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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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スイスで暮らしていて「良いなー,日本でもやれば良いのにー」と思っている2つのこと。1つは電車の運賃変動制。もう1つは2段階消費税。

スイス連邦鉄道(SBB)は車内改札制。駅に改札機はなくて(回数券用のものはあるけど)車内改札が抜き打ちでやってくる。まぁこれは今日の本題じゃない。運航ダイアは基本的に「毎時xx分とyy分」と30分間隔固定で,車両の編成数が混雑時と閑散時で異なっている。ボクが通勤に使っている「S7」路線だと,基本単位が「2等2両+1等1両」で,閑散時は1ユニットだが,通勤時などは4ユニットになる。ちなみに朝の通勤通学ピーク時間帯は07時台で,4ユニットでも席が埋まるので通路に立ったり(2階建てなので)階段に座ったりする人が発生する。日本のように押し合うほどにはならない。これも本題じゃなかった。

本題。SBBのネットシステム(と車掌の改札端末)は充実していて,チケットをウェブで購入してプリントアウトしたバーコードを持って行けば良い。それでそのウェブ購入する時に,「日」で指定するチケットと,「時間」まで指定するチケットを選べる。その「時間指定チケット」は同じ区間であっても時間帯によって値段が異なる。最大で半額ぐらいになる。ちなみに値段とは別に,車両の編成や混雑予想(3段階)も購入画面の時点で示される。

うちは早起きなので,土日にお出かけする場合は,往路は朝早めの時間指定安値チケット,復路は子供が何を言い出すかわからないので日指定の通常料金チケットにすることが多い。チケットが安いこともだが,長距離路線には「遊具車両」があるので,これが空いている時間帯にすることが,両親の疲労軽減にはとても重要だからだ(遊具車両の有無もウェブ購入時に確認できる)。これも本題じゃないな。

とにかく,時間帯によって値段を違えて,それで乗客数をコントロールして,混雑を緩和させようという試みは素晴らしい。素晴らしいので,ぜひ日本に導入して戴きたい。日本のあのアホみたいな激コミ。あれが精神に与える悪影響は,小さくない。当たり前すぎて受け入れてしまっているが,あんな生活を40年もするなんて,ちょっとどうかしてる。人間としての尊厳というか,なんというか。実際に犯罪の温床にもなっている。

Suicaなどの普及度はもはや「100%」と言えると思う(どこかに資料があるでしょう)。少なくとも混雑車両に乗るような人々の多くは定期券を使うだろうから,この層に限ればより普及率も高いだろう。ということで,Suicaを利用して,値段を変動させれば良いと思う。「安くなる」だとあまり得な気がしないなら「ポイントが貯まる」でも良い。むしろ定期券の場合は「乗る時間によって安くする」のは難しいから「ポイントで還元」の方が良いかもしれん。

これは紙の切符だった頃には困難だっただろうけども,Suicaの普及で導入ハードルは下がっている。つまり利用者側は何もしなくても,改札機のソフトを変えるだけで,無限に調整が可能だからだ。技術革新による社会問題解決。

きっと鉄道会社にとっても混雑ピークの解消は喫緊の課題のはず。ちょっとした工夫と,ちょっとした損失(安売りすることで損はするが,それもベース料金をあげれば補填可能だ)に目を瞑るだけで,劇的に社会が改善するなら,やらない手はない。もしかすると法的に運賃が縛られているのかもしれないが,それだってこれだけの社会問題なのだから,その辺の国会議員を連れてきて電車に乗せるデモでもすれば,一発でしょう。

2つめ。多段階消費税。個人経営の店でない限り,レジ機の普及率は100%に近いと思う。これもまぁ電子決済だ(?)。だから,品目と税率の対応さえ事前に決まっていれば,すぐにでも多段階消費税は導入可能だ。日用品は税率を下げ,非日用品は税率を上げる。たとえば飲食物/飲食店は2%,それ以外は10%。酒は消費税ではなく酒税で調整。それだけで社会格差の是正につながる。技術的には「明日にでも」導入可能だということは間違いない。

とはいえ,こちらの問題は多方面の業種に影響があって,中でも「声の大きい」製造業,端的に言えば車屋と家電屋,が猛烈に反対していることが原因でなかなか進んでいない様子。貧困世帯とか,生活格差とか,根本的な社会問題のはずだが,日本の政治は基本的にそういうことをあまり重く考えないし,「公的システムによる補助を通じたボトムアップ」よりも「会社の業績改善でプルアップ」の方が良いと考えているみたいなので,なかなか困る。というかいつまでも車屋や家電屋が大きい顔をしている社会というのがそもそも・・・。


「無理だ」という理由を見つけることは簡単だ。「変わった後の世界」を「想像」することは困難かもしれない。でも「変わった後の世界」の「ロールモデル」がすでに存在しているなら,それを見に行けば良いだけのこと。便利なこと,皆が助かること,社会全体の幸せの総和が大きくなりそうなことであれば(特定の個人にしわ寄せがいかないことも大事だよ),国を超えてそれを共有していけば良い。それでこそ「グローバリズム」なんじゃないかしら。
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ボクの中でずっとモヤモヤしている部分の小さくない領域には,科学研究の功罪というか,将来的な成否というか,そんなものがある。それがあって,職業研究者をしていながらも,いまいち科学研究に「のれない」でいる。

