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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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何度か触れてきたけども,
大学教員って「教育をする側」になる特別な訓練を受けてないわけですよね。
それって,家庭教育と同じだなって,そう思ったわけです。

子供が出来ると,放棄しない限りは,
親は家庭教育というものの「教育をする側」になるわけで,
そういう意味で言ってしまえば,
たいていの大人は「教員」なんですね。
大学の教員がする教育なんてものは「そういうもの」なんです。

研究室における研究指導は,研究に特化している分だけ,
ある程度「研究者としての能力」に比例する部分があるので,
「教員としての実力」が問われにくいかもしれませんが,
まぁそれでも,その辺の会社の「OJT」と同じようなものかもしれません。
要するに「習うより慣れよ」「教わるな盗め」という名の下に,
別に何もしないでフルイにかけているだけ,みたいな。

これが大学の授業となると,
自分の人生体験の中で「あれは良かったな」「こうしたいな」みたいなものを,
おそるおそる,現場で試しながら,反応をみつつ,取り組んでいるわけで,
まぁ家庭での子供の教育と同じですよね。
ここで結構バカに出来ないのは,
基本的に教えたら教えっぱなしでその成否は問われないし,
だからこそ毎回のフィードバックも曖昧で,
とにかくシステムとして「いい加減」なわけですね。

そんなわけで,
各家庭で色々と方針が違っても,
社会とか周辺の人間とかの影響があったりして,
親という教員の思いもしないように子供は成長していくわけで,
別に大学教育を今すぐ違うモノに変えたって,
あるいは授業を誰がやったって,
たかがしれているというか,
まぁそういうことなんでしょうね。


なんか予定していたのと全然違う話になっちゃった。


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昨日の「人格と意見は対立する」話に対して,
ツンデレ芸人の銭本さんがやや斜めな方向に反応したので,
さらに斜めの方向に話を進めてみよう。

ボクにとって【部活】ってのは,かなり大きなテーマで,
扱いが難しいというか,軽々に議論の俎上に上げたくないものなわけです。
それはたぶん,
ボク自身の体験として,非常に大きな部分を占めていて,
客観性・一般性を保ちきれない不安があるからなんだろう。
もっと突っ込んで言えば,
ボクの中には,いまだに,「部活」に関わりたいという欲求が大きくて,
その思いが爆発してしまうのが怖いということでもある。
まぁそれは今日は置いておこう。


色々と話が発散しがちなので,
とりあえずココでの部活は運動部ということにしよう。

運動競技というのは,
一定のルールの下で勝敗を競うもので,
だから選手(や監督やマネージャー)は,
そのルールの範囲で行動する人という,
まさに「ロールプレイヤー」だと言える。

競技の「ロールプレイ性」については,
これまでに「野蛮と茶番」というキーワードで語ってきているうちの,
「茶番」に該当するのだと再認識した次第で,
これまでの文章もぜひ読んでもらって次も読んでもらおう。
茶番と野蛮
茶番と野蛮 2012夏
代表戦は代理戦争か

よく「部活は単純な勝負論の世界ではなく教育の場だ」と言われます。
ごく最近で言えば済美高校のエース安楽くんの「投げすぎ」論とか,
部活指導における「体罰」の是非とか,
定期的に問題視されるのに,
それでもいっこうに解決される方向に向かわないのは,
個別の事象を超えた次元で,
「部活」ってものを語ってこなかったせいだと思うわけです。

ボクの「部活を通じた教育」に対する意見は明確です。

競技はロールプレイです。
だから部活で大事なことはロールプレイに徹することです。
指導者も競技者も「競技力の向上」のみに注力します。
そのために,
自分の感情とか,肉体の限界とか,競技技術とか,
そういうものを把握して,抑制して,改善して,
「競技力」を最大化する方向に向けて努力します。
それは日々の練習でも,特別な試合でも,同じ事です。
また団体競技であっても本質はかわりません。
ここで大事なことは,
「競技力」というのは競技のルールの下でのみ成立する能力であって,
本質的に「非普遍的」で「他のことには役に立たない力」です。
それでも「競技力の向上」のために考えた頭や,動いた体は,
ロールプレイをしていても,していなくても,自分の頭であり体であるので,
たとえロールプレイに徹していたとしても,
「意図せず」個々人の生身に「普遍的な能力」が開発されていきます。
それが「部活を通じた教育」の意味だと考えます。
だから,
部活の中で競技とは無関係な「教育」を行う必要はありません。

