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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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「ピアノの周りを走ってもピアノは上手く弾けない」という格言がサッカー界にある。
スペシャルワンを自称するジョゼ・モウリーニョの言葉だ。
全体は次の通り。

「あなたがピアノをうまく弾きたいなら、練習でピアノの周りを走るかね?そんなことはないはずだ。ピアニストになりたければ、ピアノを弾くしかないのだ!サッカーも同じだ。グラウンドの周りを走って、いいサッカーはできない。それは完全に原理から外れている」

サッカーに限らず、バスケでも研究でも、『指導』のすべてが詰まっている警句である。

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日本では、要素を切り出して鍛錬させる指導が基本となっている。
武道が己の内面と向き合うものだからか、1vs1で戦うものだからか。
どうしてなのか、その起源はわからない。

少年サッカーの指導を追跡する。
まずウォーミングアップでランニング。
次に、ボールを渡して、ドリブルとリフティングで、ボール慣れさせる。
その後、パス練習で、キックとトラップを磨く。
シュート練習を経て、紅白戦。
大体そんな流れだ。
バスケでもラグビーでも、およそ同じようなルートを辿る。

つまり『まずプレイヤーたる自分』がいる。
そこにボールが付、ボールが離れたりやってきたり、それを複数人のゲームの中で発揮する。

指導の現場で、このフレームが疑われていることは、ほとんどない。
しかし、世界クラスの試合で日本が「勝てない」理由が、まさにここにあると思う。
思うというか、サッカー指導の有識者の多くが、この点を指摘している。
冒頭にあげたモウリーニョの指摘も、まさにコレにあたる。

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発想の転換が必要だ。
まず、行われている「ゲームの状況を把握」する。
次に「何が起こればチームを勝利に導けるか」を考える。
そして「そのために自分はどうするか」「それを自分は実現できるか」となる。

『認知・判断・行動』
『認知・判断・行動』

ゲームの本質は『認知・判断・行動』のサイクルにある。
にもかかわらず日本式の指導は『行動』に過度にフォーカスしている。

『認知・判断』の鍛錬が疎かである。
もちろん『認知・判断』が出来ても『行動』が出来なければ試合に勝てないし、
(特にジュニア世代では)突出した『行動』だけでチームを勝たせることもできる。
しかし、それは『認知・判断』の鍛錬を軽視していい理由にはならないはずだ。

『認知・判断』が弱い選手・チームは、とりわけ試合の序盤・終盤にバタバタする。
それは競技の性質が将棋に似ていることを考えるとわかりやすいかもしれない。
中盤はガチャガチャとプレイしても、その実力差が見えにくい。
マグレで良いように事が運ぶ場合もある。
しかし序盤の打ち筋は試合の流れを決定づけ、
終盤は双方の打ち筋が減っていき、詰め将棋になる。
『認知・判断』が弱いと、試合の流れに乗るだけだ。
勝負の流れを作れない。

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オシムの指導を受けた選手は異口同音に「頭が疲れた」と言った。
これはとても象徴的だ。
オシムの練習メニューでは、ボールを使いながら『認知・判断』を鍛錬する。
『認知・判断』が正しくできないと、練習が進められなくなる。
『認知・判断・行動』がパッケージになった練習メニューだ。

オシムの選手達は試合後に「練習と同じ場面が生じた」と驚きをもって語っている。
しかし、それは何も驚くことではない。
試合の場面を、極力要素分解せずに切り出して、メニューにしているのだから。

オシムの指導を受けた選手の出自は多岐にわたる。
しかしほとんどの選手が「頭が疲れた」と言う。
つまり、日本全国で『認知・判断』の鍛錬が不足しているのだ。
それは日本式指導に『認知・判断』を鍛錬する方法が確立されていないことに起因する。

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研究を進めるのにも、球技と同様に『認知・判断・行動』が大事だし、
日本のラボでは、とかく『行動』を重視した指導をしているように思う。
実験手技とか、カタい文の読み書きとか、英語の読み書きとか。
一方で、『認知・判断』を鍛錬する指導は、セミナーだ。
しかし多くの学生セミナーでは、型をなぞることが過度にフォーカスされている。
セミナーでさえ『認知・判断』を鍛錬する対話(議論)が疎かにされている。
逆に言えば、セミナー以外の場面での対話(議論)が不足している。

