忍者ブログ
自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
[46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56]
河本問題。

事実だけでとらえると,
・河本母・河本ともに本当に困窮していた時に生活保護を受け始めた
・河本が年収数千万に至った
・その後も河本母は生活保護を受け続けた
・河本はその事実を把握し「もらえるならもらっとけ」と言った(という雑誌の第一報)
だろうか。

この話は,
法律に不備(親族の収入と支給の関係)があるとか,
運用(保護支給の審査)に問題があるとか,
そういう問題じゃ無い。

たとえ子に収入があろうとも,
手続き上は問題とされずに受給資格が認められているわけで,
その点で河本一家には非は無い。
(罪を犯していても裁判で無罪になれば被告に非は無いことになるのと同じ論理)

このほかにも色々な側面から色々なことが言われているけども,
大原則に立ち返ると,
「ある人の権利の行使を,第三者が否定することはできない」
ということだろう。

河本母に受給の権利があると判断された以上,
受給することには手続き上,問題は無い。
こうした状況下で,
第三者が「受給を辞退しろ」と強要することは,
「権利を侵すべからず」という大原則に反する。

ただし,
あくまで「権利」であって「義務」ではないので,
「受給しなければならない」わけではなく,
自発的に権利を放棄することは何の問題もない。

ということで,
今回の騒動から教訓というか問題点を洗い出すなら,
「実際は生活に足る金を持っていながら,
 権利を行使して生活保護を受給していた,という,
 河本家の卑しく醜い精神性」
だろう。


では醜いのは河本家だけなのだろうか。


30歳の平均年収は400万ほどらしい。
アレな話だけども,
ボクはこれより多くはもらっている。
なので,
生活に困るほど貧窮しているわけでもない。
ということもあって,
ボク自身,
子ども手当を受け取ることに逡巡があり,
子ども手当受給手続きをしないでおこうと思っていた。
しかし,
まぁ色々とあって,完全に納得したわけでは無いけども,
現在は子ども手当を受け取っている。

「子供が成長することが社会のためになり,
 ボクはその代行をしているにすぎない。
 私腹を肥やすためでは無い」
と思う(思い込む)ことで,
なんとか自分を納得させたのだと思う。
しかしこの騒動で忘れていたそうした初志を思い出し,
それこそ現状の自分の醜さに吐き気がする思いだ。


なんともタイムリーなことに,
昨日はうちの会社で給与減額に関する説明会があったらしく,
相当な不満の声があがったらしい。
(出てないから詳しくはわからないけども)

法的にも年度当初の雇用契約に反して減額するのは問題があるし,
任期付という特殊で不安定な契約形態の職員まで,
国家公務員に準じて一律減額というのはおかしくもある。
そもそも今回の公務員減給は政治パフォーマンスだと見る向きが大勢で,
そんなのに付き合わされるのは迷惑だという気持ちも理解はできる。

確かにボクもそう思う。
立ち話や飲み会では,
「任期付の減額が大きすぎる。
 理事長は半額にしろ!」
とか楽しんで言っている。

とはいえ,
とはいえ,だ。

普通の会社であれば,
会社の業績が傾けば給料は下がるだろうし,
無い袖は振れないわけだ。
逆に考えれば,
今までが超厚遇であっただけで,
(多くの人は)減給されたって今すぐ生活が立ち行かなくなるわけでも無い。
「任期付で不安定な若手研究者」とか言って嘆いている連中も,
実際のところは「晩酌はプレモルじゃないと」とか言ってる始末。
この現代社会で,
数パーセントの減給なんてことは容易に起こりうるわけで,
(経済自体がシュリンクしてるんだから)
「うちのローンが」とか「子供がたくさん」とか
あまり騒ぐのもどうか,と思うわけで,
実際のところ,
ボク自身は,
ボク自身の減給について特にごねることもなく受け入れるつもりでいる。


で,
話を元に戻すと,
いったい何が問題だったのか,ということ。


うちの会社の人々が,
「減給,受け入れ難し!」
「契約違反だ!」と言って,
自身の雇用契約上の権利を主張する。

河本母が,
権利が認められたから生活保護を受給していた。

何の違いがあるのか。

どちらも等しく「権利の行使」であって,
どちらも等しく「卑しく醜い」と思う。

ある人が卑しくて醜い。
でもそれは,その人がそういう人であるということであって,
それ以上の意味はまったくない。
だから社会問題ではない。

これを社会問題とするならば,
「品性下劣な人々で社会が構成されている」ということが,
問題なのだろう。
だから生活保護の支給基準の見直しとかそういう施策には意味がなく,
やはり本質的な教育の問題なのだ。(もちろん学校教育だけの話じゃない)


