自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
学術誌のオープンアクセス・オンラインジャーナル化は今後も続くだろう。
これまでは「学術誌はどうなるか」という視点でこの話題を考えたが,
今日はこの流れの中で「論文・査読はどうなるか」ということを考える。
あんまりはっきりしないので,手短に。
オンラインジャーナルでは年間ページ数に制限がないため,
もうすでにPLoS ONEなどが先行しているが,
とにかくたくさんの投稿を受け付けて掲載するということが可能である。
誌面に限界が無い状態での受理する論文の本数は,
投稿数と査読スピードに制約される。
オンラインジャーナルでは「投稿料」ではなく「掲載料」を設定していて,
著者側にとっては投稿段階ではリスクがないので,
雑誌の知名度さえあれば投稿数については自然と伸びるだろう。
さらに現在は多数ある雑誌もメガジャーナルへの統廃合が進むだろう。
(この辺りはコチラに詳しい)
となると問題は査読スピード。
PLoS ONEなどメガオンラインジャーナルでは,
「データクオリティについて査読審査はするけども,
議論の内容に関しては査読では無く掲載後の読者に判断をゆだねる」
という態度をとっている。
現時点では,査読者側がまだこのシステムに馴染んでいないせいで,
従来のジャーナルと同じテンションで査読をしているかもしれないが,
データクオリティのみ審査という方式は本来査読者にとって望ましい方向で,
(査読はボランティアなので労力が少ない方が好ましい)
どんどん浸透していくのだと思う。
つまり査読スピードを得るために「軽めの査読」が導入されるということ。
ここまでをまとめると,
・世に流通する論文数が増える(誌面の制約がないから)
・議論の短縮(議論が不足していても論文は掲載されるから)
・議論の質低下(トンデモ議論でも査読を通過するから)
辺りが考えられる。
ここでの短縮や質低下は,
あからさまに目に見えるほどの程度でなくて,
検出できない程に微弱な程度で少しずつ進行すると思われる。
(査読者の査読態度が新システムに馴染む速度にあわせて)
この流れが進むとどうなるか。
このシステムの歪みが襲いかかるのはまず読者だと思う。
・論文数が膨大ですべてに目を通すことができない。
・雑誌の名前で読むべき論文の値踏みできない。
・議論の質が保障されていないのでより注意深く読まねばならない。
読者としての研究者がこのような気持ちになると,
その人が著者に転じた時に同じ問題の裏返しが襲いかかる。
・どうせ目を通してもらえない。
・自分の論文の価値を伝える手段がない。
・誤った議論を公表してしまうリスクから執筆がより慎重になる。
こうして論文は,
「ほとんど議論がない結果報告論文」と,
「大きな飛躍のある議論を展開する論文」と,
二極化が進行するだろう。
後者の「大きな飛躍」は,
良い意味(科学が前進する)と,
悪い意味(論理破綻したトンデモ)とがあり,
どうなるかはわからないが,
どちらかというと悪い意味の方が目立つ世界になると予想される。
さて,どうなることやら。
Tweet
これまでは「学術誌はどうなるか」という視点でこの話題を考えたが,
今日はこの流れの中で「論文・査読はどうなるか」ということを考える。
あんまりはっきりしないので,手短に。
オンラインジャーナルでは年間ページ数に制限がないため,
もうすでにPLoS ONEなどが先行しているが,
とにかくたくさんの投稿を受け付けて掲載するということが可能である。
誌面に限界が無い状態での受理する論文の本数は,
投稿数と査読スピードに制約される。
オンラインジャーナルでは「投稿料」ではなく「掲載料」を設定していて,
著者側にとっては投稿段階ではリスクがないので,
雑誌の知名度さえあれば投稿数については自然と伸びるだろう。
さらに現在は多数ある雑誌もメガジャーナルへの統廃合が進むだろう。
(この辺りはコチラに詳しい)
となると問題は査読スピード。
PLoS ONEなどメガオンラインジャーナルでは,
「データクオリティについて査読審査はするけども,
議論の内容に関しては査読では無く掲載後の読者に判断をゆだねる」
という態度をとっている。
現時点では,査読者側がまだこのシステムに馴染んでいないせいで,
従来のジャーナルと同じテンションで査読をしているかもしれないが,
データクオリティのみ審査という方式は本来査読者にとって望ましい方向で,
(査読はボランティアなので労力が少ない方が好ましい)
どんどん浸透していくのだと思う。
つまり査読スピードを得るために「軽めの査読」が導入されるということ。
ここまでをまとめると,
・世に流通する論文数が増える(誌面の制約がないから)
・議論の短縮(議論が不足していても論文は掲載されるから)
・議論の質低下(トンデモ議論でも査読を通過するから)
辺りが考えられる。
ここでの短縮や質低下は,
あからさまに目に見えるほどの程度でなくて,
検出できない程に微弱な程度で少しずつ進行すると思われる。
(査読者の査読態度が新システムに馴染む速度にあわせて)
この流れが進むとどうなるか。
このシステムの歪みが襲いかかるのはまず読者だと思う。
・論文数が膨大ですべてに目を通すことができない。
・雑誌の名前で読むべき論文の値踏みできない。
・議論の質が保障されていないのでより注意深く読まねばならない。
読者としての研究者がこのような気持ちになると,
その人が著者に転じた時に同じ問題の裏返しが襲いかかる。
・どうせ目を通してもらえない。
・自分の論文の価値を伝える手段がない。
・誤った議論を公表してしまうリスクから執筆がより慎重になる。
こうして論文は,
「ほとんど議論がない結果報告論文」と,
「大きな飛躍のある議論を展開する論文」と,
二極化が進行するだろう。
後者の「大きな飛躍」は,
良い意味(科学が前進する)と,
悪い意味(論理破綻したトンデモ)とがあり,
どうなるかはわからないが,
どちらかというと悪い意味の方が目立つ世界になると予想される。
さて,どうなることやら。
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再来週「機構における資源研究」という題でパネルディスカッションをする。
ちょっと考えたけど,まったく結論が出そうにない。
こういう時はまず分割。
「機構における研究」と「資源研究」にわけて考える。
大学では出来ない機構だからこその研究って言われると,
「金にモノをいわせる」ぐらいしか思いつかない。
でもそれじゃダメよね。
資源研究って成果は市場が判断するものだと思うのだが,
それもダメだろうね。
もう少し斜めから考えないとわからない感じ。
ちょうど読んでいる湯川と梅棹の対談で,
湯川が「非法則的認識」ということを言っている。
経験的事実に基づく世界観と,
理論・法則で構築した世界との間に,
完全なる一対一対応がとれない場合がある。
事象の繰り返し試験が多くできない場合には,
経験による検証が難しいし,
素粒子などの研究では,
そもそも対象を経験的(実感的)に扱うことができない。
この指摘は,
生物・地球科学の研究においては非常に重要な意味を持っていると思う。
地球の歴史を繰り返し試験で再現することはできないし,
繰り返しの際の「再現性の低さ」こそが生物進化のキーポイントだから,
経験的事実と理論・法則には大きな乖離がある。
ここで,地球や生物というモノ自体は容易に調査可能なので,
理論・法則の構築の方がより難易度の高い課題になる。
つまり,
完全な一対一対応の理論・法則の完成が永久に不可能な学問分野では,
「非法則的認識」が必要になってくる。
網羅的で精巧に作られた理論・法則ではないのだけれども,
実感として「こうだろう」と思われることを,
ある程度の事実に基づいて描写し共有する認識の形成。
言い換えると,
完全なる理論と純然たる事実の間の飛躍を埋める仮説の共有認識だろうか。
実験結果・観測事実に基づいて法則を発見しようとする時,
現在の科学業界の手法に従う(出版物の引用・査読)と,
一報の論文で完結せねばならないがゆえに個々の仕事が分断されてしまい,
「俯瞰的に見ることで経験的に認識される法則」のようなものは,
誌面に載せることが難しいし,誌面を通じて理解することも難しい。
一方で,
論文では一文字も登場しない研究の背後にある世界観の共有と言うか,
そういうモノは現在の科学業界にも存在していると思う。
だから,
現在の科学業界の手法に従わないでも科学の理解を深めることは可能だし,
科学業界の手法に従わない方法で先回りして理解を深めた後で,
科学業界の手法に従ってそれを公表していけば良いのだ。
海洋と地球という特定の対象を共有する様々な分野の研究者がいる機構の持つ,
「非法則的認識」を醸成する場としての機能に注目すれば良いのでは無いか。
「機構における研究」の価値を「非法則的認識の醸成」に求める,
あるいは「非法則的認識」を醸成できることこそが,
機構が持つユニークな研究ポテンシャルなのではないだろうか。
「資源研究」について。
資源研究とは,
資源的価値のある元素(あるいは分子)が濃集している場所を特定し,
それを回収することを目的として据えているため,
「地球化学」の範疇にあると考えることができる。
古典的地球化学というか,
地球科学と化学が融合して地球化学という学問分野ができたのだろうけど,
その地球化学というものを地球科学と化学のそれぞれから見た時,
地球科学では「ある元素がどこにどれだけあるか」と考えるのに対し,
化学では「ある元素が相を移動する際の分配」と考えている。
だから,
地球科学的地球化学は時間が動かないモデルだし,
化学的地球化学は空間の拡がりを考慮していないモデルである。
しかし,
海底下資源の形成は海底下流体系の駆動と切り離せない。
そして流体の移動は時間の関数であるし,
流体系は流入口と流出口のある限定された空間に分布している。
だから地球科学的地球化学と化学的地球化学をわけて考えることはできない。
(どんな地球化学の対象でも当たり前なのだけども)
逆に言うと,
流体の移動速度(滞留時間)と流体系の空間分布以外の知見は,
他の地球化学研究から流用できるわけで,
(もちろん「まだ誰もやっていない」可能性はある)
つまりは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」こそが,
資源研究のもっとも重要な研究対象になのではないか。
海底下流体系は,
地質学的な時間・空間スケールではあるが,
同時に動的な様子を実感することができるものでもある。
熱水噴出などはその典型例である。
ここで,
「非法則的認識」が重要となってくるわけである。
