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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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会社と個人の幸せな関係というのが何なのか、そんなことがありえるかどうかはわからないけども、ここ最近、ボクと弊所の関係はとても良いものになっていると感じている。もちろんそれは、この2年間で、ヒラ研究員から副主任研究員を経て主任研究員になったり、自分から申し出た所内異動なのに行った先で管理職になったり、そういう目に見える身分として評価が表れてきたことと無関係ではない。でも、それだけでもない。

人事面接で会社側から「キミを雇うことで弊社にどのようなメリットがありますか?」という内容の問いかけを受けたことがある。1回目の定年制移行審査です。6年前。色々とイライラして、やりたいことやって、落ちた時です。

ボクがあの時に思ったのは「(社会における弊所の価値を理解していない上に、弊所におけるボクの価値も認識できていない)お前らなんかが最重要事項たる人事を決めるな」ということ。思ったというか、そういうことを話した。「社会がこの状況で、アンタらが今やってる施策がコレなのに、何をエラそうに選ぶ側の顔してそこに座っとるんじゃ!」と。実際は、興奮してたので全然まとまってなくて、ただ文句を言って終わったんだけど。

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『会社』と『会社側の人間(経営者)』は同一ではない。ボクはこの『会社』を愛しているし、ボクと会社の関係は本当に良いものだと思っている。だけどあの時、ボクと『会社側の人間』の意見は一致していなかった。ボクからすれば、『会社側の人間』で、この『会社』が世界にとってどのような存在か、どのような存在であるべきか、そのためにどのような人物が『会社側の人間』としているべきか、ということを煮詰め切れていないとしか思えなかった。

いま、ボクの中で「JAM$TECが社会においてどのような存在であるべきか」ということが十分に煮詰まった。法人としてのアイデンティティ。そして、そのボクの中で煮詰まった法人のアイデンティティから見て、ボクという個人には、それを実現するに足る十分な価値が備わっていると確信している。もっと踏み込めば「ボクという価値の利用なくしてJAM$TECは理想のアイデンティティには到達できない」という大いなる勘違いさえ抱いている。ボクにとってボクという価値が最大化される場所がJAM$TECであり、JAM$TECにとってボクという価値が必要不可欠なのだから、こんなに幸せな関係はない。恋は盲目。

「大学教員にならないの?そっちの方が向いてるのでは?」と言われることがある。ボク個人の資質だけで言えば、大学教員でも国研研究員でも、どちらでも構わないのだと思う。翻って、ある大学から見て、採用する教員としてボクでなくてはならない理由があるかというと、そうでもないはずだ。ワンオブゼム。そこに身を置いて、ボクは幸せだろうか。

実態として存在する駒としてのボクと、ボクという駒を持っている指し手としてのボクがいる。指し手としてのボクが「この駒はココに置くべし」と考える場所。まさにその場所に、今のボクは置かれている。『殺し合いの螺旋から降りる』と決めたのは、自身の駒としての自由度を高め、奇抜な打ち手を実現できるニュートラルな位置に置いておきたかったから、と解釈できるかもしれない。こういうことは、自分でもよくわからない。

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『帝王学』ということをずっと考えてきた。一騎当千の兵士が、千人軍の将軍に向いているとは限らない。兵としての資質と、将としての資質は、似て非なるもの。帝王学で作られた将の「民の声を聞く」態度と、現場あがりの将の「民の声を聞く」態度とは、やはり位相が違うだろう。

血脈や出自などの「正統性」が存在しない世界だけど、それでも叩き上げではなく、帝王学によって『会社側の人間(経営者)』を作ることは出来るんじゃないだろうか。すくなくとも「正当性」だけに任せていると縮小再生産に陥ってしまいがちなことは、今の日本社会が示している。キングがいてこその、ピープルズ・チャンピオン。ヒールがいてこそのベビーフェイス。

そんなわけで(?)、ボクはセルフ帝王学によるショートカットでヒールとしてのキングになろうと考えている。なんだかよくわからない話だけども。ずっとピープルズ・チャンプを身近で見てきて、その正当性ゆえの輝きと、玉座に近づいてなおピープルズ・チャンプであり続けることの困難と、その困難の一端がキングの不在に起因することと、そんなことをヒシヒシと感じている。

イメージとして一番しっくりくるのが、原辰徳なんだよね。正当性と正統性がどっちも中途半端で、長嶋にも王にもなれなくて、でもそこを超越して、謎ポジションを確立している。アレは、若い頃から球界のプリンスとして叩き込まれた帝王学と、プリンス扱いゆえの孤高な苦しみを克服するセルフ帝王学との、両方で出来ているんだと思う。マツイは逃げたし、ヨシノブは耐えられなかった。アベも無理だろう。
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査読付の原著論文を公表することが、研究者であることの必要条件である。
公表した論文の量と質によって、研究者としての評価が定まる。

そういう価値観・価値基準が、すくなくともボクが身を置く地球科学(とか生態学とか分析化学)のような分野では、すっかり定着している。この価値観を否定したいわけではない。ボク自身もこの価値観に浸って生きてきた。むしろボクはこの価値基準によって、研究者としての生きる道を与えられてきた。その話は以前に書いた

