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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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10月2日(土)午前に都庁でモデルナワクチン2回目を接種して40時間が経過しました。20時間目にあたる10月3日(日)の朝食後から昼食後、夕食後とカロナールを2錠ずつ飲んで、ゴロゴロして1日を終えたところ。いま10月4日(月)朝です。副反応は、1回目同様、肩に棒で突かれたような痛みがある他は、頭がボーッとして少しズキッと痛むかなという程度。感覚としては軽めの船酔いに近いのだが、普通の人は船酔いのバリエーションを経験していないだろうから、これは参考にならないね。2週間前にヒドめの花粉症からの咳喘息になり、シムビコート吸入をしていたのがどうなるかと思ったけども、何ともなかった模様です。

2回目を打ち終わると、なんか無敵モードになって「よっしゃ街に出ていくぜー」ってなるかと思ったのだけど、特にそういう盛り上がりはない。9月4日(土)の1回目の後はとても安堵感があったのとは対照的で、何かに対する気持ちのリアクションってのは自分でもよくわからないところがありますね。状況の背景によるものかもしれない。1回目の時は、よこすかクラスター発生からの新青丸非乗船選択で慌てて予約して打ったし、世間でも感染拡大ピークだったので、緊張感があったかもしれない。2回目は、9月中にグングンと市井の感染状況が良くなって、10月1日(金)から飲み屋が解禁になったタイミングだったので、祭に参加できなかった寂しさもあった。

そもそもぶっちゃけ、ボクは自分が感染するとは思っていないのです。クラスター船に2度遭遇した高井さん曰く「ワシらには『もやしもん能力』があるから」とのことで、つまりこれです。日頃から溶存化学組成や微生物のような目に見えないものを処理していることで『見えないものを見る』ことが訓練されているのですね。内田樹がいう「サイドミラーを擦った時にイテっとなるヤツ」です。呼気の流れとか、呼気からの飛沫とか、主要な接触感染経路とか、いわゆるコンタミの原因そのものなので、生活の場面でも気を付けようとアラートをかけておけば、回避できる自信がある。似たような話では、多田が「オレは素手で採水してもコンタミさせない自信がある」と言ったことがありましたね。しかし、家族からの感染だけは避けようがない。もちろん同居していても、しっかりやれば避けられるけども、家庭内でアラートをビンビンにして毎日を過ごすのは無理がある。しんどい。とはいえ近いうちにヨメ氏が2回目を接種する見込みで、そこまでいけばもう大丈夫だろう、と信じている。

飲みに行かねば。
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2021年では1報目となる主著論文が出版されました。

Kawagucci, S., Matsui, Y., Makabe, A., Fukuba, T., Onishi, Y., Nunoura, T., and Yokokawa, T.: Hydrogen and carbon isotope fractionation factors of aerobic methane oxidation in deep-sea water, Biogeosciences, 18, 5351–5362, https://doi.org/10.5194/bg-18-5351-2021, 2021.

「年1報は最低ライン」と厳しく言われる会社にあって、今年もなんとか最低ラインは突破できたので安堵しております。2009年に学位を取っての2010年以降、筆頭著者の論文が出なかったのは2015年と2017年の2回ありますが、2015年は日英総説2報が出ており、2017年は最終責任著者論文が1報出ているので、最低ラインは突破し続けてきたといっても許してもらえるのではないでしょうか。なお現状、東北案件は共著者に預けてあり、サウジ案件は軽く書くだけ状態、さらに冷凍装置案件はリジェクトのまま追加観測待ちで塩漬け状態と、2022年と2023年への貯金は十分に用意されている状況であります。貯蓄は大事です。投資ばかりじゃ疲れます。

さて今回の論文のネタですが、2017年春に「みらい」で実施した観測の結果をまとめたものです。2017年春というと、ちょうどスイスに滞在していた時期で、航海計画のアレコレをメイルで連絡していたことを思い出します。当時は、もちろんコロナ禍前ですし、今ほどネット会議は流行していませんでした。一部の方が熱心に繋ごうとしてくれて、でも手慣れていないからトラブル続出、といった具合でしたね。4,5年前ですか。時代を感じます。航海で採取した試料を、科研費雇用の技術スタッフ(実質ポスドク)だった大西雄二さん(現・京大生態研)にも手伝ってもらい同位体分析を進めました。その他のデータは、一緒に乗船したみなさんと、ウチのラボメンバーの頑張りですね。

