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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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この一ヶ月,
プロジェクトの国内留学で学生を指導したが,
やはり学生の指導は難しい

今回は学生の方からボクを指名してきたこともあって,
・院生は研究者とみなす
・研究者としてやっていけるだけのクオリティを求める
・研究者哲学のようなモノも伝える
という,
自分が「かくあるべき」と思う方法,
つまりはもっとも厳しいやり方で指導をしてみた

ちなみに,
去年からちょいちょい指導している学生の方には,
・(修士卒後就職なので)研究者としてのクオリティは求めない
・修論が書ける程度に実験が進行すれば良い
・哲学的な話は無しでビジネスパートナーとして接する
ぐらいのスタンスでやっている

で,厳しく指導した方だが,
やはり厳しすぎたようだ

最後の方は完全に萎縮してしまっていて,
物事の判断基準が「怒られるかどうか」になっているように見えた
短期的にはこれも成長の糧になるかもしれないが,
たとえば修士の二年間,このストレスに耐え続けることはできないだろう
と考えると,
今回の指導法は失敗だったと結論するべきかもしれない

今回ボクが徹底したことは,
・ボクの方から結論を示さないこと,
・学生の考え方に「なぜそう思うの?」と問い続けること,
・学生が主体的に決断したことは否定しないこと,
だった
ところが学生の方は,
「意見を聞く」と「指示を仰ぐ」の区別が難しいようで,
ほとんどが「指示を仰ぐ」状態になってしまっていた
つまりボクは結論を示さないし,
学生は自分で結論を出して行動しないという,
宙ぶらりんな状況が続いてしまった

「何かをしていたい」タイプの学生にとっては,
「何かをする前に,それは本当にすべき事か考えなさい」という指導は,
手足を縛られたようなもので,
相当にストレスフルだったと想像される

「何かをしていたいタイプ」の学生指導にあたっての考え方としては,
「とにかく色んなことをやらせて,その中でおいおい考えさせる」
という方向性もあるだろう
簡単に言ってしまえば,
本人が得意な方法を採用する「褒めて伸ばす」タイプの指導

でもボクは,
それはあまり教育的でないと考えた
理由はいくつかあるのだけども,
「主体的に判断し,責任を持って行動する」ということを,
明確に意識・自覚させることを重視した

その意図としては,
小学校から続いてきた学生生活と,
社会人になっている年齢である大学院生活を,
「明確な断絶」としてとらえ認識させることを重視したわけである

今回の学生さんは「優秀な子供」ではあったが,
まだ「大人」と呼べないように感じた
(それはほとんどの学生さんに同様に感じるのだけれども)
それはやはり,
「主体的に判断し,責任を持って行動する」という習慣がないからだろう
どこか「指示待ち」だったり,
「こうすれば良いんですよね?」という顔色伺い感だったり,
そういう言動が多かった

もちろん勝手な言動で周囲に迷惑をかける「ダメな子供」は論外だけど,
大学院を出る頃には,
「優秀な子供」から脱却して「大人」になっていてほしいと思うし,
それこそが高等教育機関たる大学が担う教育なのだと考えている

彼自身が教育効果(って言葉は嫌いなんだけど)を実感するのは,
むしろ彼が本籍校に戻った時だろう
本籍校でこれまで一緒に過ごしてきた友人とあった時に,
彼が何を思い,何を感じるか
その時に,
今回の教育効果が明確に現れるだろう
(それが良い方向か悪い方向かはわからないけど)


今回のことは,
もう少しゆっくりと反省して,
あらためて考えたいと思う

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他人の研究の目標を聞いて、
「え、それでおしまい?」って思うことが、
最近増えてきた

翻って自分が最近何を考えてるか思い出すと、
もはや自分一人の手では到底負えないような、
時空間的・分野的に広いことばかり考えているな、と
「地震生命圏」も「ナマステ計画」も、そんなスケールの話

要するにヴィジョン先行型で、
具体的な個々の部分をどうやっていくかってのは、
もちろん筋道的なものは持っているんだけど、
それを実際に実施するのが自分であるとは思っていない
そんな状態にある