でも一方で同時に、現在の業界が、理想的であろう適切な範囲を超えて、この価値観に覆われ過ぎているとも思っていた。そんな思いを抱き始めたのがいつ頃だったかは定かではないのだけど、東北の地震以降は悩み続けている。2015年に書いた受賞記念論文にも、その思いをまとめている東北の地震が契機であるのには、たぶん2つの側面がある。

あの頃、ボクは自分の研究の「型」のようなものを掴んだ感触があった。型というのは、つまり「大体こんな感じでやれば原著論文を創出し続けられる」という意味だ。研究業界で採用されている価値基準で及第点を取り続けることができるだけの能力を獲得した感覚。これをやっていれば自分が今後も生きていけるという安心感、でもあったのだと思う。これが1つの側面。

もう1つの側面は、研究者として生きていながら、研究者が社会に対して果たすべき責任を果たせていないのではないかという不安。その不安は、もう一つ大きなレイヤーで、「研究者が社会に対して果たすべき責任、とは何か」という問いに対する回答が自分の中で確立できていない焦燥であったのだと思う。言い換えるなら、第1の側面で得た安心感の否定。「こんな感じでやっていれば良い」というのは、大きなアヤマチなのではないか、という自己否定に繋がる感情。これは東北の地震の影響を深海の海水で観測した査読付原著論文を公表したことで、実感されたものだった。「これをやっていればいい。でもこれをやっているだけでいいのか」

査読付の原著論文の出版に至る計画-実行-執筆-査読(+競争的資金の獲得)を、ここで「狭義の研究」と、とりあえず定義する。狭義の研究の価値は明確で、科学の発展だ。科学とは、人類が生み出した知を、時空間を超えて共有できるカタチで蓄積する行為、あるいはその蓄積物である。科学は積み重ねることが本質であり、狭義の研究の成果として生み出される一報一報の原著論文は、科学の山に積まれる石にあたる。研究者が原著論文という石を置くことは、そのまま人類の知の拡張たる科学の発展への貢献である。

これを為すことを否定するものは何もない。しかしそれは「これだけで良い」ことを何ら認めていない。

バガボンドの主題の1つに「殺し合いの螺旋」がある。その意味の解釈はわかれるのだと思う。今のボクには、狭義の研究を是とする価値観に覆われた業界が大きな「殺し合いの螺旋」に見えていて、ボク自身もその螺旋の中に身を置いていると感じている。だからボクは、殺し合いの螺旋から「降りる」という考え、あるいは「降りるための方法論」を、いかにして確立して実現するか、そのことについてずっと悩んできた。

狭義の研究に従事し新たな知を創出する研究者を「学徒」と呼び、獲得した知を用いて社会に貢献する研究者を「学者」と呼ぶ。研究者が学徒としてのみ振る舞って、学者としての責務を果たさないことの危険性、あるいは無責任さを、2015年の受賞論文で書いた。その考えは、今もなお変わっていない。しかし当時のボクは「じゃあ、お前は、何をどうするんだよ」という問いに対する回答を持っていなかった。

最近、その回答を獲得できたような感覚がある。まだ「感覚」としか呼べないものだが、かなり確かな感覚だ。その感覚を、自信を確信に変えるべく、この文章を書いている。辿り着いてみれば、何のことはない。

殺し合いの螺旋から降りれば良いのだ。

降り方なんて、どうだって良いんだ。降りてしまえば良い。それだけのことだ。何がキッカケだったのかは覚えていない。ある時、ふと、「あ、降りちゃえば良いだけだ」と思った。

ボクはこれから、学者として生きる。学者として生きるという決意を固めた。一方で、学徒としても生きるかもしれないし学徒としては生きないかもしれない。そこはとても曖昧なままにしておく。この「曖昧なままにしておく」という決意が、ボクの悩みの核心だったんだろう。ボクはなぜか、学徒を続けるか辞めるかは、二者択一であると考えていた。でも全然そんなことはない。狭義の研究は、いつはじめても良いし、いつやめても良い。だから学徒を続けるも辞めるもない。

「学徒を辞める」ということが何かとても重い決断だと思っていたのは、研究業界の仲間たちから後ろ指をさされるんじゃないかという恐怖感なのだと気付いた。「あいつ、終わったな」と。でもそれは、殺し合いの螺旋にいる人間から「逃げるのか」と言われているだけなんだ。「とりあえず逃げるよ」と言ってしまえば良い。ただそれだけだった。

研究評価のあり方うんぬんという議論がある。論文業績評価が人物評価と直線的に結びつけられるのはいかがなものかというアレと、まさに一緒だ。ボクは学徒としての活動をやめるかもしれないが、ボクの学者としての価値が、それで損なわれないだけのものとして存在していれば、それで十分だ。なぜならボクはこれから学者として活動するのだから。

ここまで書いておいてなんなのだが、実際のところは、学徒としても生き続けると思う。自分でも「なんじゃそら」と思わないではない。でも「曖昧なままにしておく」という着地点は、つまりそういうことだ。フトコロに隠したナイフがあるから、いくら殴られてもヘラヘラ笑っていられる。いつでも学徒として一線に飛び出せるんだという確信を胸の内側に秘めていれば、学徒としての活動をしていなくても問題ない。いつでも抜けるよう、抜けば刺せるよう、ナイフを研ぎ続けていればいい。