2018年12月のAGUで同内容を発表していますから、わりとチャッチャか分析を進めてデータを整理していたようです。たぶん当時は「大西さんに書いてもらおう」とか思っていたのだと記憶していますが、その後わりと早い段階で大西さんは転出されてしまい(斡旋したのはボクなので自業自得ですが)、整理されたデータが取り残された状態が続いていました。ようやく今年度になって、2021年4月3日からプロジェクト関係で名ばかり首席の3週間の航海があったもので、時間だけはある(ただしネットには繋がらない)ので暇つぶしがてら執筆に取り掛かったのでした。書き始めたら数日でしたね。いつも通りチェン氏に英文を見てもらって(大幅に修正加筆されて)、共著者に連絡して、6月中旬に投稿。特に厳しいコメントのない査読を経て9月受理。

この論文は「熱水プルーム」「メタン」「同位体比」「微生物代謝」というボクの研究のド真ん中、100%中の100%な内容です。恩師蒲生&師匠角皆の系譜であるプルームメタン同位体の仕事に、高井軍の微生物生態学的なデータも加えたものですから、ここまでの研究者人生の総決算のようなものです。というのは言い過ぎです。そこまでではない。しかしちょうど移籍と時期が重なったのでシンミリした風味が出てしまった。

肝心の内容については、論文を読んでいただければ結構なんですが、とにかくデータが美しい。CTD多連採水器を使って鉛直15m間隔で熱水プルームを採水して色んな成分を分析したところ、鉛直分布で見るとバタバタしたように見える。これに対して、マンガン濃度は熱水海水混合でしか変動しないと仮定して、他成分を規格化することで混合以外での挙動を抽出する。メタン/マンガン比は単調減少が見えて、これはメタン消費だろう、と。メタン/マンガン比とメタン同位体比をプロットすると、概ね1つのトレンドに見える。でもまだパラパラと外れ値がある。そこで1細胞辺りのATP量を見て一桁高い細胞がいた水深にフォーカスすると、16S群集でも明らかに熱水プルームを消費している連中がいる。この層のデータだけを使ってあらためて濃度と同位体組成の関係を見てやると、ものすごくキレイなトレンドが見える。そしてそれはピッタリとレイリー蒸留の対数変化に合うから(かなり小さな誤差で)分別係数を求められる。熱水プルームはメタンが濃いので炭素だけじゃなく水素の同位体比も分析できて、炭素と水素の変動はキレイに直線を示す。おぉ素晴らしい。素晴らしい。

ついつい「オタクの早口」になってしまうわけですが、こういう天然環境観測でこれほど美しいデータが取れると、もう本当に感動してしまうわけです。2つの意味で。

1つには環境と微生物との交わりが分子レベルの基質ー酵素関係で説明できることで、なんだかよくわからない自然ではあるけども、科学が磨き上げた理解で見ると整然と機能しているのだということ。実験室でコントロールした培養系じゃなくって、どこかの海にあるカルデラに充満していた水の中でさえ、こんなにも整然と物事が進行しているのか、と。

もう1つは、そんな自然の働きについての科学の理解を、完全に追認できるだけの技術が存在していて、それを自分とその周辺の人間で上手に利用できていること。船上作業も分析作業も、現代化された奴隷のようなもので、汲んだ水を瓶に移し替える作業とか、瓶に入った水からガスを抽出して冷やしたり温めたりする作業とか、延々と同じことを繰り返して、同じようにすることこそがキモだから本当に同じように繰り返すので、ときに人間としての尊厳を失っている気分にはなるのだけど、その結果がこうして人類の知の到達点のようなものを示してくれるというのは、やはりグッとくるものがあるわけです。ボクはこの論文の範疇では乗船も分析も一切やっていませんけども、感動します。

こうしてウッカリ感動してしまうから、また「嫌だなぁ」とか思いながらも、船に乗って水を汲んできつつお金のかかる実験室を維持してしこしこと分析する毎日を過ごしてしまうのですね。
かつての同僚である筑波大学の浦山俊一さんから誘われて筑波会議2021のS-2セッション 「2050年の社会像:いかに科学技術はより良い社会に貢献できるか?」に登壇したました。