もう1つ。
ここまで考えてきた通り,
河本一家は権利を行使しただけであって,
これを糾弾することは重大な権利の侵害である。
それを国会議員が,
ネットを通じて「調査する」と宣言したことの方が,
よほど大きな問題だと思う。

その程度の社会観念しか持たないものが国会議員をしていて,
それを後押しする国民が多いという現状は,
生活保護の不正受給者が多数いるという事実を凌駕するほどに,
この国が「品性下劣」であることを示していると思う。


端的に「未熟」である。
卑しく醜いと言うことは,つまりは未熟であるということだ。
こうして他人を攻撃する文章を書かずにはいられないボクも未熟だ。
福澤諭吉の言うところの「独立自尊の精神」が必要だ。
PR
観測ベースの,
しかも再現性のないモノ(不均質・現場培養)ばかり扱ってきたので,
研究プラン・デザインというものに対して,
曖昧な態度でいることが多かった。
特に潜航調査などでは,
試料自体が通常は入手困難なので,
「採れたモノの中で議論」という逃げ道があった(今もあるけど)。

でも最近になって培養実験や分析法の精査などをしていると,
やはり大事なことは,
「実験デザイン」なのだと痛感させられる。

「コレがわかれば世界はひらける」ということに気付くのは,
あるいはある種の才能が効いてくるのかもしれない。

一方で,
「じゃあ,何をどうすれば,それが明らかになるか」
という部分については,
才能なんか関係なくて,
「不断の文献調査」と「思考実験に基づく実験デザイン構築」だ。
とはいえ,
それだって別に仰々しいものではない。

修士をとったぐらいで普通に身につけているべきもので,
目の前の可能性と,その分岐した先にまたある分岐とを,
アミダクジだかトーナメント表だかフローチャートだかのようにして,
自分の到達したい部分に至るために,
どの可能性でポジティブ(応答あり)な結果を得て,
どの可能性でネガティブ(応答なし)の結果が得られれば良いのか。
証明したい事実に対して,
1つの実験操作が逆・裏・対偶のどの関係にあるのか。
それらをしっかりと考えて,考えて,取り組む。

ここでの見定めがハッキリしていないと,
実験なんてモノは無限にできてしまうものなので,
ただ時間を浪費するだけに終わってしまう。
そんなのは自分のカネでやる趣味であって,研究ではない。

よくよく考えてデザインしたプランで実験に取り組みはじめた後も,
予想だにしない結果が出てきた時は,
はじめにデザインをした際のプリンシプルに立ち返って,
「結局,どういう結果が得られれば自分の研究はゴールするのか」
を自分自身(と実験結果)に問い続けねばならない。

それはたとえば,
論文が「導入ー手法ー結果ー考察」から構成されているように,
一個一個の実験操作にも「導入ー手法ー結果ー考察」が必要だということだろう。

良い論文,良い研究というのは,
やはりデザインがはっきりしていて,
最小のデータで主張を押し出すことにあるんじゃないか。

学生の場合,何も考えずにバカみたいに時間を使って実験しても,
「結果ー考察」の部分はゼミなりで先生が修正してくれるので,
なんとなく通過できてしまうかもしれない。
でも,博士をとって独り立ちした研究者と呼ばれるに至るに,
そこの部分は,自分でしっかりと見定める必要がある。
それが出来ないのであれば,
それは学位こそ持っていれども独り立ちした研究者ではない。

航海・プロポ・外部発表に追われている中でも,
少しの時間でもしっかりと整理していれば,
一点突破の美しい実験デザインは可能なはず。

特に「特殊培養×特殊分析技術」なのだから,
良い結果が出るのは当たり前。
実験デザインの時点で勝負は決まっているのだ。
「理科離れ」問題について,
ただ単に考えたり,
ブログやツイッターにグチのようなものを綴っても,
何の解決もしない。
こういうものは,
出口がないと自己満足で終わってしまう。
それでは意味がない。

学問のすすめで福澤諭吉は,
「国の文明は,
 お上や下小民が作るべきでなく,
 その中間から興るべきものだ」
と述べている(意訳)。

その中間というのは,
たぶん自分で考えることができる自立した市民で,
今の自分なんかはまさにそれにあたるのではないか,
と思う。
もちろん,諭吉はこの立場を徹底したから,
国の機関ではなく私塾を運営したわけだろうし。

