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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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日本学術会議の第25期が2023年9月末で終わる。
第25期のはじまりは2020年10月1日。
コロナ禍の発端が2020年1月、ワクチンの医療従事者への流通が2021年初頭からなので、コロナ禍の行く末が見えない時期だった。
さらにいわゆる「任命拒否問題」が発覚し、第25期は最後まで翻弄されることになった。

若手アカデミーは、日本学術会議の会員・連携会員あわせて約2000名のうち、45歳未満の者が任意に参加する集団だ。
ボクは第23期の終わり頃に、すみいさんが流布した公募に応募して特任職として参加。
第23期の代表は上田さんだった。
この時、ちょうどスイスにいたので、初参加がハイブリッド・オンラインだったこともあり、雰囲気は掴めないままだった。

第24期からは、コオプテーションによる恩師からの推薦を受け、日本学術会議の連携会員に選出され、若手アカデミーにも所属することになった。
日本学術会議の任期は、一度の選出につき2期6年間なので、第25期にも継続して活動することが、この時点で決まった。
第24期の若手アカデミー代表は岸村さん。
若手アカデミーの下に設置される複数の分科会のうち、学術の未来検討分科会で主に活動した。

そして第25期。
若手アカデミー代表には、満を持して、岩崎さんが登板。
「20年後にあたる2040年を見据えたリモデリング戦略」という明確な旗を立て活動を開始した。
50人ほどのメンバーを8つほどの分科会にわけることで、比較的少人数での活発な議論を促す方針も奏功。
学術界の内外で色んな仕掛けが出来た、と思うし、その結実たる見解は近日中に発出見込みだ。

第24期の学術の未来検討分科会の議論を継承した上で集団を発展的に分裂させ、片方を人材育成、もう片方を業界体質改善とした。
「学術界の業界体質改善分科会」という名称に、当初はシニア側から難色を示されたという話も聞こえてきた。
若手アカデミーでも分科会に所属希望したのは、最少の5名。
当初想定した実質的な議論のフォーカスは、学会活動の負担だった。
途中から、任命拒否問題からの関係改善にむけた(?)政府からの諮問に対する『回答』を用意する議論にも付き合ってもらった。

〜〜
第24期は、岸村アニキをみんなで担いで、わっしょいわっしょいと進めていた。
第25期は、ワタルさんがビシッと示した道を、みんなでワイワイと歩いて行った。
そんなイメージをもっている。
甲乙は付けがたい。両方よかった。


時間切れ
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ぐるぐる考える時間が続いたのに加え、飲み会と急ぎ仕事が重なり、なにも出来なかった。
母屋を大事に、と言いながら、掃除も片付けも行き届かない始末。ふがいない。

〜〜
パッとした思いつきを記した自分メモの中に以下の断片があった。
「領分を守ることを是とする姿勢」
「堅牢な城壁、充実した城」
「実りなき縁辺、手入れのない緩衝地帯、隔絶」
「内部での価値観の固定、縮小再生産」

ボクは、縁辺を破壊し境界を曖昧にして、混ぜっ返すことで、散らばった小世界を繋げて、不均一だけど調和の取れた新世界を構築したいのだろう。
それはなぜかと言えば、いまの小世界と小世界の間にある「手入れのない緩衝地帯」が荒廃すれば、やがてそれぞれの小世界も損害を被ることが予想されるからだし、反対向きに言えば、縁辺や境界外に追いやられている案件に宿る何かから新しい芽がうまれると信じているからだし、なんだろう。

最近ツイッタランドで「選択と集中は、やはりけしからん」という話題が盛り上がった。
それはそうだとして、じゃあ何が根本的な「けしからん」部分なのかと。

片方には、選択して集中された側が、投下された資源に対する成長が頭打ちになるから効果薄だという意味があるだろう。
これはまぁ、たぶんそう。
リービッヒの最小律じゃないけど、どれだけお金を入れても、土地や人間や何やらが足りなければ、成長は期待できない(そうじゃない場合もある)。