このセッションは、内閣府「ムーンショット・ミレニア・プログラム」という資金の連動企画のようです。通称ミレニアは「新たなムーンショット目標のアイデアを持ち、そのアイデアを具体化・精緻化するための調査研究を行う、目標検討チームを21採択」ということで、ムーンショットでさえ絵に描いた餅感がするのに、さらにその「目標のアイデアから具体化する調査研究」ということで「餅の絵を描くための道具を探そう」というような話にも思えます。

いずれにせよ、ボクはムーンショットのような浮世離れしたキラキラ系の科学技術の未来像的なヤツがそれほど好きではないのです(オブラート)。ムーンショット公募の前段階でも「こんなことやっている場合じゃないでしょ」とコメントしたし、ミレニア公募に「ぜひ応募を」と言われた際も断りましたり、浦山さんがどうやら応募するらしいという話を聞いた時も「やめときなよ」とコメントしました。

そんな経緯もあって、あまり気乗りはしなかったわけですが、盟友うらちゃんから請われては仕方がないので登壇しました。役割は「科学技術の視点からの討論者」ということでした。この師弟討論者システムというのは、きっと人文・社会科学系では行われていることなのでしょうが、何だかよくわかりませんでした。事前にミレニアからの講演者の資料を拝見して、それにコメントするような話をすれば良い、と。

ミレニアからは「こんな技術が出来たらこんな社会になる」みたいなキラキラ系だと想像して、なぜコンビニサンドイッチ製造が機械化されないかという労働問題の話題をマクラに、横井軍平「枯れた技術の水平思考」論を紹介して、科学技術ではなく科学技術者として語らないとアカンのと違いますかと(御題をひっくり返す)意見を述べた後に、現在を生きる科学技術者としての社会貢献には「予測と構想で未来に貢献」「目的は関係なく技術開発で貢献」「過去の技術を現代に活用して貢献」の3点がありえるだろうという結論めいたものを提示しました。

専門である地球規模での物質・エネルギーの循環から「日本にとっては気候変動以上にエネルギーと食糧の確保が安全保障として大事じゃないか」という論でも良かったのですが、人文社会の視点での討論者が『人新世の資本論』斎藤幸平氏だったので、意見対立するとややこしいと思い、その辺は触らないようにしたのでした。

肝心の討論は、討論にもならず、各人が長い時間お喋りになられました。シンポジウムあるあるの「パネルディスカッション、他人の意見を拾わず勝手に喋りがち」ってヤツですね。

いずれにせよ「突然サンドイッチの話をした海の研究者」ということで、傷跡は残せたのではないかと自負しております。
「ピアノの周りを走ってもピアノは上手く弾けない」という格言がサッカー界にある。
スペシャルワンを自称するジョゼ・モウリーニョの言葉だ。
全体は次の通り。

「あなたがピアノをうまく弾きたいなら、練習でピアノの周りを走るかね?そんなことはないはずだ。ピアニストになりたければ、ピアノを弾くしかないのだ!サッカーも同じだ。グラウンドの周りを走って、いいサッカーはできない。それは完全に原理から外れている」

サッカーに限らず、バスケでも研究でも、『指導』のすべてが詰まっている警句である。

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日本では、要素を切り出して鍛錬させる指導が基本となっている。
武道が己の内面と向き合うものだからか、1vs1で戦うものだからか。
どうしてなのか、その起源はわからない。

少年サッカーの指導を追跡する。
まずウォーミングアップでランニング。
次に、ボールを渡して、ドリブルとリフティングで、ボール慣れさせる。
その後、パス練習で、キックとトラップを磨く。
シュート練習を経て、紅白戦。
大体そんな流れだ。
バスケでもラグビーでも、およそ同じようなルートを辿る。

つまり『まずプレイヤーたる自分』がいる。
そこにボールが付、ボールが離れたりやってきたり、それを複数人のゲームの中で発揮する。

指導の現場で、このフレームが疑われていることは、ほとんどない。
しかし、世界クラスの試合で日本が「勝てない」理由が、まさにここにあると思う。
思うというか、サッカー指導の有識者の多くが、この点を指摘している。
冒頭にあげたモウリーニョの指摘も、まさにコレにあたる。

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発想の転換が必要だ。
まず、行われている「ゲームの状況を把握」する。
次に「何が起こればチームを勝利に導けるか」を考える。
そして「そのために自分はどうするか」「それを自分は実現できるか」となる。