もちろん、自分では自分の研究をしているのだけど、
たとえば自分とその研究室ぐらいのスケールでやっていたのでは、
到底ヴィジョンを具現化できない
だから良い意味で徒党を組んで取り組むのだし、
ボク自身そっちの方向性の方が性格的に合っている気がしている

ただ、
ボクみたいなポスドク3年目、29歳のぺーぺーが、
壮大なスケールの研究計画を語ることについて、
ちょっとヤベーんじゃないか、と思わないこともない
そう感じる部分があるせいで、
外で話す時にブレーキがかかっていたのかもしれない

でも、昨日話していてスッキリした
やれば良いんだ、と

自分の中で完全なるロジックが組み上がっていなくても、
あるいはキチ○イ呼ばわりされようとも、
「ここがゴールだよ」という話でなくて、
「この方向性の先にゴールがあるだろうよ」というような、
そういう話もしていかねばならないだろう

ボクの脳内にある科学のヴィジョンを、
何もボクが生きている間に成し遂げられるサイズに矮小化する必要はない
むしろ科学のためを思えば、
より多くの人を巻き込んで、
特にまだまっさらな若者にヴィジョンを見せることが、
より良い科学の発展につながるのではないか
(別に発展させたいわけじゃないんだけどもね)
もっと言うと、
「それは短期的には良いかもしれないけどさ・・・・」と思う研究に対して、
オープンな場で、
そう伝えることも、あるいは軋轢を生むかもしれぬが、
必要なことなのかもしれない

そしてそれは、
「あの人はあの時代に、すでにこんなことを考えていたんだね」
という形で評価されるのではないか
(別に死んでから評価されたいわけでもないです。できれば生きている間に・・・)

業績至上主義の昨今の風潮から、
研究をスタートするにあたって、
「プロジェクトの明確なゴール」を見せて研究に取り組むことがもてはやされ、
むしろそれが「良い科学」と考える向きが支配的になってきているが、
その「ゴールの向こう側」に何も無いのであれば、
そんな研究は長い目で科学を見た時にはチッポケな話に過ぎない

むしろ、
「明確なゴール」は無いけども、
「深遠で抽象的なゴール」と「それに向かう明確なディレクション」のような、
そういう研究プロジェクト(研究費的な意味でなく)を発信していかねば

ボクが妥協するということは、
無限の可能性を秘めた無数の若者の芽を摘むことかもしれず、
そう思うと、
もう少しがんばれる気がしてくる

ということで、
気を入れ直してがんばります

ボクは研究では無いところに強い関心があって、
それを達成するためにプロ研究者をやっているから、
「(やりたい研究をしたいがための)手段としてのプロ研究者」ではないが、
「(やりたいコトをしたいがための)手段としてのプロ研究者」ではある
手段としてのプロ

研究者が論文を書くのは、
表現なのか自己表現なのか
表現と自己表現は違う

「せっかくドクターを取ったんだから」って、
一見すごくもっともらしいけど、何の理由にもなってないよね
残虐な回答

研究者は職業的専門家であるから不断の自己批判が必要ということになる
また、
研究内容のみならず、
いや、
むしろ研究者個人についてこそ、
専門的知見・職業的規範に対する厳しい直接的な相互批判が必要ということだろう
社会的共通資本としての研究(者)

アメリカ滞在中に、いわゆるテクニシャンと触れたが、
彼らは完全に月-金の9-17しか働かないで余暇を満喫しているし、
自分の得意な作業をすることで周囲から尊敬を集めているし、
先端の研究に携わっているというプライドみたいなものを帯びていた
そういう生き方も、
学位取得者の生き方として、
ありっちゃありだな、と
ターニングポイント

「研究をあきらめること」と「人生をあきらめること」は全く違うということ
あと、
「人生には研究以外にも、まだ見ぬステキなことがたくさんある」ということ
理科・科学・研究

今の科学はあまりにも細分化し過ぎていて,
今の科学の先端を行こうとすると,
あまりに多くのことから目をそらさなければならない。
そんな行為が,本当の意味で,
人類の役に立つとは,到底思えないのです。
知識人としての科学者を目指す

研究者の場合は、
誰も引導を渡してくれないので、
引き際は自分で決めなければならない
研究者の引き際

研究者ってのは、
プロスポーツ選手とある意味では一緒で、
腕を買われて給料をもらい、
その実力を発揮することで雇用継続を獲得し、
さらなる活躍で栄転・昇級を勝ち取る