でも、もう片方の方が問題だと、ボクは思っている。
つまり、最低限の資源すら投下されなくなった縁辺が荒廃して朽ち果てていくこと。
縁辺の喪失が、異世界との距離をつくり隔絶してしまい、実りあるはずの交易を遮断すること。
見方によっては、多様性の損失とも言えるのかもしれないが、ちょっとイメージが違う。イメージだけだけど。

某アカデミーの友人が先日、「現代日本人が中国人の振る舞いを見ると倫理観が低いと思うが、アレは日本的価値観ではそう見えるが、彼らには彼らの価値観があって、その範疇での振る舞いなのだ」ということを教えてくれた。
価値観が違うということは、良いことと悪いことがヒックリ返ることもありえる。
別に自分の価値観を変える必要はないし、横暴に感じる相手にやられるままでなくても良いけど、すくなくとも「あぁ、価値観が違う人なんだな」と受け止められるだけで、随分と世界が違ってくる。

そういう思考の相対化が過ぎると、「じゃあ結局、お前は何がしたいんだよ」みたいな話になる。
ボクの趣味嗜好を突き詰めると「自分が何をしたい」ってのがない。
「みんながこうなったら、自分も生きやすい世界になって幸せだな」という考え方。
マネジメントやコーチングに関心があるのも、極論、根っこはそういう心象なんだと思う。
でもこういう思考って、「科学は好奇心に突き動かされるもの」とか「研究はオノレの主義主張のぶつけ合いだ」とか、そういう思考の人とは、食い合わせが悪い。

これぐらい根っこのところで違うと、わかりあうことは難しい。
違うな。
わかりあうことは無理だけども、「大体こんなもんだろうな」というのさえ、わかれない。
先の中国人的な倫理観や価値観の例えが、そのままあてはまる。

そこのわかりあえなさを受け入れて、そういうものとして付き合うのか。
はたまた、その程度のわかりあえなさを克服しようとして付き合うのか。
ボクは後者でありたいのだけど、相手が前者である場合が多い。

ボクは、門がアチラ側から閉ざされていると感じる。
アチラ側は、ボクが門を叩いてきて迷惑だと感じる。

個人の場合と、組織の場合と。

明日はどっちだ。
案の定、炎上した。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20230907/

同僚で専門家の方が、ツイッターで「まちがっている」と指摘。
専門家に指摘してもらえることは、ありがたい。
まぁ、やり方について「初手からそんなことやりますか」と思う部分はあるが。
そんなこんなで、修正記事を出すことに。

その内容について実際に研究をしているレベルで精通しているからこそ、「子供向け」にまるめて話をする時に、核心部分を残して話せるのだと痛感。
あまりわかっていないと、核心部分を外してしまう。

この分野に精通しているわけではない別の同僚が、修正前記事と追記部分とを読んで評価してくれた。
「盗塁のコツを聞かれた福本豊がまずは塁に出ることと言って打撃練習をはじめたのと似たような話」とのこと。
それはそう。
他の記事でも「なぜ地球に海があるのか」に対して「水素と酸素があるから」という解説をしているわけで。

月曜の夕刻、都内へ電車移動している間に指摘を知り、こういうことは早く収拾せねばならんと思い、ビール飲みつつもスマホで対応して、広報担当者の協力もあり、即日対応した。
心身ともにつかれた。
朝食の担当をしている。
0540に土鍋を火にかけ米を炊き始める。
火を止めるまで15分、火を止めてからさらに15分で、美味しいご飯が炊き上がる。

その間に、食洗機から皿を出して元の場所に戻し、おかずの準備に取り掛かる。
うちではタンパク質摂取を重視しており、卵・肉・魚・豆を使用する。
一方、偏食の子がおり、野菜は食感が残っているどころか、目に見えるサイズで存在するのもアウトだ。
なおカレーの場合はこの限りではないなど、例外規定も多いことが、さらにやっかいである。
基本的には野菜抜きメニューを一つは用意し、それと卵かけご飯を食べさせる。