「機構における資源研究」とは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」について「非法則的認識」を共有すること,
だと言えるかもしれない。
Tweet
ちょっと考えたけど,まったく結論が出そうにない。
こういう時はまず分割。
「機構における研究」と「資源研究」にわけて考える。
大学では出来ない機構だからこその研究って言われると,
「金にモノをいわせる」ぐらいしか思いつかない。
でもそれじゃダメよね。
資源研究って成果は市場が判断するものだと思うのだが,
それもダメだろうね。
もう少し斜めから考えないとわからない感じ。
ちょうど読んでいる湯川と梅棹の対談で,
湯川が「非法則的認識」ということを言っている。
経験的事実に基づく世界観と,
理論・法則で構築した世界との間に,
完全なる一対一対応がとれない場合がある。
事象の繰り返し試験が多くできない場合には,
経験による検証が難しいし,
素粒子などの研究では,
そもそも対象を経験的(実感的)に扱うことができない。
この指摘は,
生物・地球科学の研究においては非常に重要な意味を持っていると思う。
地球の歴史を繰り返し試験で再現することはできないし,
繰り返しの際の「再現性の低さ」こそが生物進化のキーポイントだから,
経験的事実と理論・法則には大きな乖離がある。
ここで,地球や生物というモノ自体は容易に調査可能なので,
理論・法則の構築の方がより難易度の高い課題になる。
つまり,
完全な一対一対応の理論・法則の完成が永久に不可能な学問分野では,
「非法則的認識」が必要になってくる。
網羅的で精巧に作られた理論・法則ではないのだけれども,
実感として「こうだろう」と思われることを,
ある程度の事実に基づいて描写し共有する認識の形成。
言い換えると,
完全なる理論と純然たる事実の間の飛躍を埋める仮説の共有認識だろうか。
実験結果・観測事実に基づいて法則を発見しようとする時,
現在の科学業界の手法に従う(出版物の引用・査読)と,
一報の論文で完結せねばならないがゆえに個々の仕事が分断されてしまい,
「俯瞰的に見ることで経験的に認識される法則」のようなものは,
誌面に載せることが難しいし,誌面を通じて理解することも難しい。
一方で,
論文では一文字も登場しない研究の背後にある世界観の共有と言うか,
そういうモノは現在の科学業界にも存在していると思う。
だから,
現在の科学業界の手法に従わないでも科学の理解を深めることは可能だし,
科学業界の手法に従わない方法で先回りして理解を深めた後で,
科学業界の手法に従ってそれを公表していけば良いのだ。
海洋と地球という特定の対象を共有する様々な分野の研究者がいる機構の持つ,
「非法則的認識」を醸成する場としての機能に注目すれば良いのでは無いか。
「機構における研究」の価値を「非法則的認識の醸成」に求める,
あるいは「非法則的認識」を醸成できることこそが,
機構が持つユニークな研究ポテンシャルなのではないだろうか。
「資源研究」について。
資源研究とは,
資源的価値のある元素(あるいは分子)が濃集している場所を特定し,
それを回収することを目的として据えているため,
「地球化学」の範疇にあると考えることができる。
古典的地球化学というか,
地球科学と化学が融合して地球化学という学問分野ができたのだろうけど,
その地球化学というものを地球科学と化学のそれぞれから見た時,
地球科学では「ある元素がどこにどれだけあるか」と考えるのに対し,
化学では「ある元素が相を移動する際の分配」と考えている。
だから,
地球科学的地球化学は時間が動かないモデルだし,
化学的地球化学は空間の拡がりを考慮していないモデルである。
しかし,
海底下資源の形成は海底下流体系の駆動と切り離せない。
そして流体の移動は時間の関数であるし,
流体系は流入口と流出口のある限定された空間に分布している。
だから地球科学的地球化学と化学的地球化学をわけて考えることはできない。
(どんな地球化学の対象でも当たり前なのだけども)
逆に言うと,
流体の移動速度(滞留時間)と流体系の空間分布以外の知見は,
他の地球化学研究から流用できるわけで,
(もちろん「まだ誰もやっていない」可能性はある)
つまりは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」こそが,
資源研究のもっとも重要な研究対象になのではないか。
海底下流体系は,
地質学的な時間・空間スケールではあるが,
同時に動的な様子を実感することができるものでもある。
熱水噴出などはその典型例である。
ここで,
「非法則的認識」が重要となってくるわけである。
「機構における資源研究」とは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」について「非法則的認識」を共有すること,
だと言えるかもしれない。
震災から1年と言うことで,
震災に関わることを書こうと思うが,
地震に絡んだ科学を展開したことで,
色々と考えたことの総括のようなものにしようと思う。
地球科学の研究者の中には,
今回の地震(に関する調査)を千載一遇の好機と考えている人もいる。
それは事実だし,そ う思うことは研究者としての業のようなものだと思う。
ボクはなかなかこの部分を乗り越えることができなかった。
いわゆる「不謹慎と見られる」こともあるけども,
それ以上に,
「(放射能にからむ)土壌や水質調査など他にやるべきことがある」
「そもそも科学による社会の発展という図式が問われているのでは」
という部分が大きかった。
科学者として,
確かにこの大地震は魅力的な調査の対象である。
それは疑いようも無い事実だと思う。
でも,
その関心を表に出して(たとえばネットに)さらすのは,
あまりに愚かなことだと感じるし,
それについては再三ツイッターでも言及した。
一方で,
「この地震時に調査をしなければ地震という地球現象の理解が遅れる」
「地震のメカニズムを知ることは減災・防災の基盤となる」
というような言い分も聞こえてきた。
確かにそうなのかもしれない。
でもここで言う「減災」というのは,
どれぐらいの期間で達成されるのか,
あるいは,
今回の震災で様々な被害にあった人々の,
どのタイプの被害についてどれぐらい削減できるのか,
そういうビジョンが示されたことは皆無だと思う。
これはボクの個人的な感想だが,
基礎研究の積み重ねで減災が実現すると言っても,
その程度はたかが知れている。
最先端の地球科学をもってしても,
地震に関してわからないものはわからないし,
地震のことをすごく良くわかっていても,
ボロアパートに住んでいては減災からはほど遠い。
現時点において一般人が地震と向き合うには,
地球科学ではない別の力に頼る方が,人命を守るという観点では重要だ。
(頑丈な住居,津波の届かない立地,災害に強いインフラなど)
そしてこの考え方は,
地震を研究対象とする多くの研究者と大きく違わないとも思う。
であるからこそ,
今回の大地震を好機ととらえ研究に「利用」するのであれば,
「科学的に興味深いからや る」と言い切ってやるべきだと思う。
とってつけたように外向きに「役に立ちます」アピールすることに,
まったく賛同できない。
抑えきれない自分の科学者としての好奇心について,
他者から不謹慎と見られることを意識し恐れ,
その自分の「醜悪な好奇心」を覆い隠すために,
「役に立ちます」という仮面を被り表に出て行くことは,
欺瞞だ。
科学的に興味深いということは,
科学を推進する一番の動機だと思うし,
そしてその中身については,
ピアレビューによって精査されるべきだと思う。
ただしピアレビューについても,その運用においては注意が必要で,
ピアレビューシステムは同じ関心を持つ科学者間で行われるため,
原理的に「すでに課題が共有されている」ことになる。
言い換えるならば,
特定の研究分野のピアレビューの範疇を超えた,
異分野との比較した際の当該研究の重要性について,
ピアレビューシステムは過小評価してしまう危険性を内包している。
地球上に存在する人的・物的資源は限られている。
限られたリソースを共有して利用しているわけであって,
科学を推進することは,
必ずしもリソースを傾注すべきことではないかもしれない。
社会が抱える問題の解決の糸口として科学・技術は求められているかもしれない。
でも,特に高コストな科学・技術を待たずとも,
社会的な仕組みや考え方の変質によって問題が解決するならば,
そこに科学・技術は必ずしも必要なわけではない。
「広く役に立ちます」という視点でもなく,
「科学的に正しく推進すべき」という視点でもなく,
もう少し違う視点で,
科学者は研究することの正当性(妥当性)を,
国民に理解してもらう必要があるのではないだろうか。
ボクがいま重要だと考えている視点は,
「世界にはまだまだ謎が残っている」という好奇心の源泉の認識と,
「その謎が解ける」という達成感からくる快感の価値を,
一般人に喚起・共有すること。
それは「学習意欲」と呼ばれるものの延長線上だと思う。
つまり,
幼少の頃は「自分がわからなかったこと(謎)がわかる」ということが,
「学習」に取り組む意欲の源泉である。
それが少し大人になってくると,
「自分は知らないこと」について,
「他の誰かは知っているけど自分は知らない」という恥の意識からか,
意欲的に取り組むことが(精神的な意味で)難しくなってくる。
ちまたに跋扈する陰謀論者などはこの裏返しで,
「他の誰も知らないけど自分は知っている」という事実を作るために,
自己暗示をかけているような状況であると理解できる。
その「恥の意識」を取り去る一つの(あるいは唯一の)方法が,
「世界中の誰も知らない謎を解き明かす」ということではないか。
「誰も知らない」のだから「自分が知らない」ことは恥では無い。
誰にも恥じること無く「私はソレを知らない」と言える。
それが一般人にとっての「先端科学研究の価値」になりうるのではないか。
先端科学研究について一般の大人が触れることについて,
「(無知を恥じない)子供になれる」という免罪意識を喚起することは,
一般人に研究内容を紹介する上で重要な視点だろう。
さらに踏み込んで,
その先端科学研究課題について,
「あなたもわからないかもしれないが,私もわからないのです」と,
謎を共有する方向に持って行くことも重要だろうし,
「謎の共有意識の醸成」こそが「国民に対する研究内容の説明」であろう。
迂回した上に目的地にたどり着けなかったけど,
誤解を恐れずにまとめてしまうと,
「わかった科学」「わかると世界が開ける科学」よりも,