で,
盲目的に「理科離れ」という言葉を使い,
自らの文明をおとしめている現状は憂うべきものであり,
それをたださんとすることが,
ボクのような中間の市民の役割だと思う。

そこで何をどうすれば良いか,つまりは,
「お上」が耳を傾けるような方法で,同時に,
「下小民」も納得するような方法は,何があるか。

現在の日本で下小民の納得を得ることを考えると,
たぶんテレビメディアなのだろう。
まぁ,お上もたぶんにその影響を受けるだろうけども,
お上を納得させるには,きちんとした「モノ」も必要だろう。

そう考えると本を書くのが一番なのかもしれない。
調べてみたら,新書は大体12~15万字らしい。

集まって未来を語るのが好きな類の若手研究者の集団で,
「理科離れ」の実態についての調査をやって,
それをまとめて本に出来ないモノかな。
誰もやってくれなきゃ,
自分でやるしかないのか?
それはシンドイぞ。

社会のあれやこれやを考えているわけだけど,
そんな中で友人(だと勝手に思っている)による,
「端的に、この国は人権概念が薄い」という思いにドキリとさせられる。
もっとも端的に言ってしまえば,そういうことだと思う。

この国で「人権」というと,
「人」の「権利」という具合で,
「私には人権がある」という感じで,
なんというか「主張」のようなニュアンスに感じられる。
これはたぶんに教育上の問題で,
社会科の授業で「人権」について教えている人が,
そういう具合に教えているので,
なんとなく,そんな具合に考えるようになっているからだろう。

別にちゃんと勉強したわけではないので,
正しいかどうかはわからないけど,
というか,人権ってのはおそらく概念的なもので,
これは人権,これは人権じゃない,みたいな,
クリアカットにできる性質のものじゃないんだろうけど,
それでも人権ってものの本質のようなモノは感じている。

「私には人権がある」というような類のものではなくて,
「他人の人権を侵してはならない」という類のものだと思う。

人権というのは個人に付与されている何かではなくて,
「何人たりとも誰かに何かを強要してはならないという意識」を,
強要された側の個人から見たものなのだろう。
だから人権について考える時に,
まず人権というものが存在すると考えると,
かえって人権という概念の本質に近づけないのだと思う。
社会科の教科書的には「人権は個人に備わった権利」なのかもしれないが,
そうではなくって,
「誰かに何かを強要してはならない」ってことの裏返しが人権なのだろう。

だから人権ってのは,
侵された時に認識されるもので,
(それは実際に,でなくても思考上かもしれないが),
かならず相手を迂回するものである。

一人称で人権を語る人々がいて,
それがモノとカネが行き交うだけの市場経済と合わさると,
もはや本当の意味での人権はないがしろにされて,
人権意識が希薄な社会が形成されるのだろう。

人権に立ち返ると,
「誰かに何かを強要する権利は誰にも付与されていない」ということで,
それを裏返して読んだ時に
「人は誰からも何も強要されずに生きる権利を有する」となる。

だから人権意識を持って社会活動を営むと言うことは,
「私には人権が存在する」ということではなくって,
「私は誰かに何かを強要するようなことはしない」ということなのだろう。
そしてそれは家族でも友人でも会社でも,もちろんそうあるべき。

「私には権利があるから」という主張をしたければ,
「私の権利の行使が誰かの権利を侵していないか」を同時に吟味しなければならない。
それなしに,自分の権利だけが先に存在するということは,ありえない。

すべてのベースにこういうことがあって,
その上で個人の権利について,
国や組織や法律との間で,管理したり保護したりという関係が生じる,
そういう順番でものを考えるべきなんじゃないかと思う。

よくわからん。
ちゃんと勉強せねば。

思わぬところで信頼を得ていたり,
いつまでたっても信頼してもらえなかったりする。
それは相手によるものなので,
正直言って,自分自身ではどうしようもない。
困ったことではあるけど,仕方ない。


この数年,特に気をつけていることだけど,
社会ってのをドンドン突き詰めていくと,
どんなことであれ結局最後に行き着くのは,
「人間の生身性」「生身の人間」みたいな部分である。
だから,
「生身の人間」を損なうような言動は慎むようにしている。

たとえば心理的には,
論理的にどれだけ正しいことでも,
納得できないことは納得できないし,
論理的でなかったり根拠がなかったとしても,
なぜか確信的に納得できることもある。
これは震災後により顕著に表れた「安全と安心は別物」っってのに,
非常に顕著にあらわれている。

