忍者ブログ
自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]
野村克也(ノムさん)がよく使うフレーズ。
「エースと4番は育てられない」
そのこころがどこにあるのか。

競技の特性に基づく戦術・戦略があり,努力の方法論がある。
これらを知り,努力を重ねることで,一流の選手にはなれる。
しかし「超一流」になるには,そうした「論」を超えた「能力」が必要である。
この能力は,持っている人しか持っていない。
持っていない人が,努力によって獲得できるものではない。

生物的な意味での「先天性/後天性」ではなくて,
業界に入る段階の前後でわける意味で「先天性/後天性」を使うならば,
「エースや4番」には先天的な能力が不可欠である,ということになるだろう。

==============

野球の話はここまでにして,研究の話。

友人とチャットをしていて「学問と歴史」の話に。
「本郷」には本邦学問の歴史がある。
連綿と続くその歴史を感じて今を生きると,それはある種の呪いのようだ。

東大とは。
大学とは。
学問とは。

新たな研究の地平を切り拓く研究者を生み出すことは,大学の使命である。
少なくとも東大の教授というのは,そういう使命を帯びている。
では「東大教授になる人」は育てられるのか。

「エースと4番は育てられない」という意味にのれば,
ボクの答えは「No」である。

ある「才能」が東大に入る。
東大教授は,前世代において「才能」であり,今まさに東大教授である。
教授という華が放つ臭気が,才能を引き寄せる。
才能は才能を知る。
才能は,教授の下でついに開花し,やがて教授となる。

これを傍から見れば「育てた」と見えるかもしれない。
しかしやはり「才能が,自ら臭気をかぎつけ,開花し,教授となった」のである。

一方で,ミノル・オジマの言葉だと又聞きしたが,
「大学の使命は次の教授を育てることである」
という言い回しがある。

東大は「才能」を集める。
東大には「才能」を開花せしめる教授がいる。
才能と教授との遭遇は,偶然でしかない。
この偶然の確率を引き上げるのが「東大」という場である。

巨視的に見れば「東大が育てる」ことに間違いはない。
しかし微視的には「東大で才能が教授と出会う」だけである。

学問を為す主体が人間である以上,学問の歴史は人の歴史がある。
人の歴史とは,出会いである。
出会いは,偶然である。

==============

というような「お話」は,もはや架空の世界のことかもしれない。
大学というモノ,東大というモノを,研究に特化して,しかも先端の先端だけを見れば,
「東大の使命」というのは,こういうことなんじゃないだろうか。

「東大」やら「教授」やら「人事」やらの実態は,
もちろんこんな「脳内お花畑」的なモノではないだろう。

ただ,理想というか,理念というか,そういう概念的なものとして,
こういうような位置付けを考えてみるのも,
「大学論」みたいな話では意味があるのかね,なんて思ったりして。


余談。
いま文科省によって大学が3つに分類されている。
トップ・特色・教育だっけ?
これとは別に学部・修士・博士という3分類もある。
この3x3マトリクスをベースに,大学というものの位置付けをするのも面白いかも。
という話題もあった。
PR
教育とか子育てとか,まぁそうやって言われるようなモノについて,色々と考えるところはあるけども,やっぱり直接的な働きかけ以上に,環境的な要素は大きいなぁとつくづく感じているところである。

すごく卑近な例で言えば「本を読んでくれると良いなぁ」と思って本を置いておいても,テレビがついていればそちらに向かっていくし,教えてもいないのにテレビのリモコンを操作して見たいチャンネルに合わせている。テレビ本体・チャンネルボックス・DVDプレイヤの3種を使い分け,テレビ欄を確認し,DVD音声を日本語に設定して視聴している。そういう状況にあって「本を読みなさい」と言っても,まぁ何の効果もないわけです。しかしテレビの電源をこっそり落として「あぁ今日はテレビは使えないんだ」となると,ヒマだし本でも読もうかな,となる。そのまま他にやることがなければ,本を読み続けて,そのうち寝る。