研究者は対話を通じて、先達が体現する『認知・判断の型』を身につける。
それは『セミナー進行の型』とは似て非なるものだ。
「あの論文読んだ?あのデータは凄いね!」
「あの論文さ、あとアレのデータも絡めて議論したらもっとスゴいよね」
「昨日出したデータなんだけど、よくわかんないんだよね」
「あの論文とこのデータ、合わせて考えると、こうじゃない?」
こういう対話は、活発なラボでは”普通に”交わされているかもしれない。
しかしこれこそが『認知・判断の型』ではないか。

研究のメンターは、この『認知・判断の型』が頻発する環境を整備すべきじゃないか。
この型を使いながら多様な『認知・判断』を示すことが、
メンティーの『認知・判断』を鍛錬すること指導じゃないか。


時間切れ
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以下、ちょっとした集会での意見表明のためにまとめだしたけど、
やっぱり別の論旨でいくことにしたので放流。

〜〜〜〜
女性に限らず、日本社会全体に理工系の"勉強"への忌避感・嫌悪感のようなものが充満していると感じます。
多感な時期の中高生がこうした社会の空気を感じやすく、それが特に女性において顕著であることが、理工系で女性が極端に少ない遠因ではないでしょうか。
中長期的には、この社会の空気を払拭することが重要だと考えています。

一方、NHKスペシャルの特集対象を眺めると、理工系に属するものが半数を占めています。
理工系の話題や学問、あるいは世界の不思議や謎解きについては、関心と親しみを持たれているのでしょう。
こうした"関心"が、自身の"勉強"となると忌避感になっていることが、アプローチすべき課題ではないかと考えています。

私自身は全国学力偏差値が45程度の高校出身で、同級生の3割しか大学に進学しませんでした。
うちの高校では、数学の試験で平均点が15点だったりします。
クラスの半数以上が10点未満です。もちろん100点満点です。
他の科目では、平均点が30点を下回ることはありません。
おそらく数学が「ちゃんと理解していないと1問目から解けない」という特性があるからだと思います。

学生時代にこうした激烈な低得点をとったとしても、その後に社会で働き親となり子を育てることには、大きな問題はありません。
思春期に抱いた理工系の勉強における劣等感が大人になって転じて「数学なんて出来なくても良い」という類いの攻撃的な風説の流布に繋がっているのではないかと感じています。
こんなことを考えると「女子生徒が理工系に興味を持ってもらうための教育体制」というのは、すべての世代を巻き込む大事業なんじゃないかと、気後れしてしまいます。
会長候補になって、マニフェストをブログに書いたものの、
公式には何の意味もないことで、なんだかモヤモヤしていた。
そしたら某友人が「学会のメーリングリストに投げちゃえば良いじゃん」と気軽に言ってきて、
そりゃもちろん考えたけど、なんかオオゴトになるのは面倒だなぁと思って気が引けていた。

しかし「投げちゃえば」は応援する気持ちなんだと受け止めて、
とりあえず選挙管理委員会に「ダメって規定はありますか?」と聞いたら
「問題なし(意訳)」との返答で、もう投げちゃうしかなくなった。
午前5時に投げてみた。

大反響。
15年前に会ったきりの人。
1度会っただけの人。
お友達。同級生。お世話になった先生。
本当にたくさんの人から私信が届いた。

異口同音に『元気が出た』と。
これは発見だった。
ボクが絞り出したカラ元気が、
誰かのホンモノの元気になって、
それを受け取ったボクが本当に元気になったら、
これはもう『元気の永久機関』じゃないか。
もしかして学会の存在意義って『研究者の元気生産向上』なんじゃないか。

ということで、
先にブログにあげたバージョンから、
メーリングリスト投下用に改訂したバージョン(をちょっと改変して)掲載。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2021-2022年度選挙、会長候補.です。地球化学会の居心地を爆発的に向上させるべく立候補しました。評議員・理事職を通算4期8年務めた経験、まだギリギリ30代という若さ、そして地球化学研究で培った分析力と統合力で、会長候補からの『9つの提案』をまとめました。有権者たる会員の皆さんへの所信表明です。

[提案1] 方針:明るく楽しく激しい学会を目指します!
[提案2] 年次集会:オンライン発表会と現地交流会のブレンデッド開催とします!
[提案3] 和文誌:「知の配電盤」として重視します!
[提案4] 英文誌:最小負担での運営を目指します!
[提案5] 顕彰事業:継続します!
[提案6] アウトリーチ:抜本的に見直します!
[提案7] 国際的な活動:消極的な判断を基本とします!
[提案8] 会員数問題:数を増やすための施策は行いません!
[提案9] 会員向けサービス:情報公開を進めます!