このおかずのレパートリーが乏しい。
もうちょっとどうにかしたいのだが、試して作ったものが残されると朝からイラつきマックスなので、なかなか踏み出せない。

◎鶏もも肉焼き
フライパンを熱し、皮目を下に置いたら弱火で15分間焼き、ひっくり返して火を止めフタをして15分置いておく。
ご飯が炊き上がるタイミングで肉を出して切り、フライパンの肉汁に適当な味付けをしてカケダレを作る。
照り焼き、バターカレー、塩コショウハーブ、バター醤油がある。
クミンを入れると誰も食べない。

◎豚コマ焼き
豚コマを売られているところからさらに細かく切った後、フライパンで炒める。
タマネギやネギ、生姜などを加えることが多いが、キノコを入れると誰も食べなくなる。
薄口醤油での生姜焼き、濃口醤油でのすき焼き風、カレー粉炒めがある。

◎肉豆腐
中華鍋で豚ミンチをミチミチに炒め、塩ゆでにした豆腐1丁をサイコロ切りにして投入する。
麻婆豆腐、すき焼き風などがある。
酒徒さん(下)レシピによる塩だけの場合は、ラー油など味変用の調味料も一緒に出す。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000302.000030125.html

◎干物
駅前の魚佐治でサバ文化かホッケ開きを買ってきて焼く。

◎汁もの
シャウエッセンもしくは竹輪、豆腐、卵の組み合わせで作る。
片栗粉でとろみを付ける場合もある。
味噌汁、ウェイパー中華風、コンソメスープがある。


時間切れ
バスケ日本代表のトムホーバスHCに対する疑義の文章を読んだ。
https://note.com/tomabetchy/n/n9e5b62975491

要約すると、ホーバスHCの指導法が、徹底したパターン化による選手の自主性の抑圧と、「キミたちは出来ると信じている」と言い続ける洗脳とで構成されており、メディアが持ち上げるような革新的指導ではなく、むしろ日本スポーツ界の旧態である軍隊式ではないか、というもの。

これには、同意だ。
同意だが、ボクにとってそれは指導への疑義ではなく、むしろ指導への称賛である。

ホーバスに対する評価が、著者のとまべっちーさんとボクとで違うのは、視点の違いだ。
著者は、(大学生まで含む)育成世代の視点で見ているのではないか。

選手個人の伸びしろが残っていて、それを育む視点で見るならば、ホーバスのやり方に全面的に賛成することは難しい。
選手が自身の持つ個性の発揮を抑制してしまいかねない懸念からだ。
とりわけ学生スポーツでは、その学校に入ることと、そのチームに入ることとは、必ずしも一致しない。
行きたい学校に行って、そこでやりたいスポーツをやることに決めただけで、そのチームに入ることを選択したわけではない(スポーツ推薦ならば事情は違うが)。
またそこが最終目的地でもない(はなから学生大会だけで引退することを決めている人もいるだろうが)。
育成年代では、日々(の練習)を楽しく過ごすこともスポーツをする理由なのだから、一定以上の自主性は重んじられる方が望ましい。
あるいは、スポーツを通じた自主性の成熟が、学生スポーツの目的であるということも指摘できよう。

一方、トップリーグのトップチーム、あるいはその最たるものである代表チームは事情が違う。
監督は、選手個人の成長や自主性を重んじる必要がない。
なぜならば、この層のチームの目的は唯一、勝利することで、そのために選手は選んで連れてくるものだからだ。
選手も、トップのチームでトップのコンペティションに参加し、富と名誉(と最高のプレイの快感)を得ることが目的だ。
自主性が抑制されたことで選手がヘソを曲げるなら監督はチームから排除すれば良いし、選手も不満があるならチームをされば良い。
実際に、監督と選手が合わず、どちらかが退団するケースはとても多い。

