理由がある。といっても「解けない問題を解こうとするなんてバカだ」と言いたいわけではない。むしろ「解けないからこそ取り組みたい」「その過程が楽しい」「正直言って結果がどうこうなんて興味が無い」「役に立つかどうかなんて知らん」ということ自体には,一般的な人が示す以上の同意を抱いている。そうでありながら,それでもなお,「のれない」のはなぜなんだろうか。

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科学や技術というのは基本的に右肩上がりだ。近現代の科学には(出版とか査読とか引用とかの)次世代に伝承する作業も含まれているから,基本的には,一度獲得された科学の成果は,適切に次の世代へと継承されていくことになっている。だから成果の量的には常に右肩上がりだし,基本的には質的にも右肩上がりであるはずだ。たとえば,日本ではしばしば話題になる「伝統芸能の職人技術の伝承断絶問題」なんかは,出版物で継承しないこと(あるいは紙に残せない有形無形の術が無限にあること)に問題の根がある。つまり,紙で残せないから,人的なつながりの断絶が起こると,そこまでの蓄積の大半が失われてしまうのだ。これは逆もまたしかりで,つまり紙に残しておけば,時空間的に途絶えたとしても,継承される可能性があるということで,科学はその部分をとかく大事に扱っている。

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とにかく,科学研究をすればするほど「生命の起源」に漸近していくけども,一方で絶対に「生命の起源」には到達できない,という状況設定がある。そんな中で,科学は右肩上がりなんだけれども,地球の状況,特に資源は,そういう訳にはいかない。資源というのも色々あるけれど,ここではエネルギー資源と,元素資源と,労力資源の3つについて考えることにする。いや,資源そのものについては,また別の機会に書こう。

「生命の起源」を解き明かすために,あの手この手を講じて,様々な研究をしている。たとえば液体ヘリウムを使った極低温実験がそのキモであるとする。でもヘリウムが枯渇する近未来には,貴重なヘリウムは医療用のみに使途が限定されてしまい,もはやヘリウムを用いた「生命の起源」研究は出来なくなるかもしれない。そんな時に一部の研究者は「いや,それでも生命の起源研究は大事だから,医療用に限定せずにヘリウム使用枠を研究用に開放しろ」と言うかもしれない。たぶん言うだろう。そういうことを想像すると,ボクはそういう意見には「のれない」と思うわけだ。

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今回は資源の話は省略したし,ヘリウムとかいうヘンテコな例で説明したけど,つまりはそういうことだ。これには2つの意味がある。一般にわかりやすい方の意味としては,エネルギー資源でも,元素資源でも,労力資源でも,何でもかまわないけど,資源の枯渇が人類にとって今よりもすごく大きな,喫緊の問題になる将来がやってくる。その時に「解けない謎を解こうとするオレ達のエクスタシーのために資源をよこせ」というような傲慢な気持ちにはなれないなぁ,ということ。

もう1つの意味は,こちらの方がより重大だと思っているんだけども,科学の成果自体は積み上げ式で右肩上がりに増加しているんだけど,それを支える資源的な基盤が崩壊したら,積み上げてきた科学成果を次世代では利用できなくなるということだ。つまり,「極低温実験であれば解ける」という取り組み方に依存した結果,「極低温は作れません」という状況に陥ってしまうと,その研究はそれ以上進めることができなくなる。そういう未来は,そう遠くない時期にやってくる。どの分野に,どういう形で降りかかるかはわからない。でも,そんなことを考えると,特に今の「特殊な機器を開発して目新しいデータを出して科学を大きく前に進める」という風潮にはまったく「のれない」のである。「このまま進めば300年後に到達できる」けど「100年後には資源が枯渇して進み続けることができなくなる」ならそれは「300年後に到達できる」とは言わないのだ。

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じゃあ,だからといって,すべてを諦めたような態度になって,科学研究自体をすべて放棄してしまうというのも,あまり良い態度ではない。アインシュタインの言うように「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走り続けねばならない」ということでもあって,人生に限らず「世界」もまた,良くあり続けるためには,走り続けることが大事なのだ。もちろん無闇に走り回れば良いわけではなくて,オシムの言うように「走れ!考えろ!適切な時に適切な位置に走れ!」ということだ。

今なんとなく「こういう研究の進め方が良いんじゃないかな」と思っているのは,より古典的なやり方を重視することだ。つまり,既存の文献知識をもとに,その内容を熟知した者が集まって,対話を重ねて,確かなこと,おそらく確かなこと,もっともらしい仮説,解明すべき課題なんかを,丁寧に整理していくこと。

もちろんこれは今の科学研究でも当然「やっていることになってる」んだけども,かなり軽視されていると思う。今の研究はどちらかと言えば「3歩進んで2歩下がる」的に「四方八方に走り回りながら少しずつ前に進んでいる」感じだけども,これから(今でも)大事なのは「2歩下がって3歩進む」的に「大事な脇道を見逃しているんじゃないかなぁちょっと戻って確認してみようよ」的な方式で進めることなんじゃないかと。

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この話題になると「評価がー任期がー短期的な成果じゃー」ということになるのかもしれない。でもそんなことは,研究業界外の人にとっては,まったく関係がない話だ。「研究業界の中で運営方法(評価制度)を変えれば良いだけでしょ」ということだ。

自分の内側ではこんなことを考えているんだけども,自分が身を置いているのが「資源大量投下型研究の大本営」のような研究所なので,そこから給料をもらって生きているというのが何とも恥ずかしい限りだ。自分の精神の健康のためにも今すぐ飛び出したい。一方で,子供達にご飯を食べさせなければならない。もちろんそんなのは言い訳で「今すぐ飛び出して,かつ,子供達にご飯を食べさせる」ことだって出来るはずだ。そうしないのは,自分の怠慢だ。そして自分の怠慢の対価として,「こうじゃないよなー」と思っているスタイルで研究を進めているわけだ。