[提案1] 方針
地球化学会は、地球化学分野に関係する人が自発的に身を寄せ合う集団です。明るく楽しい同好会であると同時に、ハイコンテクストな議論が飛び交う激しい場となり、「親友と書いてライバルと読む」みたいな相手が見つかる集団を目指します。

[提案2] 年次集会
研究発表会をオンライン開催することで経済的・時間的な参加障壁を取り除きます。一方で、研究交流会を現地開催し会員が交流する機会とします。交流を最大化するべく、部屋を暗くして発表する従来スタイルを撤廃し、朝から晩まで懇親会のような雰囲気で交流する新スタイルで運営します。

[提案3] 和文誌
和文総説を初学者・異分野研究者が専門的知見に触れる導線と捉え、下記5種別の依頼総説を積極的に出版することで、知の配電盤としての機能を強化します。
1.最新研究動向レビュー(原著論文50報引用目安の短編総説。ポスドクに執筆依頼)
2.分析地球化学レビュー(分析法の詳細に特化した総説。ミドルに執筆依頼)
3.日本語文献レビュー(日本語の文献をまとめた総説。シニアに執筆依頼)
4.10年後の地球化学研究動向を検討するレビュー(学会で設置するWG執筆依頼)
5.受賞記念論文

[提案4] 英文誌
英文誌を運営し続けたい会員意思の一方で、雑誌経営問題は早急に解決する必要があります。その解は、たとえ低活性でも低コスト・省労力で運営を続ける方策の開拓にあると考えます。最終的に到達したい英文誌運営形態として、.諸学会を網羅する規模の出版管理団体を設置し統一プラットフォームによる効率化をはかり、その中で現存各誌が並立し続ける形式を目指します。この観点から、直近2年間は、出版社ではなく競合関係にある英文誌を持つ国内諸学会と対話を重ねます。冊子体は年1回の出版とし、会員や図書館への販売を継続します。

[提案5] 顕彰事業
各賞の授与、受賞者の紹介、他機関の授賞機会への推薦は、従来通り行います。また本会各賞に関しては、選考の公平性と顕彰効果の最大化の観点から、受賞者選考委員会による選評を公開します。

[提案6] アウトリーチ活動
中小規模学会が行うアウトリーチ活動の効果と負担を吟味し、より専門性の高い活動に集約します。具体的な活動案として下記3点を考えています。
1.Wikipedia編集WGを設置し、正確な情報の普及と情報源へのアクセシビリティを高めます。
2.社会問題に対するコラム執筆を通じて、専門的知見に基づく情報提供を進めます。
3.出前授業など講演会系アウトリーチは、当面休止します。

[提案7] 国際的な活動
中小規模学会としての「国際コミュニティへの貢献」の効果を吟味します。特に直近2年間は、脱コロナ禍による国際交流の急速な活発化に翻弄されないよう注意深くします。会員の国際的活動を支援する取組は、引き続き推進します。

[提案8] 会員数問題への取組
もっぱら会員増を目的とする活動は本質的に意義がないため、行いません。集会や雑誌の魅力向上を通じて、会員増の実現を目指します。手続き簡素化のため、会費種別を正会員.円、学生会員.円に統一します。

[提案9] 会員向けサービス
1.会計情報を図示して周知することで、会費徴収に対する説明責任を果たします。
2.会員番号・会員情報・問い合わせ先を定期送信メイルによりリマインドします。
3.学生会員同士の交流を促すプラットフォームの整備に、学会から支援を行います。


※本メイル送信に先立ち選挙管理委員会に可否を問い「第三者の不利益になる内容を含まなければ、会員個人の自説を公に紹介する行為を禁じる規定はありませんので、選挙違反には当たりません」と回答を受けております。
「マニフェストはないのか」という声を多数いただきました。

マニフェストは、あります!
(あわてて作りました)

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⓪明るく楽しく激しい学会を目指します!
学会集団は、自発的に集結した集団であり、所属機関とは存在意義が異なります。
研究分野を同じくする人が集まる明るく楽しい同好会であると同時に、
ハイコンテクストな学術討論が飛び交う激しいバトルフィールドでもある。
そんな集団を目指します。

①年次集会は「朝からずっと懇親会」スタイルで実施します
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20210430/