「世界は謎に包まれていてわからないことだらけの科学」を打ち出す方が,
科学者にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか。
Tweet
震災に関わることを書こうと思うが,
地震に絡んだ科学を展開したことで,
色々と考えたことの総括のようなものにしようと思う。
地球科学の研究者の中には,
今回の地震(に関する調査)を千載一遇の好機と考えている人もいる。
それは事実だし,そ う思うことは研究者としての業のようなものだと思う。
ボクはなかなかこの部分を乗り越えることができなかった。
いわゆる「不謹慎と見られる」こともあるけども,
それ以上に,
「(放射能にからむ)土壌や水質調査など他にやるべきことがある」
「そもそも科学による社会の発展という図式が問われているのでは」
という部分が大きかった。
科学者として,
確かにこの大地震は魅力的な調査の対象である。
それは疑いようも無い事実だと思う。
でも,
その関心を表に出して(たとえばネットに)さらすのは,
あまりに愚かなことだと感じるし,
それについては再三ツイッターでも言及した。
一方で,
「この地震時に調査をしなければ地震という地球現象の理解が遅れる」
「地震のメカニズムを知ることは減災・防災の基盤となる」
というような言い分も聞こえてきた。
確かにそうなのかもしれない。
でもここで言う「減災」というのは,
どれぐらいの期間で達成されるのか,
あるいは,
今回の震災で様々な被害にあった人々の,
どのタイプの被害についてどれぐらい削減できるのか,
そういうビジョンが示されたことは皆無だと思う。
これはボクの個人的な感想だが,
基礎研究の積み重ねで減災が実現すると言っても,
その程度はたかが知れている。
最先端の地球科学をもってしても,
地震に関してわからないものはわからないし,
地震のことをすごく良くわかっていても,
ボロアパートに住んでいては減災からはほど遠い。
現時点において一般人が地震と向き合うには,
地球科学ではない別の力に頼る方が,人命を守るという観点では重要だ。
(頑丈な住居,津波の届かない立地,災害に強いインフラなど)
そしてこの考え方は,
地震を研究対象とする多くの研究者と大きく違わないとも思う。
であるからこそ,
今回の大地震を好機ととらえ研究に「利用」するのであれば,
「科学的に興味深いからや る」と言い切ってやるべきだと思う。
とってつけたように外向きに「役に立ちます」アピールすることに,
まったく賛同できない。
抑えきれない自分の科学者としての好奇心について,
他者から不謹慎と見られることを意識し恐れ,
その自分の「醜悪な好奇心」を覆い隠すために,
「役に立ちます」という仮面を被り表に出て行くことは,
欺瞞だ。
科学的に興味深いということは,
科学を推進する一番の動機だと思うし,
そしてその中身については,
ピアレビューによって精査されるべきだと思う。
ただしピアレビューについても,その運用においては注意が必要で,
ピアレビューシステムは同じ関心を持つ科学者間で行われるため,
原理的に「すでに課題が共有されている」ことになる。
言い換えるならば,
特定の研究分野のピアレビューの範疇を超えた,
異分野との比較した際の当該研究の重要性について,
ピアレビューシステムは過小評価してしまう危険性を内包している。
地球上に存在する人的・物的資源は限られている。
限られたリソースを共有して利用しているわけであって,
科学を推進することは,
必ずしもリソースを傾注すべきことではないかもしれない。
社会が抱える問題の解決の糸口として科学・技術は求められているかもしれない。
でも,特に高コストな科学・技術を待たずとも,
社会的な仕組みや考え方の変質によって問題が解決するならば,
そこに科学・技術は必ずしも必要なわけではない。
「広く役に立ちます」という視点でもなく,
「科学的に正しく推進すべき」という視点でもなく,
もう少し違う視点で,
科学者は研究することの正当性(妥当性)を,
国民に理解してもらう必要があるのではないだろうか。
ボクがいま重要だと考えている視点は,
「世界にはまだまだ謎が残っている」という好奇心の源泉の認識と,
「その謎が解ける」という達成感からくる快感の価値を,
一般人に喚起・共有すること。
それは「学習意欲」と呼ばれるものの延長線上だと思う。
つまり,
幼少の頃は「自分がわからなかったこと(謎)がわかる」ということが,
「学習」に取り組む意欲の源泉である。
それが少し大人になってくると,
「自分は知らないこと」について,
「他の誰かは知っているけど自分は知らない」という恥の意識からか,
意欲的に取り組むことが(精神的な意味で)難しくなってくる。
ちまたに跋扈する陰謀論者などはこの裏返しで,
「他の誰も知らないけど自分は知っている」という事実を作るために,
自己暗示をかけているような状況であると理解できる。
その「恥の意識」を取り去る一つの(あるいは唯一の)方法が,
「世界中の誰も知らない謎を解き明かす」ということではないか。
「誰も知らない」のだから「自分が知らない」ことは恥では無い。
誰にも恥じること無く「私はソレを知らない」と言える。
それが一般人にとっての「先端科学研究の価値」になりうるのではないか。
先端科学研究について一般の大人が触れることについて,
「(無知を恥じない)子供になれる」という免罪意識を喚起することは,
一般人に研究内容を紹介する上で重要な視点だろう。
さらに踏み込んで,
その先端科学研究課題について,
「あなたもわからないかもしれないが,私もわからないのです」と,
謎を共有する方向に持って行くことも重要だろうし,
「謎の共有意識の醸成」こそが「国民に対する研究内容の説明」であろう。
迂回した上に目的地にたどり着けなかったけど,
誤解を恐れずにまとめてしまうと,
「わかった科学」「わかると世界が開ける科学」よりも,
「世界は謎に包まれていてわからないことだらけの科学」を打ち出す方が,
科学者にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか。
気付けば時間というのは流れているモノで,
恐ろしいことに,
ブログを書きはじめて9年になる。
そんなこんなで,今週は軽めな話。
ボクがブログを書き始めたのは,
4年生の時に知り合った研究者がやっていたから。
彼は「研究者・大学教員の日常・考え」をネットに公開することで,
「研究者・大学教員は超天才しかなれないもの」という障壁を無くし,
相互理解を深めようと思っていたのだと勝手に思っている。
(ちょっと違うんだけど,今日の本題ではないので割愛)
その内に「内田樹」などなど,
多くのネット上の「先生」に出会ったこともあいまって,
自分もそういう人間でありたいと思ったことが,
こうやって9年も続く原動力になっているのだろう。
ちなみにボクの読書習慣は,
ネットで記事を読む習慣を身につけたのが先で,
そこで内田樹を知って,
彼の本を買って読んだのがはじまり(たぶんD1)。
先週の承認欲求にもつながるけども,
自分を「兄」と見る視線を感じたかったのかもしれない。
このブログで主張している内容ってのは,
面と向かって真顔で語るには青臭くて恥ずかしいものが多い。
というか,
こういった内容を主題とする議論の場ならいざ知らず,
飲み会でいきなりここで主張しているようなことを語り始めるのは,
いわゆる「コミュ障」に分類されるような人間だろう。
ボクのブログは当初研究室の管理するサーバー上で,
HTML上にテキストでシコシコと書いていた。
別にアナウンスするでもなくはじめていたので,
研究室人々とごく一部の外部者が見ているだけだったのだろうと思う。
ドクターで東大に移った時にサーバーにアクセスできなくなって,
もうやめようか,と思ったのだが,やっぱり再開した。
その時にカウンターとアクセス解析をはじめて,
学会に参加する度に常連読者が増えていくのが目に見えてわかって,
それで気を良くして,今に至るまで続けてきている。
最近はツイッターの方に移行しつつあり,
今年からこのブログは「週に一回こってり」にすることにした。
ブログでは一貫してコメント欄は設けておらず,
ボクがボクの主張をしたいブログだから,
垂れ流しにできれば目的を達成しているわけだし,
本当にコメントがあれば直接メイルが送られてくるので,
それで何の問題もないし,なにより,
コメントなんてあったら返事しなきゃいけないし。
学位取得前後には,
結構な数の人がこのブログを読んでいる状況になった。
ブログの内容のようなことをボクが直接語れるぐらいの親しい知人から,
ボクの顔を見たことはないけどもブログは読んでいるという人まで,
読者層にもバリエーションがでてきた。
ボクと読者との現実世界での関係性も様々で,
それがまたおもしろい。
たとえば,コンノ。
ボクが大学2年,ヤツが1年の時から知り合いだけども,
同じ組織に属して生活したのは,ボクがM1-M2の2年間だけ。
だから3月から一緒に仕事をはじめたけど,それは6年ぶりのこと。
それでも阿吽の呼吸でいけるのは,
このブログを通じてボクの考えが伝わっていることが根底にあると思う。
たとえば,ナオさん。
いつもホカホカご飯のアイコンで癒やしてもらっているが,
実際のところ現実世界ではほとんど面識がなかった。
面識がなかったのに,ブログ上の主張はよく読んでくれていて,
おかげで実際に向き合って挨拶を交わした時はモゾモゾしてしまった。
コンノとも共通するが,サッカーの見方などで共感する部分が大きい。
なにより,ナオさんの邪悪なシステムに対する義憤と,
そこからくる弱者に向けるまなざしの優しさがたまらない。
「ジャズ好きは変態」論に従えば,変態であるはずだが,それはまだ不明。
たとえば,某同期。
学歴的にいわゆるエリート街道を歩んできて,
基本的には紳士然と振る舞っているが,その実はジャズ好きの変態である。
面と向かって会話しているだけだったら,
ボクの身なりと日頃の振る舞いから,
彼がボクのことを敬遠して仲良くなれなかっただろう。
でもブログを通じて「意外とマトモかも」と思ってくれたのが奏効して,
なんだかんだで仲良くやっている。
見かけによらず結構感情的になる部分もあるようで,
たぎる想いを吐露してくれるほどボクに対してガードが下がっていることが,
実は嬉しかったりする。
具体例を挙げるとキリがないので,
少しまとめのようなことを。
ボクは基本的に乱暴者と思われるような身なり・振る舞いなので,
特に研究をやっているような人達にはあまり良いようには思われない。
そう思われないこと自体は仕方が無いし,
それで良いとも思っている。
だけれども,
ボクが本当に理解してほしいと思っている人が,