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科学研究に終わりはない。おそらく。少なくとも今ボクが身を置いているような「生命の起源」なんてテーマについては「絶対に」解けないと言ってもいい。「絶対に」という言い方が科学的でないなら「おそらく300年後の時点ではまだ解けていないだろう」とした方がかもしれない。まぁとにかくそんな感じだ。だからこそやりがいがあるんだろうし,だからこそ多くの人を惹きつけているんだろうし,だからこそ少なくない資源が投入されているんだろう。

でも,たぶん,その部分に「のれない」理由がある。といっても「解けない問題を解こうとするなんてバカだ」と言いたいわけではない。むしろ「解けないからこそ取り組みたい」「その過程が楽しい」「正直言って結果がどうこうなんて興味が無い」「役に立つかどうかなんて知らん」ということ自体には,一般的な人が示す以上の同意を抱いている。そうでありながら,それでもなお,「のれない」のはなぜなんだろうか。

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科学や技術というのは基本的に右肩上がりだ。近現代の科学には(出版とか査読とか引用とかの)次世代に伝承する作業も含まれているから,基本的には,一度獲得された科学の成果は,適切に次の世代へと継承されていくことになっている。だから成果の量的には常に右肩上がりだし,基本的には質的にも右肩上がりであるはずだ。たとえば,日本ではしばしば話題になる「伝統芸能の職人技術の伝承断絶問題」なんかは,出版物で継承しないこと(あるいは紙に残せない有形無形の術が無限にあること)に問題の根がある。つまり,紙で残せないから,人的なつながりの断絶が起こると,そこまでの蓄積の大半が失われてしまうのだ。これは逆もまたしかりで,つまり紙に残しておけば,時空間的に途絶えたとしても,継承される可能性があるということで,科学はその部分をとかく大事に扱っている。

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とにかく,科学研究をすればするほど「生命の起源」に漸近していくけども,一方で絶対に「生命の起源」には到達できない,という状況設定がある。そんな中で,科学は右肩上がりなんだけれども,地球の状況,特に資源は,そういう訳にはいかない。資源というのも色々あるけれど,ここではエネルギー資源と,元素資源と,労力資源の3つについて考えることにする。いや,資源そのものについては,また別の機会に書こう。

「生命の起源」を解き明かすために,あの手この手を講じて,様々な研究をしている。たとえば液体ヘリウムを使った極低温実験がそのキモであるとする。でもヘリウムが枯渇する近未来には,貴重なヘリウムは医療用のみに使途が限定されてしまい,もはやヘリウムを用いた「生命の起源」研究は出来なくなるかもしれない。そんな時に一部の研究者は「いや,それでも生命の起源研究は大事だから,医療用に限定せずにヘリウム使用枠を研究用に開放しろ」と言うかもしれない。たぶん言うだろう。そういうことを想像すると,ボクはそういう意見には「のれない」と思うわけだ。

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今回は資源の話は省略したし,ヘリウムとかいうヘンテコな例で説明したけど,つまりはそういうことだ。これには2つの意味がある。一般にわかりやすい方の意味としては,エネルギー資源でも,元素資源でも,労力資源でも,何でもかまわないけど,資源の枯渇が人類にとって今よりもすごく大きな,喫緊の問題になる将来がやってくる。その時に「解けない謎を解こうとするオレ達のエクスタシーのために資源をよこせ」というような傲慢な気持ちにはなれないなぁ,ということ。

もう1つの意味は,こちらの方がより重大だと思っているんだけども,科学の成果自体は積み上げ式で右肩上がりに増加しているんだけど,それを支える資源的な基盤が崩壊したら,積み上げてきた科学成果を次世代では利用できなくなるということだ。つまり,「極低温実験であれば解ける」という取り組み方に依存した結果,「極低温は作れません」という状況に陥ってしまうと,その研究はそれ以上進めることができなくなる。そういう未来は,そう遠くない時期にやってくる。どの分野に,どういう形で降りかかるかはわからない。でも,そんなことを考えると,特に今の「特殊な機器を開発して目新しいデータを出して科学を大きく前に進める」という風潮にはまったく「のれない」のである。「このまま進めば300年後に到達できる」けど「100年後には資源が枯渇して進み続けることができなくなる」ならそれは「300年後に到達できる」とは言わないのだ。

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じゃあ,だからといって,すべてを諦めたような態度になって,科学研究自体をすべて放棄してしまうというのも,あまり良い態度ではない。アインシュタインの言うように「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走り続けねばならない」ということでもあって,人生に限らず「世界」もまた,良くあり続けるためには,走り続けることが大事なのだ。もちろん無闇に走り回れば良いわけではなくて,オシムの言うように「走れ!考えろ!適切な時に適切な位置に走れ!」ということだ。

今なんとなく「こういう研究の進め方が良いんじゃないかな」と思っているのは,より古典的なやり方を重視することだ。つまり,既存の文献知識をもとに,その内容を熟知した者が集まって,対話を重ねて,確かなこと,おそらく確かなこと,もっともらしい仮説,解明すべき課題なんかを,丁寧に整理していくこと。

もちろんこれは今の科学研究でも当然「やっていることになってる」んだけども,かなり軽視されていると思う。今の研究はどちらかと言えば「3歩進んで2歩下がる」的に「四方八方に走り回りながら少しずつ前に進んでいる」感じだけども,これから(今でも)大事なのは「2歩下がって3歩進む」的に「大事な脇道を見逃しているんじゃないかなぁちょっと戻って確認してみようよ」的な方式で進めることなんじゃないかと。