この生き方は、自制心や克己心が要求される。学徒として生きていれば、論文の査読や研究費の審査という目に見える形で、他者の評価にさらされる。それは己の無能や怠惰を否応なく指摘し、自覚させてくれる。定期的な生き方の答え合わせ。学徒でない生き方では、答え合わせの機会はない

学者として生きるということは、他より優れた知見を持つ有識者あるいは権威としての己に価値が見出される。そんな場に身を置き続けるということだ。場の空気に乗せられて、勘違いして自惚れて、ナイフを手放す誘惑が襲いかかるだろう。選ばれし者の恍惚と不安。恍惚に溺れず不安を抱き続ける臆病さ。なんとなくだけど、そこには自信がある。不安になることに自信があるというのも、おかしな話ではあるけども。


何の因果か、年度末うまれ。
何の偶然か、次で40。
惑わずいけよ、いけばわかるさ。
宮崎のビニールハウスで競う相手がいない孤独を抱えながら黙々と泳いできた松田丈志が泳力で抜きん出ている北島康介の振る舞いに接する中で仲間の存在を力に変えることを学び取りその感謝が「手ぶらで帰らせるわけにはいかない」思いになって皆を奮い立たせてレースで結実するの最高すぎるんだよ。

そんな松田丈志が、昔の自分と萩野公介を重ね心配しつつ、北島康介にあって瀬戸大也に欠けているものを暗示している。

競泳界における北島康介のような周囲を感化する人間性については、野球界だと松坂大輔、サッカー界だと小野伸二なんだよね。イチローや田中マーや中田英寿や本田圭佑はちょっと違う。

この辺りがとても興味深いところで、業界の太陽になって業界全体を底上げする存在になるのに、実力や実績は必要条件ではあるのだけど、十分条件ではないんだよね。外からは見えないロッカールーム(楽屋)や練習場での振る舞い。

粗い言い方をしてしまえば、人間臭さと呼ばれるものなんだろうね。

一点の濁りもないお吸い物の美味しさと、雑味を伴う豚骨スープのウマさと。どちらが大衆料理たりえるか、みたいなことなのかもしれない。



〜〜〜以下引用〜〜〜
松田丈志が語る「北島康介さんから教えられたこと」https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/swim/2016/07/04/post_661/

「2位で帰ってきて本人も、『ヤバい』と思ったのでしょう。トレーナーのマッサージを受けていたときはヘッドホンをつけて、下を向いたまま誰とも話さなかったんです。その瞬間は人を寄せつけない雰囲気があり、戦っている感じがすごくありました。準決勝での自分の泳ぎを考え、決勝で絶対に勝つためにはどうしたらいいのか、というのを自分自身で消化している感じがして......。そのオーラを感じたとき、最後は勝つのではないかと思いました。でも、そういう雰囲気になるのは本当に一瞬。あとはみんなと仲よく話すなど、すぐに気持ちを切り替えていました。」

「僕の場合は地方の小さなクラブで育ったので、中学生くらいになると同じメニューを一緒にできる選手もいなくなったので、常に孤独と向き合って練習をしている感じでした。そういう環境で僕は泳ぎを突き詰め、アネネ五輪の代表権を獲った。だけど、それだけでは戦えなかった。そのことから学んだのが、自分が頑張るというのは基本だけど、そのうえで周囲の力も自分の力に変え、他人に頼る部分があってもいい、ということでした。」

「康介さんのすごいところは、苦しい場面でも、それを楽しんでしまうようなところがあることです。極限の舞台でも冗談を言えるし、それを楽しめる力がある。」

「信頼感があって、『絶対にやってくれる』と思っているから、『俺らも絶対にやらなければいけない』という気持ちになった。」

「そんな相手と対峙しても、『俺らがトップで戻れば、丈志さんは絶対にトップで帰ってきてくれる』という信頼感を作りたいし、それを裏切りたくない。」

「康介さんを見て、次の世代の選手たちが受け継いでいかなければならないのは、『世界で戦う楽しさを味わうこと』だと思います。それをしっかり自分で味わって結果を出せば、喜びや感動があるし、1回味わえば絶対、『またそれを味わいたい!」といういいサイクルに入っていく。」

「康介さんは五輪で金メダルを獲るとか、世界記録を出すことを、"日本人でもできること"にしてくれた。だから僕らも、金メダルを目指したし、世界記録を出したいと本気で思えた。」
ちょっとした時間ができた時に、パッと考えるのは、「最近ポジティブな感情は発露しているか」ということで、なんでそれを考えるのかというと、基本的にそれが感じられないからなんだな。かといって感情がしんでいるかというと、そんなことはなくて、ネガティブな感情は頻繁に発露している。明鏡止水はほど遠い。

どうせ精神が乱れるなら、アホみたいにポジティブな方にも乱れさせたい。
しかしこれが出来ないのは、人生の課題だ。
とか考えるのも本当に良くないのだろうけど。
とか考えるのも本当に良くないのだろうけど。(以下、永久ループ)

書き出すことで引き出す、みたいな方法がある。
毎日寝る前にポジティブなことを3つ、無理矢理でもヒネりだして書き留めて寝る。
それを繰り返すうちに、日中にもポジティブなことを感じられるようになる、みたいな。

