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あらためまして。
『一般社団法人日本地球化学会2021-2022年度役員選挙』に会長候補として立候補しました。
http://www.geochem.jp/information/info/2021/210517.html

なんで地球化学会の会長候補に?については、下記参照で。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20210429/1/

代表職への立候補というのは、日本ではまぁ異例な振る舞いです。
地球化学会でも会長に限らず、ヒラ理事においても同様で、
基本的には推薦に基づいて候補者が決められることが慣習化しています。
(他の学会でも似たようなもんなのじゃないかな)

ボクの場合も、
会長候補になるだけなら、お友達に推薦してもらうことも可能だった。
でも推薦ではなく立候補にしたかった。
つまり、会長候補になることと同じぐらい、立候補が大事だった。
そしてこれには、ちゃんと経緯があるのです。

昨年参加した会議で、いつもアツいyachieさん( http://yachie-lab.org )が、
「推薦されてワタシで良ければみたいな決め方、ダセーんだよ」(意訳)
といつものように荒ぶっておられたんです。
それを聞いて、まさに自分もそう思っているよな、って。
それが昨年末の虚空に向かっての「リーダーになる」宣言にも繋がったのです。
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20201230/

次の契機は大阪大学の総長選。
なかのとおるさんが"立候補"したのです。
「インディーズ系候補宣言」 https://handainakano.jp/2021/04/15/indies/
阪大みたいな伝統がある巨大な大学の総長選で、
新しい選挙のあり方を自ら体を張って提案することで、
総長になって改革を進めるのに先立って、
大阪大学改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」いて、
これはカッコいいな、このやり方もアリやな、と思わされたのです。

会長選への立候補が正式公表されてから2日が経って、
すでに色んな方から「投票するよ!」と声をかけてもらってます。
とてもありがたいことで、ちゃんと全部覚えておりますよ。

もちろん「けしからん」( @登大遊 ) と思っている人もたくさんいると思います。
でもまぁそういう人々も「けしからん」という気持ちから、
じゃあ何が「けしからん」のかという考察に至ってくれるでしょうし、
それだけで学会改革を「勝手に・メタに・敢行してしまって」ることになるかな。
そんなことも思っています。
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生まれた意味?
生きる意味?
そんなものはない!
以上!


と考えられるようになったのは、いつ頃だったか。
30代にはなっていたと思う。
きっかけは、畏友T君との対話の中で出た疑問だった。

「どうせやらなきゃならないんだから、せっかくだから頑張ろう」
「『せっかくだから頑張ろう』の『せっかくだから』って、何なんだろうね」
「たしかに、まったく理由になってないね」
「単なるヤケクソだよね」

しかし、この受動的で消極的な判断基準で、色んなコトに取り組んでいる気がする。
『せっかくだから』
何の意味もないけど、経験的には納得できる気がする。

せっかく生まれたんだから、何もしないよりは、色々とやってみよう。

今のボクの人生観は、この『せっかくだから』に尽きる。
せっかく生まれたから、生きているに過ぎない。
生まれた意味、生きる意味なんてものは、生まれる前に与えられてはいない。
『せっかくだから』を放棄すると、生きる意味がなくなる。
『せっかくだから』生きているだけなのだ。

「じゃあ結局なんなんだよ、その『せっかくだから』ってのは」
「『せっかくだから』は物事の本質である。しかしそれ自体に意味はない」
「意味はない?」
「そう。意味のないコトである。しかし意味を与えるコトである」

雨が降って、水が流れ、乾きあがる。
そこに水はもうないけど、水の運んだチリぐらいは残っている。
世界では無数の水滴が降り、川へ流れ、海に至る。

誰かと誰かの熱情で海から蒸発した一滴の水として、私は山から海に流れる。
誰の記憶にも残らないただの一滴だけど、
田畑に養分を運び、道端の汚れを洗い、誰かの喉を潤すかもしれない。
自分の生まれた意味、生きる意味は、そんなもんだ。


『運命は完全に決まっていて、しかしそれゆえ、完全に自由だ』
論文の著者になることは、名誉あることだ。
自らの名の下に、人類発展の歩を進める。
人類史に(ほんのわずかではあるが)その名を刻む。
そういうことだ。

最近、身近なところでオーサーシップに関するアレコレが多発している。
いわく、原稿は主著者のものであり共著者は口出しするべきでない。
いわく、このデータが無ければ論文の価値がないから共著者とする。
いわく、人事審査を控えているから著者に加えてほしい。
いわく、共著者が増えても誰も損しないんだけら入れておけばいい。