たとえばサッカー界では、おそらくペップやクロップも、ホーバスと同じ指導法をしている。
監督が理想のチームを思い描き、その実現に必要な要素となりうる選手を連れてきて、戦術的あるいは精神的な一貫性を注入する指導により、理想を実現する。

バスケやサッカーのようなボールゲームでは、競技特性として、相手の穴を突くことで勝利が近づく。
最近ではスポーツ界でも解析によって戦術の効果が明瞭になっている。
それゆえ、各選手が、それぞれの思いつきではなく、戦術的に規定された動きをする方が、勝利する確率が向上する。
勝利を第一義の目的とする集団であるプロチームあるいは代表チームであれば、自主性を抑制されることは、かならずしも悪いことではない。

だからといって、選手の自主性、個性が不要かと言えば、まったくそんなことはない。
そもそもマクロに規定されるチーム戦術があっても、個々のミクロな局面でのプレイ選択には必然的に個性があらわれる。
また監督としても、その個性を(良い意味でも悪い意味でも)織り込んで戦術を立てる。

さらに言えば、究極の個性の発露こそが、戦術の核心である場合も多い。
ペップもそれを認めている。
メッシ(あるいはロッベンやハーランド)がフィニッシュワークを出来る局面をいかにして作り上げるかが、チームの仕事だ。
フィニッシュワーク、最後の局面で相手を上回ることは、メッシの個の力に委ねれば良い。
ガチガチの戦術は、極論すれば、究極的な個性頼りのためなのだ。
富永に3Pを打たせるのはチーム戦術だが、富永の3Pが決まるかどうかは個性なのだ。

じゃあそんなメッシやハーランドはどのようにして育ってきたのか。
その育ってきた環境では、自主性が重んじられていたことだろう。
なぜならば、自主性が重んじられなければ、個性がうまれないからだ。

〜〜

とか、そんなことを思いながら、いかにして小学生に戦術的な動きの効能を体感してもらうかに、悩んでいる。
チームのエースからすれば「パスしてもキャッチミスするから、パスしない方がチームのためじゃん」「自分がドリブルで抜いてシュートを打つのが一番いいじゃん」というものだろう。

でもそれを続けていると、個の力で自分を上回る選手がいるチームには、チームとして勝てない。
個と個の局面で封じられると、他に持ち手がないからだ。

この辺りは、言葉で説明しても、納得がえられるものではない。
敗北から学べば良いが、個の敗北の体験を消化した上で、個には限界があるからチーム戦術を磨こうと自主的に考えることを、小学生に期待するのも難しい。

相手は現代っ子なので、動画を編集して場面を見せるのが良いとは思っている。
良い素材を見つけて、うまく編集して、


時間切れ
取材を受けた記事がウェブで公開されはじめた。
https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/shin-chishiki-20230907/
https://gendai.media/articles/-/115194?imp=0

サイトの見た目から、ボクが書いたような体裁になっている。
最後に『取材・文 岡田仁志』ってチラリと書いてあるだけ。
これは本当に勘弁してほしい。

取材を受けるにあたって「ライターが書く。そのための取材」ということを確認した。
自分に文責がないならば、と、取材に応対した。
原稿の確認が回ってきた時も、微妙な表現が散見されたが、ライターに文責があるわけで、しかも「中学生程度のレベルにする文体」ということで、大きな部分以外のコメントはつけなかった。

それで公開されたら、なんだかボク自身が書いたような体裁になっている。
JAMSTEC BASEの方はまだしも、ブルーバックスウェブの方はボクが書いたようにしか見えない。
なんせ、以前に(コチラは本当に)自分で書いたスケーリーフットの記事と同列に括られている。
アレとコレとじゃ全然ちがうよ。そりゃないよ。