しかし、寝る前に一日を思い出すなんて、ネガティブなことしか出てこない気がする。
そして、そこからポジティブをヒネり出す作業をした後で、寝られる気がしない。

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今後ますます狭義の研究から離れそうな雰囲気に包まれつつある。つつつ。
正直いえば、自分自身の趣味としては研究できなくても良いんだけど。
とはいえ、世間体もありますし、一度止めたら二度と復活できそうにないので、続けておこう。

今まで以上に強制的に、狭義の研究の権化たる論文と向き合う時間を作っている。
朝。
起きてから朝食準備開始の0530までの時間。
起きるのに目覚ましは使わない。
20時以降は仕事をしない。
20時には床に入り、スッと寝られれば03時過ぎには目が覚める。
目が覚めなければ、寝ておいた方がいいのだから、それで良い。
起きられた場合の時間は、論文にあてる。

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朝の論文はできると思えるのに、夜のポジティブはできないと思ってしまう。
ツラくても作業はできるけど、自分(の感情)と向き合うツラさに耐えられないんだな。
これは完全に、退職後ウツになるヤツだ。
いかん。
1月の2航海が終わって、すこし落ち着いた気がする。
1月5日〜18日に第1航海。
合間は帰宅するつもりだったが、コロナ禍第6波ということでリスク回避のために船内待機。
1月23日〜27日に第2航海。

来年度から、5年間プロジェクトとか10年間プロジェクトとか、そんな話が聞こえてきた。
いずれも同位体地球化学とは無関係。
これはかなり大きな人生の岐路じゃないだろうか。
10年プロジェクトに向き合うと、おそらく同位体地球化学には戻れない。
うっすら付き合ってチョボチョボ論文を書くぐらいは続けられるだろうけどもね。

片方に、狭い意味での専門家の矜持を抱ける研究を保持したい気持ちがあり、
片方に、そんなものに拘らず大局の盤面を指してみたい気持ちもあり、
なかなかに難しい人生の岐路に立っている。

50周年記念誌の編集長をやっていると、JAMSTECのDNAというか、JAMSTECとは何ぞやというか、そういうことを突きつけられている気になる。

海の総合研究機関である。
海に関する知識を豊富にもっている集団である。

海に関する国家的取組の実行部隊、大型インフラの運用保守管理、および海に関するシンクタンク機能こそが主任務であり、その基盤を構築するために職員が学術研究や試験機の開発にも従事しているのだ。
それは、大学院が第1には学生の教育を主任務としており、その基盤のために学術研究を行っている、という建て付けと変わり無い(かもしれない)。


ちゃんと思考をまとめる時間を取らないと、どんどんと支離滅裂になっていく。いかん。
マルチタスク的に忙しくなりつつある場面でこそ、強制的な時間の確保。大事。
この数日、とにかくドタバタしている。これで生産性が高ければ、色んなものがうみだされるのだろうけども、そんなわけがない。ただドタバタしてるだけなのです。自分でもよくわかないけど、忙しい感じがずっと続いている。

一番の案件は、1月に実施の2航海。元々1月に1つは予定されていたのだけども、11月に予定されていたものが探査機の故障に伴って延期されて1月にやってきて、同時進行になった。両方とも企業案件で、さらにいずれも多企業合同でもあり、細々としたホウレンソウが必要で難渋している。

元々の分と、流れ着いた分と、どっちを先に実施するかの調整が面倒だった。所内の航海計画検討部署に対して、それぞれの航海担当者として違う顔をして接する。これとは別に、航海の各船の担当者にも同じように違う顔をして連絡する。労務管理上のあれで年末年始は絶対に動かせないとか、この1月で引退が決まっている船で航海終了日は絶対厳守だとか、外枠がガチガチに決められている中で、両パトロン(の上役)の様子を見つつ交渉を重ねる。

所内の委員会向けの資料も並行して進める。自分の異動があったので委員会資料の細々したところ、たとえば緊急時の連絡体制図の中の「部署長」や「部署名」が旧来のままだとか、そういう修正が不十分だと各所で指摘されてしまう。それで指摘される度にローカルウェブに入って委員会サイトで資料の差し替え。「指摘できるならそっちで修正してよ」とか「メイル添付で送るからそっちでサイトにあげてよ」とか思ってしまうけど、そういうことを言ってしまうと信頼関係みたいなものがアレになるので、案件進行中は言うことも出来ずに。

航海の計画がおよそ定まったところで、本来は2ヶ月前から進める乗船者の書類仕事が1ヶ月を切った段階からスタートする。しかもコロナ禍対応の謎ルールの数々にも対応せねばならない。関係者に連絡すると「この対応、なにか意味があるんですか?(意味ないよねー)」と応答があり「(言いたいことはわかるけど)意味が無いと思っても従ってください。従わないと航海が実施できませんので」と返信する無情な労務。『PCR検体唾液、1月1日朝、採取&速達発送』という文言はなかなかパンチが効いている。

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10月末より続く編集長業務も、関係者に中弛みと疲労感が出てきて、アメとムチが難しい時期に突入しそう。みんな本業が年末進行の中やっているので、アンバイが難しい。