業績の数値化や、それに基づく人事評価など、社会要因が原因でもある。
論文が世に出るなら、著者は何だってかまわないかもしれない。
しかし、それでも、最後の砦は各人の判断にある。
論文執筆を主導し最初に共著者への声かけをする側の考え方であり、
同時に、共著者となることの打診を受けた側の考え方でもある。

考え方といっても、ルールがないわけではない。
雑誌によっては著者資格が明文化されている。
もちろん明文化されていない雑誌もある。
その場合は、ルールというかモラルとして、著者側で考えるべきことだろう。

学術誌側の著者に関する規程については、amedの資料が詳しい(文末 *1)。
とてもよくまとまっていて、一読の価値がある。
しかし「無断転載禁止」とやたら主張しているので、紹介に留める。
ここでは同じ題材を扱った以下の、
倫理的なオーサーシップとは:ジャーナル編集者からのアドバイス
という記事から引用して話を進める。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国際医学編集者会議(ICMJE)はオーサーシップ(著者資格)について、以下の4つの基準をすべて満たす必要があると定義しています:

1:研究の構想やデザイン、あるいは研究データの取得・分析・解釈に相当の貢献をした

2:重要な知見となる部分を起草した、あるいはそれに対して重要な修正を行なった

3:出版前の原稿に最終的な承認を与えた

4:研究のあらゆる側面に責任を負い、論文の正確性や整合性に疑義が生じた際は適切に調査し解決することに同意した
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

著者資格についての4つの基準とあるが、『資格』2条件と『責任』2条件と言える。
つまり、資格条件2つを満たしている者に『著者となる資格』が生じ、
有資格者のうち『著者として論文に責任を負う』ものが著者となる、ということだ。

これら4つの基準を「すべて」満たして、はじめて著者となる。
ここがとても大事で「いずれか」ではなく「すべて」なのだ。

資格1「相当の貢献」基準。
「この人がいなけりゃ出せないresultsに貢献」ぐらいのことでしょう。
大抵の場合、資格1を満たす時点で「共著の声がけ」をしているかと思う。
しかしこれは「すべて」満たすべき4基準のうちの、1つにすぎない。

資格2「重要な知見の起草」基準。
「discussionに効果的に貢献」ぐらいのイメージ。
この基準は、とりわけ日本では軽く見られているように感じる。
イジワルに読めば「パトロン&ラボテク排除条項」にも読める。

責任1「最終的承認」基準。
「自分の知見がこの原稿に利用されることへの許諾」とか、そんなイメージ。
著者に入った以上は「データを使われた」「アイデアをパクられた」と言うなよ。

責任2「連帯責任」基準。
「不正に気付いたら自己申告することに同意」とか、そんなイメージ。
また「著者に入っている以上は"不正は知らなかった"じゃ済みませんよ」とか。

こうやって見ると「4基準をすべて満たした」と言うには、結構な覚悟がいる。
自分が共著者になる場合だけではない。
主著者として共著の声がけをするのも、かなり覚悟がいる。

自分が共著に加えたAさんの話がデマだったら、共著者Bさんに連帯責任が生じる。
AさんとBさんには直接の面識がなく、主著者たる自分だけが共通の知人。
Bさんからしたら、自分のせいで、とんだ迷惑に巻き込まれるということだ。
(もちろん共著を引き受けたBさんにも相応の責任はあるが、それはそれとして)

自分自身は、小保方事件以降、かなり気を付けている。
ヨソからくる共著の話はほとんど断っているし、
主著者として共著者を増やすことにもかなり慎重になっている。
しかし身の回りを眺めると「大山鳴動して鼠一匹」といった具合で、
あいかわらず「著者が増えてもあなたは損しないんだからさ」なのである。




*1: 著者の資格・権利・責任と盗用: 医学・生命科学系国際学術誌の投稿規定
<教材提供>
AMED 支援「国際誌プロジェクト」提供
無断転載を禁じます
https://www.amed.go.jp/content/000048638.pdf
学会にとって学術誌の編集は重要な事業として位置づけられている。
この点についても議論がわかれるところではある。
つまり、学会誌を持たない学会に、学会としての価値はないのか、と。
しかし今回は、そんな話は脇に置いておこう。
学会が独自に編集できる学術誌が必要であることは、所与の条件とする。
すると次に議論せねばならないのは、雑誌の経営だ。

学会の雑誌経営にかかるキャッシュフローは、とても怖い。
数百名分の会員の年会費が、雑誌の編集出版に費やされている。
雑誌を出版したことで得られる収入は、これを大幅に下回る。
つまり、赤字だ。
赤字垂れ流し事業。
それが今の雑誌経営の実態である。