行動原理はすごく単純で,今できる一番楽しいことをやる。それが出来なくなったり,楽しくなくなったりしたら,次に移る。ただそれだけ。テレビやゲームは「娯楽」として作られているものなのだから,面白いに決まっているし,さらにここまで育つ上で「面白いモノ」として与えてきたのだから,そういう価値観もビッチリ染みついている。だからこそ「アレやれ,コレやれ」と言うのではなく,コッソリと「アレが動かない」ようにするとか「コレが置いてある」とか,そういう環境状況を作ってやることで,大人が思う方向に誘導していくのだろう。もちろん大人が誘導することの是非はあるが,ここではそれはさておきということで。

そしてそれ以上に「子供は大人をまねたがる」ので,大人が何かをしている姿を見せる(見られる)というのも,非常に大きな要素である。大人が本を読んでいる様子を見たことがなければ,子供もなかなか本を読まないだろう。大人がテレビを見て喜んでいなければ,子供もテレビを見て喜ばない(かもしれない)。

それで,昔に書いた「家に新聞があることの意味」って話にもつながるけども,そういうのって大事だよなぁとあらためて感じている。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20100516/

今の生活で何が問題って,ボクは仕事をするのにラップトップを見て,本を読むのにKindleを見ているんだけども,子供達にとってそれは「Youtubeが見られる機械を使ってお父さんが何かをしている(=遊んでいる?)」とか「iPadみたいなヤツを独り占めしている」とか,そういう風に「見えている」ということ。たとえば,論文やメイルを紙に書いて紙で読んでしていれば,子供達にとって読み書きすることに対する親近感は全然違うと思う。

じゃあ翻って,機械を使っている様子を見て,機械を使うことに対して親近感を持つかどうかで言えば,まぁ親近感は持っている。テレビのリモコンも,iPadも,それほど操作法を教えていないのに,扱うようになっている。でも,文字を読めば,どんどんと未知の文字が押し寄せてくるので,その深淵のようなものに触れることもあるけども,機械だと自分が使うものだけを把握していれば,未知のものは視野から外れてしまうのかもしれない。

あぁもうこんな時間。そんなこんなでとにかく難しいなぁと。
いつものオジチャン(おにいさん?)から。

===============
100%明確になることはないとしても、ゴールを、ゴールに必要な質の高さを示すこと。

そしてそのゴールに至るまでのプロセスを手前側から示し、実際に今どの立ち位置にいるかを指摘すること。
http://d.hatena.ne.jp/keikoba/20170209/1486593996
===============

ここで重要なのは,「ゴールに必要な質を示す」ことと「プロセスを手前側から示し」ということの分離だと思う。

「ゴールの質を示す」とどうしてもその流れで「向こう側から」順を追って考えてしまう。
でもそれだと「今の立ち位置」と交わらないこともありえる。
逆に言えば,「今の立ち位置」からだけで考えると「ゴールの質」はドンドンと下がってしまう。

そこに難しさと面白さがあるなぁと。
これは研究に限らず,たとえば競技スポーツでも同じだけれども。

ある程度まで研究を進めると「ゴールの質」と「手前側からのプロセス」とが両方とも見えてくる。
両方が見えても,それらをうまく交わらせることが出来ないことが多い。
そこで身悶えてしまう。

今まさに,来年度の航海計画についてメイルで侃々諤々している点も,これなのだろう。
ある人は「ゴールの質」を求めて「向こう側からプロセスを逆算」という計画。
ある人は「手前側からのプロセス」を示して「ゴールは薄ボンヤリ」という計画。
これらがうまく交わらない。

もちろん「ゴールの質」を求めることは大事に決まっている。
でも調査航海は人間がやることで,体力と時間は有限だ。
向こう側から逆算しても手前側と交わらなければ絵に描いた餅。

さてさて。
Senior EditorのAmy Whitchurch博士。
http://www.nature.com/ngeo/authors/about_eds/index.html

セミナー前に自分のメイルをサーヴェイしたら,自分の関係(地震ネタが多い)はいつもこのAmyから「unfortunately」メイルをいただいていることがわかった。担当分野なのだろう。