そんなことを言っている間に、はやぶさ2の地球帰還から1年経って、報道で「年内に論文を投稿し来春にも吉報をお届け」とか言っているのを知る。「え?いま目の前に未分析試料が置いてありますけど?」ということで、急遽アレコレの手配をして(ラボテク殿に完全委任して)進める。

とか言っているところにオジキと長兄から「前に頼んだ試料の分析まだ?」と問い合わせ。ごめんなさいごめんなさいと言いながら、(ラボテク殿に完全委任して)進める。

そんな最中にも、楽しい共同研究案件とか、学術会議とか、運航部会とか、ミニバスとか、飲み会とか、なんだかんだとある。

そういう日々にあって、狭い意味での研究をやっていないことへの負い目のようなものを勝手に感じて、朝の時間はなるべく研究に使おうと、「後は書くだけ」案件に1日30分ぐらいずつ取り組んでいたのだが、執筆の難所にさしかかって、もうちょっとまとまった時間がないとキツいなと感じてからは、気持ちが離れてしまっている。人はこうして論文を書かなくなるのだよ。

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先週、ある日の夕方に、パタッと精神が落ちてしまった。はじめての体験で何と言って良いのか難しいけど、「あ、ちょっともう無理だわ」って。いままで精神が荒れる方に振れることはあったけども、落ちる方に振れたのは(振れたことを実感したのは)初めてで、ちょっと戸惑ってしまった。それで、これまた不思議なことなんだけど、なんだかその状況も面白いような気がしてきて、最近連絡をとってなかった人に「なんかすげー精神が落ちてる!ガタガタだわ」って報告した。そしたら「マジか。こっちは肉体がガタガタ」って返答があった。それを読んだら、たしかに自分もちょっと前まで肉体がガタガタなことを気にしてたよなって思い出して、いまそれを忘れていることに気がついて、たしかに肉体もツラくて、それがなんだか面白くなって、精神の方はすっかり回復した。

一応、本職の人にも「こんなことがあった」と報告して、そしたら「疲れてるんですねー」って。いやほんと、疲れてるんですね。おっしゃる通り。

ここから先、年末進行で疲れっぱなしの予定なのだけど、「いま疲れてるからなー」って自分で認識していることで、絶対値としては疲れていても、実態と認識の差分が小さいおかげか、もう振り切れてしまうことはなさそうだ。
10.1に異動してから、異動そのものが原因じゃないんだけども、ずっとドタバタしているので、手元にある案件をちゃんと整理しておきたい。


1.所属部署での仕事
実態として部署業務は存在していない。基本的には個人の発想に基づく自由な研究開発をしている。給料をもらっている理由にあたる枠。詳細は後述。

2.所内兼務
内閣府SIP(エスアイピー)の『革新的深海資源調査技術』に携わっている。このうち『テーマ3:深海資源調査・開発システムの実証』に関与しており「環境課題の調査研究およびデータ解析への支援、開発してきた環境影響評価手法の国際標準化を進め、成果の普及活動等によりプロジェクトの目標を達成する」が任務だそうです。具体的には「調査航海の立案・実施」と「得られた成果の国際公表(=英語での論文化)」を担っております。時間エフォートをかなり割いており、いわゆる会社の仕事として参加している。
http://www.jamstec.go.jp/sip2/j/organization/

3.科研費代表
基盤B代表で「熱分解炭化水素の同位体システマチクスを決定する」を実施中。人件費として使用して、熱分解実験と同位体分析のそれぞれで雇用した人が働いているので、自身の日常的なエフォートとしてはほぼゼロ。申請段階では日本各地の熱分解起源ガスを採取して回る計画だが、採択時点からコロナ禍が続いており、そちらは断念して計画のバランスをとっている。3年間で実験論文1本は出そうなので粛々と進める。
https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-20H02020/

4.文科省資金&共同研究
文科省「海洋資源利用促進技術開発プログラム 海洋生物ビッグデータ活用技術高度化」に採択された「インテリジェントセンサEVSを用いた海洋粒子ビッグデータ生成」の研究協力者として実施中。共同研究契約も並行している。いま一番たのしい仕事。代表者がぐいぐい進めてくれるので、全体のデザインをしつつ、海域試験のアレンジを担当している。これ単体でのエフォートはほぼゼロだが、海域試験は単独では困難なため他案件と繋ぐ必要があり、根回し下交渉がそれなりにホネ。成果が出たら業界騒然だと思っている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/boshu/detail/mext_00159.html

5.某企業共同研究
前理事の同級生が偉い人をしている企業との共同研究契約に基づく仕事。この研究自体が論文になるような内容ではない上に、準備が大変な航海が流れたりして、ほぼ何も出来ないままエフォートが吸い取られている。しかし社会的にインパクトのある仕事だと確信して取り組んでいる。

6.サウンドスケープ関係
「所属部署での研究」に該当するかもしれない。かつて在籍したポスドク氏の面倒を見た流れで主担当になってしまっている。思ったより世間()のウケが良くて、止めるに止められない状況。今後は、3点計測で方向を決めたり、長期モニタリングで変動を追ったり、安価で確かな機器を開発して宣伝したり、という方向で進めていくのだと思っている。
https://aslopubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/lno.11911

