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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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初対面の方とご挨拶をする場面で、とりわけ会議冒頭の自己紹介で、研究の『専門分野』を聞かれることがあります。これはなかなか難しい問題です。

一番狭く捉えれば「海洋における溶存気体の動態を同位体比指標を用いて調べている」なんですが、まぁそんな回答は期待されていないでしょう。もう少し広範に捉えた話にしたい。

学会名のような学問分野を提示するならば、たとえば地球化学とか海洋学とか、そういうことになるのかもしれないけど、どちらにもピタッとはハマっていない。地球化学というにはソフトで生物に寄っているし、海洋学というには海底に寄りすぎている。もちろん地質学や地震学や生態学でもない。

そもそも研究者として唯一無二であることが重要だと思って活動してきたのですよ。師匠や先輩と違うことをしないと研究者としての価値がない、そういう考え。だから「同位体指標を使わない研究」とか「気体を相手にしない研究」とか、そんな方向に研究を展開している。もちろん同位体指標を使った気体動態の研究は続けている。

つまり『専門分野』みたいな(雑な)括りに自分の活動を落とし込んで説明すること自体に、ちょっとした嫌悪感のようなものを感じるわけです。括られない自分、ええやん、みたいな。

そんな思いでそれなりにキャリアを積んできた結果として構築されたボクの研究の総体には、なにか呼称がつけられる独自性のようなものが備わってきている気もする。実施した研究成果に閉じず、これから着手しようとしている志向(嗜好?)まで踏まえて全部ひっくるめると、バチッと自己紹介ができる『専門分野』みたいなものになっているかもしれない。

『人類の海洋利用拡張と環境影響評価の統合的推進』。社内外でまとまった時間の与えられたプレゼンでは、取り組みの総体としてコレをテーマとして掲げている。しかし専門分野というには長い。

短くするならば『海洋環境影響評価』かもしれない。事実、所属部署もそんな名前だし。でもこれだけだと、常にリアクション側みたいな印象がある。「誰かが開発しちゃうから評価します」みたいな。でもボクの志向は、新しい利用法を提示すると"同時に"環境影響評価も済ませてしまうパッケージとしての取り組み、つまり"統合的"推進にある。それってつまり『海洋研究開発』が専門ってことで、もはや社名なんですね。

「海洋研究開発機構のゴリラです。専門は海洋研究開発です」
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加速主義の何たるかは知りません。勝手なイメージで言うと『科学を推進していくと、技術が革新して、それが社会変革をもたらす。その社会変革によって目前の諸問題は解決するから、とにかく夢に向かって突き進もう』みたいな印象です。巷で言われるイノベーションとかシンギュラリティとかにも、同じような印象を抱いています。

無責任ですよね。こういう方向に前のめりな人の話を聞くと、あるいは多くの研究者もそうだけども、ネガティブな気持ちになります。

飛行機の離陸のイメージでボクは捉えています。「加速していけば空を飛べる」と言われている気分です。こんな金属の塊が飛ぶわけないやろ。今の時代に飛行機がちゃんと飛ぶのは、理論的な追究と、繰り返された実験と、その後の数多の失敗への反省を、長い年月を経て積み重ねたからです。その間、飛行機が安全に飛ぶと信じた人が搭乗して、時に命を落としながらも実績を重ね、じょじょに飛ぶと信じる人を増やしていったわけですね。

「これは飛べるわ」と思いついた人がみんなに「じゃあ乗って」と言って、みんなが「はい乗ります」とはならないでしょう。今の社会では、「これは飛べるわ」と思いついた人が、理論追究や技術精査や実証試験もそれほど進めないうちから「絶対に飛びます」と喧伝している状態で、周りの人間も意外とパッと乗り込んでいるように見えます。それはつまり「宣伝と投資の共犯関係」なのだけど。しかし、金は賭けるとしても、じゃあ命を賭けるかと言われれば、それは別問題です。

知識のある人達で「これは飛べるわ」「お、飛びそうやんけ、投資したるわ」と話を進めているのを、よくわからない人達が見たら「へー、そんなもんかしらね」と思っても仕方がない。そのまま流されて「どうぞ乗ってください」と声をかけられたら、つい乗ってしまう人もいるでしょう。それがたとえ生煮えの技術で出来た試験機だとしても。滑走路をじょじょに加速していき、飛ぶことがないままどこかに激突して、多くの命が失われ、知識のある人達はそれを管制塔から眺めている。そんなの地獄じゃないですか。いや、一緒に乗り込んで死なれても、それはそれで地獄なんですが。