肉体的な限界というのもあって,
たとえ「やればできる」ことだったとしても,
「やれない」ような肉体的な状況もある。
たとえば,
「時給1000円でも年収870万は可能」ってのは事実で,
「24時間365日休まず働いたら」確かに到達できるけど,
どう考えてもそんなのはムリ筋。
ムリというのは嘘吐きの言葉」っていうワタミの言葉は,
人間が生身であることに対する敬意をまったく欠いている。
(震災が無ければこの人が都知事だったと思うと・・・)

生身であるということは,
それぞれがまったく同一であるということはありえなくって,
つまり「生身の限界」は個々に違っているということ。
たとえば男性と女性は生身の肉体が根本的に違う。
でも,
それぞれの個人の生身というのは,
男女間の肉体の違いと同じぐらい,
それぞれが根本的に異なるものである。

社会というものが個人の集合である以上,
「個人の生身はそれぞれ異なるものである」という点をスタートにして,
その上で社会的な属性(年齢とか性とか)で分類する方が,
社会の構成を認知する上では間違いが少ないのではないだろうか。

極端なフェミニズムが受け入れられないのは,
男女の違いが何よりも大きな個人間の違いであるような印象を与え,
たとえば女性同士での個人の違いみたいなものが矮小化されているからかもしれない。
市場原理主義を社会システムの大黒柱に据えると,
経済的観点では人間の生身性がそもそも考慮されていないので,
生身の人間として先に限界を迎えた人が置いてけぼりを食うことになるだろう。

人間同士のつきあいでも重要なことは,
「論理的な正しさ」や「社会的な属性」なんかではなくて,
「生身に対して敬意を持って接する」ことができるかどうかだ。
人間同士の関係性の根はそこにあると思う。

相手を信頼することの大前提には,
「この人は自分の生身に危害を加えようとしていない」ということがある。
たとえ相手が意図していなかったとしても,
自分の生身の傷つきやすい部分に触れてくるならば,
やはりその人を信頼することは難しい。
そのあたり,いわゆる「人間性」なのだろう。

危害を加えるとは少し違うけども,
ボクが強く不快感を抱く人間というのは,
「自分の正しさを信じてやまない」タイプの人。
こういう人は,
「相手には個別の事情がある」という部分に敬意がなく,
無意識に相手の個人の尊厳という部分を傷つけているのだと思う。
ボクはそう感じる。

逆に信頼をよせられる相手というのは,
自分に危害を加えないことに加え,
自分の生身の部分に敬意を示してくれる人。
それには二通りあって,
傷つきやすい部分に気付いた上で振る舞う人と,
はじめから生身の部分では接点を持たないようにする人。
いわゆる「わかりあえる仲」と「一定の距離を持って接する相手」。
個人的な信頼と,社会的な身分としての信頼,なのかもしれない。

まったくまとまらないな。
やめやめ。

学術誌のオープンアクセス・オンラインジャーナル化は今後も続くだろう。
これまでは「学術誌はどうなるか」という視点でこの話題を考えたが,
今日はこの流れの中で「論文・査読はどうなるか」ということを考える。
あんまりはっきりしないので,手短に。


オンラインジャーナルでは年間ページ数に制限がないため,
もうすでにPLoS ONEなどが先行しているが,
とにかくたくさんの投稿を受け付けて掲載するということが可能である。
誌面に限界が無い状態での受理する論文の本数は,
投稿数と査読スピードに制約される。
オンラインジャーナルでは「投稿料」ではなく「掲載料」を設定していて,
著者側にとっては投稿段階ではリスクがないので,
雑誌の知名度さえあれば投稿数については自然と伸びるだろう。
さらに現在は多数ある雑誌もメガジャーナルへの統廃合が進むだろう。
(この辺りはコチラに詳しい)

となると問題は査読スピード。
PLoS ONEなどメガオンラインジャーナルでは,
「データクオリティについて査読審査はするけども,
 議論の内容に関しては査読では無く掲載後の読者に判断をゆだねる」
という態度をとっている。
現時点では,査読者側がまだこのシステムに馴染んでいないせいで,
従来のジャーナルと同じテンションで査読をしているかもしれないが,
データクオリティのみ審査という方式は本来査読者にとって望ましい方向で,
(査読はボランティアなので労力が少ない方が好ましい)
どんどん浸透していくのだと思う。
つまり査読スピードを得るために「軽めの査読」が導入されるということ。