7.深海現場冷凍装置
「所属部署での研究」に該当する。冷温停止中。手持ちデータで軽い論文にしてしまうか、追加で海域試験をするかなのだが、海域試験のチャンスがなくて頓挫している。早く終わらせたい。

8.はやぶさ2
「所属部署での研究」に該当する。昨日おわった。なんのかんの一年がかり。結構しんどかった、精神的に。自分では何もやってないけど。

9.紅海
「所属部署での研究」に該当する。2019年航海のデータをまとめて論文にしようとしている。変な場所で限られたデータ数なので、まとめ方に知恵を絞らねばならない。

10.熱水プルーム研究
「所属部署での研究」に該当する。航海日数が削減される中で、短期間の航海で面白い成果を出すのにちょうど良いテーマとして再着手するところ。元々ずっと取り組んでいた仕事なので勉強しなくても勘所がわかるという意味ではエフォートがかからない。みんなが喜んでくれればと航海提案書を書いてウッカリ採択されたのでこれから忙しくなる見込み。

11.海底境界層生命圏
「所属部署での研究」に該当する。JAMSTECでしか出来ない、JAMSTECだからこそ、というテーマとして進めようと考えている。「人間は陸上で暮らしていると言うけど、足の裏以外はすべて大気中に存在しているじゃないですか」というような話。海水流動から動物まで含めて大きめに構えた話題にしたいので、かなりの勉強が必要なのだが、全然なにも出来ていない。関係者に「まずは総説を書こう」と呼びかけて頓挫。

12.50周年記念誌編集長
エフォート計算外。10月中旬に(形式上は立候補して)就任してしまった。あの状況じゃ仕方がない。10月下旬から丸3週間ぐらいはエフォートを割いた。年50週だとしたらエフォート5%ぐらいか。最終的には10%にはなると思う。でもまぁやるしかないのでやる。

13.学術会議
エフォート計算外。会議出席で時間エフォートが必要だが大した分量ではない。

14.家庭任務
エフォート計算外。習い事随伴はコチラとしてもリフレッシュ。朝や夕方に自宅待機必須など、在宅勤務を並行できるのでエフォートはかからないが、拘束はされる。
大学の運営費交付金の削減がよく話題になりますが、われわれ国研においても状況は似たり寄ったりです。削減されてます。
http://www.jamstec.go.jp/j/about/suii/

うちは調査船の運航を担っているので、それにかかる費用もこの中に含まれています。船体の維持はもちろんのこと、運航要員(いわゆる船員さん)や調査要員(探査機パイロットとか)の確保とか、消費する燃料とか、運航管理はとにかくかなりお金のかかる事業なのです。お金の足りなくなってきた最近は、保有する船の数を減らすとか、船はあるけど港の留まっているとか、そんな状態に陥っています。この国全体で起こっていることと一緒ですね。財政健全化というのか「健康のためにはダイエットが必要、ダイエットのために断食する」みたいな話です。存在理由の自己否定。アイデンティティ・クライシス。

個々の研究者からすると、自身が実施したいと調査航海に要する日程は、プロポーサルベースで獲得するものなので、必ず獲得できるとは決まっていない。その母数になる航海枠は、上記の都合によって年々減少している。そうするとプロポ審査の競争が激しくなるので、プロポが落ちた時のために航海に依存しない研究にも着手しはじめる。さらに近年は、1期15回講義必須化(単位の実質化)で、大学教員が休講にして長期の航海に出るってのも難しくなっている。そんなこんなで、採択数が減って航海機会が減る、航海に出ないテーマに着手する、機会があっても講義のため断念する、といった具合で次世代が育つ機会が激減する。

一方で、研究資金のプロジェクト化によって、調査航海の予算をプロジェクトから拠出することで、調査航海の枠を確保する流れも強くなっている。ボク個人で言えば、ここ数年はこの枠での乗船が半分以上になっている。業界全体は航海枠が取れなくてヒーヒー言って次世代育成が成立せず縮小しつつある中で、業界の中堅たるボクのような限られた人間が航海日数が多すぎてヒーヒー言っている。とても不健全だ。じゃあボクの航海枠を業界でシェアすれば良いじゃないかとも思うのだけど、そして出来る限りはやっているのだけど、どうしてもプロジェクトの壁があって、そうそう簡単にはいかない。これはもどかしい。

そして自分自身の話。

今後のキャリアを考えると、そろそろココが分岐点という状態にある。つまり、ウチじゃない場所に異動して業界で生きていくならば、リスクヘッジとして調査航海に依存しない研究も続けておく方が良い。ウチに居続けるにしても、調査航海の機会が減ることは間違いないので、その意味でも航海依存研究の一本足打法は危険だ。

でも逆の視点からすれば、ボクみたいな特権的に調査航海機会に恵まれた人間が、調査航海に依存する深海研究に対して半身で構えているのは、失礼というか、もったいないというか、無責任な態度だともいえる。ボクがちゃんとやらなきゃ(どこかの鹿馬が考えた自己マン調査に貴重な航海枠が消費されて)業界が沈んでいってしまう。