ということで、COP26です。2050年ネットゼロのカーボンニュートラル。あと30年。自分は70歳、キッズは40歳。孫世代がキッズなぐらいですね。リアルです。

「それはそれ、これはこれ」と象牙の塔に引き籠もっているのは、さすがに違うでしょという思いがあります。それなりに専門家なので「実践的に飛ぶ見込みのない技術」と「投資すれば飛べる技術」の見極めは、その辺の人よりは出来るつもりです。あるいは本腰いれて勉強すれば見極められるという自負がある。「そもそも飛行機より船の方が確実では」みたいな検討をする程度の視野も持っているはず。

客観的な知識を身につけて主体的に関与する。自由と信念。選ばれし者の恍惚と不安。
先日、どんな文脈だったか忘れたけど、無差別殺人と死刑制度のことを話題にしました。死刑制度の是非を議論したいわけではなく、狙い通りに機能していないのではないか、ということです。

「自分の人生、もうどうなったって良いんだ」とヤケになって"無敵の人"となり、無差別殺人などの行動を起こすのだとすると、その先に死刑制度が待っているというのは、罰として機能していないでしょう。それどころか、むしろ無責任な行動を助長するというか、言い方が難しいところではあるけども、ある意味で"破滅願望に寄り添う"ことになっている気がします。

たとえば身の安全と健康が保障されるが常に内省と労働を要求される生活が待っている方が、"無敵の人"にとっては許容しがたい気がします。たとえば小学校のような場所ですね。学級会、道徳、労働、道徳、労働、学級会、という毎日。

罰がインセンティブになってしまっては、罰として機能しないどころか、本来の抑止力的な効果にも期待できません。たとえばアカハラ教員に対して講義担当や教務委員から外すという罰を用意するのは、給料そのまま役務減少というメリットにも思われ、なんだかイマイチです。減給処分では家庭にダメージが、などと慮ってのことかもしれませんが、それにしても他の手段を考えるべきでしょう。

いわゆる窓際族などの話。定年までの給料はサンクコストとして諦めて、何の仕事もさせない。ヘタに仕事をされる方が集団に損害が大きいというソロバンが弾かれると、窓際的な扱いにするのでしょう。本人は給料がもらえて仕事がないのでヨシ、会社にとってもマイナスが許容範囲におさまるからまぁヨシ。

しかし公務員の場合は、窓際族への給料とて原資が税金であるため、話がややこしい。本人はヨシ、職場としてもヨシでも、納税者としては許容できないのではないでしょうか。この辺りが話を難しくさせるのかもしれません。弊所が公的機関であることはこの話とは関係あるわけないだろダンカンこのやろう。

10月からグループリーダー代理という非管理職である謎の役職を与えられたのと同時に記念誌編集長の業務をはじめております。こうして見ると、典型的な窓際軌道に入ったなという感じです。研究成果を出さないとマジでヤバい。
議論のフェーズにあって結論を求めたり、結論を出すフェーズにあって議論を続けたり。そういう状況に陥ることが、よくあります。陥っているのは私個人ではなく、属している集団が、ですね。

以前、同僚とああでもないこうでもないと話をしている時に「ちょっと待って。話についていけないよ」と言われました。そして続けて「みんながキミみたいに、視点を動かしながら考えられるわけじゃないんだから」と言われたのです。なるほど。

視点を固定してグーッと深く考えていくことと、視点を動かしてバーッと立体的に考えていくこととは、違うことですよね。ボクは圧倒的に『バーッと系』の考え方をするので、『グーッと系』の人からすると、話が飛びすぎてまとまりがないように感じるのでしょう。逆にボクは『グーッと系』の考え方に対して、こまけぇなぁと感じるわけです。

心理学者の友人が『特性』という言葉を教えてくれました。いまググると「特性とは、個人の中で一貫して出現する行動や態度の傾向」だそうです。なるほど。

議論ができない人、議論ばかりする人。結論が出せない人、結論を急ぐ人。そういうのは、学習して身につけるような能力とは別の、人としての特性の影響もあるのでしょう。いずれにせよ、自分の特性については、把握していたいものです。

好/嫌。巧/拙。善/悪。この3つの軸で自分の特性を評価して、身を置く場や従事する行為を選択できることが、人生のコツなんじゃないでしょうか。短期的に自分のことを考えると、好きなことをやっているのが気分が良い。でももしそれが不得手なことで、不得手なことで困ってしまうなら、中長期的には気分が良くない状況に陥ってしまいます。この辺りはサジ加減が必要なのでしょう。