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この話題になると「評価がー任期がー短期的な成果じゃー」ということになるのかもしれない。でもそんなことは,研究業界外の人にとっては,まったく関係がない話だ。「研究業界の中で運営方法(評価制度)を変えれば良いだけでしょ」ということだ。

自分の内側ではこんなことを考えているんだけども,自分が身を置いているのが「資源大量投下型研究の大本営」のような研究所なので,そこから給料をもらって生きているというのが何とも恥ずかしい限りだ。自分の精神の健康のためにも今すぐ飛び出したい。一方で,子供達にご飯を食べさせなければならない。もちろんそんなのは言い訳で「今すぐ飛び出して,かつ,子供達にご飯を食べさせる」ことだって出来るはずだ。そうしないのは,自分の怠慢だ。そして自分の怠慢の対価として,「こうじゃないよなー」と思っているスタイルで研究を進めているわけだ。

「怠惰と潔癖の相克」ということですね。
「楽しく生きていたい」これに尽きる。

そのためにどういう状況が必要なのか。

「自分の周囲の人々が楽しく生きている中で自分も生きていく」のがきっと楽しいだろう。

そんで「自分の周囲」って何かねと聞かれれば,まぁつまり世界ですよ。ボクの場合は。ネットを開くだけで見える範囲でこんな状況で,きっとネットでは見えないところにはもっともっとアレな状況が広がっているのだと思っています。

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じゃあどうするか。垂直と水平の展開がありえる。自分が暮らしている「層」の中で(水平方向に)より強く思いを巡らせるということもありえる。研究業界だったり,収入の頃合いだったり,まぁそういう社会的地位みたいなもの。

でもあんまりそこには興味がない。どちらかというと,もっと垂直方向だと思う。というか,自分がいま身を置いている「層」は,極めて恵まれていて,この内側でさらに状況を良くしていくというのが,ボクにとってはそれほど重要に思えない。具体的に言えば,「研究者の給料が少ない」とか「自由な時間が少ない」とか「任期制がー」とか「アホとは一緒に仕事ができん」とか「ジャパニーズ・お役所仕事がー」とか何とかかんとか,そういう「問題」が水平方向の人々と共有されているわけ。

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でもボクの状況って,もうちょっと広い範囲から見たら,たとえば世界の人々を履歴書的というかカタログ的に見たら,本当に恵まれていると思う。日本という比較的平和な国に生まれ育って,一般的に見れば健康で,男性で,公教育を享受して,今の給料は平均以上にはあるし,労働条件は悪くないし,子供もいる。70億人スケールで見たら,上位1%レベルで恵まれている状況にあると思う。

そんな1%層にいる自分が,例外的に恵まれている1%層の自分が,その状況を享受してノウノウと生きて「あぁ楽しいなぁー」なんて言っていて良いのか。いや違うな。そんな自分の状況を認識してしまっている現状では,無邪気に「あぁ楽しいなぁー」という気分にはなれない,というのが今の心境なんだな。

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おこがましい?恩着せがましい?厚かましい?ピッタリくる表現はわかんないけども,そういう態度であることは理解している。理解しているんだけども,やっぱり自分がノウノウと暮らしているのは,オサマリが悪い。

結局は自分のオサマリの悪さを解消したくて,そのために「キミは不幸な人だね。ボクが助けてあげるよ。」とやって気持ちよくなりたいだけなんだな。なんてイヤなヤツなんだ。最低だな。

そもそも自分を「上位1%層にいる」とか言ってる時点で終わってる。マジで終わってる。きもい。

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でも,間違いなく最低でキモイんだけど,でもやっぱり,この世界には「それはアカンでしょ」ということが蔓延していて,それに気付いていて,それを解消できる立場にあって,それをどうにもしないでただ看過するだけってのは,それはそれで最低なことだと思う。

どう言って良いのかよくわかんないけど,たとえば女性の方が「損」していると思う。損をさせる社会があって,損させられている当人達が頑張らないとそれが解消できない状況にある。そんなのはおかしい。

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自由とか人権とか公教育とか,何でそんなものがあるのかって,その人間の「生」を他人が収奪しないために,昔の人が色々と考えて創作したからこそ,あるんだと思ってる。そういうモノを開発して普及させた人達自身は,別に収奪される側ではなかったんじゃないかな,とも思う。本当に収奪される側の人間だったら,こんなモノを創作するだけの知力も体力も,獲得することが困難だったはずだと思う。まぁこの辺りは勉強すればすぐにわかるか。

いずれにせよ,ボクはそうやって今ここに存在している自由とか人権とか公教育とか,そういうものをたっぷりと享受して,それなりに楽しく生きている。そしてボク自身は,自由とか人権とか公教育とか,そういうモノが機能している社会の方が,より多くの人が幸せになれて,そういう社会で生きている方が自分もより幸せになれると確信している。

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そんなわけで,動機は「自分が気持ちよくなりたい」という極めてキモイものなんだけども,自分がやろうとしていることについては「悪くないんじゃないかな」と思っている。

ということで,目標というか大きな方針としては,「人道・理念にもとる社会的な問題」だと思うことについて,たとえ自分がその問題における直接的な被害者でなかったとしても,改善するように何らかのアクションを起こしていこう。そんなことになる。