しかし違う点もある
研究者は一定の評価を得ると、
あとは衰えようが、実力が足らなかろうが、
定年までの雇用が保障される
(そういう人には保障という言葉がぴったり)
もちろん最後の最後まで実力をのばし、
研究の最前線に立ち続けることも出来る

でも他のプロ稼業は違う
例え一時期、短期的に爆発的な評価を得ても、
実力が伴わなければ淘汰され、減給され解雇に至る

というようなものが見えてきた時、
若手研究者に芽生えるのは、
「なんとか「保障」までがんばろう」
「たぶん「保障」を得るところまでなら何とかなるだろう」
ということ

しかし、
それって本当に意味のあることなのかな、
そこまでしてシガミツクほど、プロの研究者って価値があるのかな、
と思う

ここでもう一度プロスポーツの世界を見てみると、
たとえばモリーニョは選手としては大成していないが、
監督としては世界一と言っていい地位にある
(この例は枚挙にいとまがない)

それ以外にも、
20代前半でプロ選手としては解雇されながら、
その後ブルペン捕手や打撃投手に転向し、
多くの一流選手を送り出した人達もいる
さらにブルペン捕手から再度プロ選手になった人もいる

もう一つ、研究者とプロスポーツとの違いは、
研究者には支配下選手の枠がないこと
このせいで(このおかげで?)、研究者の場合、
「薄給でもいいので雇ってください」
という泣き落としのような芸当が可能で、
比較的容易に(?)雇用を継続してもらうことができる
そうこうしているうちに40代に突入しも、
「それでも好きな研究をしていられるから、ボクはそれで良いんだ」
なんて言うことすらも、ある種、美徳のように受け取る人もいるぐらいで、
何とも牧歌的というか、他人に関心が無いというか・・・

話がだいぶ逸れたけども、
要するに、
研究者の場合は、
誰も引導を渡してくれないので、
引き際は自分で決めなければならない

そう自分に言い聞かせ、
ボク自身、
「もうダメだ」
と思ったら、
業界を去る覚悟です


世の中がアンチに溢れていて、
なんだかシンドイ

アンチには、すぐになれる
だって、何かがあって、
「それには反対です」
と言えばいいだけなのだから

でもオルタナティブは違う
ある意見・見解があって、
それに対して、
その論点を理解した上で、
異なる方向性に価値を見いだすようなもので、
それは元の意見・見解を否定するものではないし、
見かけ上、あるいは意見の中身として対立したとしても、
その目的とする方向性は共有している、とも言える

それはさておき、
ワークライフバランス(WLB)って言葉が盛んに使われていますが、
ボクはこれにちっとも共感できない
WLB派閥(があるのか知らないけど)に対して、
嫌悪感すら抱いてしまうことがある
それは、
なんとなくだけど、
ワークとライフを利益相反するものとしてとらえて、
その間の落としどころでバランスさせようと考えているように、
ボクには思えてしまうから

でもワークとライフって、
そもそも対立軸じゃないし、
もっと言うと、
ほぼ同義なものだと思う
ワークとライフは同じモノなんだから、
そもそもバランスさせようがない
(だって同じなんだもの)

ワークとライフが、
お金を食い合う関係とか、
収入と支出だとか、
時間を食い合うとか、
そういう考え方自体が、
なんかもう、シンドイ

まぁそんなことが言えるのも、
こんないい加減な仕事をしてるからだし、
もっと言えば、
WLB的な仕事をしたくないから今の仕事をやってるわけで、
そもそもWLBには近寄らずに生きれば良いのかもしれない

でも、
ボクはこのままいけば人の上に立って、
組織をドライブしていかねばならないわけで、
そうなった時に、
社会の中の多様性とか、
マイノリティに対する視線とか、
そういうものは持ち合わせておくべきだし、
それが出来るのがボクの特性でもあるわけだから、
そこはそことして、
ちゃんと考えていかねばならないと思うわけです