たとえば趣味では、好きが大事で、拙くたって構わない。ボクの場合だとサッカーです。やっている間の気分が良い。上手ではないので、レベルの高すぎるところでプレイすると楽しめない状況にもなってしまう。もちろん巧くなりたいけど、巧くなる必要はないので、ほどほどに出来れば十分です。

たとえば仕事では、好きでなくても、巧くできれば高評価が獲得できる方が望ましい。ボクの場合は、研究とか航海計画とかです。『バーッと系』の考え方をする研究者というのは意外と少なくて、『バーッと系』の業務を請け負うことで周囲からの評価が得られています(いちおう査読や各種審査に通って会社で出世もしています)。しかし好きなわけではなくて、感情労働は本当に滅入るし、同位体比なんて何でも良いやんけと日々思っています。

しかし趣味でも仕事でも『悪』であると感じていることに従事するのは、気分が良くないですよね。そこは避けたい。Don't Be Evilです。

議論をすることそのものを『悪』と感じることはない。でも結論に至ることを目的としない議論には『悪』を感じることがあるし、議論を尽くさずに結論を出すことにはより強めの『悪』を感じる。ただそれとて常に『悪』なわけではなくて、議論する間でもなく結論が出せることもある。

いずれにせよ、自分の特性を把握できていない状態で議論を展開されると、付き合うのにほとほと疲れてしまう。自分の好きを拙い論理でデコレーションして主張するヤツとか、得意の論理展開を駆使して嫌いなことを否定するヤツとか、ですね。さすがに「それ、単にアンタが気持ちよくなりたいだけやん」と直球を投げ込むのは控えていますが、なんというか、疲れます。

つい悪感情の方向に話を進めるのは、ボクのもっとも良くない特性であります。
久々に出張へ行ってきました。荷造りとか飛行機搭乗前の時間の使い方とか、細々した部分がスムースに体が動かず、かつてオートマチックにこなしていた作業を忘れる身体性に驚かされます。このタイミングで何かするんだよな、と頭では引っ掛かりを感じて、体も動こうとするのだけど、それが何だったかを掴みきれず体が泳いでしまうような、そんな状態です。元に戻ることはないのでしょう。ニューノーマル、どんな形で着地するのだろう。

出張ついでに時間を見つけて旧知の(若手)研究者とお話をしてきました。以前にあった時は、爪や髪が濁って見るからにキツそうだったけど、ドン底からは幾分か回復したようで、知り合った頃の明るさに子育てを経て獲得したのだろう鷹揚さも加わっていました。とはいえ、任期付・地方・子育てというのは知識として知っている以上に困難なのでしょう。話をするうちに、成熟に見えた鷹揚さも、あるいは諦観からくるものなのかもしれないと思い直しました。

「ルールが整備されていなかった」という理由で、産休育休分の任期が延長されず当初契約の任期で、しかし成果目標については休暇分を差し引いて評価するということだが、テニュア審査が行われるとのこと。どの法律でどう判断されるのか専門家ではないのでわからないけども、現在の社会通念からすれば、産休育休相当の年月分だけ任期を延長しないというのは、アウトでしょう。理念が十分に共有されていれば、こういう不具合が生じることもないのでしょうが、やはりまだ「上から落ちてきた概念」なのでしょう。任期制度も、女性の社会進出も。

話をしているうちに、ボクと彼女で過去にどんな話をしていたかを思い出してきました。結婚のタイミングと目の前の研究進捗。出産を見据えた上での地方教員公募への応募。研究テーマの選び方。スイスからの一時帰国でも毎回会っていて、4日間の帰国中に2回会ったりもしました。結果だけを見ると彼女はボクの意見の逆を行き続けているのだけども、だからといってボクが彼女の選択が間違っていたとはまったく思わないし、かといってボクの話したことが無意味だったのでもない。大きな分かれ目でどっちを選ぶかってことよりも、どっちにも転びうる分岐点の前で身体を硬直させないための揺さぶりというか、そういうことをしたのかなと思っているわけです。

最近出演しているウェブ番組やシンポジウムの登壇などで「混ぜっ返し」を期待されていると言われます。この「混ぜっ返し」というのが、なんだかジャマをしているようなニュアンスがあって好きではないのだけど、硬直した状況をほぐす「マッサージ」をしているのだと思えば、なんだかポジティブな気もします。「混ぜっ返し」と「マッサージ」だと語感も似ていて互換性があるし。そんなことを、2週間以上続く寝違えからの首痛を抱えながら、思っているのでした。
正式に編集長というのかは不明です。すでに隊長とかリーダーとか室長とか鬼とか色々と呼ばれております。肩書きはさておき、弊所、2021年10月1日にめでたく50周年を迎えまして、その記念誌の編集長を拝命した次第です。拝命というのもおかしいですね、誰にも命令権限はないので、実態としては「編集長を自称することにした」です。承認は後から。追認待ち。