②和文誌を「知の配電盤」として重視し依頼執筆による総説を多数出版します
1.最新研究動向レビュー(原著論文30-50報引用を目安にした短編総説。ポスドク執筆依頼)
2.分析地球化学の教科書的レビュー(分析法の技術発展に特化した総説。ミドル執筆依頼)
3.日本語文献レビュー(日本語の文献をまとめた総説。シニア執筆依頼)
4.10年後の地球化学研究動向を検討するレビュー(学会で設置するWG執筆依頼)
5.受賞記念論文

③英文誌は「当面ミニマム運営」「地球科学系諸雑誌の統合運営」を目指します
EUG-Copernicusモデルを参考に、JpGU諸学会をカバーする規模の出版管理団体を立ち上げ、
運営プラットフォームの統一による省労力・省コストを実現し、
JSTAGEベース/doi基軸で現存各誌が並立し続ける基盤として確立することを目指します。
2年間の任期中での対話相手は、出版社ではなく、関係諸学会と考えています。
冊子体は年1回の出版とし、会員や図書館への販売を継続します。

④顕彰事業は継続します
各賞の授与、受賞者の紹介、会として他機関の授賞機会への推薦を行います

⑤アウトリーチ活動は抜本的に見直します
1.Wikipedia編集WGを設置し、正確な情報の普及と情報源へのアクセシビリティを高めます
2.社会問題に対するコラム執筆を通じて、専門的知見に基づく情報提供を進めます
3.出前授業など講演会系アウトリーチは、休止します

⑥国際的な活動は消極的な判断を基本とします
1.学会としての「国際コミュニティへの貢献の"効果"」を吟味します
2.脱コロナ禍による国際交流の急速な活発化に翻弄されないよう注意深くします
3.会員の国際的活動を支援する取組は引き続き推進します

⑦会計状況を図示します
コロナ禍直前の2019年度の会計情報を図示し、会員に概要を周知します

⑧会員数を増やすための施策は行いません
1.もっぱら会員増を目的とする活動は、本質的に意義がないと考えるためです。
2.集会や雑誌の魅力向上を通じて、会員増の実現を目指します。

⑨会員情報管理の簡素化を進め管理コストを下げます
1.会費種別を正会員10000円、学生会員5000円の二種に統一します
2.会員番号・会員情報・問い合わせ先を定期自動送信メイルによりリマインドします
あらためまして。
『一般社団法人日本地球化学会2021-2022年度役員選挙』に会長候補として立候補しました。
http://www.geochem.jp/information/info/2021/210517.html

なんで地球化学会の会長候補に?については、下記参照で。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20210429/1/

代表職への立候補というのは、日本ではまぁ異例な振る舞いです。
地球化学会でも会長に限らず、ヒラ理事においても同様で、
基本的には推薦に基づいて候補者が決められることが慣習化しています。
(他の学会でも似たようなもんなのじゃないかな)

ボクの場合も、
会長候補になるだけなら、お友達に推薦してもらうことも可能だった。
でも推薦ではなく立候補にしたかった。
つまり、会長候補になることと同じぐらい、立候補が大事だった。
そしてこれには、ちゃんと経緯があるのです。

昨年参加した会議で、いつもアツいyachieさん( http://yachie-lab.org )が、
「推薦されてワタシで良ければみたいな決め方、ダセーんだよ」(意訳)
といつものように荒ぶっておられたんです。
それを聞いて、まさに自分もそう思っているよな、って。
それが昨年末の虚空に向かっての「リーダーになる」宣言にも繋がったのです。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20201230/

次の契機は大阪大学の総長選。
なかのとおるさんが"立候補"したのです。
「インディーズ系候補宣言」 https://handainakano.jp/2021/04/15/indies/
阪大みたいな伝統がある巨大な大学の総長選で、
新しい選挙のあり方を自ら体を張って提案することで、
総長になって改革を進めるのに先立って、
大阪大学改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」いて、
これはカッコいいな、このやり方もアリやな、と思わされたのです。

会長選への立候補が正式公表されてから2日が経って、
すでに色んな方から「投票するよ!」と声をかけてもらってます。
とてもありがたいことで、ちゃんと全部覚えておりますよ。

もちろん「けしからん」( @登大遊 ) と思っている人もたくさんいると思います。
でもまぁそういう人々も「けしからん」という気持ちから、
じゃあ何が「けしからん」のかという考察に至ってくれるでしょうし、
それだけで学会改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」ることになるかな。
そんなことも思っています。
生まれた意味?
生きる意味?
そんなものはない!
以上!