ここまでをまとめると,
・世に流通する論文数が増える(誌面の制約がないから)
・議論の短縮(議論が不足していても論文は掲載されるから)
・議論の質低下(トンデモ議論でも査読を通過するから)
辺りが考えられる。
ここでの短縮や質低下は,
あからさまに目に見えるほどの程度でなくて,
検出できない程に微弱な程度で少しずつ進行すると思われる。
(査読者の査読態度が新システムに馴染む速度にあわせて)

この流れが進むとどうなるか。
このシステムの歪みが襲いかかるのはまず読者だと思う。
・論文数が膨大ですべてに目を通すことができない。
・雑誌の名前で読むべき論文の値踏みできない。
・議論の質が保障されていないのでより注意深く読まねばならない。

読者としての研究者がこのような気持ちになると,
その人が著者に転じた時に同じ問題の裏返しが襲いかかる。
・どうせ目を通してもらえない。
・自分の論文の価値を伝える手段がない。
・誤った議論を公表してしまうリスクから執筆がより慎重になる。

こうして論文は,
「ほとんど議論がない結果報告論文」と,
「大きな飛躍のある議論を展開する論文」と,
二極化が進行するだろう。
後者の「大きな飛躍」は,
良い意味(科学が前進する)と,
悪い意味(論理破綻したトンデモ)とがあり,
どうなるかはわからないが,
どちらかというと悪い意味の方が目立つ世界になると予想される。


さて,どうなることやら。

再来週「機構における資源研究」という題でパネルディスカッションをする。
ちょっと考えたけど,まったく結論が出そうにない。
こういう時はまず分割。
「機構における研究」と「資源研究」にわけて考える。

大学では出来ない機構だからこその研究って言われると,
「金にモノをいわせる」ぐらいしか思いつかない。
でもそれじゃダメよね。
資源研究って成果は市場が判断するものだと思うのだが,
それもダメだろうね。
もう少し斜めから考えないとわからない感じ。


ちょうど読んでいる湯川と梅棹の対談で,
湯川が「非法則的認識」ということを言っている。
経験的事実に基づく世界観と,
理論・法則で構築した世界との間に,
完全なる一対一対応がとれない場合がある。
事象の繰り返し試験が多くできない場合には,
経験による検証が難しいし,
素粒子などの研究では,
そもそも対象を経験的(実感的)に扱うことができない。

この指摘は,
生物・地球科学の研究においては非常に重要な意味を持っていると思う。
地球の歴史を繰り返し試験で再現することはできないし,
繰り返しの際の「再現性の低さ」こそが生物進化のキーポイントだから,
経験的事実と理論・法則には大きな乖離がある。
ここで,地球や生物というモノ自体は容易に調査可能なので,
理論・法則の構築の方がより難易度の高い課題になる。
つまり,
完全な一対一対応の理論・法則の完成が永久に不可能な学問分野では,
「非法則的認識」が必要になってくる。

網羅的で精巧に作られた理論・法則ではないのだけれども,
実感として「こうだろう」と思われることを,
ある程度の事実に基づいて描写し共有する認識の形成。
言い換えると,
完全なる理論と純然たる事実の間の飛躍を埋める仮説の共有認識だろうか。

実験結果・観測事実に基づいて法則を発見しようとする時,
現在の科学業界の手法に従う(出版物の引用・査読)と,
一報の論文で完結せねばならないがゆえに個々の仕事が分断されてしまい,
「俯瞰的に見ることで経験的に認識される法則」のようなものは,
誌面に載せることが難しいし,誌面を通じて理解することも難しい。
一方で,
論文では一文字も登場しない研究の背後にある世界観の共有と言うか,
そういうモノは現在の科学業界にも存在していると思う。
だから,
現在の科学業界の手法に従わないでも科学の理解を深めることは可能だし,
科学業界の手法に従わない方法で先回りして理解を深めた後で,
科学業界の手法に従ってそれを公表していけば良いのだ。

海洋と地球という特定の対象を共有する様々な分野の研究者がいる機構の持つ,
「非法則的認識」を醸成する場としての機能に注目すれば良いのでは無いか。
「機構における研究」の価値を「非法則的認識の醸成」に求める,
あるいは「非法則的認識」を醸成できることこそが,
機構が持つユニークな研究ポテンシャルなのではないだろうか。