元々は、初代編集長のご人徳に引き寄せられた編集部メンバーの一員としてノンキに暮らしていたのです。楽しい編集部でした。せっかくだから自分達が読みたいような記念誌にしようと、お役所系研究機関としては非典型的な誌面を妄想して活動しておりました。弊所の倉庫に眠るアルバムを掘り起こしたり、1期生を呼び出して最初の20年間ぐらいの話を聞いたり(その後に飲みに行ったり)、50周年に向けてワイワイとやっておったわけです。しかし、まずコロナ禍悪化で倉庫に集まっての作業が困難になり、さらにネットワークインシデントによって所内のデジタル蔵書にアクセスできなくなったところに、編集長殿の本務異動も重なり、なかなか大変な状況に陥っておりました。そんな状況にあって、突如『天』から「記念誌はどうなっとるのかね」の声とともに降り注いだ非情な締切通告。作りたい誌面にしたい想いと、記念誌かくあるべしという内容で締切厳守である業務と、相反するレイヤーをギュッと押しつぶして一体化するという曲芸に挑むことになりました。

そんな無理ゲーの引き受け手など易々と見つかるわけないのですよ。普通は。でも偶然、請われるがままに曲芸を見せるお人好しなゴリラがその辺でゴロゴロしていたのです。そんなこんなで、みなさまからのヨイショに気をよくして安請け合いし、記念誌編集長(2代目)に就任いたしました。公式な職ではなく、あくまで同人誌の編集長です。エフォート外。実入りゼロ。労力持ち出し。

キックオフ宣言から1週間、驚異的なスピードで物事が進んでいます。誌面編集に情熱を燃やす人、自部署案件として動きやすい人、なにはともあれ祭には参加する人、前職の経験を活かして活躍する人。ここまでは想定の300%ぐらいの進捗です。しかしボクは知っているのです。スタートダッシュの後にヘタリがきて、そこから再度ムチを入れるのがとても大変なことを。ここから締切まで、それほど長い時間は残されていないけど、それほど短くもない時間。どうなることやらですが、何とかなるとも思っています。

とんでもない記念誌を作り上げて、そこに編集長(2代目)として名を残せたら、面白いよね。
眞子さん、一人で出てきてカメラに挨拶。
振り返って見送りに出てきた父・母・妹と向き合う。
全員マスク姿で口元が見えない。
父、母の順に、会釈の後に少し会話をしている様子。
最後に妹と向き合って会釈。
少し言葉を交わしたように見えた直後、佳子さまがバッと手を広げて姉をハグ。
パッと離れてマスク越しでもわかる笑顔。

ここまでの経緯もあって、父・母とのカタい挨拶が「皇室ゆえのカタさ」とも「祝福されていない」とも取れるビミョーなラインだったところで、妹が全身で「私は姉を祝福している」と表現したわけですよ。あの場面でハグをするというアイデアは「たしかに、これしかない」というもの。

皇族と私人、家族仲、現代の若者、そして自身が当事者になりうる立場という多面的な論点がある状況のただ中にあって報道陣に囲まれ生中継される場面で、ハグ以外に、どんな行動がありえただろうか。もちろん、本心がどこにあるかはわからない。報道ウケを狙ってやった行為かもしれない。でも、だとしても、たった数秒で、完全にすべてを掌握したよね。動画、紙面、誌面。どう使っても絵になる。

そしてハグというアイデアを完璧に遂行した「間」が素晴らしかった。あれより早くても遅くてもダメ。あれより速くても遅くてもダメ。あれより短くても長くてもダメ。

父母からきた流れを受けてのカタめの会釈から、バッと手を広げた時の、あの「バッ」がとにかく絶妙。あそこで優雅に「スーッ」と開いていたら嘘くさくなるし、いきなり「ガバッと」飛びかかると妹の暴走にも映ってしまう。姉のリアクションを待つ間合いがあったことで、そこに対話が見えた。さらにパッと離れたところもうまくて、あまり長く続けたら撮られることを意識している感じになっただろうし、あれより短いと本当はハグしたくない感じになったかもしれない。

佳子ハグは、眞子さん結婚に対してポジティブな気持ちを持つ国民の「象徴」だった。
ネット上だけのお友達であるらむさんの奨励賞受賞論文に触発された。
https://lambtani.hatenablog.jp/entry/2021/10/22/141349