さらなる売上は見込めるか。
難しい。
学会が経営する以上は「みんなの雑誌」であることは捨てられない。
大手のような出版費用を徴収するのは、存在意義に関わる。
じゃあ読者がもっと金を出してくれるかというと、そんなことはない。
ありえないと思った方が良い。
ということで、売上増は、期待できない。

経費を抑えるしかない。
雑誌経営にかかる経費とは何ぞや。
なんと出版社への支払である。(もちろん他にも諸経費はある)
なんと。
もはや論文はPDFで読んでいるのに。
出版社に何を委託しているというのか。

PDFをウェブサイトに置くだけなら、出版社である必要は無い。
ITベンダーであればチョチョイのパッと出来るだろう。
しかし、学術誌の特殊性ゆえ、ベンダーの手に負えない部分もあるだろう。
それって、なに?
学術誌の特殊性なら、学者が担えばどうにかなるのでは?
でも学者が雑誌経営に時間を取られて研究や教育を出来ないのは本末転倒。

投稿ー査読ー編集システムは、GoogleFormで作ってしまえば良い。
使い勝手に拘って多額の負担をするのは、本末転倒だ。
所詮、MS WORDで書かれた原稿にコメントするだけなのだから。
組版は、仕上がりに拘らなければ、専門家でなくても出来る。
著者校正でのチェック項目を増やせば、金もかからない。
doiの取得は必須だ。これにどんな手間があるかは、知らない。
読者への流布は、PDFをウェブサイトに置くだけだ。
宣伝は、ガンバレ。
冊子体の出版物を図書館に売ることでの収入があるかもしれない。
その収入を捨てたくないなら、年1冊、図書館用に刷れば良い。

というようなことを、個別の学会が個別にやると、労力が大変だ。
同じ悩みを抱える学会で共同すれば良い。
同じフォーム・ベンダー・宣伝媒体・印刷会社を使えば、コスト削減だ。
ん?
それって、出版社に依頼するのと何が違うの?
うーん。

ずっと中小学会の自助共助で雑誌経営を続けるのは、持続可能ではない。
大変だから。
コロナ禍をハンマー&ダンスで乗り切ろうとするのはなぜか。
ワクチンの浸透を待つためだ。

学術誌出版におけるワクチンとは?
JSTAGEの発展しかないでしょう。

J-STAGEに登録されている雑誌数、2800。
記事総数、5,000,000報。
これはもう、事実上の巨大出版社だ。

J-STAGEの民営化。
これしかない。
JSTAGEの細かいことは知らないので、細かいことは考えていない。

科研費出版助成などの資金源を、個別学会バラマキから、JSTAGEへの直接注入に。
個別学会は、民営JSTAGEに、幾分かの資金提供。
民営J-STAGEの経営監視は、日本学術会議の下に経営諮問委員会を設置。

話をもとに戻す。

個別の学会が雑誌を経営し続けるのは、もう無理だ。
遠くない未来の着地点を、今から模索する必要がある。
それは「今の最適解」とは離れることになるかもしれない。
ワクチンのアテもなくひたすら中途半端な自粛を続けるのか、
ワクチンの日程的メドを見据え、今は厳しい制限に耐えよう、とするのか。
似て非なるもの。
50人が1箇所に集まって、全員が前を向いて、部屋を暗くして黙って、
1人が12分喋って、数人と3分会話して。
夜だけ200人で集まって酒を飲んで懇親会。

このフォーマットが、どうにも「もったいない」。
これだけの人が時間を作って、移動して、集まっているのに。

〜〜〜

「人と人との交流」こそが重要だ。
もっと「人と人との交流」を増やすべきだ。

懇親会の必要性は認識されてきた。
でも、夜じゃなくても良いし、酒がなくても良い。
懇親会みたいなことを、朝から夜までずっと、やれば良いじゃないか。
懇親会みたいなことを、酒があってもなくても、やれば良いじゃないか。

昨年のオンライン開催で、発表の合間の時間に、雑談をした。
同世代のメンバーで、船の中にいるみたいな、なんでもない普通の雑談。
それを聞いていた学生からのアンケート回答。
「いつもと違う先生が見られて面白かった」
「研究者は普段こんな話をしているのかと興味深かった」

学会集会は『ハレ』だ。
研究室に入ると日々の生活は変わりばえがない。
研究室の環境は密室で窮屈だ。
教員と学生の関係は対等ではなく緊張感が漂う。
明るく楽しく激しいハレの日が、研究生活には必要だ。
「学会は祭!祭はケツ出してナンボ!」

〜〜〜

コロナ禍により、はからずもオンライン開催を経験できた。
そのメリットとデメリットを(学生を含む)多くの研究者が体感できた。
これは物凄い財産だ。
メリットは活かして、デメリットは解消する。
それが学びだ。