つまりは、
WLB的な考え方をする人も、
ジブンにとってのオルタナティブであるわけで、
ん、ちがう
むしろWLB的な考えをする人のオルタナティブがジブンの立ち位置なので、
相手とジブンのバランスみたいなものを、
どこかに見出しておかねばならないね、という話
じゃなかったけど、
そういうことにして、今日はこれでオシマイ


ORIサッカー部の時もそうだったのだけど、
昼休みのサッカーには色々と思うところがある

毎日の昼休みのプレイを、
試合ととらえるのか、
練習ととらえるのか、
単に娯楽ととらえるのか

このあたり、セル爺の言う、
「日本にスポーツ文化がない。あるのは競技文化」
って指摘がまさに的を射ていると思う

要するに、
昼休みにサッカー好きが集まってやるサッカーを、
すぐに「競技」にしてしまう、
あるいは「競技」と捉えてプレイする人が、
結構多いということ

たとえば、上手い人にありがちなんだけど、
「ボール扱いが拙い人」にはパスしないとか、
「自分で持って持って持って、最後の最後にラストパスを狙う」とか、
そういう、
「まぁあんたが一番上手いから、そうすれば勝てるけどさ」
ってオナニープレイをして、
はたしてそれは「サッカーを楽しんでいる」と言えるのだろうかね

ボクは、
サッカーというゲームの枠組みの中で、
各々が「サッカーを楽しんでる」という実感が持てる範囲で、
「プレイに参加」できれば、それ以上は何もないと思う
もちろん勝てばより楽しいけどもね
そしてそれが「スポーツ」なのだと思う

各々の技術と体力の差を踏まえて、
それでも皆がゲームに参加しながら、
快適に「スポーツ」をしている実感を持てれば、
ボクはそれで良いと思うのです

特にサッカーはチームゲームなので、
味方と連動している実感がうまれる瞬間に、
「スポーツとしての醍醐味」があると思っているし、
「競技として勝利を追究」する時にもこれは重要な条件だと思う

だから、
「個々の力量」が「局面」や「試合の勝敗」をわけるような、
そんなサッカーをしているうちは、
サッカーというものを健全に楽しめていないのではないか、
とすら思うわけです

「個々の力量」が問われるのは、
フィールドの22人の力量がハイレベルで均一で、
両チームがよくオーガナイズされている場合に限られる
トラップもおぼつかない人が大勢いて、
試合の流れを読む眼が無い人が大半でって中で、
パスの精度とか、
ドリブルの優劣とか、
接点の激しさとか、
そういうものを求めても、ぶっちゃけ意味がない
そんな中で「個人の力量」を発揮してゲームを支配しても、
ぶっちゃけ、やってる方だって楽しくないだろう
(いや、楽しいからやってるのか!?)

そういう所を求めるんじゃなくて、
まずは、まず初めに、
チームとしてこういうプレーをしよう、というような、
共有できる方向性のようなものを持って、
それの実現に向けてプレイすることが、
結果的に昼休みを快適に過ごすことができるんじゃないかな

それはたとえば、
「ゲームの流れの中でワンタッチパスを三回回してみる」でも、
「とにかくロングをトップにあてて他の人はサポートする」でも、
「好き勝手に攻めるけど、守備ではちゃんと戻ろう」でも、
何でも良いのだけどね
とにかく個人の力量が問われない範囲で、
サッカーというモノを楽しめる方向性を、
サッカーというモノがわかっている人が提示することが、
ひいては皆がサッカーを楽しみ、さらに上達する道筋なんじゃないかな

はじめっから高いレベルで良いサッカーをして勝利したいなら、
つまり「競技」としてサッカーを楽しみたいなら、
そういう場に出ていってやれば良い
それがすごく楽しいことはよくわかる
でも、昼休みのサッカーにそれを持ち込むのは、断固反対

昼休みのサッカーは「スポーツ」なんだよ


社会に対する自分の役割というのは、
社会からの自分に対する要請、
というと具体的な他者が「あれせい、これせい」と言うようだが、
そういう意味では無く、
もう少し運命的というか使命的というか、
「この時代のこの国に、
 このような才覚を持ってうまれた自分にとって、
 こういうような仕事を成すことが、
 自分にとっても社会にとってもベター(ベスト)である」
というような、
そんな「自分の社会に対して成すべき仕事」のようなものが見えてくる
いや、
それさえも自分の思い込みでしかないのだが、
そのように感じることが増えてきた
もう少し踏み込んだ言い方をすると、
「自分はコレをするために産まれてきたのだ」
というような、
ある種の宿命を感じる瞬間が、
ここ最近になって増えてきた