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それで実践上,何をどうするかということ。つまり「垂直方向にどこまで延ばしてアプローチするか」ってことと「アプローチの方法をどうするか」ってこと。

自分が今置かれている状況を最大限に利用するなら,やっぱり「大学教育を通じた何か」になる。つまり対象は「大学生」あるいは「大学界隈の人々」になる。アプローチの方法は,まずはごく単純に「大学教員としての業務」を通じたものがある。でもこれだけで良いのだろうか,という悩みが残る。「大学教員である」ということを利用して,もうちょっと先に延ばしたアプローチも可能なんじゃないか。それが何かは煮え切らないけども。

あとはやっぱり,ウェブを通じた取り組み。今はこうして駄文を連ねることぐらいしか出来ないけども,もしかしたらもうちょっと違う何かができるかもしれない。できないかもしれない。それは考えないと。

100人に1のダメージを与えるよりも,100人の中にいる1人に100のダメージを与えるような,イオラよりもメラゾーマというか,そういうモノを目指している。

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だんだんわからなくなってきたので,このへんで。
ある1年に大学へ入学する人数がだいたい60万
ある1年に修士に進学する人数がだいたい8万
ある1年に博士に進学する人数がだいたい2.5万弱
(大学教員は20万程度らしい)

4大卒で就職する比率は8割以上。
修士に進むのは15%未満。
博士を取得するのは5%未満。

やっぱり大学教育ってものをどうするか,あるいは大学というものの役割をどうするか,その部分に対して真っ正面から向き合っていかねばならんと思う。授業料無償化とか給付型奨学金とか,そういう議論ももちろん進めれば良いけども,でもやっぱり「そもそもどうして大学が必要なの?」って部分を社会で共有できていないことには,議論が立ち返る場所がないし,「どうしてそこに税金を」という話に戻ってしまうことは容易に想像ができる。

あとそこを突き詰めることで「大学教員は”研究者”である必要があるか」という議論にもつながる。これは色々な見方があるだろうけども。たとえば欧米式だと学部生の授業は,大学院生がTAとして受け持つ比率が小さくないらしい。日本でも非常勤講師だったり,あるいは企業人が教員として授業をすることもあるようだし。

とにかく議論が偏っているのが気になる。偏っているというのは,トップクラスの大学(東大以下帝大など)の人々が,彼らの世界観での「大学」を語り方針を決めがちな現状があるんだけども,でも実態として大学(大学生)のヴォリュームゾーンにおける実態としての大学(大学生)ってのは,そういうトップクラス大学の世界観とは似ても似つかぬものだと思う。

じゃあこの両者(トップクラスと非トップクラス)で,「社会における大学の役割」という大スローガンを別々に掲げるのはどうかというと,それはそれで大問題な気がする(たぶん制度的に)。だからそこは分別せずに,同一視して共有しつつも,各大学における教育強度みたいなもので分別するのが良いんじゃないかと考えるわけ。

トップクラス大学が目指しているのは,次世代の研究者・大学教員・官僚・医者・経営者など,社会を牽引するリーダー的な人材の育成なんだろう。たぶんこの部分は明確で,それほど見解の相違が生じることはない。

翻って,非トップ大学が目指しているのは,いったい何なのだろうか。「特色ある大学」や「地域貢献」というが,果たしてそれが意味するものは。特に大学での「教育」に焦点を当てた場合に,非トップ大学はどういう人材を育成することを目的にするのだろうか。あるいは世間は非トップ大学にどういう人材を育成することを望んでいるのだろうか。ここが不明瞭なんじゃないか。


自分自身が北大でしか大学生活を送っていないので,こういうことは想像するしかない。しかしまぁ,どうなんだろうか。せっかく時間があるので,整理していきたい。
「誕生パーティーがわからない」の回を読んで,
とても印象的だったのでメールしました.
単なる自慢話に聞こえそうですが.

我が家では,友達を呼んでの「誕生パーティー」はしたことありません.
11月にあった長女のX才の誕生日はこんな感じ.

・妻が芋とイチジクのスポンジケーキを作って,みんなで食べた.
・家族みんなで「ハッピーバースデイ」を歌った.
・プレゼントは妻がばあちゃんの服の生地を再利用して作った手袋.登下校が寒くなってきたので娘喜ぶ.
・同時に次女には部屋履き用の手作り靴下をあげる(次女は前からこれが欲しかったらしく喜ぶ).
・長女をはじめ,みんなが産まれたときの様子を妻と私が得意気に話す.当時の写真を見直すこともある.

毎回,大体こんな感じです.
他の家族に向かって「誕生日はこう過ごすべきだ」と言いたいわけではなくて,
我が家ではこのような過ごし方が気に入っている,ということです.

行事としては大規模なことはしませんが,気持ちとしては誕生日は特別です.
その一年に特に何もなかったとしても,
子どもたちと一緒に,その年齢まで生き抜いてこれたことが私にとっては嬉しいからです.

特に何かをしたわけではありませんが,家族を作りながらここまで来るのに,
大げさではなくて私と妻にとっては必死でした(今もかなり必死).
なので,何事もなく子どもたちと自分たちの誕生日が迎えられることは,
嬉しく感じます.
ありがたいことだ,と感じます.