オンライン開催によって、発表と質疑は従来と遜色なく出来た。
オンライン開催によって、人との交流や予期せぬ議論が減った。
現地開催では、参加者に費用と時間の負担が生じる。
現地開催では、参加者がネットでは不可能な交流ができる。

答えは出ているだろう。

研究発表会は、オンラインで実施する。
時間や費用を捻出できない研究者を置き去りにしない。
研究交流会を、現地で実施する。
時間や費用に余力がある、あるいは重い価値を覚える人に、環境を用意する。
発表会の期間は、交流会を跨いで、設定する。
「ハイフレックス」ではなく「ブレンデッド」だ。
https://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/connect/teachingonline/hybrid.php

現地開催を年ごとに違う地域でやる意味はあるのか。
今のフォーマットでは、ほぼない。
朝から晩まで会場に閉じこもっているからだ。
個別の地域や大学の特色が出しにくい。
各LOCの負担が大きい。

プロジェクタを使わないフォーマットでなければ、場所の自由度が格段にあがる。
オンライン開催されているものをスマホやパソコンで見ながら語れば良い。
LOCは場面設定だけをすれば良い。
『1日目の午後、海洋セッションは定山渓の足湯でやります』
『2日目は終日懇親会で、大通公園4丁目区画を連絡拠点とします』
そんなことも可能なわけだ。
先ほど選挙管理委員会から自薦の受理通知を受け取りました。
会長候補になったことは、近いうちに正式公表されるでしょう。
どうぞよろしく。

立候補したのには、もちろん理由があって、
理由は細かく分ければ数え切れないほどある。
でも大きく見れば、とても単純なことです。

「自分の居場所は自分で作る」
「不満があるなら自分が動く」

それだけのこと。
それなりのことだけどね。

今の時点での自分の決意とか、そこに至るキッカケとかを記録しておく。
これは同時に、有権者に対する所信表明演説になると思う。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ボクは地球化学会でしか学会活動をしていない。*1
M1だった2004年から、スイスにいた年を除き、毎年集会に参加している(はず)。
ポスドクだった2010年からは、延べ4期8年、評議員/理事としても活動している。

一方、ここ4年間、学術会議で「学会活動悪玉説」の検証を進めている。
学会活動に関する論文も発表して、その意義を世に問うた。*2
一連の活動では「中小学会かくあるべし」と唱えて回っている。

「中小学会かくあるべし」と唱える時、念頭にあるのは常に、地球化学会だ。

地球化学会をはじめとする中小学会は、同様に多くの問題に直面している。
そのほとんどは、日本社会か日本学術界の構造的な問題に起因している。
現状からの漸進的な改革では、いかんともしがたい。

「中小学会の存在意義は何か」という問いに立ち返って、考えるべきだ。

ボクにとってそれは『ホームである』ということだ。
「帰ってきた」と感じられる場所。
実家のような、同窓会のような、単身赴任の休暇であう家族のような。

ちょっと思い出してみてほしい。
学会活動を通じて交流する人達がいる。
会いたい人も、会いたくない人もいる。
その人には、気楽に接することができるけど、少し張り合いたくもなる。
その人とは、プライベートなことも、下世話なことも、迂闊に何でも話せる。
その人に、依存して甘えるわけでもないし、敵対して傷つけあうわけでもない。
その人は、身近なライバルであり、もっとも分かってくれる応援団でもある。
学会はやっぱり『ホームである』というところに、存在価値があるんじゃないか。

学会の存在意義として『ホームである』ことを高らかに掲げた運営をしたい。
その絶対的な基準を持って、知恵を出したい。
いま何をすべきか、それ以上に何をしないべきか。
最高に居心地の良い集団。
自分のホーム学会がそんなところだったら、最高だ。
地球化学会が、他の中小学会の目指す参考事例になったら、最高にカッコいい。

〜〜〜

そんな地球化学会になるために、今すぐ変えるべきことがある。
それが『会長の選び方』だ。

地球化学会の運営では、会長が非常に大きな実質的権限を持っている。
それにも関わらず、会長の選び方がまったく民主的ではない。
もちろんルール上は、各会員が1票を有する選挙であり、民主的ではある。
しかし慣習的に、民主制がまったく機能していない。

詳細は書かない。
実質的に『禅譲』で会長候補が決まる。
会長候補による所信表明もマニフェストも無い。
選挙は実質的に信任投票となる。
選挙の投票率は低く、慣習に馴染んだ熱心な会員だけが投票する。
会長候補はほぼ満票を獲得し、会長となる。
そういうことが毎回行われてきた。