と考えられるようになったのは、いつ頃だったか。
30代にはなっていたと思う。
きっかけは、畏友T君との対話の中で出た疑問だった。

「どうせやらなきゃならないんだから、せっかくだから頑張ろう」
「『せっかくだから頑張ろう』の『せっかくだから』って、何なんだろうね」
「たしかに、まったく理由になってないね」
「単なるヤケクソだよね」

しかし、この受動的で消極的な判断基準で、色んなコトに取り組んでいる気がする。
『せっかくだから』
何の意味もないけど、経験的には納得できる気がする。

せっかく生まれたんだから、何もしないよりは、色々とやってみよう。

今のボクの人生観は、この『せっかくだから』に尽きる。
せっかく生まれたから、生きているに過ぎない。
生まれた意味、生きる意味なんてものは、生まれる前に与えられてはいない。
『せっかくだから』を放棄すると、生きる意味がなくなる。
『せっかくだから』生きているだけなのだ。

「じゃあ結局なんなんだよ、その『せっかくだから』ってのは」
「『せっかくだから』は物事の本質である。しかしそれ自体に意味はない」
「意味はない?」
「そう。意味のないコトである。しかし意味を与えるコトである」

雨が降って、水が流れ、乾きあがる。
そこに水はもうないけど、水の運んだチリぐらいは残っている。
世界では無数の水滴が降り、川へ流れ、海に至る。

誰かと誰かの熱情で海から蒸発した一滴の水として、私は山から海に流れる。
誰の記憶にも残らないただの一滴だけど、
田畑に養分を運び、道端の汚れを洗い、誰かの喉を潤すかもしれない。
自分の生まれた意味、生きる意味は、そんなもんだ。


『運命は完全に決まっていて、しかしそれゆえ、完全に自由だ』
論文の著者になることは、名誉あることだ。
自らの名の下に、人類発展の歩を進める。
人類史に(ほんのわずかではあるが)その名を刻む。
そういうことだ。

最近、身近なところでオーサーシップに関するアレコレが多発している。
いわく、原稿は主著者のものであり共著者は口出しするべきでない。
いわく、このデータが無ければ論文の価値がないから共著者とする。
いわく、人事審査を控えているから著者に加えてほしい。
いわく、共著者が増えても誰も損しないんだけら入れておけばいい。

業績の数値化や、それに基づく人事評価など、社会要因が原因でもある。
論文が世に出るなら、著者は何だってかまわないかもしれない。
しかし、それでも、最後の砦は各人の判断にある。
論文執筆を主導し最初に共著者への声かけをする側の考え方であり、
同時に、共著者となることの打診を受けた側の考え方でもある。

考え方といっても、ルールがないわけではない。
雑誌によっては著者資格が明文化されている。
もちろん明文化されていない雑誌もある。
その場合は、ルールというかモラルとして、著者側で考えるべきことだろう。

学術誌側の著者に関する規程については、amedの資料が詳しい(文末 *1)。
とてもよくまとまっていて、一読の価値がある。
しかし「無断転載禁止」とやたら主張しているので、紹介に留める。
ここでは同じ題材を扱った以下の、
倫理的なオーサーシップとは:ジャーナル編集者からのアドバイス
という記事から引用して話を進める。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国際医学編集者会議(ICMJE)はオーサーシップ(著者資格)について、以下の4つの基準をすべて満たす必要があると定義しています:

1:研究の構想やデザイン、あるいは研究データの取得・分析・解釈に相当の貢献をした

2:重要な知見となる部分を起草した、あるいはそれに対して重要な修正を行なった

3:出版前の原稿に最終的な承認を与えた

4:研究のあらゆる側面に責任を負い、論文の正確性や整合性に疑義が生じた際は適切に調査し解決することに同意した
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

著者資格についての4つの基準とあるが、『資格』2条件と『責任』2条件と言える。
つまり、資格条件2つを満たしている者に『著者となる資格』が生じ、
有資格者のうち『著者として論文に責任を負う』ものが著者となる、ということだ。

これら4つの基準を「すべて」満たして、はじめて著者となる。
ここがとても大事で「いずれか」ではなく「すべて」なのだ。

資格1「相当の貢献」基準。
「この人がいなけりゃ出せないresultsに貢献」ぐらいのことでしょう。
大抵の場合、資格1を満たす時点で「共著の声がけ」をしているかと思う。
しかしこれは「すべて」満たすべき4基準のうちの、1つにすぎない。