「怠惰と潔癖の相克」ということですね。
「楽しく生きていたい」これに尽きる。

そのためにどういう状況が必要なのか。

「自分の周囲の人々が楽しく生きている中で自分も生きていく」のがきっと楽しいだろう。

そんで「自分の周囲」って何かねと聞かれれば,まぁつまり世界ですよ。ボクの場合は。ネットを開くだけで見える範囲でこんな状況で,きっとネットでは見えないところにはもっともっとアレな状況が広がっているのだと思っています。

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じゃあどうするか。垂直と水平の展開がありえる。自分が暮らしている「層」の中で(水平方向に)より強く思いを巡らせるということもありえる。研究業界だったり,収入の頃合いだったり,まぁそういう社会的地位みたいなもの。

でもあんまりそこには興味がない。どちらかというと,もっと垂直方向だと思う。というか,自分がいま身を置いている「層」は,極めて恵まれていて,この内側でさらに状況を良くしていくというのが,ボクにとってはそれほど重要に思えない。具体的に言えば,「研究者の給料が少ない」とか「自由な時間が少ない」とか「任期制がー」とか「アホとは一緒に仕事ができん」とか「ジャパニーズ・お役所仕事がー」とか何とかかんとか,そういう「問題」が水平方向の人々と共有されているわけ。

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でもボクの状況って,もうちょっと広い範囲から見たら,たとえば世界の人々を履歴書的というかカタログ的に見たら,本当に恵まれていると思う。日本という比較的平和な国に生まれ育って,一般的に見れば健康で,男性で,公教育を享受して,今の給料は平均以上にはあるし,労働条件は悪くないし,子供もいる。70億人スケールで見たら,上位1%レベルで恵まれている状況にあると思う。

そんな1%層にいる自分が,例外的に恵まれている1%層の自分が,その状況を享受してノウノウと生きて「あぁ楽しいなぁー」なんて言っていて良いのか。いや違うな。そんな自分の状況を認識してしまっている現状では,無邪気に「あぁ楽しいなぁー」という気分にはなれない,というのが今の心境なんだな。

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おこがましい?恩着せがましい?厚かましい?ピッタリくる表現はわかんないけども,そういう態度であることは理解している。理解しているんだけども,やっぱり自分がノウノウと暮らしているのは,オサマリが悪い。

結局は自分のオサマリの悪さを解消したくて,そのために「キミは不幸な人だね。ボクが助けてあげるよ。」とやって気持ちよくなりたいだけなんだな。なんてイヤなヤツなんだ。最低だな。

そもそも自分を「上位1%層にいる」とか言ってる時点で終わってる。マジで終わってる。きもい。

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でも,間違いなく最低でキモイんだけど,でもやっぱり,この世界には「それはアカンでしょ」ということが蔓延していて,それに気付いていて,それを解消できる立場にあって,それをどうにもしないでただ看過するだけってのは,それはそれで最低なことだと思う。

どう言って良いのかよくわかんないけど,たとえば女性の方が「損」していると思う。損をさせる社会があって,損させられている当人達が頑張らないとそれが解消できない状況にある。そんなのはおかしい。

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自由とか人権とか公教育とか,何でそんなものがあるのかって,その人間の「生」を他人が収奪しないために,昔の人が色々と考えて創作したからこそ,あるんだと思ってる。そういうモノを開発して普及させた人達自身は,別に収奪される側ではなかったんじゃないかな,とも思う。本当に収奪される側の人間だったら,こんなモノを創作するだけの知力も体力も,獲得することが困難だったはずだと思う。まぁこの辺りは勉強すればすぐにわかるか。

いずれにせよ,ボクはそうやって今ここに存在している自由とか人権とか公教育とか,そういうものをたっぷりと享受して,それなりに楽しく生きている。そしてボク自身は,自由とか人権とか公教育とか,そういうモノが機能している社会の方が,より多くの人が幸せになれて,そういう社会で生きている方が自分もより幸せになれると確信している。

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そんなわけで,動機は「自分が気持ちよくなりたい」という極めてキモイものなんだけども,自分がやろうとしていることについては「悪くないんじゃないかな」と思っている。

ということで,目標というか大きな方針としては,「人道・理念にもとる社会的な問題」だと思うことについて,たとえ自分がその問題における直接的な被害者でなかったとしても,改善するように何らかのアクションを起こしていこう。そんなことになる。

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それで実践上,何をどうするかということ。つまり「垂直方向にどこまで延ばしてアプローチするか」ってことと「アプローチの方法をどうするか」ってこと。

自分が今置かれている状況を最大限に利用するなら,やっぱり「大学教育を通じた何か」になる。つまり対象は「大学生」あるいは「大学界隈の人々」になる。アプローチの方法は,まずはごく単純に「大学教員としての業務」を通じたものがある。でもこれだけで良いのだろうか,という悩みが残る。「大学教員である」ということを利用して,もうちょっと先に延ばしたアプローチも可能なんじゃないか。それが何かは煮え切らないけども。

あとはやっぱり,ウェブを通じた取り組み。今はこうして駄文を連ねることぐらいしか出来ないけども,もしかしたらもうちょっと違う何かができるかもしれない。できないかもしれない。それは考えないと。

100人に1のダメージを与えるよりも,100人の中にいる1人に100のダメージを与えるような,イオラよりもメラゾーマというか,そういうモノを目指している。

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だんだんわからなくなってきたので,このへんで。
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