『認知・判断・行動』
『認知・判断・行動』

ゲームの本質は『認知・判断・行動』のサイクルにある。
にもかかわらず日本式の指導は『行動』に過度にフォーカスしている。

『認知・判断』の鍛錬が疎かである。
もちろん『認知・判断』が出来ても『行動』が出来なければ試合に勝てないし、
(特にジュニア世代では)突出した『行動』だけでチームを勝たせることもできる。
しかし、それは『認知・判断』の鍛錬を軽視していい理由にはならないはずだ。

『認知・判断』が弱い選手・チームは、とりわけ試合の序盤・終盤にバタバタする。
それは競技の性質が将棋に似ていることを考えるとわかりやすいかもしれない。
中盤はガチャガチャとプレイしても、その実力差が見えにくい。
マグレで良いように事が運ぶ場合もある。
しかし序盤の打ち筋は試合の流れを決定づけ、
終盤は双方の打ち筋が減っていき、詰め将棋になる。
『認知・判断』が弱いと、試合の流れに乗るだけだ。
勝負の流れを作れない。

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オシムの指導を受けた選手は異口同音に「頭が疲れた」と言った。
これはとても象徴的だ。
オシムの練習メニューでは、ボールを使いながら『認知・判断』を鍛錬する。
『認知・判断』が正しくできないと、練習が進められなくなる。
『認知・判断・行動』がパッケージになった練習メニューだ。

オシムの選手達は試合後に「練習と同じ場面が生じた」と驚きをもって語っている。
しかし、それは何も驚くことではない。
試合の場面を、極力要素分解せずに切り出して、メニューにしているのだから。

オシムの指導を受けた選手の出自は多岐にわたる。
しかしほとんどの選手が「頭が疲れた」と言う。
つまり、日本全国で『認知・判断』の鍛錬が不足しているのだ。
それは日本式指導に『認知・判断』を鍛錬する方法が確立されていないことに起因する。

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研究を進めるのにも、球技と同様に『認知・判断・行動』が大事だし、
日本のラボでは、とかく『行動』を重視した指導をしているように思う。
実験手技とか、カタい文の読み書きとか、英語の読み書きとか。
一方で、『認知・判断』を鍛錬する指導は、セミナーだ。
しかし多くの学生セミナーでは、型をなぞることが過度にフォーカスされている。
セミナーでさえ『認知・判断』を鍛錬する対話(議論)が疎かにされている。
逆に言えば、セミナー以外の場面での対話(議論)が不足している。

研究者は対話を通じて、先達が体現する『認知・判断の型』を身につける。
それは『セミナー進行の型』とは似て非なるものだ。
「あの論文読んだ?あのデータは凄いね!」
「あの論文さ、あとアレのデータも絡めて議論したらもっとスゴいよね」
「昨日出したデータなんだけど、よくわかんないんだよね」
「あの論文とこのデータ、合わせて考えると、こうじゃない?」
こういう対話は、活発なラボでは”普通に”交わされているかもしれない。
しかしこれこそが『認知・判断の型』ではないか。

研究のメンターは、この『認知・判断の型』が頻発する環境を整備すべきじゃないか。
この型を使いながら多様な『認知・判断』を示すことが、
メンティーの『認知・判断』を鍛錬すること指導じゃないか。


時間切れ
以下、ちょっとした集会での意見表明のためにまとめだしたけど、
やっぱり別の論旨でいくことにしたので放流。

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女性に限らず、日本社会全体に理工系の"勉強"への忌避感・嫌悪感のようなものが充満していると感じます。
多感な時期の中高生がこうした社会の空気を感じやすく、それが特に女性において顕著であることが、理工系で女性が極端に少ない遠因ではないでしょうか。
中長期的には、この社会の空気を払拭することが重要だと考えています。

一方、NHKスペシャルの特集対象を眺めると、理工系に属するものが半数を占めています。
理工系の話題や学問、あるいは世界の不思議や謎解きについては、関心と親しみを持たれているのでしょう。
こうした"関心"が、自身の"勉強"となると忌避感になっていることが、アプローチすべき課題ではないかと考えています。

私自身は全国学力偏差値が45程度の高校出身で、同級生の3割しか大学に進学しませんでした。
うちの高校では、数学の試験で平均点が15点だったりします。
クラスの半数以上が10点未満です。もちろん100点満点です。
他の科目では、平均点が30点を下回ることはありません。
おそらく数学が「ちゃんと理解していないと1問目から解けない」という特性があるからだと思います。