この考えに基づいて,
たとえば安楽くんの「投げすぎ」について解釈しよう。
監督は済美野球部の監督で,
安楽は済美野球部の投手で,
野球部の目的は「野球競技」での「競技力の向上」,
野球部は「勝利」を目的とするロールプレイ集団なわけです。
だから,
監督は「野球部の勝利のために」安楽に投げさせるし,
安楽も「野球部の勝利のために」自分が投げることを選びます。
「監督は安楽の体のことを考えていない」と言っても,
それはロールプレイの範囲外の話で,
「野球部の監督」として勘案すべき案件では無い。
だから,
また同じような場面があったとしても,
監督は連投させ,エースは連投を望むと思う。
それが「競技のルールの下でチームの競技力を最大化」するための最良の策なので,
当然の帰結なのです。
でも,
安楽くんの体は,高校野球というロールプレイゲームを離れても,
安楽くんの体であり続けます。
競技で壊れた体は,競技を離れても治りません。
じゃあどうすべきなのか。
出口は一つしかありません。
「ルールを変える」ことです。
ルール上で「球数制限」があれば,
その範囲内でチームの競技力を向上させる方向に努力します。
「選手を多数集められる私立校が有利」とかいうのは,
あくまで「競技力の出発地点」の問題であって,
高校三年間での「競技力の向上」とは基本的に無関係です。

長くなってきたので,体罰にからめた話は割愛。

で。

院生になって周りを見渡すと,
学部時代にちゃんと授業に出ていた連中よりも,
授業に出ずにガチ系部活に出ていた連中の方が,
研究が進んでいることが,ままある。(自慢みたいですけど)
イタイくんとか,トーナイさんとか。

それについて「何かに打ち込む力が強い」みたいな言い方をされるけど,
まぁそれはそうなんだろうけど,
じゃあそれは「大学の授業では開発できないのか」って疑問で,
逆に言うと,
部活と授業の違いってなんなんだろうってことで,
そのヒントが「ロールプレイ性」に隠されているんじゃないのかな,と。

学生競技っていう,年限が決まっていて,指導者もロクにいない中で,
いかに競技力を向上させるか,ってことに向き合って暮らすことが,
情報収集・立案・実行・解析・フィードバックという,
まさに研究と同じ作業を,
違う競技のロールプレイとして体験することになっていたわけだ。
そういう意味で,
部活をやっていた連中は「研究の経験者」で,
授業を聞いていた連中は「研究の初心者」なわけだ。

って考えれば,
大学の授業でやるべきことは,
ロールプレイ上,研究と同じ作業をするような「競技」であって,
もちろんいきなり「研究」をさせても良いけども,
「ディベート」とか「演劇」とか,そういうものであって,
「講義と聴講」ではないと確信するわけです。


どんなにダメなヤツでも,言っていることが「ごもっとも」なことはあるし,
どんなにスゴイヤツでも,言っていることが「トンデモ」なこともある。

ダメとかスゴイを,「好き」「嫌い」に置き換えても良いかもしれない。

なにか議論をしようという時に,
メンバーを見て,端から「アイツはアレだから」みたいな色眼鏡でいると,
何も話が進まない。

議論をしていて,
認めていない人格から良い意見が出た時に,
意見には同意するんだけど,
認めていない人格から出た意見にそのまま同意するのはシャクだから,
あらを探して,難癖をつけたり,注釈をつけたり,
そうやって,
相手と自分の「人格の格付け」を変えないようにするってのは,
「良い意見」を確立しようとする場に,
「人格」を持ち込んで混乱させているだけなんだよね。

逆に,
全然まともな意見が出ない議論ってのは,
意見を人格と結びつけられることを恐れているせいなんだと思う。
たとえば,知識が足らずに見当違いな意見を言ったとして,
その意見は即座に否定されるだろうけど,
実際は意見が否定されること以上に,
それが「自分を否定された」ことにつながることを恐れてるんだろう。
実際,そうやって意見と人格を同一視する圧力が強いわけだし。