それは同僚や同期や仕事仲間であるわけだけれども,
そういった人達がこのブログを読むことで,
現実世界でのボクとの接点が変質しているのであれば,
これを書いている意味もあると思う。
あら,考えてるのと違う方向になってきた。
このブログを通じて知り合う(一方的に知られるのだけれども)人々と,
現実世界で暮らしていてボクと知り合う人々とでは,
ボクに対する見方が異なると思う。
それはボクの振るまい方がネットと現実では違うから当然ではある。
じゃあ現実では建前で生きていて,
ネット上では本音を吐露している二面性なのか,というと,
それも違う。
現実のボクを知る人が「あいつは建前で生きている」とは思わないと思う。
いわゆる「本音と建て前」の二面性ではなくて,
むしろ「議論と結論」だったり「論理と感情」だったり,
そういう二面性のつもり。
現実に面と向かって喋ると,
そこには時間の制約があるから,
時間の範囲内で自分の言いたいことを相手に伝えなければならない。
会話のキャッチボールということを考えると,制限時間は一分もなくて,
そんな中で言いたいことを言うとなると,結論のみになる。
だから凄く乱暴な物言いになる。
「ボクはそれはイヤだからやりたくない」とか,
「悩んでないでやっちまえば良いんだ」とか,
そういう言い方。
一方で,
ネットでは文章や論理を組み立てている時間が見えないから,
一定の分量を時間に関係なく出せるし,受け手も自分の都合で読める。
そう思うと,話はいくらでも迂回できるし,
エッセンスのみを抽出すること無く,
言いたいことを言いたいままに言うことができる。
だから,
このブログを日頃から読んでいる人と直接会って話をすると,
ボクが乱暴な言い方をしても,
ボクの言いたいことを脳内補完をしてくれて,
比較的好意を持って話を聞いてくれる。
(ブログを読んでいる時点で好意を持っているから当然かもね)
まぁしかし,
こういう装置に甘えちゃダメで,
このブログを知らない人とも初対面で上手に会話できるようにならないとね。
まったくまとまらなかった。
Tweet
恐ろしいことに,
ブログを書きはじめて9年になる。
そんなこんなで,今週は軽めな話。
ボクがブログを書き始めたのは,
4年生の時に知り合った研究者がやっていたから。
彼は「研究者・大学教員の日常・考え」をネットに公開することで,
「研究者・大学教員は超天才しかなれないもの」という障壁を無くし,
相互理解を深めようと思っていたのだと勝手に思っている。
(ちょっと違うんだけど,今日の本題ではないので割愛)
その内に「内田樹」などなど,
多くのネット上の「先生」に出会ったこともあいまって,
自分もそういう人間でありたいと思ったことが,
こうやって9年も続く原動力になっているのだろう。
ちなみにボクの読書習慣は,
ネットで記事を読む習慣を身につけたのが先で,
そこで内田樹を知って,
彼の本を買って読んだのがはじまり(たぶんD1)。
先週の承認欲求にもつながるけども,
自分を「兄」と見る視線を感じたかったのかもしれない。
このブログで主張している内容ってのは,
面と向かって真顔で語るには青臭くて恥ずかしいものが多い。
というか,
こういった内容を主題とする議論の場ならいざ知らず,
飲み会でいきなりここで主張しているようなことを語り始めるのは,
いわゆる「コミュ障」に分類されるような人間だろう。
ボクのブログは当初研究室の管理するサーバー上で,
HTML上にテキストでシコシコと書いていた。
別にアナウンスするでもなくはじめていたので,
研究室人々とごく一部の外部者が見ているだけだったのだろうと思う。
ドクターで東大に移った時にサーバーにアクセスできなくなって,
もうやめようか,と思ったのだが,やっぱり再開した。
その時にカウンターとアクセス解析をはじめて,
学会に参加する度に常連読者が増えていくのが目に見えてわかって,
それで気を良くして,今に至るまで続けてきている。
最近はツイッターの方に移行しつつあり,
今年からこのブログは「週に一回こってり」にすることにした。
ブログでは一貫してコメント欄は設けておらず,
ボクがボクの主張をしたいブログだから,
垂れ流しにできれば目的を達成しているわけだし,
本当にコメントがあれば直接メイルが送られてくるので,
それで何の問題もないし,なにより,
コメントなんてあったら返事しなきゃいけないし。
学位取得前後には,
結構な数の人がこのブログを読んでいる状況になった。
ブログの内容のようなことをボクが直接語れるぐらいの親しい知人から,
ボクの顔を見たことはないけどもブログは読んでいるという人まで,
読者層にもバリエーションがでてきた。
ボクと読者との現実世界での関係性も様々で,
それがまたおもしろい。
たとえば,コンノ。
ボクが大学2年,ヤツが1年の時から知り合いだけども,
同じ組織に属して生活したのは,ボクがM1-M2の2年間だけ。
だから3月から一緒に仕事をはじめたけど,それは6年ぶりのこと。
それでも阿吽の呼吸でいけるのは,
このブログを通じてボクの考えが伝わっていることが根底にあると思う。
たとえば,ナオさん。
いつもホカホカご飯のアイコンで癒やしてもらっているが,
実際のところ現実世界ではほとんど面識がなかった。
面識がなかったのに,ブログ上の主張はよく読んでくれていて,
おかげで実際に向き合って挨拶を交わした時はモゾモゾしてしまった。
コンノとも共通するが,サッカーの見方などで共感する部分が大きい。
なにより,ナオさんの邪悪なシステムに対する義憤と,
そこからくる弱者に向けるまなざしの優しさがたまらない。
「ジャズ好きは変態」論に従えば,変態であるはずだが,それはまだ不明。
たとえば,某同期。
学歴的にいわゆるエリート街道を歩んできて,
基本的には紳士然と振る舞っているが,その実はジャズ好きの変態である。
面と向かって会話しているだけだったら,
ボクの身なりと日頃の振る舞いから,
彼がボクのことを敬遠して仲良くなれなかっただろう。
でもブログを通じて「意外とマトモかも」と思ってくれたのが奏効して,
なんだかんだで仲良くやっている。
見かけによらず結構感情的になる部分もあるようで,
たぎる想いを吐露してくれるほどボクに対してガードが下がっていることが,
実は嬉しかったりする。
具体例を挙げるとキリがないので,
少しまとめのようなことを。
ボクは基本的に乱暴者と思われるような身なり・振る舞いなので,
特に研究をやっているような人達にはあまり良いようには思われない。
そう思われないこと自体は仕方が無いし,
それで良いとも思っている。
だけれども,
ボクが本当に理解してほしいと思っている人が,
それは同僚や同期や仕事仲間であるわけだけれども,
そういった人達がこのブログを読むことで,
現実世界でのボクとの接点が変質しているのであれば,
これを書いている意味もあると思う。
あら,考えてるのと違う方向になってきた。
このブログを通じて知り合う(一方的に知られるのだけれども)人々と,
現実世界で暮らしていてボクと知り合う人々とでは,
ボクに対する見方が異なると思う。
それはボクの振るまい方がネットと現実では違うから当然ではある。
じゃあ現実では建前で生きていて,
ネット上では本音を吐露している二面性なのか,というと,
それも違う。
現実のボクを知る人が「あいつは建前で生きている」とは思わないと思う。
いわゆる「本音と建て前」の二面性ではなくて,
むしろ「議論と結論」だったり「論理と感情」だったり,
そういう二面性のつもり。
現実に面と向かって喋ると,
そこには時間の制約があるから,
時間の範囲内で自分の言いたいことを相手に伝えなければならない。
会話のキャッチボールということを考えると,制限時間は一分もなくて,
そんな中で言いたいことを言うとなると,結論のみになる。
だから凄く乱暴な物言いになる。
「ボクはそれはイヤだからやりたくない」とか,
「悩んでないでやっちまえば良いんだ」とか,
そういう言い方。
一方で,
ネットでは文章や論理を組み立てている時間が見えないから,
一定の分量を時間に関係なく出せるし,受け手も自分の都合で読める。
そう思うと,話はいくらでも迂回できるし,
エッセンスのみを抽出すること無く,
言いたいことを言いたいままに言うことができる。
だから,
このブログを日頃から読んでいる人と直接会って話をすると,
ボクが乱暴な言い方をしても,
ボクの言いたいことを脳内補完をしてくれて,
比較的好意を持って話を聞いてくれる。
(ブログを読んでいる時点で好意を持っているから当然かもね)
まぁしかし,
こういう装置に甘えちゃダメで,
このブログを知らない人とも初対面で上手に会話できるようにならないとね。
まったくまとまらなかった。
このネタは全然まとまっていないのでグダグダと書いていく。
いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。
小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
公立に行ってようが,
最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。
進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。
そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。
いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。
4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。
卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。
なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。
そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。
グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。
そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。
でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。
こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。
そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。