誕生日の捉え方や過ごし方は,
人それぞれあると思いますし,
それでよいのではないかと思います.
チューリッヒに来て4ヶ月が経過したところでの帰国。スイスの人々との交流はそれほどでもないし,スイスの習慣にどっぷり浸かっているわけでもない。そんな状況で日本に戻って,どう感じたかってことを,記録しておこうと思う。以下つらつら。

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自動販売機が素晴らしい。あれはすばらしい。今回は特に味噌汁と汁粉にお世話になった。100円ちょっとで,温かくて美味しいモノが,即座に手に入る。自販機へのSuica普及も素晴らしい。煩わしいコミュニケーションがないのは良い。チューリッヒにも自動販売機があるが,総じて割高(500のペットが300円ぐらいとか)。自動販売機の負の側面(労働負担・環境負荷)はマジメに評価する必要があるが,とはいえ,素晴らしい。

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コケがはえてる。空気の湿度の違いだろうけども,地面や壁がべたっとしていて,薄くコケがはえている。道の端も黒ずんでいたり,雑草が元気に生えていたり。

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山間部に複雑な地形や植生が残っている。篠山という田舎にいったからかもしれんが。田んぼにしているところ以外はグネグネの地形で草木がボーボー。チューリッヒ郊外だと,地形はそのままだけど木はほとんど伐採されていて丘のほとんどが放牧地になっている。その分,視界も開けている。良し悪しではないが,篠山は「うっそうとしている」という感じだった。

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「うるさい」。交通機関や街中や,とにかく色んな「音」がする。それぞれの機械からそれぞれのメロディーが流れていたり。電車が入線する,ドアが開く,信号が変わる,自販機に近づく,何をしても何らかのメロディーが流れる。ペラペラの音質で。店の店員もよく喋る。街中では勧誘などの声もする。音量が大きいのではなく,音の放出源が多い。情報量も多い。「京成線内でおきました急病のお客様の救護のため」遅延しているらしいが,「遅延」以外の情報っているか?むしろ前段の情報のせいで,「遅延」なのか「停止」なのかがわかりにくい。

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掲示物も「うるさい」。まずポスターや看板が多い。色使いもドギツイものが多い。その上,それぞれのコンテンツにビッチリと文字が書かれている。大きなものから小さなものまで「うるさい」。たとえばトイレの水洗ボタン。「このボタンを押すと水が流れます」って書いてある。「流す」で十分でしょ,と。さらにそれを英訳・中訳したものが並記してあったり。エスカレーターの絵に斜め上向きの矢印が描かれているアイコンが看板にある。その横に「のぼりエスカレーター/Escalator UP」と文字が書いてある。アイコンにしてる意味がない。看板文字のフォント・サイズ・配置にも統一感がなく詰め込んでいる。「デザイン」がわかっていないんだな。

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街が汚い。自分の中に「日本はきれい」という何となくの幻想があったのかもしれない。そんなことは無かった。落ちているゴミはわりと多い。建物の外壁など,業者が入っているところはピカピカだが,それ以外は黒ずんでいたり。

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接客が良くない。言葉面は丁寧なんだけども,本当に懇切丁寧に接客しているかというと,そうでもない。あくまでお仕事として,表面的に「丁寧さ」を演出しているのが丸わかり。表現が難しいところではなるが。あくまで「賃金労働としての丁寧さ」ということか。たぶん私生活において「紳士的に振る舞う」という文化がないので,極端な擬装になってしまうのではないかと。チューリッヒで店に行ったり近所づきあいをしたりすると,もうちょっと自然でグラデュアルな「丁寧さ」があるように感じる。

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他人に対する態度が極端。日本では自分と知り合い以外は「敵視」ぐらいの感じを受けた。新幹線の自由席の奪い合いとか,席を詰める時の振る舞いとか,ベビーカーが載ってきた時とか。露骨にイヤそうにする。

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電車で人が寝てる。チューリッヒと日本で,それぞれ同じような位置付け(郊外の住宅地から都心への朝6時台の通勤電車)で乗車したが,8割が寝ていた。チューリッヒでは8割はフリーペーパーかスマホを見ている。電車内という場の位置付けと,朝という時間帯の位置づけと,疲労の残留と,大きな違いがあるんじゃないかと。あとは身なりが汚いというか「だらしない」かな。服がヨレヨレだったり,カバンがしなしなだったり。チューリッヒの方が「パリッと」しているように。

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だめだ。滞在中の感情の生々しい部分がだいぶ減っている。帰りの機内で書くべきだった。
誕生パーティーをするのが,よくわからない。何がメデタイのか。何を祝っているのか。その日が「誕生日」であることだけを理由に祝っているのだとしたら,それは単なる「記念日厨」の発想だ。「1つ歳を重ねる」というならば,数え年文化を念頭におけば,正月を祝っていることがそれにあたるんじゃないか。

いわく「だって子供が喜ぶじゃない」。それは物事の前後が逆でしょう。子供を喜ばせるために企画しているのが誕生パーティーなわけで,子供が先天的に誕生パーティーを好きなわけがない。子供にとっては理由なんて何でも良いことで,単に好きなものが食べられて幸せな感じの雰囲気に包まれれば,それは喜ぶに決まっている。

じゃあ毎日そんな生活を心がければ良いじゃないか。毎朝毎晩「この世にうまれておめでとう/ありがとう」と言って暮らせば良い。毎日三食おいしいケーキを食べ続ければ良い。24時間部屋の中を飾り付けておけば良い。そうしない理由はない。