ちなみに著者写真も、勝手に変えることにされた。
コチラは事前に知らされて不満だったけど、上述の通りの状況なのでスルーした。
なんというか、「それっぽい写真」に差し替えられている。
そういうことをしてしまう思想が、本当に受け入れがたい。

なんだかなぁ。
小田嶋隆が大好きだ。

大学生から大学院生を過ごした00年代は、ちょうど内田樹がブログを経て世に出てきた頃だと記憶している。
ボクはたしか、木庭さんのブログを通じて内田樹の存在を知ったはずだ。

いまでも覚えているのは、2006年冬の白鳳丸インド洋航海。
まったく春の植松SOLAS航海とはうってかわって、同世代のメンバーがほとんどいなかった熱水探査航海。
当時はまだ熱水をヤル気でもなく、先生から言われて乗船し、なぜかDOと塩検を両方やらされた航海。
あの頃はまだ船でネットは使えず、個人のメイルが使えるようになったばかり。
船内で遊ぶ相手もいなそうだったので、出発前にTzeさんにお願いして、スポニチウェブのテキストを転送してもらっていた。

なぜか内田樹の「ためらいの倫理学」を持っていった。
船内で読んだ記憶はないのだけど、成田空港までの空港バスで読んでいた記憶だけが鮮明にある。
バスで先生と乗り合わせ、会話がなく気まずい雰囲気を感じながら、読んでいたのだ。

ボクはそれまで本を読んだことがなかった。
「ためらいの倫理学」が最初だったかは覚えていない。
でも札幌時代の自宅にもラボにも本棚はなかったから、読書習慣は東京に移ってからだ。
新宿で昼から夜まで立ち読みしていた記憶があるが、札幌での記憶はない。
札幌でも雑誌は読んでいたかもしれない。
いずれにせよ、内田樹をブログで読むようになった頃から、本を読むことを覚えた。

そして、そんな内田樹自身がファンだと公言していたのが、小田嶋隆だ。

内田樹による小田嶋隆の追悼文がある。
https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220627-takashi-odajima-tatsuru-uchida
ボクが好きになった内田樹の文章で、ボクが大好きな小田嶋隆の小田嶋隆たるところが表現されている。

小田嶋隆の文章は、常に、小田嶋隆によって書かれている。
当たり前なのだけど。
借り物の表現は、徹底的に排除される。
たとえば「徹底的ってなんだよ」といった具合だ。

近頃はやりの相手を論破するとか冷笑や逆張りとは、似て非なるものだ。
相手があって、自分の立ち位置が決まるのではない。
自分は単に立っていて、そこから相手が見えるだけなのだ。
世間に対して斜に構えているようにも読めるが、それは違う。
小田嶋隆からすれば「なんでお前ら斜めに並んでんだ」ということだ。

内田樹の追悼文を借りれば、
"孤立していることは彼にとっては初期条件なのであり、彼はそのことにそれほど大きな意味を認めていなかった"
"「私は世の『ふつうの人たち』が考えるようには考えないし、『ふつうの人たち』が用いるような言葉づかいをしないのだが、それには個人的な経緯や理由があり、それをみなさんは理解できるはずである」というのが小田嶋さんのスタンス"
ということのようだ。

小田嶋隆が晩年、たびたび使ったフレーズに「お詫びせず訂正します」がある。
「おれの書き損じを、お前らに詫びる理由はない」と。

「話が通じない」という場面に接し、無力感と憤怒にまみれた時、小田嶋隆を読むようにしている。

「オレがなぜそう感じるのか、考えたことを説明してみる。わかってもらおうとは思っていない。」

「わかってくれれば嬉しい」とか「なんでわかってもらえないんだ」とか、そういうものがボクの場合は続いてしまうのだが、小田嶋隆のコラムにはそういう部分が感じられない。
相手に伝わらなければ、いや伝わったとしても、ひとしきりの説明を終えたら、家に帰るだけなのだ。