最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。
ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。
それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。
Tweet
いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。
小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
公立に行ってようが,
最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。
進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。
そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。
いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。
4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。
卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。
なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。
そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。
グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。
そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。
でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。
こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。
そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。
最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。
ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。
それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。
理科離れに明確な根拠はないらしい。
「国際数学・理科教育調査」によって、
日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、
理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが明らかになり,
これを「理科離れ」として報じたのがはじまりか,と言われている。
その後,工学部進学が半減したことも,理科離れの存在の論拠とされている。
ちなみに「国際数学・理科教育調査2007」の概要を見ると,
設問は「理科(算数・数学)の勉強は楽しいか」となっていて,
単に「理科という学校科目の勉強が面白くない」ということであり,
「面白くない」のは「理科」なのか「勉強」なのか判別が難しい。
詳細を転載すると,
中学二年生の「理科の勉強が楽しいか」に対する4段階回答では,
「強くそう思う」が18%(国際平均は46%)であるが,
「そう思う」を合わせると58%と過半数となる。
一方で,
読売オンラインで「理科離れ」で検索すると,
「理科離れが進む中」「理科離れが懸念」
「理科離れを背景に」「理科離れを食い止める」
などの文言が踊るが,
これらの前段には理科離れが存在する旨の記載はない。
また,たとえば,
「理科離れを引き起こす原因に関する研究」のおいては,
「教師と生徒」という視点で「理科科目」を取り上げて,
「理科離れ」の原因を明らかにしようと取り組んでいるが,
その根拠は前掲の「国際数学・理科教育調査」である。
重要なことだが,
この「国際数学・理科教育調査」は,
数学と理科のみに関する調査で,
国語や社会や英語や体育などの科目については,
同時に調査されていない。
つまり,
「国際数学・理科教育調査」で,
「(他国に比べて)成績は良いけど,
(他国に比べて)理科をすごく面白いと思っている割合が少ない」
という結果が出た。
それを解釈するのに「理科離れ」という概念を提案した報道があった。
この用語を他の案件での報道でも安易に使い流布し,
結果的に「理科離れ」が既成事実化してしまった。
というのが「理科離れ」の経緯だろう。
要するに,
報道による「理科離れ」の再生産でしかないのだ。
「理科離れなんてないさ,理科離れなんてウソさ」なのだ。
では「理科離れのようなもの」が,
まったく実態がないものなのかというと,
そういうわけでもないだろう。
たとえ「理科離れ」の根拠が薄弱だとはいえ,
「理科離れ」には皆が感覚的に納得しているわけだから,
社会現象として「理科離れのようなもの」は存在していると考える方が妥当だ。
これについては,
「理科離れに関するいくつかの問題:武竿久雄(PostDoc生物系)」による,
『「理科離れ=学習意欲の総合的低下」である。
あえて"理科離れ"という言葉を使わない方がよいと感じている。』
という指摘が一番しっくりくる。
「理科離れ」=「学習意欲の総合的低下」だとすると,
それを招いているのは何か。
ボクは経済至上主義だと思う。
テレビをつければ「金持ち特集」か「安いモ ノ特集」。
若い時からこういった言説に触れて育つと,
「いかに稼ぎ,いかに安く買うか」が,
人生の目標に思えてしまう子供が育ってしまうのではないか。
そうなると,
人々がよく使う言い回しである,
「それやって意味あるんですか?」
という考え方が,
物事の最も根源的な判断基準になってしまう。
言い換えよう。
スポーツをした時の爽快感,
難題を突破した時の達成感,
誰かと協力した時の一体感,
これら内面的な喜びには金銭価値がない。
体が疲労するスポーツよりも,
何かを知ることができるネットサーフィン。
人の心の機微を知る映画・ドラマよりも,
何かを知ることができる雑学・情報番組。
金銭という絶対的な数字や,
入手した情報の多寡といったものに囚われると,
定量不可能なものに対する判断力・思考力・想像力が低下する。
将来を考えても数字ばかりが頭に浮かび,
知らない事実が隠れていることにおびえ,
内面的な喜びの体験が薄く,
それがために将来の喜びを想像することもできない。
それでは将来に不安を感じてしまうのだろう。
だから「理科離れ」「学習意欲の低下」を解決するには,
「学習」の内面的な快楽を知る体験機会を増やすことが重要だろう。
でもそれは,学校教育だけでは限界がある。
というか,それこそ,
親に課せられている「教育を受けさせる義務」の本質ではないのか,と。
「教育を受けさせる義務」の本質は,
「子供の将来を,労働のために搾取しないため」なはず。
もし子供の将来の稼ぎを目的に教育を受けさせるのだとしたら,
あるいは子供に「学習の目的は金稼ぎだよ」という観念を植え付けているなら,
それは迂回はしてい るものの,
子供の将来を労働によって搾取していることに変わりない。
「理科離れ」は子供に顕在化しているが,
根は親にあるのだ。
1960-1980ぐらいに産まれた世代,
つまりは日本の誇りが経済にあった時代の人々には,
明るい将来が経済と結びつくのかもしれない。
しかし彼らの子供は経済成長が止まった世代。
親自身が育った環境の価値観と,
世相の変遷による親が大人になってからの価値観との不整合が,
そのまま子供の精神に歪みをもたらしているのではないだろうか。
子供の将来を労働に搾取させず教育ことを考えると,
何もない荒野に子供を放ちながら,
子供に気付かれないように安全柵を設置して,
子供自身が自発的(と感じるよう)に,
「世界と自分」「自分とは何か」「世界の仕組み」について,
考えざるをえない機会を与える,
というようなやり方が,ある種の理想型と思われる。
最後に。
だから科学者が,
「理科離れって言われてるけど,理科は楽しいよ」
って言うのは金輪際やめにしたい。
その枕はいらない。
アウトリーチとかサイエンスコミュニケーションも,
「理科離れ対策」としてはほとんど意味をなさない。
ただ,
大人が楽しそうにしている様子を見せれば,
子供は自分も体験したいと思うはず。
それだけで良いのだ。
Tweet
「国際数学・理科教育調査」によって、
日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、
理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが明らかになり,
これを「理科離れ」として報じたのがはじまりか,と言われている。
その後,工学部進学が半減したことも,理科離れの存在の論拠とされている。
ちなみに「国際数学・理科教育調査2007」の概要を見ると,
設問は「理科(算数・数学)の勉強は楽しいか」となっていて,
単に「理科という学校科目の勉強が面白くない」ということであり,
「面白くない」のは「理科」なのか「勉強」なのか判別が難しい。
詳細を転載すると,
中学二年生の「理科の勉強が楽しいか」に対する4段階回答では,
「強くそう思う」が18%(国際平均は46%)であるが,
「そう思う」を合わせると58%と過半数となる。
一方で,
読売オンラインで「理科離れ」で検索すると,
「理科離れが進む中」「理科離れが懸念」
「理科離れを背景に」「理科離れを食い止める」
などの文言が踊るが,
これらの前段には理科離れが存在する旨の記載はない。
また,たとえば,
「理科離れを引き起こす原因に関する研究」のおいては,
「教師と生徒」という視点で「理科科目」を取り上げて,
「理科離れ」の原因を明らかにしようと取り組んでいるが,
その根拠は前掲の「国際数学・理科教育調査」である。
重要なことだが,
この「国際数学・理科教育調査」は,
数学と理科のみに関する調査で,
国語や社会や英語や体育などの科目については,
同時に調査されていない。
つまり,
「国際数学・理科教育調査」で,
「(他国に比べて)成績は良いけど,
(他国に比べて)理科をすごく面白いと思っている割合が少ない」
という結果が出た。