幼馴染みのスタイリストTATSUOが紹介してくれた,
表現と自己表現は違う
ってのも,
まさにこれに該当する話だと思う。

こういう話の類型で,
「科学的な考え方」って話題がある。
「科学的」ってのは,
ようするに「人格」を徹底的に排除して,
事実ベースで客観的な「意見」を抽出すること,と言っても良いかもしれない。
だから「科学的な考え方」を身につけることは重要だ,
みたいな話。

「科学研究」を通じて,
人格と意見の独立を身につけられるってのは,
ある意味でその通りだけど,ある意味でその限りではないとも思う。
それはつまり,
科学者ってのが,
自分の人格から発せられる欲求があって,
それに基づいて研究に取り組んでいるわけで,
ある一個の研究自体に完全に客観的に取り組んでいても,
そのテーマを選んだこと,
科学的なアプローチを選んだこと,
他ならぬ「あなた」が研究をしていること,などは,
どう考えても,主観的にならざるをえない。

だから,
科学研究に取り組んだら必ず人格と意見を独立させる考え方が身につくかって言うと,
ボクはそこにはむしろ懐疑的で,
今まさに直面している事象に対して客観的な解析が出来たとしても,
それは「科学的に見る」ってことを盲信しているという点で,
言い換えるなら,
「科学的でないこと」を言外に否定している点で,不十分だと思う。

なんか脱線してきた。

着地点にしたかったのは,
「人格と意見を独立させて会話できる」ことが社会生活において重要で,
科学研究というのは「人格と意見の独立」を標榜してはいるけども,
かといって,科学研究に従事することは,
「人格と意見を独立させて会話できるようになる」ために,必ずしも良い方法ではない。
むしろ他に,その能力を身につけるのに特化した方法があるならば,
その方法を採用すれば良いのだと思う。
それはたとえば「ロールプレイを含んだ議論」だと思う。
たとえば,
クラスの半分を原発賛成,半分を原発反対に,
個人の信条とは無関係に分割して,議論の準備をさせて,議論をする。
そういう自分自身の中で人格と意見を対立させるような体験を積み重ねることで,
身につけていけるんじゃないかな,と思うわけです。

たぶん,
教育メソッドとして名前がついていて,
注意点とかコツとか,
まとめられていると思う。

たとえばディベートの教育効果の話をすると,
大抵がアメリカの子供たちを例にだして,
「ディベートを授業に盛り込むべき」
「意見を表明することが大事だ」
みたいな論調だと思う。
でもアメリカのそれは,
「人格から発せられる意見の対決によるディベート」であって,
それはそれで,初等教育的な入り口ではあるけども,
あまり大人な社会性を醸成するものではない気がする。
「自分の意見を押し通す」では「人格と意見の独立」はなされていない。
そうじゃなくて,
「【ロールプレイ】によるディベート」が重要なのですよ。

で,
そういうことこそ,大学教育で,教養として,やるべきじゃないかしらね。

「啓発・警告本を書くしかないか」と思って悶々としてきたが,
それは手段でしかなかった。

目的は,
「研究をしない大学教員」
を樹立することだった。

それは,自分が研究が出来ない(したくない)からという言い訳ではなく,
大学に(社会が暗黙のうちに)求める機能としての,
「より実践的で,でも非経済的な,いわゆる教養的な高等教育」
を実現するためには,
「研究を経由しない高等教育」
の在り方を自ら例示する必要があると思っているからだ。

じゃあなんで直接的に,
さっさと自ら大学教員になってしまわないのかというと,
現状の大学で大学教員になるには,
「公募」という踏み絵を超える必要がある。
と,思っていたから。

でも,そうじゃなかった。
公募は,ウソをつかない限り,踏み絵じゃない。

つまり,教員公募で,
「自分の好きなように大学教員をまっとうする」と明確に告げて,
それでも採用してくれるところに行って,
そこでボクの思う大学教員を実践すればいいだけの話だった。

「中の人」として告発するのも,
「告発者」として告発するのも,
なんか違うと思ってきたけど,
大学の中に入る前にここにこうして書き連ねているわけで,
それはそれで,査読無しではあるけども,十分に意見表明なわけで,
もう十分に,書籍を書こうとした目的の部分の役割は果たしている。


ということで,
だんだんと,
身の処し方が固まってきたかもしれん。

最近あまりしていなかったが,
そろそろ研究生活フィニッシングに向けて,
手をつけていることを整理した方が良いかも。

私的メモとして以下

*熱水観測関係
・伊平屋ポストIODP −>原稿を共著者に渡した
・伊是名2サイト熱水 −>主著を外れ原稿を共著者に渡した
・インド洋2サイト −>最後の分析終了,データ待ち。鉄重要
・沖縄熱水まとめ −>未着手。大河特集号向け