「わかりやすさ」ってのは,無数にある変数を近似して特徴的なものに代表させることで獲得されているのかもしれない。だとしたら「わかりやすさ」というのは「単純化」なのかもしれない。わかりやすい形式で発信することは,近道のようでいて,もっとも遠回りなのかもしれない。

そして受信側。「わかりやすさ」を求めると,それは「単純化されているモノ」しか受け入れないことになるが,世界は複雑なのだから,やっぱりちょっと危ないよね。「リテラシー」とかなんとか振りかざしている人は,それはそれでイヤだけど,「いわゆるリテラシーみたいなもの」が不足していると陥ってしまう危険性のようなものはあると思う。

自分が何を目指しているのか,といういつもの問題になるのだけれども。発信側としての自分は,まぁどうでもいいな。それはどうでもいい。受信側としての自分も,どうでもいいんだ。たぶんね。

傍から見ていて「あぁ発信側の伝えたいことと受信側が受け取っていることが食い違ってるなー」と感じる場面が少なくなっていけば,きっとそれが自分にとって「楽に生きられる場」なのだと思うから,そういう世の中に,少なくとも自分の目の届く範囲での世界で,なっていくようにしたいなぁというのが願いなのかもしれない。

人が2人いて「意見が食い違う」のは良いんだ。何も苦にならない。でも「会話が成立していない」のは苦しい。そういうことなのかもしれない。

他者理解における共感の限界を超えて理論構築すること
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8319969.html

ーーー以下引用
「共感を前提に他者へのアプローチを考えると、間違える。....自分と比較的に似た資質の人の場合にはうまくいくが、その「共感のサークル」を超えて人の理解を支えることができない。」
「相手のきもちを、いわば理詰めで推理し、なぜそのようなきもちを持つのかを理解するはたらきが必要である。そのことによって、必ずしも共感できない場合でも、人間というものを理解することができるようになってくる。」
ーーーここまで


これはすごくしっくりきた。
ボクはたぶんこの裏返しだ。
最初から「相手のきもちを理詰めで推理」した上で接してしまう。

だから,
「理詰めで推理した相手」と接するので「共感」に至らないし,
「共感のサークル」のメンバーになることがないし,
理解を超えた考え方の人に恐怖を覚える。

子供相手の時は特に,共感のサークルに入ることが大事だなと。
日々常々つくづく思っている次第。
新しい携帯にしてかわったこと。

辞書アプリがサクサク。街中の看板など表記が気になった時に即座に調べられるようになった。ちょっとしたことだけどすごく便利。暇つぶしにもなる。

カメラがきれい。外食とかちょっとした景色とか,カメラを持ち歩かずに日々の状況を撮影できる。スイス生活の記録にちょうどいい。カメラが重いしかさばるのが億劫だったので。オデカケにはカメラを持って行き,日々の生活は携帯で,という感じになりそう。

暇つぶしがサクサク。前のヤツはちょっと重いサイトだとカクカクだし,SNSアプリなどをいれたらアプリ本体にメモリを食われて全体がフリーズしてしまっていた。

音楽が聞ける。前のヤツは・・・同上・・・。さすがSONYで音も良い(気がする)。

6万円といえども毎日使うものだと思えばそれほど高い買い物ではないのだから,ケチらなければ良かったなぁと後悔。一方で,どの機能も日本に帰ったらあんまり使わないかなぁとも。
こっちに来てからずっと悩んでいたSCSの解釈がようやく抜けきった。いやたぶん本気で原稿にしたら躓くところもあるだろうから,実際のトコロはまだ「抜けきった気がする」程度のことなんだけども。

結局どうして行き詰まっていたのかと考えると,端的に言えば勉強不足でしかない。戒め。

原稿を書く段階で「コツコツ単打論文」と「ここはホームランでしょ論文」というのが何となく自分の中にあって,今回のSCSは色んな背景から「単打論文」のつもりで取りかかった。背景というのは,自分があまり乗船していないとか,計画が日米共同でややこしそうとか,早めに論文化したいとか。