資格2「重要な知見の起草」基準。
「discussionに効果的に貢献」ぐらいのイメージ。
この基準は、とりわけ日本では軽く見られているように感じる。
イジワルに読めば「パトロン&ラボテク排除条項」にも読める。

責任1「最終的承認」基準。
「自分の知見がこの原稿に利用されることへの許諾」とか、そんなイメージ。
著者に入った以上は「データを使われた」「アイデアをパクられた」と言うなよ。

責任2「連帯責任」基準。
「不正に気付いたら自己申告することに同意」とか、そんなイメージ。
また「著者に入っている以上は"不正は知らなかった"じゃ済みませんよ」とか。

こうやって見ると「4基準をすべて満たした」と言うには、結構な覚悟がいる。
自分が共著者になる場合だけではない。
主著者として共著の声がけをするのも、かなり覚悟がいる。

自分が共著に加えたAさんの話がデマだったら、共著者Bさんに連帯責任が生じる。
AさんとBさんには直接の面識がなく、主著者たる自分だけが共通の知人。
Bさんからしたら、自分のせいで、とんだ迷惑に巻き込まれるということだ。
(もちろん共著を引き受けたBさんにも相応の責任はあるが、それはそれとして)

自分自身は、小保方事件以降、かなり気を付けている。
ヨソからくる共著の話はほとんど断っているし、
主著者として共著者を増やすことにもかなり慎重になっている。
しかし身の回りを眺めると「大山鳴動して鼠一匹」といった具合で、
あいかわらず「著者が増えてもあなたは損しないんだからさ」なのである。




*1: 著者の資格・権利・責任と盗用: 医学・生命科学系国際学術誌の投稿規定
<教材提供>
AMED 支援「国際誌プロジェクト」提供
無断転載を禁じます
https://www.amed.go.jp/content/000048638.pdf
学会にとって学術誌の編集は重要な事業として位置づけられている。
この点についても議論がわかれるところではある。
つまり、学会誌を持たない学会に、学会としての価値はないのか、と。
しかし今回は、そんな話は脇に置いておこう。
学会が独自に編集できる学術誌が必要であることは、所与の条件とする。
すると次に議論せねばならないのは、雑誌の経営だ。

学会の雑誌経営にかかるキャッシュフローは、とても怖い。
数百名分の会員の年会費が、雑誌の編集出版に費やされている。
雑誌を出版したことで得られる収入は、これを大幅に下回る。
つまり、赤字だ。
赤字垂れ流し事業。
それが今の雑誌経営の実態である。

さらなる売上は見込めるか。
難しい。
学会が経営する以上は「みんなの雑誌」であることは捨てられない。
大手のような出版費用を徴収するのは、存在意義に関わる。
じゃあ読者がもっと金を出してくれるかというと、そんなことはない。
ありえないと思った方が良い。
ということで、売上増は、期待できない。

経費を抑えるしかない。
雑誌経営にかかる経費とは何ぞや。
なんと出版社への支払である。(もちろん他にも諸経費はある)
なんと。
もはや論文はPDFで読んでいるのに。
出版社に何を委託しているというのか。

PDFをウェブサイトに置くだけなら、出版社である必要は無い。
ITベンダーであればチョチョイのパッと出来るだろう。
しかし、学術誌の特殊性ゆえ、ベンダーの手に負えない部分もあるだろう。
それって、なに?
学術誌の特殊性なら、学者が担えばどうにかなるのでは?
でも学者が雑誌経営に時間を取られて研究や教育を出来ないのは本末転倒。

投稿ー査読ー編集システムは、GoogleFormで作ってしまえば良い。
使い勝手に拘って多額の負担をするのは、本末転倒だ。
所詮、MS WORDで書かれた原稿にコメントするだけなのだから。
組版は、仕上がりに拘らなければ、専門家でなくても出来る。
著者校正でのチェック項目を増やせば、金もかからない。
doiの取得は必須だ。これにどんな手間があるかは、知らない。
読者への流布は、PDFをウェブサイトに置くだけだ。
宣伝は、ガンバレ。
冊子体の出版物を図書館に売ることでの収入があるかもしれない。
その収入を捨てたくないなら、年1冊、図書館用に刷れば良い。

というようなことを、個別の学会が個別にやると、労力が大変だ。
同じ悩みを抱える学会で共同すれば良い。
同じフォーム・ベンダー・宣伝媒体・印刷会社を使えば、コスト削減だ。
ん?
それって、出版社に依頼するのと何が違うの?
うーん。