ボクは幼少期に色んなことを感じ、
二つの大学でそれぞれ違うことを学んできたわけだが、
それは何となくバラバラで、
あるいは自分の中で矛盾したり衝突したりする想いをうんだが、
今の上司の下で働きはじめて、
それが突如として開花するというか、統合できたというか、
仕事(人生)の何か目的のようなものに向かう方向に収斂している、
そんなように感じている

ただ、
この今感じている宿命的な仕事(人生)の方向性を自ら信じ、
ただこの方向に向かって突き進む時期がきたととらえるか、
もっと経験を積んで研鑽を重ね、
また違う方向性を打ち出していくための肥やしの時期とするか、
その辺りは判断がつかないし、決断がつかない部分もある

とはいえ、やはり、
「自分探しの旅」のようなものは、ある意味で終わった段階なのだろうな、
という想いの方が強い
今はこのギフトを信じ、活かしていくことが、
ボクの人生なのだと思う
それについて不満は何も無い
やるべきことはヤマのようにあるし、
手を抜くわけでも、落ち着いて休んでしまうわけでもない
方向性が決まってきただけ、努力を怠ってはいけないことにかわりはない
努力、怠りがちなので・・・


10/3から鶴洋丸航海
この調査は昨年度からの宿題
ちゃんと調査すれば結果が出そう
昨年はゲロったけど、
今年は乗り切った
ワタシの勝利である

続いて京都で微生物生態学会
まずヒラタさんのところにお邪魔してラボ見学
具体的、あるいは観念的なアドバイスを多数もらう
こういう元気なオヤジさんがいるのは、
うちらの業界にとって、本当にポジティブだ

続いて若手シンポジウム
AORIに移ったイワサキさんなど
特に感想は無し
夜の会は二次会以降で、
ヨシザワ・イワサキに加え、愛媛のナンタラさん
部屋に帰って寝たら2時だった
四条大宮の東横イン

朝からパワポを再修正して会場入り
SUGARの面々の発表
ブーマナさんのやらかしを堪能
ミヤジュンの結果は面白かったので、
ツッコミどころを修正すれば良い形に仕上がるのではないか

お昼は京大生がデートに使うという定食屋
スナ爺さんと子供の話なぞ
その後ポスター会場に行くも混雑しているのと、
あまり面白くなかったのとで早々に口頭会場へ

また直前がタカイさんだったのでネタかぶりを恐れたが、
今回はお互い特にネタをいれ無かったので大丈夫
発表している間はあまりリアクションがなく、
質疑でも同業のサトウさんのみ
かと思ったら、
座長のナカノさんが「よくぞ聞いてくれた」という質問
ちゃんと回答して終了

夜はタカイさん他SUGARの面々と高級気味な焼肉、美味
22時頃に解散したので宝塚へ引き返そうと思ったが、
某女史との対面の場がセットされるということで、実家はキャンセル
ワインなぞをかたむけながら、中身が無い話など
夜は流浪の民となったところを救出され朝までまったり飲み

そのまま朝イチで阪急に乗って8時頃に実家着
すぐ寝て12時起き
実母とお話をして、高校同期のウッチャンと会って、
JRで京都、そこからバスで京大農

懇親会では4人も、
「昨日の発表面白かったです。質問いいですか?」
があった
静岡のKK教授なども
実りある発表だったようで、こちらとしても嬉しい限り

懇親会後は約束通りのカラオケ
久々にたくさん踊った
ヨシダンナは強烈
ミヤジュンはステキ
その後はジャズバーなどに寄ってから若手集会に顔を出す
調子に乗っていたヤナガーを撃沈して、
4時頃に宿で仮眠
朝イチの新幹線で帰京

この一週間、ヘロヘロでしたが、楽しかったです
充実した毎日ですね
体が心配です
エクセルでプロットを作って、
それをコピペでイラレにうつして、
そこでシコシコと調整作業
かなりメンドクサイ