しかし論文を書き進めるにつれ,これは「単打」ではすまないことに気がついた(ここまでがわりと長かった)。なぜ単打ではすまないか。一番の理由は「世界でここでしか見つかっていない現象」だから。でもじゃあなんで単打だと値踏みしたかというと,もう一つ枠を広げて考えれば,「似たようなものは陸上でいっぱい見つかっている」し「似たようなものは海底でもいっぱい見つかっている」とも言えるから。

要するに値踏みを間違えたということだ。これは恥ずかしい。

大きな教訓としては「勉強勉強日々勉強である」ということだが,小さな教訓としては日々の議論が大事だということ。ここでは,雑談レベルで揉むのとは別に,一定レベルまで固めた状態でセミナや学会発表にかけるのも重要だ。有益なコメントがあるかもしれないし,自分にとってもいつもとちょっと違う温度で考える契機になる。
日本人会のセミナーで,スイスでも仕事をされている某有名ツイッタラーによる東日本地震後の福島に関する講演を拝聴。内容の詳細を適当な記憶に基づいて書くのもアレなので,自分が思ったことを中心に記録。




データの取得・蓄積は大事。
データのグラフ化も大事。
データを取得方法を選定するにあたっては,何が課題であるかを外さないこと。
線量の把握が大事なのか,人体影響の定量が大事なのか。
データに意義があり,同時に効率的(持続可能)であることが必要。

専門家であれば,「このぐらいか」という見通しは立つ。
しかしそれを解説するだけではなく,データを取得して示す。
結果が事前の予想通りであったとしても。

たとえデータが示したとしても,気分はその通りにはならない。
客観的なデータはさておき「私」についてのデータを欲する。
(直接観測がもっとも確かな証拠であることは科学でも同様)




避難指示は,国家による人権の制約でもある。
避難解除の指針が曖昧(数値に基づかない?)
当事者の判断に委ねるのは愚策。コミュニティの分断を助長。
避難指示で国家が介入したなら,避難解除についても国家が判断すべき。




【教訓を教育に反映する?】

安全:理論に基づく理解,データの取得と解析,客観的データ解釈
→自然科学教育。放射性物質や地質学の理解に矮小化しない。

安心:安全理解に基づく個人の判断。
→メタ自然科学教育。科学とは何か。科学のできること・できないこと。

社会:コミュニティ・コミュニケーション
→人文社会科学教育。他者の安心(不安)への眼差し・振る舞い。異文化理解。
→ボトムアップで出来ることをやる(トップダウンでしか出来ないこともある)




「子供を産めるかどうか、生徒から聞かれたらですか? 答えは躊躇なくイエスです」https://www.buzzfeed.com/satoruishido/hayano-san-01?utm_term=.tbL4DOMq2#.jlQ7OxG2j

「科学的に合理的なことが、社会的には合理的ではない。こんなことは現場に山ほどあるわけです」
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/hayano-san-02?utm_term=.aho0VPgRe#.sij3BEpZ8
ここ3ヶ月ぐらい蛇紋岩海山の観測値をどうやって解釈したら良いかずっと悩んでいた。ああでもないこうでもないと。それで「だいたいこれで説明できるかな」というモデル,というか仮説を編み出した。でもそれが本当にあってるのか,そんなことが起こるのか,いまいち確信が持てず,どうやって仮説をサポートしたら良いのかと。

それで旧所属の議論好き兄さん達にメイルした。そしたらすぐに返事があった。ドンピシャだった。での返信メイルの中にまだイマイチわからないことがあったので「それって,どういうことっすかね?」と聞き返した。そうするとまた返信がくる。どんどん理解が進んでいく。最終的には「ぱっと計算したら確かめられるけど?」「お願いしまっす」ということに。ばっちりOKっぽい。

やはり「議論」は大事だなぁと。
かつてブログにまとめたことを思い出した。

『議論が出来ない』http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20140320/

プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
ブログ内検索
カレンダー
06 2017/07 08
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 8
10 12 13 15
16 17 18 19 20 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
アクセス解析
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) kawagucci's Weblog All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]