「毎日じゃ意味が無い。感動が薄れる。稀にある特別な日であることが重要」ということであれば,別に誕生日である必要はない。正月でも良いし,毎月1日でも良い。ことさら「誕生日」に紐付けする理由はない。

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まぁそういうことを考えてきた中で,実際に自分の子供がいて,その誕生日を祝う様子などを見ていると,本当に悪影響しか見えてこない。一ヶ月前から自分の誕生日に向けてカウントダウンをして,「ああしたい,こうしたい,ああしてほしい,こうしてほしい」と延々言い続けている。自分が祝われる立場であること,皆が自分を祝福することを,当然のものとして考えている。

これが「愛されて育つ」ということなのかもしれない。誰もが自分に対して善意を持っていると信じて疑わない心の醸成。仮にそれを究極の目的として子育てをしているのであれば,その一貫として誕生パーティーを企図しているのであれば,皮肉ではなく「本当にうまくできた仕組みだなぁ」と思う。でも,たぶんそうじゃない。

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昨夜は言葉の通じない団地の子供達を招待したこともあって,負の側面がすごく顕著に出現した。それを目の当たりにして,やるせない気分になった。

まずパーティーをやるので来て欲しい,と伝えるにあたって,相手の意向を把握することができない。「バースデイパーティー,カモン」と言い捨てるだけ。言われた側からすれば,理由もなく断るわけにもいかないだろうから,当然来てくれる。でも実際のところ,どう思っているかはわからない。言葉が通じないから。

実際,昨日きた子達は相当にとまどっていた。言葉の通じない家庭に呼ばれたが,頼りになる他の大人はいない。たとえば4歳児の悪ガキはケーキを食べなかったが,どうやらケーキが好きじゃなかったらしい。それは英語を喋れる最年長に通訳をしてもらってわかったこと。なんだか気まずい雰囲気になって(でもうちの子供達だけは多幸感でハイになっていて),結果的にケーキを食べて日本のお菓子を渡して30分も経たずに解散した。

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もう誕生パーティーはやりたくない。一日一日を元気に楽しく過ごして,素晴らしいことをしたら最高に祝われて,ダメなことをしたら叱られて,それだけで十分じゃないか。それが「誕生したことを祝う」ことじゃないか。

「無条件に祝福される場面がある」という感覚を持ってほしくない。何も成し遂げていないのに祝福される感覚を抱くのだとしたら,それは麻薬と同じだ。誕生パーティーは大人が子供に与える麻薬だ。すべての責任は大人にある。

もし誕生パーティーをするのであれば,単に「おめでとう,おめでとう」と言うのではなくて,お祝いに来てくれる皆に対して感謝することも,同じぐらい強く伝えるべきだ。
12月3日(土)
06時。実母からのメイルにて父方祖母の訃報を受ける。葬儀は12月5日(月)とのこと。飛行機を調べると,この日の昼過ぎまでに出れば間に合いそう。ヨメ氏に相談すると「私なら行く」とのお言葉。自分としても「冠婚葬祭は可能な限り参列」というポリシーもあるし,母方祖父母の時にも北海道や東京から参列したので,海外だからといって行かない理由にはならないよなぁと考え,渡航を決意する。

国際線の当日購入は初めてだったが20万円程度と無理ではない価格だった。葬儀があるのは関西なので,飛行機の取り方を悩んだが,日本国内移動はフレキシブルな方が良いと考えて,スイス航空チューリッヒ〜成田直通便を手配した。「12月5日(月)が葬儀」というが前後に通夜的なモノがあったり,あるいは家族の集まりがあったりするかもと考え,帰路は12月7日(水)昼成田発にした。航空券をポチってから,日本に行くなら会いたい人達に連絡を開始。同時に宿の手配にも取りかかる。あと日本でしか使わないカード類なども,引越時に封印した箱を開いて取り出す。

10時。自宅発。出国時にはパスポートに加えて滞在許可証の提示が必要だった。再入国することを考えたら,ここで滞在許可証の保持を確認してくれたことはありがたかった。13時チューリッヒ空港発。機内満席。通路側の席だったが隣人のサイズがでかく狭い。弱小会社のため映画ラインナップが貧弱で座席に充電ポートもない。しかも紙の本も持ち合わせがない。1時間だけ睡眠。

12月4日(日)
08時。成田着。まず短期プリペイドSIMカードを購入する。改札階のショップでは「デュアルSIM機種へは販売できない」と言われ,到着ロビー階のショップで購入することにした。7日間のパックを購入してセッティングするも,どうしても上手くいかない。よくよく確認してみると「データ通信専用のため電話は使えない」と書いてある。一度もそんな説明はなかった。これが「お・も・て・な・し」なのか?旅行先でプリペイドSIM買う人ってのは電話機能を求めないことが前提にあるのか?解せない思い。

この間Wifiでメイルして今後の行動を考える。両親は葬儀準備で忙しかろうと実姉に連絡する。「両親宅の鍵は姉が持っている(ボクは持っていない)。19時までに取りにくるべし。」とのことで,そうなると関東離脱は15時になる。しかも19時過ぎに両親宅入りしても誰もいないわけで,翌日の葬儀までヒマを持て余すことになる。これはイマイチ。とりあえずギリギリまで粘ることに決め,葉山の自宅まで向かう。