それを解釈するのに「理科離れ」という概念を提案した報道があった。
この用語を他の案件での報道でも安易に使い流布し,
結果的に「理科離れ」が既成事実化してしまった。
というのが「理科離れ」の経緯だろう。
要するに,
報道による「理科離れ」の再生産でしかないのだ。
「理科離れなんてないさ,理科離れなんてウソさ」なのだ。
では「理科離れのようなもの」が,
まったく実態がないものなのかというと,
そういうわけでもないだろう。
たとえ「理科離れ」の根拠が薄弱だとはいえ,
「理科離れ」には皆が感覚的に納得しているわけだから,
社会現象として「理科離れのようなもの」は存在していると考える方が妥当だ。
これについては,
「理科離れに関するいくつかの問題:武竿久雄(PostDoc生物系)」による,
『「理科離れ=学習意欲の総合的低下」である。
あえて"理科離れ"という言葉を使わない方がよいと感じている。』
という指摘が一番しっくりくる。
「理科離れ」=「学習意欲の総合的低下」だとすると,
それを招いているのは何か。
ボクは経済至上主義だと思う。
テレビをつければ「金持ち特集」か「安いモ ノ特集」。
若い時からこういった言説に触れて育つと,
「いかに稼ぎ,いかに安く買うか」が,
人生の目標に思えてしまう子供が育ってしまうのではないか。
そうなると,
人々がよく使う言い回しである,
「それやって意味あるんですか?」
という考え方が,
物事の最も根源的な判断基準になってしまう。
言い換えよう。
スポーツをした時の爽快感,
難題を突破した時の達成感,
誰かと協力した時の一体感,
これら内面的な喜びには金銭価値がない。
体が疲労するスポーツよりも,
何かを知ることができるネットサーフィン。
人の心の機微を知る映画・ドラマよりも,
何かを知ることができる雑学・情報番組。
金銭という絶対的な数字や,
入手した情報の多寡といったものに囚われると,
定量不可能なものに対する判断力・思考力・想像力が低下する。
将来を考えても数字ばかりが頭に浮かび,
知らない事実が隠れていることにおびえ,
内面的な喜びの体験が薄く,
それがために将来の喜びを想像することもできない。
それでは将来に不安を感じてしまうのだろう。
だから「理科離れ」「学習意欲の低下」を解決するには,
「学習」の内面的な快楽を知る体験機会を増やすことが重要だろう。
でもそれは,学校教育だけでは限界がある。
というか,それこそ,
親に課せられている「教育を受けさせる義務」の本質ではないのか,と。
「教育を受けさせる義務」の本質は,
「子供の将来を,労働のために搾取しないため」なはず。
もし子供の将来の稼ぎを目的に教育を受けさせるのだとしたら,
あるいは子供に「学習の目的は金稼ぎだよ」という観念を植え付けているなら,
それは迂回はしてい るものの,
子供の将来を労働によって搾取していることに変わりない。
「理科離れ」は子供に顕在化しているが,
根は親にあるのだ。
1960-1980ぐらいに産まれた世代,
つまりは日本の誇りが経済にあった時代の人々には,
明るい将来が経済と結びつくのかもしれない。
しかし彼らの子供は経済成長が止まった世代。
親自身が育った環境の価値観と,
世相の変遷による親が大人になってからの価値観との不整合が,
そのまま子供の精神に歪みをもたらしているのではないだろうか。
子供の将来を労働に搾取させず教育ことを考えると,
何もない荒野に子供を放ちながら,
子供に気付かれないように安全柵を設置して,
子供自身が自発的(と感じるよう)に,
「世界と自分」「自分とは何か」「世界の仕組み」について,
考えざるをえない機会を与える,
というようなやり方が,ある種の理想型と思われる。
最後に。
だから科学者が,
「理科離れって言われてるけど,理科は楽しいよ」
って言うのは金輪際やめにしたい。
その枕はいらない。
アウトリーチとかサイエンスコミュニケーションも,
「理科離れ対策」としてはほとんど意味をなさない。
ただ,
大人が楽しそうにしている様子を見せれば,
子供は自分も体験したいと思うはず。
それだけで良いのだ。
今日のお話はタイトルのまんまですが,
教育とか経済とか政治とか研究とか,
まぁ結構なんでもそうですけども,
成長とか進歩とかを考える時に,
特に教育者や為政者などの,いわゆる「与える側」側が,
必ず持っておくべき視点だと思うのです。
これは持ちネタでいつも話していることなんだけども,
ボクが幼少の頃,実家にはデジタル時計がなかった。
それは,
「デジタル時計だと数字を見るだけで時刻がわかる。
アナログ時計なら毎回頭で考えなきゃ時刻がわからない。」
という考えに基づくもので,
こうして算数的な思考機会を与え,
単に時刻を調べるという行為がそのまま勉強機会になっていた。
もう1つ,新聞について。
これは以前,詳述している。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
要するに,
「家に新聞があって親が毎日読んでいるという状況が,
子供に対して「新聞を読む」という行為を喚起し,
それが実質的には文字に触れる機会となっている」
という話。
卒論の赤ペンをしていても同じこと。
50ページにわたる文章をすべて読んで逐一修正しても,
なぜ修正されているかがわからなければ同じ誤りを繰り返す。
だから書き方のルールや,
あるいは書く際の注意事項のようなものを伝える方が,
逐一直していくよりも本人の上達につながる。
(本当は逐一直した中からエッセンスを吸い出す能力に期待するのだが)
経済用語の乗数効果とか言うのもそういうことだと思う。
税金から1兆円支出するのに,
単に1兆円を消費者に渡すと,それは単に1兆円の価値しかないし,
あるいはタンスに埋没するなら1兆円以下の価値しかない。
一方で,港町の加工場整備のために1兆円を使ったなら,
漁業が盛んになり,
海外から水産品シェアを奪い返し,
あるいは水産品自体の需要が増し,
さらなる設備投資など他の業種にも波及し,
もとの1兆円を超える効果をもたらす。
同じ「道路を作る」というコンテンツにしても,
それが「道路建設のための道路」なのか,
はたまた「産業活性化の仕組みとしての道路」なのか,
そういう枠組みをちゃんと考えているか否かは,
結果に大きな違いが生じてくる。
消費税増税の話も,
電子書籍教科書の話も,
それらのコンテンツとしての優位性みたいな論争が多いが,
本当はそれらは枠組みとして語られるものであって,
枠組みとしての優位性を語りあうべきだと思うのだ。
そうなってくると重要なのは,
「与える側」「決定権を持つ側」が,
問題点と解決の糸口を把握し,
それに見合った適切な枠組みを提案し,
受け入れてもらう(受け入れさせる)ということ。
(余談だが政治家の資質ってのはここにあると思う)
この「コンテンツではなく枠組みを与える」場合,
その意図を「受け取る側」が把握している必要はない。
結果的に良い方向に誘導されるような枠組みになっていれば,
別に施工時点でその意図が理解されていなくても問題ないし,
むしろわかられていないことが重要な場合もある。
たとえば「消費税増税」や「子供への叱責(体罰含む)」のように,
「コンテンツとしては(直接的には)負の影響を持つが,
枠組みとして正の影響を持つ(と考えている)」
という性質のモノを導入する際,
コンテンツベースで考えては話が前に進まない。
(だってコンテンツとしては負の影響だもの)
それが「横暴」なのか「英断」なのかは,
事前には人望によって,
事後には結果によって,
受け取る側に判断されるモノなわけです。
だからこそ与える側は,
自分の行為について自ら厳しく査定して,
その正当性を確信した上で実施せねばならない。
話が発散してきた。
もう一度。
大事なことは,
「(与える側としては小さなコストで)
受け取る側に最大の利益を生み出すような,
仕組みを見出して実施すること。」
です。
最後に,
ここまで枠組み論を展開してきたけども,
コンテンツを突き詰めることも大事。
むしろそっち方にこそ世界を変える力がある。
日本語の言い回しだと,
コンテンツを作るのが「アーティスト/クリエーター」で,
枠組みを作るのが「プロデューサー/ディレクター」か。
研究者ってのは本質的に前者だと思う。
ボクはそこを諦めてしまっていて,
研究業界で研究者側にいる後者の立場を突き詰めようと思っている。
Tweet
教育とか経済とか政治とか研究とか,
まぁ結構なんでもそうですけども,
成長とか進歩とかを考える時に,
特に教育者や為政者などの,いわゆる「与える側」側が,
必ず持っておくべき視点だと思うのです。
これは持ちネタでいつも話していることなんだけども,
ボクが幼少の頃,実家にはデジタル時計がなかった。
それは,
「デジタル時計だと数字を見るだけで時刻がわかる。
アナログ時計なら毎回頭で考えなきゃ時刻がわからない。」
という考えに基づくもので,
こうして算数的な思考機会を与え,
単に時刻を調べるという行為がそのまま勉強機会になっていた。
もう1つ,新聞について。
これは以前,詳述している。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
要するに,
「家に新聞があって親が毎日読んでいるという状況が,
子供に対して「新聞を読む」という行為を喚起し,
それが実質的には文字に触れる機会となっている」
という話。
卒論の赤ペンをしていても同じこと。
50ページにわたる文章をすべて読んで逐一修正しても,
なぜ修正されているかがわからなければ同じ誤りを繰り返す。
だから書き方のルールや,
あるいは書く際の注意事項のようなものを伝える方が,
逐一直していくよりも本人の上達につながる。
(本当は逐一直した中からエッセンスを吸い出す能力に期待するのだが)
経済用語の乗数効果とか言うのもそういうことだと思う。
税金から1兆円支出するのに,
単に1兆円を消費者に渡すと,それは単に1兆円の価値しかないし,
あるいはタンスに埋没するなら1兆円以下の価値しかない。
一方で,港町の加工場整備のために1兆円を使ったなら,
漁業が盛んになり,
海外から水産品シェアを奪い返し,
あるいは水産品自体の需要が増し,
さらなる設備投資など他の業種にも波及し,
もとの1兆円を超える効果をもたらす。
同じ「道路を作る」というコンテンツにしても,
それが「道路建設のための道路」なのか,
はたまた「産業活性化の仕組みとしての道路」なのか,
そういう枠組みをちゃんと考えているか否かは,
結果に大きな違いが生じてくる。
消費税増税の話も,
電子書籍教科書の話も,
それらのコンテンツとしての優位性みたいな論争が多いが,
本当はそれらは枠組みとして語られるものであって,