学生時代にこうした激烈な低得点をとったとしても、その後に社会で働き親となり子を育てることには、大きな問題はありません。
思春期に抱いた理工系の勉強における劣等感が大人になって転じて「数学なんて出来なくても良い」という類いの攻撃的な風説の流布に繋がっているのではないかと感じています。
こんなことを考えると「女子生徒が理工系に興味を持ってもらうための教育体制」というのは、すべての世代を巻き込む大事業なんじゃないかと、気後れしてしまいます。
会長候補になって、マニフェストをブログに書いたものの、
公式には何の意味もないことで、なんだかモヤモヤしていた。
そしたら某友人が「学会のメーリングリストに投げちゃえば良いじゃん」と気軽に言ってきて、
そりゃもちろん考えたけど、なんかオオゴトになるのは面倒だなぁと思って気が引けていた。

しかし「投げちゃえば」は応援する気持ちなんだと受け止めて、
とりあえず選挙管理委員会に「ダメって規定はありますか?」と聞いたら
「問題なし(意訳)」との返答で、もう投げちゃうしかなくなった。
午前5時に投げてみた。

大反響。
15年前に会ったきりの人。
1度会っただけの人。
お友達。同級生。お世話になった先生。
本当にたくさんの人から私信が届いた。

異口同音に『元気が出た』と。
これは発見だった。
ボクが絞り出したカラ元気が、
誰かのホンモノの元気になって、
それを受け取ったボクが本当に元気になったら、
これはもう『元気の永久機関』じゃないか。
もしかして学会の存在意義って『研究者の元気生産向上』なんじゃないか。

ということで、
先にブログにあげたバージョンから、
メーリングリスト投下用に改訂したバージョン(をちょっと改変して)掲載。


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2021-2022年度選挙、会長候補.です。地球化学会の居心地を爆発的に向上させるべく立候補しました。評議員・理事職を通算4期8年務めた経験、まだギリギリ30代という若さ、そして地球化学研究で培った分析力と統合力で、会長候補からの『9つの提案』をまとめました。有権者たる会員の皆さんへの所信表明です。

[提案1] 方針:明るく楽しく激しい学会を目指します!
[提案2] 年次集会:オンライン発表会と現地交流会のブレンデッド開催とします!
[提案3] 和文誌:「知の配電盤」として重視します!
[提案4] 英文誌:最小負担での運営を目指します!
[提案5] 顕彰事業:継続します!
[提案6] アウトリーチ:抜本的に見直します!
[提案7] 国際的な活動:消極的な判断を基本とします!
[提案8] 会員数問題:数を増やすための施策は行いません!
[提案9] 会員向けサービス:情報公開を進めます!


[提案1] 方針
地球化学会は、地球化学分野に関係する人が自発的に身を寄せ合う集団です。明るく楽しい同好会であると同時に、ハイコンテクストな議論が飛び交う激しい場となり、「親友と書いてライバルと読む」みたいな相手が見つかる集団を目指します。

[提案2] 年次集会
研究発表会をオンライン開催することで経済的・時間的な参加障壁を取り除きます。一方で、研究交流会を現地開催し会員が交流する機会とします。交流を最大化するべく、部屋を暗くして発表する従来スタイルを撤廃し、朝から晩まで懇親会のような雰囲気で交流する新スタイルで運営します。

[提案3] 和文誌
和文総説を初学者・異分野研究者が専門的知見に触れる導線と捉え、下記5種別の依頼総説を積極的に出版することで、知の配電盤としての機能を強化します。
1.最新研究動向レビュー(原著論文50報引用目安の短編総説。ポスドクに執筆依頼)
2.分析地球化学レビュー(分析法の詳細に特化した総説。ミドルに執筆依頼)
3.日本語文献レビュー(日本語の文献をまとめた総説。シニアに執筆依頼)
4.10年後の地球化学研究動向を検討するレビュー(学会で設置するWG執筆依頼)
5.受賞記念論文

[提案4] 英文誌
英文誌を運営し続けたい会員意思の一方で、雑誌経営問題は早急に解決する必要があります。その解は、たとえ低活性でも低コスト・省労力で運営を続ける方策の開拓にあると考えます。最終的に到達したい英文誌運営形態として、.諸学会を網羅する規模の出版管理団体を設置し統一プラットフォームによる効率化をはかり、その中で現存各誌が並立し続ける形式を目指します。この観点から、直近2年間は、出版社ではなく競合関係にある英文誌を持つ国内諸学会と対話を重ねます。冊子体は年1回の出版とし、会員や図書館への販売を継続します。