内向き政治的な文脈重視の「我が国は素晴らしい」路線に寄り添って科学的な視点が欠落した海洋調査を進めることは恥ずかしい。でも、国際的な海洋業界の北西太平洋支部であることは、なんとなく意義があるようにも見えるけど、アタマが「我が国」か「国際コミュニティ」かの違いはあれども考えなしの文脈依存という点で変わりが無い。

そういう考えがあって、さしあたり向こう10年間ぐらいは、調査船をつかう研究に、今まで以上にズッポリと足を突っ込んでいくと決めた。自分の道を狭める方向に足を踏み出したわけです。狭めた先が行き止まりになるのではなくて、広大な世界を開拓するつもりではいるけども、そんなことが出来るかどうかは全然わかんない。


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休憩しながら書いたら、まとまりがない。
コリン・パウエルと共に「大きな合意」を喪くす分断のアメリカ
執筆者:中山俊宏 2021年11月11日
https://www.fsight.jp/articles/-/48392
『パウエルは、大統領にことの難しさを伝えることはしても、決断そのものに対して反対はしなかった。大統領の決断に対して物申すべきではないという「グッド・ソルジャー」の体質が、理性的な判断を上回った』
『パウエル将軍は、どこまでいっても「グッド・ソルジャー」だった。それがあらゆる限界を突破したソルジャーの限界でもあった』

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『右翼と左翼』ということをしばしば考えている。支持政党とか政治思想的な意味合いではなく、事に当たる態度あるいは考え方だと思ってほしい。ここではとても大雑把に『右翼は現状是認、左翼は理念先行』ぐらいに捉えている。たとえば「社会はかくあるべし、だからこの制度は変えるべき」というのは左翼的で、「今の社会はここが良くないから改良するべき」というのは右翼的。この視点で言えば、現状よりも過去の方に理想を見出すのが極右であり、個人の解放を実現して無秩序に人類の個体群が生存している状態が極左と言えるかもしれない。

学術活動は左翼的だが、しかし学術界の住民は右翼的だ。

そんなことを考えていたところでコリン・パウエルの追悼文に出会った。パウエルさんの著書『リーダーを目指す人の心得』を読んで、バランスの取れた人だと感心したのだった。軍人ゆえのリアリズムと、黒人であること、あるいは黒人の代表的立場にあることを自覚した毅然とした態度。

軍隊は徹底した現状分析で今ココの状況打開を目指す。被害者を出してでも制圧するのか、被害者を最小化するために撤退するのか。現場の軍人にはギリギリの判断が要請される。しかし。その判断材料は提供できても、判断主体にはなれない。そして決断が下されれば、己の思想信条とは無関係に、それに従い遂行せねばならない。この辺り、徹底的に右翼的だ。一方で、黒人の地位向上、極論すれば人権の主張というのは、とても左翼的な行動だ。理念、理念、理念。

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日本において研究者の態度として良いとされていることの1つに、好奇心駆動での研究がある。己のうちなる情熱の赴くままに研究に取り組む。研究者に「好きなようにさせる」ことが、成果を最大化する最善手である、という主張も、これに近いのかもしれない。好奇心駆動研究を良いモノとする態度は、とても左翼的だ。アナーキー。

しかし日本の学術界は、そんな態度を支援する姿勢で運営されているかというと、かならずしもそうではない。審査と評価。相対的優劣。実践面ではそんなものが学術界を支配している。学術界の資金源が税金で、省庁に逆らうことが出来ないのが、そうした運営実態の原因だろう。つまり、学者個人の内側からの発露ではなく、現状の社会制度の枠組からの制約で運営している。とても右翼的だ。

冒頭の追悼文でコリン・パウエルに向けられた『グッド・ソルジャー』という評価は、まさにそのまま日本における『グッド・サイエンティスト』に繋がる。日本における学術界の諸問題を解決するには、社会構造そのものを変革しなければならない。多くの学者がそう考えている。しかし変革を本当に実現するほどの強度では行動しない。それは多くの学者が『グッド・サイエンティスト』だからだ。

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コリン・パウエルの『グッド・ソルジャー』たる姿は、コロナ禍における尾身茂の姿と重なる。(事実上)政府の中にあって、科学的な知見から意見を言う。ギリギリの線まで主張する。しかし最後の一線は政治判断に委ねる。決まったことには従い、その範囲内で最善手を探す。決して政府からは飛び出さない。『グッド・サイエンティスト』だった。

様々なコロナ禍ルポで「ここで政府とケンカしてしまって、その後は誰が事態を収拾するんだ」という主旨の尾身発言が採用されている。尾身さん自身には『グッド・サイエンティスト』であることについて、忸怩たる思いがあったはずだ。しかし感染症の流行という状況にあっては『グッド・サイエンティスト』であり続けるしかない。そこには尾身さんの葛藤がある。おそらくパウエルさんも、イラク戦争の状況下で、『グッド・ソルジャー』であることに葛藤があっただろう。

パウエルさんも尾身さんも、外形的には、右翼的にも左翼的にも見える。それは「現状の社会の中枢にあって」「最大速度で社会変革を進める」という右翼と左翼の分水嶺に立って、その位置で最大強度を発揮して行動していたからだろう。必須である社会変革のために、現状を是認して中枢に身を置く必要がある。妥協点としての中道ではない。最善手としての中道。