ガチ選挙をやると禍根が残り会の運営に支障をきたす、という意見がある。
しかし、民主制の根幹たる選挙を回避する理由にはならない。
会の運営において、対立する意見を戦わせる議論は、避けて通れないはずだ。
運営指針のような大枠に関する意思表示は、公開の選挙で行われるべきだ。

ボクが立候補しなければ、今回も1候補だけが候補者名簿に載ったのだろう。
ボクが立候補したけれど、今回も禅譲候補が候補者名簿に載ると思う。
他に会長候補者がいるのか、いるとしてそれが誰か、ボクにはわかない。
もちろん、候補者の被推薦の決意も、推薦者の想いも、否定する気は毛頭ない。

ボクは地球化学会の会長選のありかたを変えたい。
ただそれだけだ。
これが会長選に立候補した最大の動機だ。
自分自身が会長になりたい以上の動機だと言っても良い。

もちろん「会長になれなくていい」と思っているわけではない。
立候補したのは会長になりたいからだ。
会長になったら、会員が『ホームである』と思える学会を目指して、運営する。
会の抱える様々な問題点は、8年間の理事生活で理解しているつもりだ。
実現したい具体的な取組もたくさんある。
1期2年で出来ることは山ほどある。
それはまた、おいおい。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

*1: JpGUもあるけど、あれは巨大学会なので、自分の中では別物扱い
*2: 日本における学術研究団体(学会)の現状 埴淵 知哉, 川口 慎介
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ejgeo/15/1/15_137/_article/-char/ja
この記事は、敬愛する @rei_nari さんにインスパイアされたものだ。
『教員公募にしろ予算申請にしろ実験手法にしろ実験器具にしろ、未出版の研究核心部以外は積極的に情報を共有して、お互いの培ってきたTipsなどを活用し合うのが良いと思っている』
『特に所属など環境依存での情報格差を埋めるのに、SNSを介した情報交換はとっても有効だと思う』
https://twitter.com/rei_nari/status/1386854738356948995?s=20
本当にその通りだと思う。
ちょっとしたtipsの差で採否が決まる世界(でtipsを独占して勝つ)より、
中身勝負のガチ世界の方が、科学の価値は絶対に高め合える。
そしてそのガチ世界で、採択を勝ち取る方が、カッコいいじゃないか。
勝負じゃないけど、意識として。


数年前に認識して以来ずっと気になっているライジングサンの記事にも触発された。
yokaのblog『科研費若手落ちた』
https://yokazaki.hatenablog.com/entry/2021/04/27/000354「当時は猛々しく「これを若手研究で出すのはもったいない」とさえ思って」
「やはり納得ができないし、何が悪かったのかが良く分からない」
「一体どこが伝わらなかったのかのフィードバックがあれば」


ボクは学位取得以来10年超、応募できる機会があれば応募してきた。
採択されたこともあるし、不採択だったこともある。
平均的な採択率から見れば、採択率は高いと思う。
なお科研費の審査員をしたことはない。
そんなボクが「大体こんな感じが通りやすいかな」と思っている指針。


まず「採否は審査員ガチャか」について。
これは「採択率による」。
若手や基盤など30%程度の採択率があるなら、ガチャ要素は低い。
挑戦的研究や創発など10%を切る採択率になってくると、ガチャ要素が高い。
この辺り、1件辺りの審査員の人数、各人の持ち点から、統計的に説明できると思う。

これを前提として、申請書の書き方では、
挑戦的研究等では「最高点」を、若手基盤では「高い平均点」を、目指す。


最高点を目指すと、ピーキーに仕上げる必要がある。
かなりの盛り付けも必要かもしれない。
そうすると、渋めの審査員から毛嫌いされる可能性もある。
この辺りの狙いを定める部分に、ガチャ要素がある。

採択率ではなく、採択数で考えても、ガチャ要素がある。
「どんな公募でもアレが出てきたら勝てない」というS級妖怪がいる。
採択枠をS級だけで埋められてしまうと、もうどうしようもない。
S級と競合しないことを祈るのみ、というガチャ要素だ。


高い平均点を取るには「平々凡々、普通に書く」に限る。
ごく平凡な話を、ごく平凡なまま、しかし確実に着実に書く。
「とても面白い研究」でなくても、「確かに成果が出そうな研究」であれば良い。

rei_nariさんやyokaさんのエントリーを読んで、おそらく「書き過ぎ」なのだと感じた。
「平均点」路線でなく「最高点」路線で書いて、実現可能性などで低評価だったのではないか、と。
というのも、ボク自身が、これを経験しているからだ。
「最高点」路線の若手Aが不採択で、翌年に内容を削って「平均点」路線に変えて採択された。
同じ失敗を基盤Bの申請でもやっている。
不採択だった申請書から盛り込み過ぎた内容を削って、翌年に採択された。