「賞に無縁で自信喪失的で論文をテンポよく出版できぬ、真面目だがいかに無精者だったかを、意味ある形で、おもに私より若いステージの方へ向けて、述べたい」というらむさん。これがボクとは正反対なのです。ボクは「論文をテンポ良く出版できただけの不真面目な無精者」です。色んなところでバラバラと書いたり喋ったりしているが、せっかくの機会なので、らむさんの素晴らしい論文への御礼がてら、あらためて書き連ねてみる。

中卒時点まで遡ろう。兵庫県の公立高校入試は「総合選抜」という謎ルールで運営されていた。県立高校の普通科については、県の一括試験を受けて、合格者は住んでいる場所に基づいて高校を振り分けられる。個別の高校を選ぶことが出来るのは、一括試験で上位一割の成績を取るか、普通科ではないところを別途受験した場合に限られる。ボクは中学時の成績が良くなくて、地元では一番の名門である「北高の理数科」の受験資格がなかった。「西高の英語科」には興味がなかった。総合選抜の結果、「県宝の普通科」に行くことになった。県宝は大学進学率が3割ぐらい、1学年8クラス中で理系は1クラスのみという、地元で一番ダメな高校。いわゆる偏差値が50を下回っている。なおこの時点で、兄は隣の西校普通科から京大に現役合格していた。

「最終的に東大に行ったらええのよ」という謎な家庭方針に従い、中学卒業直後の春休みから河合塾に通っていた。ここからボクのショートカット人生というか、効率厨な生き方が加速していったのだと今では思う。アホに合わせたしょーもない授業が展開される高校では適当に遊んで過ごし、河合塾には熱心に通った。高一から河合塾に通うのは、進学校から東大京大を狙う熱心な層ばかりだった。場違いな存在だった。そんなこんなで高三になって、第一志望を北大薬学部にするぐらいの成績にはなっていた。「病弱だから薬学部」というピュアな考えだった。前期入試で落ちて、浪人して東大を目指すことも考えたけど、浪人は面倒だなと思って、得意科目だけで受験して北大の理学部に行くことになった。

大学の授業は、高校に輪をかけてつまらなかった。いま思うと、それは理解できないことをツマらないと逆ギレしていただけなのだが。大学一年の成績は116名中114番、下2名ならびに上数名は留年だった。進級者の中で最低順位だったので、学科選択では4学科中最低希望にした地球惑星に回された。地惑での授業は、これまたつまらなかった。そもそも地質や岩石や鉱物にまったく興味がなかった。3年になってから、2年の時に落とした授業を2年生に代返してもらって、単位を回収して無事に4年になった。なお、この時の一個下世代が、コンノでありオオクボである(←わかる人にはわかる)。

4年次の研究室は、3年までの生活で「こいつは頭が良いな」と思った角皆先生のラボに申し込んだ。先生には「キミ、ボクの授業とってないよね?」と、とても嫌がられた。嫌がられたけど、結果的に受け入れてくれた。与えられたテーマは、入れ替わりで修士を出た工藤先輩の仕事の始末だった。卒論時でさえラボにはほとんど行かなかったが、先生としても早く世に出したいネタだったようで、コンビニで立ち読みしていると携帯に着信があって「すぐに来い」と呼ばれて実験をするのが常だった。引き継いだテーマなので下地がしっかりしていて、わりとすぐに結果が出た。

経緯は覚えていないけど、先生から「論文を書け」と言われた。M1の夏ぐらいだったはず。当時、論文を書くということの意味がわかっていなかった。卒論時から論文を読んではいたが、数としても、読み込みの深さとしても、お遊びみたいなレベルだった。これは今に至るまで変わらない。勉強をせずにきたので、勉強の仕方がわからない。そう。ボクは授業を聞いてもノートを取らないで生きてきたので、インプットした情報を、整理しながらアウトプットすることができない。インプットした情報は、即座に覚えやすいことだけ脳内に記録して他は捨ててしまう。だから論文の精緻な議論の内容など、ちゃんと理解できない。今も理解できていないと思う。

当時のラボにはD3+の先輩が数名いて、みんな「論文を書かないで苦労している」らしかった。本人達は朗らかだったけど、先生は快く思っておらず「アイツらは論文を書かない」とぐちっていた。「論文を書く」という行為の難易度がわからないままに、「論文を書かないでいる」という状態が人生の難易度をあげることが何となく理解できた。ここで効率厨的なボクは「論文を書いた」という状態に辿り着けば、今後の人生の難易度が下がるのだと考えた、のだと思う。正確には覚えていない。そして書いた。便所の落書きのような原稿ができた。どうせ真っ赤にされるのだからと、特に推敲もせず先生にわたした。もちろん真っ赤になって返ってきた。それを数往復したのだと思う。10回も往復はしていない。その原稿は、完全に先生が書いた文だけで出来上がっていた。M1の2月に投稿して、3月にレビューが返ってきて、5月にアクセプトされた(2005 Anal Chem)。

