自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
会社と個人の幸せな関係というのが何なのか、そんなことがありえるかどうかはわからないけども、ここ最近、ボクと弊所の関係はとても良いものになっていると感じている。もちろんそれは、この2年間で、ヒラ研究員から副主任研究員を経て主任研究員になったり、自分から申し出た所内異動なのに行った先で管理職になったり、そういう目に見える身分として評価が表れてきたことと無関係ではない。でも、それだけでもない。
人事面接で会社側から「キミを雇うことで弊社にどのようなメリットがありますか?」という内容の問いかけを受けたことがある。1回目の定年制移行審査です。6年前。色々とイライラして、やりたいことやって、落ちた時です。
ボクがあの時に思ったのは「(社会における弊所の価値を理解していない上に、弊所におけるボクの価値も認識できていない)お前らなんかが最重要事項たる人事を決めるな」ということ。思ったというか、そういうことを話した。「社会がこの状況で、アンタらが今やってる施策がコレなのに、何をエラそうに選ぶ側の顔してそこに座っとるんじゃ!」と。実際は、興奮してたので全然まとまってなくて、ただ文句を言って終わったんだけど。
〜〜〜
『会社』と『会社側の人間(経営者)』は同一ではない。ボクはこの『会社』を愛しているし、ボクと会社の関係は本当に良いものだと思っている。だけどあの時、ボクと『会社側の人間』の意見は一致していなかった。ボクからすれば、『会社側の人間』で、この『会社』が世界にとってどのような存在か、どのような存在であるべきか、そのためにどのような人物が『会社側の人間』としているべきか、ということを煮詰め切れていないとしか思えなかった。
いま、ボクの中で「JAM$TECが社会においてどのような存在であるべきか」ということが十分に煮詰まった。法人としてのアイデンティティ。そして、そのボクの中で煮詰まった法人のアイデンティティから見て、ボクという個人には、それを実現するに足る十分な価値が備わっていると確信している。もっと踏み込めば「ボクという価値の利用なくしてJAM$TECは理想のアイデンティティには到達できない」という大いなる勘違いさえ抱いている。ボクにとってボクという価値が最大化される場所がJAM$TECであり、JAM$TECにとってボクという価値が必要不可欠なのだから、こんなに幸せな関係はない。恋は盲目。
「大学教員にならないの?そっちの方が向いてるのでは?」と言われることがある。ボク個人の資質だけで言えば、大学教員でも国研研究員でも、どちらでも構わないのだと思う。翻って、ある大学から見て、採用する教員としてボクでなくてはならない理由があるかというと、そうでもないはずだ。ワンオブゼム。そこに身を置いて、ボクは幸せだろうか。
実態として存在する駒としてのボクと、ボクという駒を持っている指し手としてのボクがいる。指し手としてのボクが「この駒はココに置くべし」と考える場所。まさにその場所に、今のボクは置かれている。『殺し合いの螺旋から降りる』と決めたのは、自身の駒としての自由度を高め、奇抜な打ち手を実現できるニュートラルな位置に置いておきたかったから、と解釈できるかもしれない。こういうことは、自分でもよくわからない。
〜〜〜
『帝王学』ということをずっと考えてきた。一騎当千の兵士が、千人軍の将軍に向いているとは限らない。兵としての資質と、将としての資質は、似て非なるもの。帝王学で作られた将の「民の声を聞く」態度と、現場あがりの将の「民の声を聞く」態度とは、やはり位相が違うだろう。
血脈や出自などの「正統性」が存在しない世界だけど、それでも叩き上げではなく、帝王学によって『会社側の人間(経営者)』を作ることは出来るんじゃないだろうか。すくなくとも「正当性」だけに任せていると縮小再生産に陥ってしまいがちなことは、今の日本社会が示している。キングがいてこその、ピープルズ・チャンピオン。ヒールがいてこそのベビーフェイス。
そんなわけで(?)、ボクはセルフ帝王学によるショートカットでヒールとしてのキングになろうと考えている。なんだかよくわからない話だけども。ずっとピープルズ・チャンプを身近で見てきて、その正当性ゆえの輝きと、玉座に近づいてなおピープルズ・チャンプであり続けることの困難と、その困難の一端がキングの不在に起因することと、そんなことをヒシヒシと感じている。
イメージとして一番しっくりくるのが、原辰徳なんだよね。正当性と正統性がどっちも中途半端で、長嶋にも王にもなれなくて、でもそこを超越して、謎ポジションを確立している。アレは、若い頃から球界のプリンスとして叩き込まれた帝王学と、プリンス扱いゆえの孤高な苦しみを克服するセルフ帝王学との、両方で出来ているんだと思う。マツイは逃げたし、ヨシノブは耐えられなかった。アベも無理だろう。