ここで定性的に「書き過ぎ」ないで「着実な内容」に仕上げると言っても、役に立たない。
ここまで読み進めてくれた奇特な読者に、ボクの指針を紹介したい。
なお、この指針が常に正しい保証はないので、適当に考えて欲しい。

とても簡単だ。

2年500万なら「2年目にレター1報」、
3年2000万なら「2年目にレター1報、3年目にフル1報」
これだけ。
これ以上の成果を出すような内容は盛り込まない。
「アレもコレも」は自重する。

ボク(やrei_nariやyoka)は、同分野の研究者の中では、論文生産性が高い。たぶん。
もちろん上を見ればキリがないだろうけど、平均的な生産性と比べれば、十分に高い。
だから自分にとって「普通の生産性」であっても、審査員的には「ちょっと多い(無理がある)」と感じる可能性がある。
そこを差し引く必要がある。

KAKENデータベースで応募先の区分・種別を眺める。
あそこに掲載されているのは、当然ながら採択された課題だ。
採択率30%の世界では、アレらに「勝つ」必要はない。
アレらと同等であれば良い。
勝ちにいこうとすると、書き過ぎてしまう。

引き算は、とても勇気が要る。
不足で落とされるなら、過剰で落とされたい、かもしれない。
でも、落ちるのは落ちるのだから、通るには路線変更は必要だ。
2020年10月26日菅義偉首相『国内の温暖化ガスの排出を2050年までに「実質ゼロ」』
2021年4月23日小泉進次郎環境相『2030年までに46%削減』

エネルギー問題と環境問題は、どちらも問題だけど、別問題だ。
違うけど似てる。
似てるけど違う。

エネルギー問題とは、
 [1]地球上で埋蔵資源が必ずいつか枯渇すること
 [2]現在のエネルギー供給は埋蔵資源に依存しているので困ること
という前提となる枠組みがあって、
そこに経済的視点が加わって、
 [3]埋蔵資源は地理的に偏在しており最後は国家間の交渉になること
 [4]日本には埋蔵資源がないので上記交渉では不利となること
 [5]日本が埋蔵資源を輸入し続ける限りは経済的不利を被り続けること
ということになる。

これらを解消する手段には、
 [a]世界的な再生可能エネルギー利用増大による埋蔵資源の省消費
 [b]日本国内の再生可能エネルギー利用増大
があげられる。

環境問題では、
 [6]火力発電時の二酸化炭素排出による気候変動・海洋酸性化などの問題
 [7]放射性廃棄物など、発電や発電機器を製造に伴う廃棄物による環境汚染
 [8]バイオマス発電など、発電に利用する材料生産に伴う生態系の大規模な破壊
 [9]メガソーラーや水力発電など、発電機器の設置に伴う生態系の大規模な破壊
などの懸念がある。

問題[6]の「二酸化炭素排出」を解消するには、
 [c]火力発電の総量を抑える
 [d]火力発電で発生した二酸化炭素を空気中に排出しないで隔離する
という打ち手がある。

手段[d]は、数ある問題のうち課題[6]だけを解決する。
気候変動による災害の激甚化や一次生産への影響は、世界各地ですでに起こっている。
二酸化炭素は蓄積するから、早く手を打つほど効果的だ。
先の政治家の発言が年限をきっているのも、そういう意味だろう。
そして「実質ゼロ」は明らかに手段[c]だけでなく手段[d]を念頭においている。
なぜなら手段[c]だけで「排出ゼロ」を実現したら、「実質ゼロ」ではなく「本質ゼロ」だからだ。

ここでエネルギー問題に立ち返る。
手段[d]は、エネルギー問題[1-5]をまったく解決しない。
エネルギー問題を解決するには、再生可能エネルギーへの転換(手段[c])が必須だ。
そして日本は、経済安全保障の観点(問題[3-5])から、エネルギー転換を急がねばならない。
手段[c]を早急に進めることは、単に環境問題の解決ではなく、国の行く末を担っている。

じゃあ『火力発電+二酸化炭素隔離:手段[d]』に意味がないかというと、そんなことはない。
手段[d]は、移行期的な措置としては、意味がある。

再生可能エネルギーの利用を拡大するのに課題[7-9]には注視しなければならない。
課題[7-9]には、これまでにない課題も含まれるから、予期せぬ新たな問題が起こる可能性もある。
事実、山間部へのメガソーラー設置に伴う生態系変容は実施後に発覚し、問題となっている。
エネルギー源ごとに、従来にない新たな環境影響評価が必要である。
また、再生可能エネルギーの産生には、技術的にまだ改善の余地がある。
とりわけ、スマートグリッドによる最適化が必須であるが、システムは未整備である。