*その他観測関係
・沖縄IODPメタン −>未着手。分担分を書いて主著者へ
・東北IODPガス −>未着手。データは増えないので書ける
・チャモロ  −>未着手。データは増えないので書ける
・ナリ淡青  −>原稿はほぼ完成
・ナリ大槌  −>未着手。ちゃっちゃと

*培養/実験関係
・水素メタン培養 −>原稿投稿中
・水素水素培養 −>原稿手元
・エタメタ培養 −>培養頓挫中
・メタ網羅培養 −>これから
・フーイ煮込み −>C2+のdD未分析

*その他の研究
・塩素  −>ブランク。固体抽出。手法個別に論文化
・フラックス −>ヘリウム自動。ラドン手法
・記念総説  −>何で書くか


これから新しいことに手を出さなくても,
10報ぐらいは書かねばならぬが積もっている。
年5報で2年。
ぎゃぼ。

31歳になり,単身赴任になり,新年度になりました。

今年度および31歳のスローガンは【健康第一】にしました。

禁酒とスローライフを徹底しますので,誘ったり急かしたりしないでください。

今後ともご贔屓に。
大阪産業大学が行っていた,
私立補助金を受け取るための操作が暴露されました。

========以下ー産経ニュースより========

国の「私立大学等経常費補助金」に関し、当時は入学者数が定員の1・37倍以上になった学部には支給しない規定があった。

 告発によると、大産大経営学部の21年度の定員は465人で、補助金受給には入学者数を637人以下に抑える必要があったが、20年12月までに、推薦入試などで600人近くの入学が決定。一般入試の募集定員は78人としており、入学者総数が637人を上回る見通しとなっていた。

 このため、大学側は当時の付属高教頭に対し、入学意思がなく成績優秀な生徒に経営学部を受験させるよう依頼。元教頭の指示を受けた担任教諭2人が3年生9人に受験を依頼し、一般入試を日程別に延べ数十回受験。合格した生徒に1回あたり5千円が渡された。

 依頼を受けた合格者で実際に入学した生徒はなく、大学側は入学者数を意図的に抑制して基準を満たした結果、21年度の補助金約10億円を受け取ったという。

引用元記事
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130317/crm13031719350002-n1.htm

==========ここまで=============

要約すると,
・大学側は補助金がもらえるギリギリの数まで入学者数を確保したい
・推薦などの入学者数が伸びすぎて一般入試全員を合格させると補助金がもらえなくなる
・一般入試での合格枠を消費しつつ入学数を抑制するため付属校の生徒に依頼
・依頼された生徒は受験し,合格し,入学しないことで,報酬をゲット
・大学は補助金がもらえる数まで入学者数を減らせて,補助金をゲット
ということで,
何が問題かというと,
・大学が入試の合格者数を決定する基準として「補助金の規定ありき」で動いた
・その結果,入学を希望していたかもしれない一般受験者が落ちた
の二点でしょうか。


【大学の儲け主義のために,受験生が犠牲になり,税金がもっていかれた】
という図式です。


「より良い社会のためにより良く教育された人を増やしたいね」というのが,
社会が大学を持っている意義だろうし,
その意義を感じるから,私立大学といえども,国から補助金が出るわけで,
それなのに,
肝心要の大学が自身の儲けに目がくらんで行動しているという,
なんとも悲しいお話なのです。

メモがわりとして


大学の教育とか,そういう議論とは別物として,
経済社会における「大学生」ってものを考えてみる。

-------------------

まずは一般用語の整理から。
厚生労働省のウェブサイトに「厚生労働に用いる用語解説」がある。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/kaisetu/index-hw.html

この議論で重要なのは,
「生産年齢人口」って言葉で,
「生産年齢」である15~64歳の人口のこと。

この年齢層が労働力で,
これより若い年少層は,人権的観点から,
「労働に従事させないようにしましょう」と考えられています。
児童労働:http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/index.htm