[提案5] 顕彰事業
各賞の授与、受賞者の紹介、他機関の授賞機会への推薦は、従来通り行います。また本会各賞に関しては、選考の公平性と顕彰効果の最大化の観点から、受賞者選考委員会による選評を公開します。

[提案6] アウトリーチ活動
中小規模学会が行うアウトリーチ活動の効果と負担を吟味し、より専門性の高い活動に集約します。具体的な活動案として下記3点を考えています。
1.Wikipedia編集WGを設置し、正確な情報の普及と情報源へのアクセシビリティを高めます。
2.社会問題に対するコラム執筆を通じて、専門的知見に基づく情報提供を進めます。
3.出前授業など講演会系アウトリーチは、当面休止します。

[提案7] 国際的な活動
中小規模学会としての「国際コミュニティへの貢献」の効果を吟味します。特に直近2年間は、脱コロナ禍による国際交流の急速な活発化に翻弄されないよう注意深くします。会員の国際的活動を支援する取組は、引き続き推進します。

[提案8] 会員数問題への取組
もっぱら会員増を目的とする活動は本質的に意義がないため、行いません。集会や雑誌の魅力向上を通じて、会員増の実現を目指します。手続き簡素化のため、会費種別を正会員.円、学生会員.円に統一します。

[提案9] 会員向けサービス
1.会計情報を図示して周知することで、会費徴収に対する説明責任を果たします。
2.会員番号・会員情報・問い合わせ先を定期送信メイルによりリマインドします。
3.学生会員同士の交流を促すプラットフォームの整備に、学会から支援を行います。


※本メイル送信に先立ち選挙管理委員会に可否を問い「第三者の不利益になる内容を含まなければ、会員個人の自説を公に紹介する行為を禁じる規定はありませんので、選挙違反には当たりません」と回答を受けております。
「マニフェストはないのか」という声を多数いただきました。

マニフェストは、あります!
(あわてて作りました)

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⓪明るく楽しく激しい学会を目指します!
学会集団は、自発的に集結した集団であり、所属機関とは存在意義が異なります。
研究分野を同じくする人が集まる明るく楽しい同好会であると同時に、
ハイコンテクストな学術討論が飛び交う激しいバトルフィールドでもある。
そんな集団を目指します。

①年次集会は「朝からずっと懇親会」スタイルで実施します
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20210430/

②和文誌を「知の配電盤」として重視し依頼執筆による総説を多数出版します
1.最新研究動向レビュー(原著論文30-50報引用を目安にした短編総説。ポスドク執筆依頼)
2.分析地球化学の教科書的レビュー(分析法の技術発展に特化した総説。ミドル執筆依頼)
3.日本語文献レビュー(日本語の文献をまとめた総説。シニア執筆依頼)
4.10年後の地球化学研究動向を検討するレビュー(学会で設置するWG執筆依頼)
5.受賞記念論文

③英文誌は「当面ミニマム運営」「地球科学系諸雑誌の統合運営」を目指します
EUG-Copernicusモデルを参考に、JpGU諸学会をカバーする規模の出版管理団体を立ち上げ、
運営プラットフォームの統一による省労力・省コストを実現し、
JSTAGEベース/doi基軸で現存各誌が並立し続ける基盤として確立することを目指します。
2年間の任期中での対話相手は、出版社ではなく、関係諸学会と考えています。
冊子体は年1回の出版とし、会員や図書館への販売を継続します。

④顕彰事業は継続します
各賞の授与、受賞者の紹介、会として他機関の授賞機会への推薦を行います

⑤アウトリーチ活動は抜本的に見直します
1.Wikipedia編集WGを設置し、正確な情報の普及と情報源へのアクセシビリティを高めます
2.社会問題に対するコラム執筆を通じて、専門的知見に基づく情報提供を進めます
3.出前授業など講演会系アウトリーチは、休止します

⑥国際的な活動は消極的な判断を基本とします
1.学会としての「国際コミュニティへの貢献の"効果"」を吟味します
2.脱コロナ禍による国際交流の急速な活発化に翻弄されないよう注意深くします
3.会員の国際的活動を支援する取組は引き続き推進します

⑦会計状況を図示します
コロナ禍直前の2019年度の会計情報を図示し、会員に概要を周知します

⑧会員数を増やすための施策は行いません
1.もっぱら会員増を目的とする活動は、本質的に意義がないと考えるためです。
2.集会や雑誌の魅力向上を通じて、会員増の実現を目指します。