『2030年排出46%削減』を、手段[c]のみで実現することは、かなり困難である。
10年間で再生可能エネルギー自給力を現在の数倍まであげるのは、現実的ではない。
手段[c](エネルギー転換)を早期に進めるが間に合わず排出過剰となった分について、
手段[d](二酸化炭素隔離)による「実質削減」で補填するというのが、現実的な路線だろう。


『ところで、その"かくり"ってのはどうやって実現するんだい?』
「そりゃお前、虎の威を借るのさ」
『お上から押しつけるってのかい』
「押しつけたってどうにもならんよ」
『じゃあどうやるのさ』
「決まってるだろ、虎といえば」
『阪神タイガース』
「かくりといえば」
『郭李』
「そう、90年代のダメ虎を支えた郭李」
『あの暗黒の....(はっ!)』
「(それや!暗黒の深海に隔離や!)」



以下は学術会議の某分科会で用意したけど使われなかった文章
ver190503 kawagucci

電力は現代社会生活に不可欠であり、安定的な電力供給は憲法25条にうたわれる生存権を保障するものです。
日本のエネルギー自給率はここ数年、10%を下回っています。

低エネルギー自給率は、国内エネルギー消費量(14*1018J/y)に対し、国内産生エネルギー供給では及ばない大部分を、輸入燃料資源の利用に依存していることを意味します。
輸入燃料資源への依存は、経済性や安全保障上の問題があり、国民生活の持続的発展において巨大なリスクです。

たとえば家庭部門のエネルギー消費は全体の15%ほどですが、これさえも国内産生エネルギー供給ではまかなえていないのです。
照明のLED転換などによるエネルギー消費量抑制が期待されますが、国民生活や産業活動の発展を考慮すると、大幅な消費量削減は極めて困難です。
つまり、エネルギー問題の根本的課題は『国内産生エネルギー供給"力"の向上』にあります。

我が国にはわずかな埋蔵燃料資源しかありません。
深海底メタンハイドレートなど非在来型埋蔵資源採掘に期待が寄せられていますが、埋蔵量評価や採掘技術開発はいまだ不十分で、経済合理的に利用できる可能性は不透明です。

我が国はその地質・地形的特徴から、多様な再生可能エネルギーの利用が期待できます。
既存の水力発電や風力発電に加え、山間部では火成活動を利用する地熱発電が、沿岸部においては波力や温度差などを利用する多様な発電法が提案・利用されています。
再生可能エネルギーは、発電量が環境要因に左右される上に大規模化が困難なことが課題でしたが、発電・蓄電・送配電のICT管理による最適化(いわゆるスマートグリッド構想)によって、この課題は技術的に解決できる状況が整いつつあります。
換言すれば、再生可能エネルギーの効果的な利用にはスマートグリッドの確立が必須であり、両者を一体として確立・運用する技術的・法的・経済的な体制の構築こそが、取り組むべき喫緊の課題です。

エネルギー問題は、国内問題であると同時に、人類が抱える地球規模の問題でもあります。
グローバル化の著しい現代にあって、燃料資源の枯渇危機は国家間の緊張を高めます。
原子力発電は、必ず生じる放射性廃棄物の処理および生じうる事故への対処の両面で、いまだ人類はその解決法を有していません。
燃料資源の利用は二酸化炭素の放出を伴い、気候システムの温暖化には疑う余地がなく、海洋酸性化の進行も観測されています。
再生可能エネルギーにおいても、人為的介入による生態系構造の改変は不可避であり、その環境影響評価は十分とは言えません。

こうした問題に対し、学術的成果や模範事例の提示などを通じて、我が国も積極的に貢献すべきです。
2021年4月の緊急事態宣言で、東京都がとても広範な業種に制限をかけるという話題。
たとえば「本屋で感染拡大するってのか?そんなわけないだろ!」などの意見がある。
とてもよくわかる。
本当にその通りだと思う。

マスクを外して顔を近づけて会話をするのが「高リスク行為」で、
抑制の効かなくなる飲酒を伴う長時間飲食は「高リスク場面」だから、
「飲食店だけでも規制すれば、集団としての感染拡大防止にかなり効果がある」って説明して、
その上で飲食店に補償金を出せば良いんだよ。
その補償金を用意するためにも、低リスク業態はバンバン働いて経済を動かすのが良い。

ここまでの知見に基づいて、普通に考えると、そういうことになる。
でも、政治判断は違う。
なぜか。

今回の措置は「なんで飲食店だけがダメなんだ」という「声に寄り添った」結果だ。
説明を放棄して、感情にもたれかかる。
政治に限らず、何年も繰り返してきた、この国のお作法。