時間切れ。
寝苦しくて午前2時に起きた。体が熱いのは精神負荷とそれを発散するための運動とアルコールのせいじゃないかと思った。でも本当に部屋が暑かった。自室から出たら、どうやら自室だけが暑い。エアコンは動いているが冷えていない。どうやらエアコンが壊れたようだ。と思ったがリモコンの電池を朝に入れ替えたことを思い出した。見てみるとモードが冷房から自動にかわっていた。冷房に再設定したらよく冷えた。というところで、腰の激痛に気がついた。痛い。痛いのは左側。ヘソの水平線ぐらいが痛みのピーク位置。鈍痛というか気持ち悪さは肋骨の下からケツの山までぐらい。

とか何とかいう話をツラツラと書いていたのだが、ブラウザを落としてしまい、全部消えた。
バスケットボールのワールドカップ、沖縄開催で日本代表男子が5戦3勝。パリオリンピックへの出場権を獲得した。
2021年には東京オリンピックで女子が銀メダルを獲得。
ワールドカップ沖縄開催に向けてか、昨年末にはスラムダンクの映画も公開され、世間のバスケ人気に火が付いている。

と書いたものの、世間のことはわからない。
今年は甲子園が慶応で盛り上がっただとか、いま売れている芸能人がなんだとか、ピンとこない。
ボク自身の世間との接点は、職場やママ友であって、そこらの人々から「盛り上がっているね」と言われて、はじめて認知するのだ。

スイスから戻って6年。戻った葉山に電波が届かないこともあって、テレビを持たない生活を続けている。
巷に言う世間の盛り上がりというのが実感できない。
世間の盛り上がりというものが、いかにテレビによって作り上げられているかを、思い知らされる。
テレビの影響力を、テレビを持たないことで感じているのは、なんだか不思議なことである。

反対向きに考えれば、四六時中ネットを監視していても、やはりそれは自分からアクセスするような限られた情報空間であり、大なり小なりエコーチャンバーの中で生活しているのだろう。
いや、これもまた反対かもしれない。
テレビという強力な情報空間の中で世間の人々が暮らしている、ということでもあるのだから。

それはさておき。

はからずも三年前からミニバスに関わるようになり、バスケに親近感が増してきたタイミングで、日本代表が躍進している。
にわかながら、我が事として嬉しい気分になる。
バスケ村で育ったコーチなどは、もう完全に興奮しきりで、熱く語っておられる。
そういう対象があるってのは、人生を豊かにするよね。

シアトル生まれのホーキンソンは、大きくなるまで「イチロー・任天堂・寿司」しか日本のことを知らなかったそうだ。
それが長じて、米国ではバスケ選手にはなれず、日本のバスケ界に流れ着き、帰化して代表で活躍している。
「イチロー・任天堂・寿司」しか知らないというのは、良いイメージしか持っていないということでもあろう。
事実、ホーキンソン自身がイチローのファンであることを公言している。
そういう人生の妙のようなものも、スポーツ報道を通じて知るわけだが、とても興味深い。

世間に届くような大きな舞台で活動をすることには、本人がその舞台で成し遂げること以上の価値がある。
そういう価値は、その価値そのものだけを生み出そうとして、生み出せるものではなく、あくまで付随するものだ。
でも、成し遂げたことの価値以上に、そこに付随する価値の方が、広く大きく、人間社会に影響を及ぼす。

日本代表がパリオリンピックに出場したからといってパリオリンピックやバスケットボールの価値が上がることはない。
しかし、現代日本の世間にとっては、「日本代表がパリオリンピックに出場」ということに抜群の価値があるのだ。
社内の昇格審査で落選した。