人事面接で会社側から「キミを雇うことで弊社にどのようなメリットがありますか?」という内容の問いかけを受けたことがある。1回目の定年制移行審査です。6年前。色々とイライラして、やりたいことやって、落ちた時です。
ボクがあの時に思ったのは「(社会における弊所の価値を理解していない上に、弊所におけるボクの価値も認識できていない)お前らなんかが最重要事項たる人事を決めるな」ということ。思ったというか、そういうことを話した。「社会がこの状況で、アンタらが今やってる施策がコレなのに、何をエラそうに選ぶ側の顔してそこに座っとるんじゃ!」と。実際は、興奮してたので全然まとまってなくて、ただ文句を言って終わったんだけど。
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『会社』と『会社側の人間(経営者)』は同一ではない。ボクはこの『会社』を愛しているし、ボクと会社の関係は本当に良いものだと思っている。だけどあの時、ボクと『会社側の人間』の意見は一致していなかった。ボクからすれば、『会社側の人間』で、この『会社』が世界にとってどのような存在か、どのような存在であるべきか、そのためにどのような人物が『会社側の人間』としているべきか、ということを煮詰め切れていないとしか思えなかった。
いま、ボクの中で「JAM$TECが社会においてどのような存在であるべきか」ということが十分に煮詰まった。法人としてのアイデンティティ。そして、そのボクの中で煮詰まった法人のアイデンティティから見て、ボクという個人には、それを実現するに足る十分な価値が備わっていると確信している。もっと踏み込めば「ボクという価値の利用なくしてJAM$TECは理想のアイデンティティには到達できない」という大いなる勘違いさえ抱いている。ボクにとってボクという価値が最大化される場所がJAM$TECであり、JAM$TECにとってボクという価値が必要不可欠なのだから、こんなに幸せな関係はない。恋は盲目。
「大学教員にならないの?そっちの方が向いてるのでは?」と言われることがある。ボク個人の資質だけで言えば、大学教員でも国研研究員でも、どちらでも構わないのだと思う。翻って、ある大学から見て、採用する教員としてボクでなくてはならない理由があるかというと、そうでもないはずだ。ワンオブゼム。そこに身を置いて、ボクは幸せだろうか。
実態として存在する駒としてのボクと、ボクという駒を持っている指し手としてのボクがいる。指し手としてのボクが「この駒はココに置くべし」と考える場所。まさにその場所に、今のボクは置かれている。『殺し合いの螺旋から降りる』と決めたのは、自身の駒としての自由度を高め、奇抜な打ち手を実現できるニュートラルな位置に置いておきたかったから、と解釈できるかもしれない。こういうことは、自分でもよくわからない。
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『帝王学』ということをずっと考えてきた。一騎当千の兵士が、千人軍の将軍に向いているとは限らない。兵としての資質と、将としての資質は、似て非なるもの。帝王学で作られた将の「民の声を聞く」態度と、現場あがりの将の「民の声を聞く」態度とは、やはり位相が違うだろう。
血脈や出自などの「正統性」が存在しない世界だけど、それでも叩き上げではなく、帝王学によって『会社側の人間(経営者)』を作ることは出来るんじゃないだろうか。すくなくとも「正当性」だけに任せていると縮小再生産に陥ってしまいがちなことは、今の日本社会が示している。キングがいてこその、ピープルズ・チャンピオン。ヒールがいてこそのベビーフェイス。
そんなわけで(?)、ボクはセルフ帝王学によるショートカットでヒールとしてのキングになろうと考えている。なんだかよくわからない話だけども。ずっとピープルズ・チャンプを身近で見てきて、その正当性ゆえの輝きと、玉座に近づいてなおピープルズ・チャンプであり続けることの困難と、その困難の一端がキングの不在に起因することと、そんなことをヒシヒシと感じている。
イメージとして一番しっくりくるのが、原辰徳なんだよね。正当性と正統性がどっちも中途半端で、長嶋にも王にもなれなくて、でもそこを超越して、謎ポジションを確立している。アレは、若い頃から球界のプリンスとして叩き込まれた帝王学と、プリンス扱いゆえの孤高な苦しみを克服するセルフ帝王学との、両方で出来ているんだと思う。マツイは逃げたし、ヨシノブは耐えられなかった。アベも無理だろう。
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