12時。大船駅でラーメン。一風堂みたいな店。良い。葉山自宅に到着して驚愕する。庭など草がボーボー。4ヶ月でここまでなるのかと。部屋の窓を開けて換気をしつつ喪服セットを回収する。途中に便意に襲われるも水道契約がないので近所のローゼンまでダッシュする(を2度繰り返す)。隣家のマダムが様子を見て訪問してくれて,夏に我が家で咲いていたひまわりとすいかの写真を見せてくれる。この辺りで元ポスドク女史と会えそうなことが判明し,姉に「21時まで延長を」と依頼。

15時。横浜で元ポスドク女史とお茶。公募戦績など現在の状況を聞いたり,こちらの状況をお喋りしたり。途中,同僚兄さんとのメイルで宿泊OKをもらう。妻子が里帰り中という僥倖。

19時。金沢文庫で兄さんと馴染みの焼鳥屋「風」。「あれ?もう帰国ですか?」とか言われながら南横浜ビール研究所のペールエールを飲みつつ焼鳥を食べつつ雑多なお喋りをする。途中,同僚若手も来てくれる。社内の雰囲気についてなど。22時頃に解散して兄さん宅。シャワーを浴びてリビングで就寝。24時頃。

12月5日(月)
05時。起床。身支度をして金沢文庫を出発。ピットインを懸念し飲まず食わずで新横浜まで。崎陽軒の炒飯弁当と明太蒲鉾とよなよなエール。寝不足に加えチューリッヒでは寝ている時刻(21-24時)なのでツライ。0830頃新大阪着。宝塚線(福知山線じゃないのか?)で宝塚。実姉と合流して両親宅に荷物を置く。

10時。宝塚発。宝塚駅であんぱんとコーヒー。快速で篠山口まで。姉とは特に会話もなく。タクシーでJAの葬儀場。両親にはそれほど疲労した様子がなく一安心。ほぼ面識のない親戚とご挨拶をしたり,軽食の弁当を食べたり。実父は「ええ戒名をつけてもろたんや。で,この漢字なんて読むかわかるか?」など安定のアホっぷり。実兄も到着。あいかわらず会話はない。10年が経過。

13時。葬儀開始。曹洞宗らしい。メインの坊さんが読経し,サブの坊さんが木魚や鐘を叩きながらユニゾンするスタイル。サブ坊さんはノドの調子が悪そう。1度目の火葬場で姉が,2度目の火葬場で兄が離脱。この間,特に誰とも喋らず,携帯を見たり本を読んだり。18時頃終了。参列者が村バスで帰るのを見送り,最後にタクシーで篠山口。特急こうのとりで宝塚。19時着。20時閉店の南口ルマンまで間に合いそうではあったが疲労を勘案して断念。阪急百貨店でカツ丼,アズナスで関西風すき焼きを購入して両親宅で食す。あると踏んだレトルト味噌汁がなくて意気消沈。湯を張って浸かる。20時過ぎには入眠。

12月6日(火)
06時。起床。宝塚発。在来線土産物コーナーで焼鯖寿司購入。新幹線構内でうどんやを見つけられず朝ラーメン(しょうゆ)にする。新幹線では頭が働かずボーッとすごす。

11時バスで会社へ。事務姉さん,同世代若手とお喋りの後,昼サッカー。食堂でそばを食べてから,悩める同僚と散歩をしながら長めのおしゃべり。自信がなくて踏み出せないんだなぁという感想を抱いたので「ごちゃごちゃ言わんと飛び込めよ!」という旨を伝える。つづいて上司ともおしゃべり。翌日から長期航海だったので会えて良かった。外角低めのコントロールだけが求められること,決断が出来ないこと,本音と建前の使い分けを放棄したこと,など。その他の人はすべて「髪が伸びた」と言ったが,スーパーパートさんだけは「太った」と。さすがの洞察力。形式上はホストになっている学振PD氏から今後の見通しを聞く。悪くないんじゃないかな。

18時。会社離脱。横浜で本屋をぶらぶら。20時から都内某所に潜伏して夜通しの宴。リラックスして私的な話などをつらつらと。研究職に就いたので学生時代から今に至る人間関係が連続的なので,研究関係とほぼ接点のない友人コミュニティは貴重である。たぶん02時ぐらいに入眠した。

12月7日(水)
05時。起床。6時過ぎに渋谷駅でコンビニおにぎり(いくら)と味噌汁缶。09時成田空港着。チェックイン時に滞在許可証を提示する。アナラウンジでカレー・焼きそば・カレーうどんを食してシャワーを浴びてすっきり。11時成田空港発。中4席で2席が空いている。離陸前に入眠。2時間後(?)の最初の食事で起床。これ以降は入眠はしないが体を横にするなどリラックスして過ごす。結婚式の余興の台本執筆など。16時チューリッヒ空港着。18時地元駅着。へろへろ。妻子の帰宅を待って20時就寝。
12月はツイッタでの垂れ流しを止めて,こちらのブログという穴蔵に書いていくことにした。

昔にくらべて,まとまった文章を(だらだらと,しかし)まとまった分量で書くことが出来なくなってきたと感じている。それはやっぱりツイッタ的な書き方が染みついてしまっているからなんじゃないかと考えたのも,今回の方針決定の一因ではある。一番はツイッタ解毒なわけですが。

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先日,某所(ツイッタですね)で見かけた「ラボガイド」という,教員が自ラボの学生向けに作っている小冊子を,ご厚意で拝見させていただいたのだけど,それがまぁ素晴らしいデキでして,「自分にはこんなこと出来ないなあ」と思ったのです。でもそもそもどうして拝見させていただいたかというと,自分もそういうモノを作る必要があると感じているからこそで,であれば,「出来ないなぁ」とか言ってないで,作らねばならないのです。