ずっと中小学会の自助共助で雑誌経営を続けるのは、持続可能ではない。
大変だから。
コロナ禍をハンマー&ダンスで乗り切ろうとするのはなぜか。
ワクチンの浸透を待つためだ。

学術誌出版におけるワクチンとは?
JSTAGEの発展しかないでしょう。

J-STAGEに登録されている雑誌数、2800。
記事総数、5,000,000報。
これはもう、事実上の巨大出版社だ。

J-STAGEの民営化。
これしかない。
JSTAGEの細かいことは知らないので、細かいことは考えていない。

科研費出版助成などの資金源を、個別学会バラマキから、JSTAGEへの直接注入に。
個別学会は、民営JSTAGEに、幾分かの資金提供。
民営J-STAGEの経営監視は、日本学術会議の下に経営諮問委員会を設置。

話をもとに戻す。

個別の学会が雑誌を経営し続けるのは、もう無理だ。
遠くない未来の着地点を、今から模索する必要がある。
それは「今の最適解」とは離れることになるかもしれない。
ワクチンのアテもなくひたすら中途半端な自粛を続けるのか、
ワクチンの日程的メドを見据え、今は厳しい制限に耐えよう、とするのか。
似て非なるもの。
50人が1箇所に集まって、全員が前を向いて、部屋を暗くして黙って、
1人が12分喋って、数人と3分会話して。
夜だけ200人で集まって酒を飲んで懇親会。

このフォーマットが、どうにも「もったいない」。
これだけの人が時間を作って、移動して、集まっているのに。

〜〜〜

「人と人との交流」こそが重要だ。
もっと「人と人との交流」を増やすべきだ。

懇親会の必要性は認識されてきた。
でも、夜じゃなくても良いし、酒がなくても良い。
懇親会みたいなことを、朝から夜までずっと、やれば良いじゃないか。
懇親会みたいなことを、酒があってもなくても、やれば良いじゃないか。

昨年のオンライン開催で、発表の合間の時間に、雑談をした。
同世代のメンバーで、船の中にいるみたいな、なんでもない普通の雑談。
それを聞いていた学生からのアンケート回答。
「いつもと違う先生が見られて面白かった」
「研究者は普段こんな話をしているのかと興味深かった」

学会集会は『ハレ』だ。
研究室に入ると日々の生活は変わりばえがない。
研究室の環境は密室で窮屈だ。
教員と学生の関係は対等ではなく緊張感が漂う。
明るく楽しく激しいハレの日が、研究生活には必要だ。
「学会は祭!祭はケツ出してナンボ!」

〜〜〜

コロナ禍により、はからずもオンライン開催を経験できた。
そのメリットとデメリットを(学生を含む)多くの研究者が体感できた。
これは物凄い財産だ。
メリットは活かして、デメリットは解消する。
それが学びだ。

オンライン開催によって、発表と質疑は従来と遜色なく出来た。
オンライン開催によって、人との交流や予期せぬ議論が減った。
現地開催では、参加者に費用と時間の負担が生じる。
現地開催では、参加者がネットでは不可能な交流ができる。

答えは出ているだろう。

研究発表会は、オンラインで実施する。
時間や費用を捻出できない研究者を置き去りにしない。
研究交流会を、現地で実施する。
時間や費用に余力がある、あるいは重い価値を覚える人に、環境を用意する。
発表会の期間は、交流会を跨いで、設定する。
「ハイフレックス」ではなく「ブレンデッド」だ。
https://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/connect/teachingonline/hybrid.php

現地開催を年ごとに違う地域でやる意味はあるのか。
今のフォーマットでは、ほぼない。
朝から晩まで会場に閉じこもっているからだ。
個別の地域や大学の特色が出しにくい。
各LOCの負担が大きい。

プロジェクタを使わないフォーマットでなければ、場所の自由度が格段にあがる。
オンライン開催されているものをスマホやパソコンで見ながら語れば良い。
LOCは場面設定だけをすれば良い。
『1日目の午後、海洋セッションは定山渓の足湯でやります』
『2日目は終日懇親会で、大通公園4丁目区画を連絡拠点とします』
そんなことも可能なわけだ。
先ほど選挙管理委員会から自薦の受理通知を受け取りました。
会長候補になったことは、近いうちに正式公表されるでしょう。
どうぞよろしく。