学振DC1の存在をどうやって知ったのかは覚えていない。とにかく論文出版がDC1申請に間に合った。面接免除で通った。これで完全に自分の中の図式が完成した。「論文を書けば職にありつける」。論文を書く苦労を知らないまま(なぜなら1本目は先生がすべて書いたようなものだから)「論文を書けば良いんだろ、簡単な業界じゃないか」という、学術に対する敬意など微塵もないダメ院生が出来上がった。業績至上主義の権化。M2の頃には先生と修復不能な状態に陥っており、博士からはラボを移った。余談ながらここで図らずも「最終的に東大に行ったらええのよ」を満たした。親孝行。

博士課程のラボにはボクしか学生がいなかった。D1の冬に、先生がずっと取り組んでいたインド洋の航海に参加して、その時の発見についてすぐ書いて、D2の冬には受理された(2008 G3)。この論文は「発見モノ」だったので、議論は特に必要なかった。これと並行して、修論の仕事は、ケンカ別れした先生から完全に無視される中で書いた。こちらの出来は酷かった。効率厨なボクには、すでに止めた研究の内容をまとめるために勉強をすることは苦痛だった。知識欲はなく、単に執筆に要請される苦労だと認識していた。この時のエディターが親切で(いま読み直すと親切というよりはイラつきながら)付き合ってくれて、最終的には先生も手を貸してくれて、なんとかD3のうちに出版できた(2008 ACP)。この時のやりとりはジャーナルのサイトに残されているが、本当にヒドい。 https://acp.copernicus.org/articles/8/6189/2008/acp-8-6189-2008-discussion.html

とにかくD3の秋には主著3報の業績リストが出来上がった。うちの分野では「主著が1報あれば学位審査に進める」ぐらいが標準なので、正直言って同期連中からは(業績リストだけは)抜きん出ていた。でも、ここまで書いた通り、先輩の引き継ぎ仕事、先生のテーマの丁稚でアタリ、修論データの仕事、の3報なのだ。今に至るまで、この「誰かが発案して着手した仕事がデータになって転がっているから代表してまとめる」というスタイルの論文ばかりを書いてきた。たくさん勉強して研究をデザインしたことはほとんどない。場当たり的に進んでいる。データが先にあって、これを論文にするためだけの勉強をする。細かい議論には立ち入らない。「詳細は論文の主旨からズレるから議論しない」とか書いて、逃げる。逃げ切る。

ポスドクの就職も棚ぼただった。博士で進学したラボには、前年までポスドクでいた先輩(トキ)が途中まで組み上げた分析装置と、これで分析するはずだった試料があった。先輩からこれを引き継いで装置を作って分析を終わらせた(2010 JGR)。その試料が、高井研からの依頼物だった。D1の3月の集会で高井さんに挨拶した。「トキのサンプルを分析したのはボクです」と。それでD2の夏の航海に誘われて(2011 GJ, 2013 ChemGeol)、まだラボに出入りしていた高井さんがドンドンと培養して培地ガスを送りつけてくるので延々とこれを分析した(未発表)。毎週日曜には1時間超の電話をしていた。そんなこんなでD3の秋には「科研費取れたからポスドクで来いや」と釣られて加入。それから先月まで12年間、高井さんの部下をやっていたのだから、ノンキなもんである。

これまでたくさん国際学会に参加して、2度の短期留学にも行った。しかし外国人と十分に交流したとは言い難い。本当のところは「言い難い」では生ぬるい。ずっと逃げていた。英語がとにかく苦手なことと、特に話したいことがないことと。お喋りは好きだが、それが英語になることで言いたいことも言えずストレスを感じるから、楽しくないし面倒くさい。英語は仕事のツールでしかない。益川さんじゃないけども、読み書きできれば十分だ。十分と言えるほど読み書きも出来ないが。海外で街を巡るのは楽しいから、その程度のツールとして使えるぐらいに英語だけは覚えようかとも思うが、それはそれで十分なので、心を通わすような交流をするべく頑張る気はない。だからいまだに海外にお友達はいない。

2012年に地球化学会の奨励賞をもらうことになった。受賞記念講演では推薦者が紹介者となるナラワシがあるのだが、推薦者である蒲生先生は航海か何かで不在で、高井さんも不在で、結果的に角皆先生にお願いすることになった。角皆先生とはまだちゃんと和解していなかったけど「キミが良いなら、ボクは引き受ける」と言ってくれた。当時は短期留学後だったり、震災後だったり、子育てのことだったりでとにかくピリピリしていて、さらに研究を進めることにも色々と思うところもあって、とりあえず受賞講演をスライドなしで喋ることだけは決めて当日を迎えた。