ラボガイドには2つの要素があるわけです。1つは現実に目の前にある実験室という意味での「ラボ」のガイドで,そこにあるモノ,そこで起こるコト,それらを研究視点と安全衛生視点の両面から網羅的に記載した書物。日々の実験などに追われ,色んなことがドンドン口伝になっていくのは良くない。良くないというか,悪い。ちゃんと口伝されない一番の要因は,実は実験者自身が適切な理解を持たないまま実験をしていることなんじゃないかと疑っている。もちろん自戒をこめて。つまり,他人に伝えるための労力が問題なのじゃなくて,他人に伝えることで対象としているモノ・コトに対する理解不足が露呈することを恐れていて,それを隠蔽するために,他人に伝えないということです。「どうして液体窒素で冷やすとガスが捕まるのか?」「イオンソースとは何ぞや?」などなど,ちゃんと説明しろと言われるとシドロモドロになる案件は山のようにあるわけです。

ラボガイドのもう1つの要素は,研究者が集まる「場/集団」という意味での「ラボ」のガイドで,セミナーとか役割分担とか共同生活とかそういう部分のルールの類がこれにあたる。これはPIの色が強く出る部分,というかPIの趣味で決まるってことですね。

いま自分は国の研究所にいて,大学教員ではないんだけども,まぁ広い意味では研究者養成に携わっているわけですよ。実際,学生やポスドクのホストになっていたり,試料を持って分析にくる学生(研究者)も受け入れているので。そういうことを考えると,早急にラボガイド(的なもの)を作っておく必要があるでしょう。というか,そういうモノ無しに,色んな人がラボを往来している現状というのはすごくマズイ。しかも今自分は外国にいるし。本当にマズイ。

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早いものでもう4ヶ月が経過した。すっかり(悪い意味で)落ち着いてしまっているので,生活習慣をかなり根深いところから掘り返して混ぜ返さねば,せっかくの遊学の意味がない,と考えていながら何もせず過ごしている。

それもこれも何が究極的な原因かと問われれば,おそらく「今後の生き方」が定まっていないことにある。今後の行き方と言うと仰々しいけども,すごく簡単に言ってしまえば,「サイエンスでエクセレンスを目指す」ということを目標にするのか,はたまたそれは手段であって目的は別のところ(大学教育的なモノなど)に明確に設定するのか,ということだ。もともと後者であったわけだけども,今の(日本の)ラボにいて「当面,在籍している間はエクセレンス路線で行こう」と決めて暮らしていた。

エクセレンス路線に対して,やっぱり煮え切らない気持ちというか,「なんか違うんじゃないかなー」という気持ちが捨てきれないでいる。それには2つの(もしかすると2つ以上の)視点がある。

1つは,今の業界でエクセレンスとされるサイエンスが,もうちょっと長い展望で見た時のエクセレンスから乖離してるんじゃないかということだ。自分の業界で言えば,物理・化学・生物・地質のあらゆるデータをテンコ盛りにして1つの論文として発表するとか,新規な手法で新規なデータを出すとか,モデルを仮定してフィットさせて見せるとか,まぁそういうのが「エクセレンス」と位置付けられているように感じられる。でも実際にうごめいている世界は,100個程度の元素だけから成り立っていて,あらゆる生物は物理化学法則に従っていて,まぁそういうシンプルなものだと思っている。シンプルな対象を,あえて「こねくりまわす」ような手法で論じて,そうやって出した結論が「新しい」ものだとして,それって何かおかしいんじゃないかと。「多彩な調味料が複雑に絡み合って絶妙なハーモニーを奏でていてめっちゃ美味しい料理。だけど素材の味は皆無」みたいな。違うか。でもイメージとしてはそんな感じで,つまり「白米・塩・うまい!」の方が理想なんじゃないか,というような意味だ。これまたちょっと違うけども「食事の目的って一次的には栄養摂取であって健康のためよね。味覚は二次的な要素だし健康を害するようではアレよね」というような意味のことが言いたいわけだ。「体には悪いけど美味しい!」って食事の必要性や,そのエクセレンスは大いに認めるところなわけだけども,それが主流になるというのはやはり歪んでいるのではないでしょうか。

もう1つのエクセレンス路線に対する「違うんじゃないかなー」ってのは,エクセレンスを目指す層の厚みとか質とか,そういう部分で「猫も杓子もエクセレンス」ってのは違うんじゃないかと。逆の見方で言うと,研究者と呼ばれる層のみんなが「エクセレンス」ばかり向いていて,これとは別に非研究者というグループがあって,その境界が完全に抜け落ちてしまっているんじゃないんかね,ということだ。すべての人を「研究者/非研究者」と分類することと,研究者の内側で「エクセレンス/非エクセレンス」と分類するとして,この「研究者でありながら非エクセレンスという存在は必要か否か」ということが悩みなのだ。さらにこれには志向の問題と,能力の問題と,両面があると思う。つまり「エクセレンスな(研究が出来る)研究者」でありながら「非セクセレンス路線を取る」ということに意味というか意義というか,それがあるんじゃないかと考えているということ。

まあとにかくそういうことで,悶々と悩み,鬱々としているわけです。続く。
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