⑨会員情報管理の簡素化を進め管理コストを下げます
1.会費種別を正会員10000円、学生会員5000円の二種に統一します
2.会員番号・会員情報・問い合わせ先を定期自動送信メイルによりリマインドします
あらためまして。
『一般社団法人日本地球化学会2021-2022年度役員選挙』に会長候補として立候補しました。
http://www.geochem.jp/information/info/2021/210517.html

なんで地球化学会の会長候補に?については、下記参照で。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20210429/1/

代表職への立候補というのは、日本ではまぁ異例な振る舞いです。
地球化学会でも会長に限らず、ヒラ理事においても同様で、
基本的には推薦に基づいて候補者が決められることが慣習化しています。
(他の学会でも似たようなもんなのじゃないかな)

ボクの場合も、
会長候補になるだけなら、お友達に推薦してもらうことも可能だった。
でも推薦ではなく立候補にしたかった。
つまり、会長候補になることと同じぐらい、立候補が大事だった。
そしてこれには、ちゃんと経緯があるのです。

昨年参加した会議で、いつもアツいyachieさん( http://yachie-lab.org )が、
「推薦されてワタシで良ければみたいな決め方、ダセーんだよ」(意訳)
といつものように荒ぶっておられたんです。
それを聞いて、まさに自分もそう思っているよな、って。
それが昨年末の虚空に向かっての「リーダーになる」宣言にも繋がったのです。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20201230/

次の契機は大阪大学の総長選。
なかのとおるさんが"立候補"したのです。
「インディーズ系候補宣言」 https://handainakano.jp/2021/04/15/indies/
阪大みたいな伝統がある巨大な大学の総長選で、
新しい選挙のあり方を自ら体を張って提案することで、
総長になって改革を進めるのに先立って、
大阪大学改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」いて、
これはカッコいいな、このやり方もアリやな、と思わされたのです。

会長選への立候補が正式公表されてから2日が経って、
すでに色んな方から「投票するよ!」と声をかけてもらってます。
とてもありがたいことで、ちゃんと全部覚えておりますよ。

もちろん「けしからん」( @登大遊 ) と思っている人もたくさんいると思います。
でもまぁそういう人々も「けしからん」という気持ちから、
じゃあ何が「けしからん」のかという考察に至ってくれるでしょうし、
それだけで学会改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」ることになるかな。
そんなことも思っています。
生まれた意味?
生きる意味?
そんなものはない!
以上!


と考えられるようになったのは、いつ頃だったか。
30代にはなっていたと思う。
きっかけは、畏友T君との対話の中で出た疑問だった。

「どうせやらなきゃならないんだから、せっかくだから頑張ろう」
「『せっかくだから頑張ろう』の『せっかくだから』って、何なんだろうね」
「たしかに、まったく理由になってないね」
「単なるヤケクソだよね」

しかし、この受動的で消極的な判断基準で、色んなコトに取り組んでいる気がする。
『せっかくだから』
何の意味もないけど、経験的には納得できる気がする。

せっかく生まれたんだから、何もしないよりは、色々とやってみよう。

今のボクの人生観は、この『せっかくだから』に尽きる。
せっかく生まれたから、生きているに過ぎない。
生まれた意味、生きる意味なんてものは、生まれる前に与えられてはいない。
『せっかくだから』を放棄すると、生きる意味がなくなる。
『せっかくだから』生きているだけなのだ。

「じゃあ結局なんなんだよ、その『せっかくだから』ってのは」
「『せっかくだから』は物事の本質である。しかしそれ自体に意味はない」
「意味はない?」
「そう。意味のないコトである。しかし意味を与えるコトである」

雨が降って、水が流れ、乾きあがる。
そこに水はもうないけど、水の運んだチリぐらいは残っている。
世界では無数の水滴が降り、川へ流れ、海に至る。

誰かと誰かの熱情で海から蒸発した一滴の水として、私は山から海に流れる。
誰の記憶にも残らないただの一滴だけど、
田畑に養分を運び、道端の汚れを洗い、誰かの喉を潤すかもしれない。
自分の生まれた意味、生きる意味は、そんなもんだ。


『運命は完全に決まっていて、しかしそれゆえ、完全に自由だ』
論文の著者になることは、名誉あることだ。
自らの名の下に、人類発展の歩を進める。
人類史に(ほんのわずかではあるが)その名を刻む。
そういうことだ。