「丁寧に説明する人」よりも「声に寄り添ってくれる人」を政治家にしてきた、必然的帰結。

民主主義の要諦は、国民の教育水準。
高等教育の責任は重い。

〜〜〜〜〜〜〜
「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。
愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。
『学問のすすめ』福沢諭吉
〜〜〜〜〜〜〜
主著者・コレスポ著者・共著者で、役割が違うみたいな話。
まぁ実践的にはそうかもしれん。
でも一応の理念上は、すべての著者は等しく責任があるという設定じゃないのか。

ボクはそう(すべての著者の責任は等しいという理念があると)思っているのだけど、
大部分の人はそう思ってはいないように感じる。
これはジャパンだからなのか、国際的にそうなのか、それはわからんけども。


コレスポについては、単なる連絡担当係だと思っている。
だから全然重視していない。
慣習的にボスキャラである証拠みたいになってるけど、そんなん知らん。
投稿作業みたいな面倒なことを担当してくれるんだから「どうぞどうぞ」である。


自分が共著者である場合。

自分が主著者で書き進めるのと同じ強度で原稿に向かう。
世間的には「主著者を尊重して」「主著者の書きたいように」という意識があるようだ。
そこは中身の意味で、つまりデータの吟味を一番深くしているだろうから、
詳細な部分の書きぶりに見えない背景があっての文脈が込められていることもあると思う。
そんな文脈を残しておくべきだろうと考えることも、ありえるとは思う。

でも、まずはそんなことは忖度しないで、書いてあることをそのまま読んでコメントする。
まったくの書き直しや、大規模な組み替えも提案する。
共著者側から提示されるものに対して、主著者がどう対応するかの問題であって、
最初から主著者(の心情?)を慮って、共著者側から薄い反応しか返さないのは、ありえない。
ありえないというか、原稿を向上させる意味で、それじゃ役立たずだ。

主著者が共著者のコメントを反映するか否かは、主著者の判断だ。
その結果、共著者として重要だと思うコメントが反映されないならば、
なぜ反映しないのかと説明を求める権利が共著者にはあるし、主著者はそれに回答する義務がある。
それが出来ない場合は(過去に実際そういう事態があったけど)、共著者から抜ける。
投稿原稿に責任が持てない(納得がいっていない)以上、著者であり続けるべきではない。


自分が主著者である場合。
ボクは自分が共著者である場合と同じぐらいの貢献を、共著者に求める。
求めるけど、返ってくるのは「一般的な共著者」の水準の内容でしかない。
これはとても困る。
困るんだけど、それ以上のことを要求は(基本的には)しない。
たぶん、共著者としては「主著者のことを慮って」いるのだろうから。
そんな配慮はいらないし、その心持ちは原稿の向上に振り向けてもらいたい。

まだ原稿にインプットが欲しくて回覧した時には何の返事もしなかった共著者が、
投稿原稿への承認を求めるメイルには即レスだったりすることは、しばしばある。
しばしばというか、とても頻繁にある。
共著業績が増えてラッキーとか思っているのだろうか。
そういうのマジファ◎ックです。
研究者の看板を降ろしてもらいたいね。


じゃあ「著者に誰を含めるのか」という、いつもの問題になる。

ひとつは「ラボテクは共著に加えるべきか」問題。
うちの研究所では「会社が人件費を払っている職員」であるラボテクが多い。
論文に使うデータの多くは、ラボテクから出てくる。
研究成果への貢献はとても(とてもとても)大きい。
しかし、うちのラボテクの多くは、英語の原稿を通読できる能力がない。

ボクは「英語を読めない人は原稿に責任を持てない」という理由で「著者に含めない」ことにしている。
要するに「研究に対する貢献」よりも「原稿に対する責任」の方を重視する。
だからもちろん、英語の読み書きが出来る人は、ラボテクだろうが著者に加える。

この辺りは、同部署の同僚でも、人によって判断が異なる。
多くの場合は「著者に含める」ようにしていると思う。
おそらく、ラボテクの人事評価に配慮しているのだろう。
あるいは「誰も損はしない」のだから著者に加えるという判断もあるだろう。
他人の判断については、思うところはあるが、口は挟まない。

ボクの中では、ラボテクどうする問題よりも厄介なのが、研究者の共著者だ。
先に述べた「看板を降ろしてもらいたい」部族の方々。
成果に関わるデータを出している。
個人の能力として論文の読み書きは出来る。
だから最初から著者群に加えることになる。
しかし、とにかく原稿に対してウンともスンとも言わない。
でも投稿承認のメイルには返事をする。
とても(とてもとても)態度が悪い。

なんだかなぁ、である。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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