日本の多くの学者からは『グッド・サイエンティスト』であることへの葛藤を感じない。今の日本で学術に取り組むには(事実上)『グッド・サイエンティスト』であるしかない。しかし『グッド・サイエンティスト』であるということは、学者である良い態度ではない。妥協点としての中道。妥協的『グッド・サイエンティスト』。

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文科省国研にあってのJAMSTECとか、日本学術会議にあっての若手アカデミーとか、そういう準中枢的な組織こそ、いわゆる「ギリギリアウト」的なラインを攻めることで、社会を揺さぶる必要があると思っている(個人の意見です)。準中枢的な組織だからこそ、組織の行動指針や事業や構成員の多様性を大きく持って、その平均値が『グッド・サイエンティスト』的な態度を少し左側に超えたところにあるようなイメージ。とはいえワンシグマの範囲には『グッド・サイエンティスト』が入っている。その「ちょっと左にハミ出す」部分は、意外とみんなが見てみたい領域なんじゃないかな。

ボクのことを露悪的だと評する人が一定数いて、なんでそんなことを言われるのかと思っていた。でも何だかわかってきた。ボクは日本における『グッド・サイエンティスト』の分水嶺を、少し左に動かしたいんだ。その「ちょっと左側」にこそ、学者にとっても国家社会にとっても、明るい未来があると確信している。
水泳の指導をしていた時、「腕を前から後ろに掻く」と言っても、選手がうまく出来ないことがあった。それは「前」といった場合、通常の感覚では人体の表面なのだが、水泳的には人体でいう頭の上だからだ。

バスケでは「パスは相手の胸に出す」という。パスを受けた選手が次のプレイに入りやすいからだ。もちろん場合によってパスの高低を工夫することもあるが基本は「相手の胸に出す」。ビシッと相手の胸に出せるのが、競技能力としてはベスト。

「対面でのチェストパス」という、パス練習としては一番基本的なメニューをやることがある。向かい合ってチェストパスを相手の胸に出しあおうというメニュー。この練習はパス交換が出来ればスムースに進められるのだが、パスを落としてしまいがちだと、球拾いで練習時間が無駄になる他、気持ちも切れてしまうという難点がある。だからパス交換がまだ巧く出来ない低学年では(一部の高学年でも)このメニューをこなすこと自体が難しい。練習をスムースに進める指導法はないものかと考えていた。

キッズにパスを教える初手として「相手の胸に出す」は、かならずしも適当ではない気がしてきた。投げ手と受け手、双方に理由がたくさんある。

そもそも人体において「胸」と呼ばれる領域がどの辺りを指す言葉であるか、よくわかっていない子がいる。たとえば「ヘソより上」を胸だと認識しているかもしれない。さらに練習では人体は服の下に隠れているため、相手の胸がどこにあるかは、実は想像しているに過ぎない。これは盲点だった。「コーチ、相手の胸ってどこですか?」と聞かれると、たしかに「この辺り」としか回答できない。選手によって服装がマチマチなので、一括して「ココ」と指定しにくい。その上で、出し手がまだ未熟なので(だから練習をしているので)、胸に出そうとしても、ボールの行き先には、相手の顔から下腹部までぐらいの誤差がある。

受け手に「胸の前に手をあげて待つ」と指導すると、脇を締めた状態から肘から先だけをピョコッとあげて構える場合がほとんど。これでも確かに手の平は胸の高さにくる。しかしパスが低くズレると、手首を返さないと手の平を相手側に向けられず、パスを取れない。あるいは手首を返せずに指が相手を向いた状態になり、突き指するリスクもある。パスが高くズレると、慌てて肘からあげねばならず対応が遅れる。

受け手には、顔にボールが飛んでくるという恐怖心があり、「胸の前に手をあげて待つ」のは顔が守れないため恐怖を感じている様子もある。そういう子に特徴的なのは、胸の位置にあげた手の後ろに顔を隠すべく、アゴを引いて猫背になる構え。肘があげにくく、視線も下向きになり、そもそもの恐怖心も相まって、高くズレたパスをよけてしまう。

こうした難点を回避するため、つまりは「キッズが認知できるピンポイントの場所を指定できる」「ユニフォームを着ていても露出している」「誤差まで含めてパスが取れる範囲におさまる」「腕全体を使った受け手の構えの指導がしやすい」「顔にくる恐怖心を取り除ける」ことを満たす指導をした方が良いなと考えた。

「(練習では)パスは相手のアゴに出す」が、最適解なんじゃないかと考えた。まず的が「点」で明瞭になる。キッズもアゴは知っている。アゴを狙って低めにズレると胸になる。アゴの前で構えるには上腕からあげる必要がある。「顔にくるかもしれない」ではなく「顔にくる」設定なので、恐怖心克服には向いている。

低学年のうちは「アゴに出す」で指導をして、パス練習そのものを円滑に回せるようにする。そこでパスにかかわる神経系と筋力を確立する。高学年になったところではじめて「競技としては受け手が次のプレイに移りやすい場所にパスを出す。たとえば胸、伸ばした腕の先、空いている空間など」とパスの出し先の指導を開始する。そういう手順の方が良いんじゃないかな。
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