なぜ落選したかはわからない。
ちなみに当選しても理由はわからないと思う。
そういう審査がこの国には定着している。

今回は、准教授格から教授格への昇格で、正直いってしまえば、時期尚早だと思っていた。
今年から制度が変わり、自己推薦式になった。
同僚から「どうする?」と聞かれて、自分にも受験資格があることを知った。
完全にノーマークだったけど、受けるだけならタダだし、定年制への移行審査と違って落選で失うものはなく、受かれば給料があがる。
ノーリスクハイリターンなので、記念受験で手を挙げたのだ。
このあたりは精一杯のつよがりだと思って読んでほしい。

今ならわかる。
落選すると、まずヤル気を失う。
もちろん会社への忠誠心のようなものも失う。
この記念受験で失ったものは大きい。

一方で、アッチがコッチを失ったんだ、という思いもある。
今日はその話をしようと思って書き始めた。

学術界には、審査や評価が溢れている。
なんのかんのと審査され、評価される。
ここで「される」と言っているが、もちろん向こう側には「する」人がいる。
審査員、評価者。
憎むべき。
恨むべき。
あの審査員。
あの評価者。
というほどではないのだけど。

どうして幸せな関係になれないのか。
審査や評価は、双方にとって、あるいは第三者(たとえば会社組織)にとって、より良い関係のために、行われているはずだ。
選抜の結果、より良い関係が築かれるとしても、選抜の過程で不幸を生み出したら、トータルでマイナスじゃないか。

不調に終わったお見合いのように「今回はご縁がなかったということで」と、双方がサラリと終えられないのは、なぜだろう。
イマイチだった合コンのように「今日は時間に無駄だったな!ガハハ!」と、二次会で揮発するように消えていかないのは、なぜだろう。
そんなことを考えた。
つまり、今(まさにこれを書いている今)、ボクの中で燃えるネガティブな感情は、何に起因しているのだろう。

一つには、そもそも関係の対等性がないことがある。
アチラが上で選ぶ側、コチラが下で選ばれる側。
アチラは金を持った買い物客で、コチラは陳列棚の商品。
そういう関係になってしまっている。
コチラにとっては自分事だが、アチラは流れ作業でこなす仕事だ。
30分おきに次々に運ばれてくる商品を見て、アッチよりコッチだな、なんて選別する。
少なくとも、ボクはそう感じていて、そこを不愉快に思っている。
これは書類やスライドを準備している段階から、一貫して抱く思いだ。

もう一つには、十分に吟味されたという実感がないことだ。
研究計画評価であれば、計画書を一読すれば、良し悪しがわかる。
研究計画は、その中身からして複雑ではないからだ。
もし計画書を一読しても意味がわからないとしたら、読み手がバカか、書き手がヘタかのどちらかだ。
書き手がヘタならば、それは落ちても仕方がない。
しかし人物評価は、そうはいかない。
人間というのは、そもそも複雑な存在だからだ。
それを踏まえて、十分に吟味しようと思ったら、すくなくとも今の方式では無理だ。
A4数枚の紙と1時間にも満たない面接。

しかし、いずれにせよ、確信をもって言えることがある。
8年前に定年制への移行審査で落選した時も思ったし、それから今までずっと思っている。

ボクはずっと、この会社が、日本のため世界のために、どうあるべきか、という話をしている。
そして、ボクが思うこの会社が為すべきことに、ボクは必要な人物だと言っている。
アチラが何を求めているのかはわからない。
思い描くあるべき組織像は共有しているが、そこにボクがハマらないのかもしれない。
思い描く組織像が違うのかもしれないし、単純に能力不足なのかもしれない。
あるいは、被評価者が組織論を話すのが的外れだと思っているのかもしれない。

一般論のような。
具体論のような。

書いても書いても、悪感情が昇華されず、むしろ増幅している気がしてきた。

そんな土曜日の朝。
これから朝食の準備をして、バスケのコーチに出掛けるまでに、会社の委員会での報告書を書かねばならない。
全部投げ出してしまいたい気持ちもある。
しかし、まぁ、審査落選などはボクの個人的なことで、委員会の報告書は組織のことなので、同じ土俵で考えちゃならん。
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