65歳以上の老年については,
「最近の老人は元気だから」などという論もありますが,
とりあえず「労働力として期待できない」ということにしておきます。

日本の人口構造は,少子高齢に向かっていて,
総人口に対する生産年齢人口の比率は減少しています。
2050年の予想人口ピラミッドが総務省統計局のサイトにあります。
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kouhou/useful/u01_z23.htm

-------------------

で,ここからは便宜上,
18−21歳の年齢層の人々,つまり「普通の大学性の年齢層」を,
「若者」と呼ぶことにします。

若者は,生産年齢層で,労働力として期待されています。
その期待感は,人口構造の推移から,
今後より高まってくると思われます。

一方,大学進学率は上昇し続け,
ついに2009年には50%を超えるに至りました。
ちなみに高校進学率は30年ぐらい前から90%超えが続いています。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html

若者は4世代(4年制大学)なので,
その50%となると,
生産年齢(15−64歳の40世代)の5%です。
つまり,現時点でこの国の労働力として期待できる人口のうち,
5%が「働かないで大学生をしている」計算になります。

-------------------

この「5%が働いていない」ことについて,
単純にお金のことだけに着目すると,
2つの視点があります。

1つは単純な話として「働け」という視点です。
総人口が減る,老年人口は増える,生産年齢人口は減る。
そんな社会で,生産年齢の若者を,のんびりさせておく余裕はない。
働いて,稼いで,税金を納めてもらわないことには,困る。
(さらに本音を言えば,大卒より高卒の方が安く雇える)
つまり「労働力としての若者」という視点です。

もう1つは「消費者としての若者」です。
「若者」が「大学生になる・大学生でいる」ことで,
多くのビジネスが動いています。
塾など教育受験産業はもちろんのこと,
学校自体も,そこに雇用があるわけで,一つのビジネス形態です。
また「若者の親世代」は,多くの場合もっとも稼ぐ年齢層なので,
この層から【若者と大学を介して】お金をはき出させることは,
社会として見過ごせない重要な機能です。
仮に「若者」が大学に行かず就職することを考えると,
この「若者の親」は迫り来る自身の老後に向けて貯蓄するでしょうから,
「貯蓄に回ってしまうお金を社会に流通させるため」と考えると,
「消費者としての若者」という触媒の社会的必要性を感じます。

ちなみに大学には多額の税金が投入されています。
国立大学(約1兆円)はもちろんのこと,
私立大学にも国から補助金が投入されています。(約3200億円)

http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/stat/090503d.html
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002.htm

これについては,
「生産年齢人口が働かないために税金を使っている」とも考えられます。
「税金の無駄遣いだ」と見るか,「経済を回している」と見るか,
見解がわかれるところでしょう。

---------------------

さて,近年の傾向として,
若者人口は減少していますが,
私立大学数は増加しています。
http://eri.netty.ne.jp/data/uni_04.htm

これは良い方向に考えれば,
「より多くの若者に高等教育を受けさせ,より良い社会を築こう」
という風に解釈できます。
一方で,
そんな高邁な思想が近年爆発的に普及して,
みなが雪崩を打って大学の経営に乗り出したのだろう,
と考えるのは,さすがに無理筋な気もします。

むしろ,ちょっと穿った見方になるけれども,
『「大学経営は儲かる」という考えがあったのではないか』
と考える方が妥当な気もします。
大学経営には,先にあげた通り私学助成という税金補助がありますし,
また少子化もあって「子の教育に出費を惜しまない親」も想定されますから,
「おいしいビジネス」と考えるのも,ありえない話では無いと思います。
ちなみに1991年に大学設置基準が緩和されたことが,
大学数の増加のきっかけになったとする論が大勢です。
http://benesse.jp/blog/20121009/p2.html

もちろん,
新たに大学をはじめた人が何を考えていたかはわかりません。

---------------------

大学の存在ってのが,こうして考えてきたように,
経済と密接に関わっていて,
しかもその接点が今後より注目を集めることが予想されるわけです。
(主として生産年齢人口減を要因として)

だからこそ,
経済と関係無い部分で,
「社会における高等教育の意義」という大上段に構えた時に,
単なるスローガンや組織論などではなく,
確たる信念と方向性に加え,方法論までをあわせて示す必要があるのでしょう。