立候補したのには、もちろん理由があって、
理由は細かく分ければ数え切れないほどある。
でも大きく見れば、とても単純なことです。

「自分の居場所は自分で作る」
「不満があるなら自分が動く」

それだけのこと。
それなりのことだけどね。

今の時点での自分の決意とか、そこに至るキッカケとかを記録しておく。
これは同時に、有権者に対する所信表明演説になると思う。

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ボクは地球化学会でしか学会活動をしていない。*1
M1だった2004年から、スイスにいた年を除き、毎年集会に参加している(はず)。
ポスドクだった2010年からは、延べ4期8年、評議員/理事としても活動している。

一方、ここ4年間、学術会議で「学会活動悪玉説」の検証を進めている。
学会活動に関する論文も発表して、その意義を世に問うた。*2
一連の活動では「中小学会かくあるべし」と唱えて回っている。

「中小学会かくあるべし」と唱える時、念頭にあるのは常に、地球化学会だ。

地球化学会をはじめとする中小学会は、同様に多くの問題に直面している。
そのほとんどは、日本社会か日本学術界の構造的な問題に起因している。
現状からの漸進的な改革では、いかんともしがたい。

「中小学会の存在意義は何か」という問いに立ち返って、考えるべきだ。

ボクにとってそれは『ホームである』ということだ。
「帰ってきた」と感じられる場所。
実家のような、同窓会のような、単身赴任の休暇であう家族のような。

ちょっと思い出してみてほしい。
学会活動を通じて交流する人達がいる。
会いたい人も、会いたくない人もいる。
その人には、気楽に接することができるけど、少し張り合いたくもなる。
その人とは、プライベートなことも、下世話なことも、迂闊に何でも話せる。
その人に、依存して甘えるわけでもないし、敵対して傷つけあうわけでもない。
その人は、身近なライバルであり、もっとも分かってくれる応援団でもある。
学会はやっぱり『ホームである』というところに、存在価値があるんじゃないか。

学会の存在意義として『ホームである』ことを高らかに掲げた運営をしたい。
その絶対的な基準を持って、知恵を出したい。
いま何をすべきか、それ以上に何をしないべきか。
最高に居心地の良い集団。
自分のホーム学会がそんなところだったら、最高だ。
地球化学会が、他の中小学会の目指す参考事例になったら、最高にカッコいい。

〜〜〜

そんな地球化学会になるために、今すぐ変えるべきことがある。
それが『会長の選び方』だ。

地球化学会の運営では、会長が非常に大きな実質的権限を持っている。
それにも関わらず、会長の選び方がまったく民主的ではない。
もちろんルール上は、各会員が1票を有する選挙であり、民主的ではある。
しかし慣習的に、民主制がまったく機能していない。

詳細は書かない。
実質的に『禅譲』で会長候補が決まる。
会長候補による所信表明もマニフェストも無い。
選挙は実質的に信任投票となる。
選挙の投票率は低く、慣習に馴染んだ熱心な会員だけが投票する。
会長候補はほぼ満票を獲得し、会長となる。
そういうことが毎回行われてきた。

ガチ選挙をやると禍根が残り会の運営に支障をきたす、という意見がある。
しかし、民主制の根幹たる選挙を回避する理由にはならない。
会の運営において、対立する意見を戦わせる議論は、避けて通れないはずだ。
運営指針のような大枠に関する意思表示は、公開の選挙で行われるべきだ。

ボクが立候補しなければ、今回も1候補だけが候補者名簿に載ったのだろう。
ボクが立候補したけれど、今回も禅譲候補が候補者名簿に載ると思う。
他に会長候補者がいるのか、いるとしてそれが誰か、ボクにはわかない。
もちろん、候補者の被推薦の決意も、推薦者の想いも、否定する気は毛頭ない。

ボクは地球化学会の会長選のありかたを変えたい。
ただそれだけだ。
これが会長選に立候補した最大の動機だ。
自分自身が会長になりたい以上の動機だと言っても良い。

もちろん「会長になれなくていい」と思っているわけではない。
立候補したのは会長になりたいからだ。
会長になったら、会員が『ホームである』と思える学会を目指して、運営する。
会の抱える様々な問題点は、8年間の理事生活で理解しているつもりだ。
実現したい具体的な取組もたくさんある。
1期2年で出来ることは山ほどある。
それはまた、おいおい。

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*1: JpGUもあるけど、あれは巨大学会なので、自分の中では別物扱い
*2: 日本における学術研究団体(学会)の現状 埴淵 知哉, 川口 慎介
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ejgeo/15/1/15_137/_article/-char/ja
プロフィール
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kawagucci
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非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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