最近、身近なところでオーサーシップに関するアレコレが多発している。
いわく、原稿は主著者のものであり共著者は口出しするべきでない。
いわく、このデータが無ければ論文の価値がないから共著者とする。
いわく、人事審査を控えているから著者に加えてほしい。
いわく、共著者が増えても誰も損しないんだけら入れておけばいい。

業績の数値化や、それに基づく人事評価など、社会要因が原因でもある。
論文が世に出るなら、著者は何だってかまわないかもしれない。
しかし、それでも、最後の砦は各人の判断にある。
論文執筆を主導し最初に共著者への声かけをする側の考え方であり、
同時に、共著者となることの打診を受けた側の考え方でもある。

考え方といっても、ルールがないわけではない。
雑誌によっては著者資格が明文化されている。
もちろん明文化されていない雑誌もある。
その場合は、ルールというかモラルとして、著者側で考えるべきことだろう。

学術誌側の著者に関する規程については、amedの資料が詳しい(文末 *1)。
とてもよくまとまっていて、一読の価値がある。
しかし「無断転載禁止」とやたら主張しているので、紹介に留める。
ここでは同じ題材を扱った以下の、
倫理的なオーサーシップとは:ジャーナル編集者からのアドバイス
という記事から引用して話を進める。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国際医学編集者会議(ICMJE)はオーサーシップ(著者資格)について、以下の4つの基準をすべて満たす必要があると定義しています:

1:研究の構想やデザイン、あるいは研究データの取得・分析・解釈に相当の貢献をした

2:重要な知見となる部分を起草した、あるいはそれに対して重要な修正を行なった

3:出版前の原稿に最終的な承認を与えた

4:研究のあらゆる側面に責任を負い、論文の正確性や整合性に疑義が生じた際は適切に調査し解決することに同意した
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

著者資格についての4つの基準とあるが、『資格』2条件と『責任』2条件と言える。
つまり、資格条件2つを満たしている者に『著者となる資格』が生じ、
有資格者のうち『著者として論文に責任を負う』ものが著者となる、ということだ。

これら4つの基準を「すべて」満たして、はじめて著者となる。
ここがとても大事で「いずれか」ではなく「すべて」なのだ。

資格1「相当の貢献」基準。
「この人がいなけりゃ出せないresultsに貢献」ぐらいのことでしょう。
大抵の場合、資格1を満たす時点で「共著の声がけ」をしているかと思う。
しかしこれは「すべて」満たすべき4基準のうちの、1つにすぎない。

資格2「重要な知見の起草」基準。
「discussionに効果的に貢献」ぐらいのイメージ。
この基準は、とりわけ日本では軽く見られているように感じる。
イジワルに読めば「パトロン&ラボテク排除条項」にも読める。

責任1「最終的承認」基準。
「自分の知見がこの原稿に利用されることへの許諾」とか、そんなイメージ。
著者に入った以上は「データを使われた」「アイデアをパクられた」と言うなよ。

責任2「連帯責任」基準。
「不正に気付いたら自己申告することに同意」とか、そんなイメージ。
また「著者に入っている以上は"不正は知らなかった"じゃ済みませんよ」とか。

こうやって見ると「4基準をすべて満たした」と言うには、結構な覚悟がいる。
自分が共著者になる場合だけではない。
主著者として共著の声がけをするのも、かなり覚悟がいる。

自分が共著に加えたAさんの話がデマだったら、共著者Bさんに連帯責任が生じる。
AさんとBさんには直接の面識がなく、主著者たる自分だけが共通の知人。
Bさんからしたら、自分のせいで、とんだ迷惑に巻き込まれるということだ。
(もちろん共著を引き受けたBさんにも相応の責任はあるが、それはそれとして)

自分自身は、小保方事件以降、かなり気を付けている。
ヨソからくる共著の話はほとんど断っているし、
主著者として共著者を増やすことにもかなり慎重になっている。
しかし身の回りを眺めると「大山鳴動して鼠一匹」といった具合で、
あいかわらず「著者が増えてもあなたは損しないんだからさ」なのである。




*1: 著者の資格・権利・責任と盗用: 医学・生命科学系国際学術誌の投稿規定
<教材提供>
AMED 支援「国際誌プロジェクト」提供
無断転載を禁じます
https://www.amed.go.jp/content/000048638.pdf
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