それが「グローバル人材の育成」みたいな,
経済側の論理に寄った教育観では,
もう大学に未来はないなぁ,という感じがします。

「良い大学・悪い大学」なんて話をする時に,
多くの場合,その良し悪しの判断基準が,
「入試」と「就職」にしかない。

大事なのは,
どの門に入って行ったか,
どの門から出てきたか。

その中で何が行われているか,
あるいは,
その中に入った人がどのように変化して出てきたか,
そんなことは,関係ないのかもしれない。

それはつまり,
仮に大学が門だけのハリボテでも,
中には何もない「びんぼっちゃまの家」のようなものであっても,
そんなことは「どうでもいい」ということだ。
だって大事なのは門なんだもの。

学生(とその親)は,どの門を出入りしたかを世間に見せたくて,
社会(特に企業)は,どの門から出てきたかしか見てなくて,
大学は,良い門に見られるために装飾して,
だから誰も「その門,ハリボテじゃん」なんてことは言わなくて,
三者三様の利益のために「門」というフィクションを皆で必死に守っている。

どうしてそうなるかって言うと,
すでに大学を出ている大人自身が,
「大学で学んだ」という実感を持っていないからだろう。
「大学時代のこと」を思い出すと,
「授業」や「教授との対話」なんかよりも,
サークルやバイトなんかでの経験の方が,
よほど今の人生に影響を与えているという実感があるから,
心の中で「大学での教育なんて意味あんの?」って思っているからじゃないか。

そうなってくると,
じゃあ「門」以外の何で大学を見分ければ良いのか,
って考えちゃって,
「あぁ「門」として以外,大学には機能なんてないね」
という結論に至ってしまうわけだ。


じゃあ実際のところ,
門の内側で,大学ごとに差があるのか,ってことに注目してみると,
掲げている教育理念・スローガンや,
学部学科の構成や,
授業カリキュラムや,
特色ある取り組みや,
そういう枠組みの部分は確かに違う。

でも,
大学教員の教育に対する考え方とか,授業のスタイルって,
そういうものからは独立していて,
各教員の裁量によるところが大きい(というか,ほぼ全権)。

さらに大学教員の採用システム上,
「今年度は東大でしたが,来年度から京大に行きます」
みたいなことはザラにある。

だから,
去年は「東大教授」で今年は「京大教授」だけど,
「中身は同じ人で授業の内容も同じ」ってことにもなる。

もちろん,教員人事において,
「うちの大学の理念にふさわしい教員を採用」という選抜基準もあるのだろう。
でも,少なくとも私自身は「寡聞にして存じません」です。
基本的に研究能力(最近は特に論文業績と外部資金獲得能力)が問われ,
教育観や教育技術の巧拙などは,二の次のようです。

となってくると,
スローガンやカリキュラムなんてものは,
結局は「絵に描いた餅」みたいなもので,
「門」と同様に「ハリボテ」の一部でしかないわけだ。

最近は「グローバル人材」のため「英語教育」とか言って,
「英語ネイティブ教員を増員」とか言われたりする。
もちろん,その大学がそういう理念で運営をするのには反対しないし,
理念のために教員構成を大幅にかえることについては,
「まさにそうあるべきだ」と思う。
思うけども,同時に,
「じゃあ今いる教員は何なの?今までの教育はなんだったの?」
ということも感じざるをえない。
それはつまり,
「大学と大学教員ってのは,分断されたものなの?」
って問いと同じ意味なのかもしれない。


研究にしか興味が無い大学教員のことを,
「象牙の塔の住人」と揶揄することがあるけども,
「大学組織」は「ハリボテ門」を維持するのに必死で,
「大学教員」は「象牙の塔」に引きこもっているんだから,
学生の居場所なんて大学には存在しないわけで,
学生は何も学べない大学なんか飛び出して,仲間と街で遊びますわな。


学部の授業,つまりは「研究者にならない学生」に対して,「大学教員」はどういうメンタリティで向かい合うのか。また,そんな学生に向けて,何を伝え,何が伝われば,端的にはどういう人間になってくれれば,それが大学教育なのか,ということを確立できているか(教育哲学)。さらにはそれを実現するための方法論は確立できているか(教育技術)。仮に確たる哲学と技術があるとして,それは組織としての大学が標榜する大学教育との間に齟齬はないか,あるいは大学のカリキュラムなど諸制度とのかみ合わせはあるのか(大学と大学教員)。


現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。


大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。



というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。

なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。

===========
大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
===========

みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。

こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。

まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。

「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。

大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。

研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。




頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
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