以前はSigmaPlotなるものを使っていたが、
これはこれで、高いし、
使っている人が少ない
OSをまたぐとソフトを2つ買わねばならないので、
やはりMSオフィスとAdobeイラレというのは、
便利と言えば便利な組み合わせではある

しかし、メンドクサイ
なんか良い方法は無いかなぁ


研究のオリジナリティってのは、
どういう風に評価したら良いんだろうかね
そんなことを札幌で考えさせられました

たとえば、
「ポスドク」と「出身ラボの指導教員」の間で、
アイデアが重複した場合、
これのオリジナリティはどちらにあるんでしょうかね

特に卒論から一貫して指導を受けていたりすると、
「研究上の思考法」自体が指導教員によってたたき込まれていて、
結果的に、
同じ課題に目をつけ同じようなアプローチをして、
得られた結果を同じように解釈してしまったり、
そういうことは、大いにありえることなんだろうと思う

実験自体からポスドクで移ったラボではじめて、
装置や器具などはすべてポスドクのラボのものを使って、
その間、指導教員とは一切連絡をとっていなくて、
結果を出して考察して論文を書き上げる
元々のテーマ自体も自分で発想したつもりでいる
でもその発想の根幹は、
無自覚であっても、
きっと指導教員のモノであろう
だってその人からしか指導を受けたことが無いんだから

こういうケースでは、
はたしてこの論文は「パクリ」なのだろうか
あるいは「パクリだ」という告発を受けた場合、
どうやって反論ができるのだろうか

指導教員が、
「私は君が学生の頃、このアイデアを話したことがある。
 ゆえに君のこの研究は私からのパクリである」
と言ってきた場合、
はっきりと反論できる材料など存在しない

こうした「指導教員の呪縛」を逃れるには、
もはやまったく異なる研究分野に移るしかない
でもそれでは研究の連続性も発展性も無くなってしまう
ポスドクになってから、出身ラボとまったく関係ない、
たとえば論文を書いても引用する範疇に指導教員がいないような研究を、
一からはじめるというのは、
はっきり言って無理がある
もしそのようなことを(意図せずとも)強要するのであれば、
それはまさにパワハラと呼ばれるものだろう

これとは別に、
学会発表で聞いたアイデアで、
その工夫を利用して論文を書くとする
これはパクリなのだろうか
こういうケースを想定する場合、
学会発表をどういう位置づけにするかが重要なわけだが、
誌上発表と同等の意味があるとすれば、
学会発表要旨であれ引用するべきだろう
学会発表に誌上発表ほどの意味がないのであれば、
引用することはできないかもしれない

では引用してもらえないにも関わらず、
なぜ学会発表をするのだろうか
それは自分の研究やアイデアを知ってもらいたいからではないか
そうして発表した内容について、
「あれはまだ論文にしてないのに、発表からアイデアをパクられた」
というのは、いかがなものか
だったら発表しなきゃ良いじゃないか
もし学会発表はクローズなものであり、
そこで見聞きしたモノはすべて忘れなければならないのであれば、
学会発表自体、何の意味もないことになる

ということで、
そうやって文句を言ってしまいそうな人は、
論文にできるメドのたっていない研究は学会発表すべきではない
あるいは発表するのであれば、
その内容についてどこかで論文になってしまっても文句は言わない
そういう態度であるべきではなかろうかと思う

自分が近い将来、指導教員になることを考えると、
やはり学生さんには学会発表なんかは経験させてやりたい
なので、
発表する以上はただちに論文化するよう頑張らせるし、
それが間に合わないで「パクられた」と感じることがあっても、
それは発表してしまったコチラに非が(非でもないけど)あるわけで、
それはそれで、仕方無いと思うしかない
そういうスタンスで学会発表をすればいいと思う

研究コミュニティってのは色んな部分が性善説で動いている
しかしその意味を間違えてはいけない
「パクらない」協定を結んだような性善説よりも、
「パクったんじゃなくて参考にした」と認めあえる性善説の方が、
学術の発展に寄与するだろう

研究行為はオナニーであっても良いけども、
研究成果をオナニー的な快楽に貶めてはいけない
「巨人の肩の上に立つ」である

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kawagucci
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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