枠組みとしての優位性を語りあうべきだと思うのだ。
そうなってくると重要なのは,
「与える側」「決定権を持つ側」が,
問題点と解決の糸口を把握し,
それに見合った適切な枠組みを提案し,
受け入れてもらう(受け入れさせる)ということ。
(余談だが政治家の資質ってのはここにあると思う)
この「コンテンツではなく枠組みを与える」場合,
その意図を「受け取る側」が把握している必要はない。
結果的に良い方向に誘導されるような枠組みになっていれば,
別に施工時点でその意図が理解されていなくても問題ないし,
むしろわかられていないことが重要な場合もある。
たとえば「消費税増税」や「子供への叱責(体罰含む)」のように,
「コンテンツとしては(直接的には)負の影響を持つが,
枠組みとして正の影響を持つ(と考えている)」
という性質のモノを導入する際,
コンテンツベースで考えては話が前に進まない。
(だってコンテンツとしては負の影響だもの)
それが「横暴」なのか「英断」なのかは,
事前には人望によって,
事後には結果によって,
受け取る側に判断されるモノなわけです。
だからこそ与える側は,
自分の行為について自ら厳しく査定して,
その正当性を確信した上で実施せねばならない。
話が発散してきた。
もう一度。
大事なことは,
「(与える側としては小さなコストで)
受け取る側に最大の利益を生み出すような,
仕組みを見出して実施すること。」
です。
最後に,
ここまで枠組み論を展開してきたけども,
コンテンツを突き詰めることも大事。
むしろそっち方にこそ世界を変える力がある。
日本語の言い回しだと,
コンテンツを作るのが「アーティスト/クリエーター」で,
枠組みを作るのが「プロデューサー/ディレクター」か。
研究者ってのは本質的に前者だと思う。
ボクはそこを諦めてしまっていて,
研究業界で研究者側にいる後者の立場を突き詰めようと思っている。
いまさらながら,
福澤諭吉「学問のすすめ」を読んでいます。
これまでの人生で一度も読んだことがないってのが不思議ですが,
まぁボクが読書をはじめたのは25歳からなので,仕方ない。
しかしすごい。
本当にすごい。
諭吉すごい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という超有名なフレーズではじまる初編ですが,
これについては,
「でも身分とか貧富とかは生まれつきやろ,,,」
みたいな思いを抱いていました。
しかしそんな程度の陳腐な反論は,
福澤諭吉大先生にはもちろんお見通しで,
それに対する回答もすぐ後で述べています。
初編では次のようなことも語られています。(意訳)
「人はうまれつき自由なものだけども,
程度を知らないとただのワガママ放蕩に陥ってしまう。
重要なことは,
天の道理に基づき,人の情に従い,他人の妨げをせず,
自分一人の自由を達成することだ」
悪い例もあげています。
「自分の金で夜な夜な遊ぶのは自由だ。
だけれども,
そうした暮らしを皆が真似しだすと世の風俗が乱れ,
結果的にマジメに暮らしたい他人の邪魔をすることになる」
さらに興味深いのが次の指摘。
「学の無い人間の一番ダメなところは,恥を知らないこと。
自分に学が無いから貧窮に陥っているのに,
それを棚にあげて富める人を怨み,
自分の都合の良いときは法に頼り,
自分の利益のためには法を平気で破る。」
これで終わらず次に続くのがこれ。
「こうした愚民には道理が通じない。
理屈抜きで厳しくしなければ愚民を正すことはできない。
「愚民の上に苛き政府あり」というけども,
それは政府が厳しいから愚民になるのではなく,
愚民の態度が悪いから,自分たちの行いの悪さで,
政府を厳しくさせてるんだよね。」
諭吉先生,今の日本を見て語っているようです。
その通りです。
今の日本はあなたの危惧した通りの状況です。
諭吉先生は本書を通じて,
「勉強して偉い学者さんになりなさい」と言っているわけではないのです。
そうではない。
============
人間一人一人が社会を構築する一員なのだから,
畜生のように本能のままに言動するのではなく,
勉学することで世の道理,人の情を知って,
一人一人が良い暮らしをしようじゃないか。
さらに一人一人が学問をして道理と情を身につければ,
それが公序良俗に通じ,皆が幸せに暮らしていけるよね。
============
そういうことを言っているのです。
すばらしい,すばらしいよ,諭吉さん。
Tweet
福澤諭吉「学問のすすめ」を読んでいます。
これまでの人生で一度も読んだことがないってのが不思議ですが,
まぁボクが読書をはじめたのは25歳からなので,仕方ない。
しかしすごい。
本当にすごい。
諭吉すごい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という超有名なフレーズではじまる初編ですが,
これについては,
「でも身分とか貧富とかは生まれつきやろ,,,」
みたいな思いを抱いていました。
しかしそんな程度の陳腐な反論は,
福澤諭吉大先生にはもちろんお見通しで,
それに対する回答もすぐ後で述べています。
初編では次のようなことも語られています。(意訳)
「人はうまれつき自由なものだけども,
程度を知らないとただのワガママ放蕩に陥ってしまう。
重要なことは,
天の道理に基づき,人の情に従い,他人の妨げをせず,
自分一人の自由を達成することだ」
悪い例もあげています。
「自分の金で夜な夜な遊ぶのは自由だ。
だけれども,
そうした暮らしを皆が真似しだすと世の風俗が乱れ,
結果的にマジメに暮らしたい他人の邪魔をすることになる」
さらに興味深いのが次の指摘。
「学の無い人間の一番ダメなところは,恥を知らないこと。
自分に学が無いから貧窮に陥っているのに,
それを棚にあげて富める人を怨み,
自分の都合の良いときは法に頼り,
自分の利益のためには法を平気で破る。」
これで終わらず次に続くのがこれ。
「こうした愚民には道理が通じない。
理屈抜きで厳しくしなければ愚民を正すことはできない。
「愚民の上に苛き政府あり」というけども,
それは政府が厳しいから愚民になるのではなく,
愚民の態度が悪いから,自分たちの行いの悪さで,
政府を厳しくさせてるんだよね。」
諭吉先生,今の日本を見て語っているようです。
その通りです。
今の日本はあなたの危惧した通りの状況です。
諭吉先生は本書を通じて,
「勉強して偉い学者さんになりなさい」と言っているわけではないのです。
そうではない。
============
人間一人一人が社会を構築する一員なのだから,
畜生のように本能のままに言動するのではなく,
勉学することで世の道理,人の情を知って,
一人一人が良い暮らしをしようじゃないか。
さらに一人一人が学問をして道理と情を身につければ,
それが公序良俗に通じ,皆が幸せに暮らしていけるよね。
============
そういうことを言っているのです。
すばらしい,すばらしいよ,諭吉さん。
東大が新入生の秋入学を検討している件について。
元ネタは「入学時期の在り方に関する懇談会」の「中間まとめ」らしい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/pdf/20120120interim.report.pdf
ネットに散乱してる言い分は大体この中で検討されている。
文句を言う前にまず読みましょう。
で,
すごく大雑把にまとめると,
・入学時期変更検討のモチベーションは国際化
・国際的主流の秋入学に合わせることで国際流動性の向上に期待
・国際化の目的は「グローバル人材」育成
・付加価値としてギャップターム
・学生を変容させるための国際経験/ギャップターム活動
・東大の制度改革から社会制度改革への波及を期待
という感じ。
感想としては,
「うちの子はすくすくと育って何の問題もないんだけど,
なんとなく温室育ちでひ弱な感じがするし,
近所の評判もガリ勉君よりガキ大将の方が高かったりもするし,
厳しくして成長を促そうと思うんだけど,
具体的にどうしたらいいかわからないし,
グレたりショック死したりしても困るから,
とりあえず近所の教育ママにならって,
うちの子も親戚の家に預けてみることにしよう」
という印象。
「東大総長肝いりの親バカ計画」と呼ぶのがふさわしいか。
基本的な話だけども,
システムってのは大部分の方向性を自動的に決めてしまうもので,
少数派の行動はシステム外でフォローしていくってのが,
システム運用の「在り方」なのです。
東大には学生以外にも教員や事務員がいるわけで,
そこまで含めて考えた時に,
「学生の国際経験」だけなら少数派の行動であって,
システムはそのままに,システム外のフォローで対応すべき。
反対に,
教員や事務員も含めて大学すべてを国際化したいのなら,
入学制度だけじゃなくて全学を国際標準システムに合わせないと,
目的を達成することはできない。
ってことで,
「グローバル人材の育成」が目的のシステム変更は,
効果を期待する対象が少数であることでもって,
コストが大きいだけのムダ打ち,アホの所行,と断じてしまえる。
国際化を目的とした意味ではまったくナンセンス。
一方で,
「ギャップターム」だとか,
「高校ー大学のシームレスな接続は本当に効率的か」だとか,
「大学と企業の関係性に一石」だとかは,
たぶん後付けの話題なんだろうけども,
こちらの方が日本社会全体にとっては重要な話題。
話が学内にとどまらず社会全体の変革に波及することを考えると,
東大が秋入学に変更すると相当数の大学が追随してくるだろうし,
そうなると東大のシステムはモデルケースとして利用されるわけで,
システムの対象が社会の多数派にまでおよぶ可能性がある。
(それを期待しているわけだし)
だから議論の出発点を「ギャップターム」に設定して議論するのであれば,
秋入学制は大いに検討に値する。
以下,「中間まとめ」の私的メモ
秋入学検討の動機
○東大としての課題
学生の留学の受け入れ・送り出しの双方…学期のズレは余分な時間・コストを強いる。
(東大学生には意思があるが)留学によって留年する懸念が阻害要因。(アンケート)
○教育システムとしての課題
(高校ー大学の)シームレスな接続か,ギャップイヤーか。根本的な問題の再検討が必要。
(受験勉強という外的動機付けから,大学での能動的な学びへの変換のため)
○人材育成の課題
「グローバル人材」の育成,学生の「内向き志向」の是正の必要性。
(元々東大は「市民的エリート」育成を憲章でうたっている)
グローバル人材の基盤は「語学・コミュニケーション力」
学生アンケートでも上記の力が低いという自己評価。
「学生の流動性の高さは教育の室や国際競争力を示す重要な意味」
(唐突な記載。根拠は?)