紹介者の角皆先生が喋りはじめた時点で、ボクはもう泣きそうになっていた。先生は予想通りに「彼はとにかく言うことを聞かない不良学生で、ここにいる若い皆さんは彼のことを見習わないで欲しい」という内容のことを述べた。それはそれで嬉しくって、それだけでも十分だった。なのに先生は続けて「でも、とにかく論文だけは書いた。これだけは若い人に見習ってほしい」と言った。もうダメだった。勉強もしなかったし、実験もしなかった。とにかく逃げて、最短距離だけを見定めて業界で生きてきた。そんな自分に後ろめたさがあった。直前の短期留学でも部屋に籠もっていた。でも、本心から言ったかどうかはさておき、それでも「論文だけは書いた」と言ってもらえた。先生の紹介が終わって登壇したのだけども、すっかり感動してしまっていて、あろうことかスライドも用意していないから場繋ぎも出来なくて、何分間もただただ壇上で泣き続けるという謎の状況だった。もうすっかり何も喋れないでいるボクを見て、一番前に座っていた小嶋稔さんが大きな拍手をしてくれた。それでみんなも拍手をしてくれて、少し落ち着いてきて、あとは適当なことを適当な時間だけ喋って降壇した。ボクはあれ以下の受賞講演は見たことがないし、これからもあれ以上の受賞講演を出来る気がしない。

もう奨励賞をもらってから10年が経とうとしている。ボクはいまだに「論文だけは書いて」研究者生活を送っている。日頃のボクの姿を見ている人は、ずっとウロウロしながら喋っていて、たびたび船に乗って、研究と関係がない外回り仕事ばかりしていて、でもなんか論文だけは出続けている、と思っているはずだ。それはすべて正しい。ボクは「論文だけは書いて」いるけども、それ以外の研究に関わること、たとえば勉強も実験もほとんどやっていない。かといって論文を書く秘訣を知っているわけではない。ただ、効率厨で、堪え性がなくて、拘りがないので、「ここで論文にする」という見切りが早いのだと思う。「もう一手間を加えれば見違えるほど良くなる」ということを考えない。本当のことを言えば、それはちょっとしたポリシーでもあって、ボクのやっている観測報告のような研究は、無味無臭に確かな観測データが報告されている方が、ちょっとした手間をかけた仕事とパッケージになっているよりも、後世の人にとって有用であると思っている。もちろんそれさえも、勉強や追加実験をしない言い訳として作った後付けのポリシーなのだけど。

ということで。良い子のみんなは勉強も実験もして、さらに論文も書きましょう。勉強も実験もしないボクでも「論文だけは書ける」んだから、論文を書くなんてのはその程度のことなんです。怖くない怖くない。
2017年8月にスイスから日本に帰国する際、ETHからの給料などを入れていた現地口座を解約した都合で、20,000スイスフラン(CHF)の現金が手元に残ってしまいました。1,000CHF札で20枚。レートは2016年7月の渡欧準備時にちょうどブレクジットがあって、ガクンと落ちた時で105 JPY/CHF、その後はずっと115JPY/CHF程度ということで、1,000CHF札って1枚で11万円ぐらいなんです。つまり200万円ぐらい。

なんと言ってもスイスのフランなので、国際的な金融波乱があった時に強かろうと保持し続けようと思っていました。しかし世界的なマネーロンダリングの問題などがあって、紙幣更新のタイミングで換金不可となる可能性が議論されていて、これでウッカリ箪笥貯金のまま忘れていたらシャレにならない。それで箪笥貯金じゃない方法でスイスフランを維持しようと考えました。

CHF現金を銀行に持ち込んで、CHFとして口座に保持しようと考えました。しかしこれに対応している銀行が見つからない。名目上「対応している」という銀行も、よくよく話を聞くと「一旦日本円に替えたのと同等の手数料を取って、さらにスイスフラン入金の手数料を取る」ということで、何の意味もありません。

横浜銀行が「ネットバンクでCHF口座を先に作れば、日本円への両替1回分の手数料でCHFのまま口座に入れられる」というので、これを利用することにしました。ネットバンクで1CHFだけの口座をまず作ってから、横浜にある本店に現金を持ち込みました。事前に電話で話を通していたので担当の方もパパッと作業を進めてくれます。免許証、パスポート、現地で生活していたことを示すモノ(現地ドライバーライセンス)を出して、色んな書類を書いてハンコを押して、さぁ入金というところで、なんと偽札判定機に引っ掛かりました。正確には、どうやら判定機に1,000CHF紙幣の情報が入っていなかったようで「こんなお札は知りません」という反応のようです。そんなことがあって、横浜銀行には1CHFだけ入った口座が残されています。

すっかり気持ちも萎えて、このまま箪笥貯金でいこうかと思っていたところ、2021年10月になって円安がはじまります。124 JPY/CHFです。渡欧準備時に108 JPY/CHFで両替したので、手数料で損をしないレベルで日本円に戻せるんじゃないか。もちろん為替のことなのでもっと円安が進むこともありえるが、それは本当にわからないので、やはり替え時なんじゃないか。それでもう現金から現金への両替でいいやということで対応窓口を探しはじめたところ、三井住友銀行は両替事業をやめているとか何とか。マネーロンダリング対応が面倒なのでしょうか。さらにスイスフランの取扱があっても1,000CHF札を扱ってくれる店舗は少なく、困ってしまいます。

結局、三菱UFJ銀行の本店ならば両替できるということで、電話して話を聞きました。すると両替後の日本円が100万円を超える場合は口座への直接入金になるとのことで、昔の口座を掘り起こして準備。ちょうど都内外勤用務が発生したので、善は急げと丸の内に立ち寄りました。さすが本店、荘厳な内装で、しかしコロナ禍のためか客はまばら。両替は驚くほどあっけなく、自己申告で入手理由(給料)と両替使途(生活費)を紙に書くだけで、紙幣も目視確認だけ。ハンコを押すこともなく完了でした。三菱UFJがこれで、横浜銀行はあれで、そんなものかいなと思ったり。(あとから機械にかけるのかもしれないけど)。両替時のレートは店頭124で実質118だと説明を受けました。

降って湧いたような日本円なので、どっかの投資銘柄に突っ込んでしまいましょう。
「ルッキズムとはなんぞや」ということの専門家ではありません。でも何となく「こんなことだよな」という感覚はあります。それはたぶん、幼少期にそれなりにヒドいアトピーだったことと無関係ではないでしょう。「美肌」とかいう流行の宣伝文句に対して、いわゆる普通の人以上に嫌悪感を抱いていると自己分析しております。私的な感情で言えば、劣等感の裏返しですね。

揶揄の意味で使われることの方が多い「ポリコレ」ですが、その意味通りに「ポリ的に言えばコレ」なわけなので、完全に無視するわけにはいかないでしょう。私的な領域での言動に対してまで、とりわけ第三者が、ポリコレ棒を振りかざして殴りかかるのは、やり過ぎだろうと思います。しかし、公的な機関、あるいは公的な性質を帯びた立場にある者が「そらまぁアカンでしょうな」というラインの言動をしてしまったら、盛大にポリコレ棒でタコ殴りにされることも致し方なしという世情ではないでしょうか。

この国では「イケメン」とかなんとか、そういうことを公の立場で言ってしまったりしていますね。ポリコレ警察ルッキズム支庁の観点からイエローカードは間違いないですよ。「なんでやねん!褒めてるんやからええやろ!」という声が聞こえてきそうですが、褒めても貶めても、生来的な性質で本人の努力では如何ともしがたい容姿を話題に取り上げていることが、イエローカード対象なわけです。「顔が良いから研究者じゃなくても仕事に困らない」なんてのもVAR対象ですね。もちろん「ブサイク」とか言ったらレッドカード1発退場に加えて減俸&5試合出場停止は免れません。

と、ここまでが前置きであります。本題は弊所がルッキズム丸出しの宣伝動画作成をシリーズ化していて「いやいや、このポリコレ全盛の御時世にこれはないでしょ」「公的(研究)機関のアウトリーチとしてこれで喜ぶ層を狙いに行くのはアカンでしょ」ということであります。実験室の様子を(多少デコって)伝えることとか、好印象を持ってもらう宣伝動画を作ることは、悪くない。むしろ良いかもしれない。しかしそれとて、小保方案件の反省があれば、二の足を踏んでも良いところ。そんな中、研究と無関係な職員をあからさまにルックス重視で選抜して出演させるのは、さすがに違うでしょうよ。もちろん、こうして「あからさまにルックス重視で選抜している」というボクの断定も、担当者に直接聞いたわけではないし、これまたルッキズム丸出しなわけなんですが、しかしまぁそういう意図じゃ無きゃああいう人選にはならないよね、と。そんなこんなで、とてつもないモヤリを抱えていて、落ち込む事もあるけれど、私この会社が好きです。
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