同一学年の20%(EU基準)10%(G人材育成推進会議の政策目標)を1年以上の海外留学。
メリット
最大:国際標準と整合し,学生教員の国際流動性が高まる。
学期のズレが解消されればIT授業も広く展開可能になる。
長期休暇の有効利用による教員の活力増進(?)。
企業の採用活動との関わりを社会全体で考え直す契機に。
デメリット
ギャップ時期の家計負担・機会費用・公的試験(医師・法曹・公務員など)との整合
(学内事情として)進学振り分けと入試が同時期に集中
春秋二期採用(複線化)は人的・物的コストが困難。
大学院については多様性があり従来通り複線でも問題ない。
受験時期を他大学とずらすと仮面浪人増加という社会的に負の影響。
入試は現行のままに入学前ギャップタームを。
○基本的スタンス
単に入学時期を変えるだけでない抜本的改革を実施し,
この東大の抜本的変革が社会に波及することを目指す。
一方,大学教育の国際化は,それ自体が最終目標ではない。
自らが少数者となる立場に身を置くことの教育効果。
(同質性の高い学生集団・生活環境からの脱却)
高校ー大学間の接続がシームレスであることが効率的で望ましいという立場に対して,
多様な経験のための寄り道を許容する態度での新たな制度設計。
(前向きな)休学の位置づけも再検討。
飛び級卒業制度も検討。
「全員に国際的な学習体験を」のイメージ
SIE1:単位取得を伴う海外留学(全体の10〜15%)
SIE2:語学留学などその他の海外体験(全体の20〜35%,上記と合わせ50%)
SIE3:英語授業・留学生交流などの学内国際体験(全学)
到達目標例として,卒業者過半がTOEFLスコアで留学可能水準に到達
単に語学力にとどまらず,コミュニケーション力向上の総合推進
ギャップタームの使い方に大学が関与すべきかは要検討。
基本的には信頼するが支援/指導も考えなければ。
ギャップターム中の活動をいかにひょうかするか。
研究経験/社会活動/補習的勉強などを想定
産学官連携の非営利団体を通じてインターンの場を設定
Tweet
元ネタは「入学時期の在り方に関する懇談会」の「中間まとめ」らしい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/pdf/20120120interim.report.pdf
ネットに散乱してる言い分は大体この中で検討されている。
文句を言う前にまず読みましょう。
で,
すごく大雑把にまとめると,
・入学時期変更検討のモチベーションは国際化
・国際的主流の秋入学に合わせることで国際流動性の向上に期待
・国際化の目的は「グローバル人材」育成
・付加価値としてギャップターム
・学生を変容させるための国際経験/ギャップターム活動
・東大の制度改革から社会制度改革への波及を期待
という感じ。
感想としては,
「うちの子はすくすくと育って何の問題もないんだけど,
なんとなく温室育ちでひ弱な感じがするし,
近所の評判もガリ勉君よりガキ大将の方が高かったりもするし,
厳しくして成長を促そうと思うんだけど,
具体的にどうしたらいいかわからないし,
グレたりショック死したりしても困るから,
とりあえず近所の教育ママにならって,
うちの子も親戚の家に預けてみることにしよう」
という印象。
「東大総長肝いりの親バカ計画」と呼ぶのがふさわしいか。
基本的な話だけども,
システムってのは大部分の方向性を自動的に決めてしまうもので,
少数派の行動はシステム外でフォローしていくってのが,
システム運用の「在り方」なのです。
東大には学生以外にも教員や事務員がいるわけで,
そこまで含めて考えた時に,
「学生の国際経験」だけなら少数派の行動であって,
システムはそのままに,システム外のフォローで対応すべき。
反対に,
教員や事務員も含めて大学すべてを国際化したいのなら,
入学制度だけじゃなくて全学を国際標準システムに合わせないと,
目的を達成することはできない。
ってことで,
「グローバル人材の育成」が目的のシステム変更は,
効果を期待する対象が少数であることでもって,
コストが大きいだけのムダ打ち,アホの所行,と断じてしまえる。
国際化を目的とした意味ではまったくナンセンス。
一方で,
「ギャップターム」だとか,
「高校ー大学のシームレスな接続は本当に効率的か」だとか,
「大学と企業の関係性に一石」だとかは,
たぶん後付けの話題なんだろうけども,
こちらの方が日本社会全体にとっては重要な話題。
話が学内にとどまらず社会全体の変革に波及することを考えると,
東大が秋入学に変更すると相当数の大学が追随してくるだろうし,
そうなると東大のシステムはモデルケースとして利用されるわけで,
システムの対象が社会の多数派にまでおよぶ可能性がある。
(それを期待しているわけだし)
だから議論の出発点を「ギャップターム」に設定して議論するのであれば,
秋入学制は大いに検討に値する。
以下,「中間まとめ」の私的メモ
秋入学検討の動機
○東大としての課題
学生の留学の受け入れ・送り出しの双方…学期のズレは余分な時間・コストを強いる。
(東大学生には意思があるが)留学によって留年する懸念が阻害要因。(アンケート)
○教育システムとしての課題
(高校ー大学の)シームレスな接続か,ギャップイヤーか。根本的な問題の再検討が必要。
(受験勉強という外的動機付けから,大学での能動的な学びへの変換のため)
○人材育成の課題
「グローバル人材」の育成,学生の「内向き志向」の是正の必要性。
(元々東大は「市民的エリート」育成を憲章でうたっている)
グローバル人材の基盤は「語学・コミュニケーション力」
学生アンケートでも上記の力が低いという自己評価。
「学生の流動性の高さは教育の室や国際競争力を示す重要な意味」
(唐突な記載。根拠は?)
同一学年の20%(EU基準)10%(G人材育成推進会議の政策目標)を1年以上の海外留学。
メリット
最大:国際標準と整合し,学生教員の国際流動性が高まる。
学期のズレが解消されればIT授業も広く展開可能になる。
長期休暇の有効利用による教員の活力増進(?)。
企業の採用活動との関わりを社会全体で考え直す契機に。
デメリット
ギャップ時期の家計負担・機会費用・公的試験(医師・法曹・公務員など)との整合
(学内事情として)進学振り分けと入試が同時期に集中
春秋二期採用(複線化)は人的・物的コストが困難。
大学院については多様性があり従来通り複線でも問題ない。
受験時期を他大学とずらすと仮面浪人増加という社会的に負の影響。
入試は現行のままに入学前ギャップタームを。
○基本的スタンス
単に入学時期を変えるだけでない抜本的改革を実施し,
この東大の抜本的変革が社会に波及することを目指す。
一方,大学教育の国際化は,それ自体が最終目標ではない。
自らが少数者となる立場に身を置くことの教育効果。
(同質性の高い学生集団・生活環境からの脱却)
高校ー大学間の接続がシームレスであることが効率的で望ましいという立場に対して,
多様な経験のための寄り道を許容する態度での新たな制度設計。
(前向きな)休学の位置づけも再検討。
飛び級卒業制度も検討。
「全員に国際的な学習体験を」のイメージ
SIE1:単位取得を伴う海外留学(全体の10〜15%)
SIE2:語学留学などその他の海外体験(全体の20〜35%,上記と合わせ50%)
SIE3:英語授業・留学生交流などの学内国際体験(全学)
到達目標例として,卒業者過半がTOEFLスコアで留学可能水準に到達
単に語学力にとどまらず,コミュニケーション力向上の総合推進
ギャップタームの使い方に大学が関与すべきかは要検討。
基本的には信頼するが支援/指導も考えなければ。
ギャップターム中の活動をいかにひょうかするか。
研究経験/社会活動/補習的勉強などを想定
産学官連携の非営利団体を通じてインターンの場を設定