「資源研究」について。
資源研究とは,
資源的価値のある元素(あるいは分子)が濃集している場所を特定し,
それを回収することを目的として据えているため,
「地球化学」の範疇にあると考えることができる。
古典的地球化学というか,
地球科学と化学が融合して地球化学という学問分野ができたのだろうけど,
その地球化学というものを地球科学と化学のそれぞれから見た時,
地球科学では「ある元素がどこにどれだけあるか」と考えるのに対し,
化学では「ある元素が相を移動する際の分配」と考えている。
だから,
地球科学的地球化学は時間が動かないモデルだし,
化学的地球化学は空間の拡がりを考慮していないモデルである。

しかし,
海底下資源の形成は海底下流体系の駆動と切り離せない。
そして流体の移動は時間の関数であるし,
流体系は流入口と流出口のある限定された空間に分布している。
だから地球科学的地球化学と化学的地球化学をわけて考えることはできない。
(どんな地球化学の対象でも当たり前なのだけども)
逆に言うと,
流体の移動速度(滞留時間)と流体系の空間分布以外の知見は,
他の地球化学研究から流用できるわけで,
(もちろん「まだ誰もやっていない」可能性はある)
つまりは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」こそが,
資源研究のもっとも重要な研究対象になのではないか。

海底下流体系は,
地質学的な時間・空間スケールではあるが,
同時に動的な様子を実感することができるものでもある。
熱水噴出などはその典型例である。
ここで,
「非法則的認識」が重要となってくるわけである。

「機構における資源研究」とは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」について「非法則的認識」を共有すること,
だと言えるかもしれない。

震災から1年と言うことで,
震災に関わることを書こうと思うが,
地震に絡んだ科学を展開したことで,
色々と考えたことの総括のようなものにしようと思う。

地球科学の研究者の中には,
今回の地震(に関する調査)を千載一遇の好機と考えている人もいる。
それは事実だし,そ う思うことは研究者としての業のようなものだと思う。
ボクはなかなかこの部分を乗り越えることができなかった。
いわゆる「不謹慎と見られる」こともあるけども,
それ以上に,
「(放射能にからむ)土壌や水質調査など他にやるべきことがある」
「そもそも科学による社会の発展という図式が問われているのでは」
という部分が大きかった。

科学者として,
確かにこの大地震は魅力的な調査の対象である。
それは疑いようも無い事実だと思う。
でも,
その関心を表に出して(たとえばネットに)さらすのは,
あまりに愚かなことだと感じるし,
それについては再三ツイッターでも言及した。

一方で,
「この地震時に調査をしなければ地震という地球現象の理解が遅れる」
「地震のメカニズムを知ることは減災・防災の基盤となる」
というような言い分も聞こえてきた。
確かにそうなのかもしれない。
でもここで言う「減災」というのは,
どれぐらいの期間で達成されるのか,
あるいは,
今回の震災で様々な被害にあった人々の,
どのタイプの被害についてどれぐらい削減できるのか,
そういうビジョンが示されたことは皆無だと思う。

これはボクの個人的な感想だが,
基礎研究の積み重ねで減災が実現すると言っても,
その程度はたかが知れている。
最先端の地球科学をもってしても,
地震に関してわからないものはわからないし,
地震のことをすごく良くわかっていても,
ボロアパートに住んでいては減災からはほど遠い。
現時点において一般人が地震と向き合うには,
地球科学ではない別の力に頼る方が,人命を守るという観点では重要だ。
(頑丈な住居,津波の届かない立地,災害に強いインフラなど)
そしてこの考え方は,
地震を研究対象とする多くの研究者と大きく違わないとも思う。

であるからこそ,
今回の大地震を好機ととらえ研究に「利用」するのであれば,
「科学的に興味深いからや る」と言い切ってやるべきだと思う。

とってつけたように外向きに「役に立ちます」アピールすることに,
まったく賛同できない。
抑えきれない自分の科学者としての好奇心について,
他者から不謹慎と見られることを意識し恐れ,
その自分の「醜悪な好奇心」を覆い隠すために,
「役に立ちます」という仮面を被り表に出て行くことは,
欺瞞だ。

科学的に興味深いということは,
科学を推進する一番の動機だと思うし,
そしてその中身については,
ピアレビューによって精査されるべきだと思う。
ただしピアレビューについても,その運用においては注意が必要で,
ピアレビューシステムは同じ関心を持つ科学者間で行われるため,
原理的に「すでに課題が共有されている」ことになる。
言い換えるならば,
特定の研究分野のピアレビューの範疇を超えた,
異分野との比較した際の当該研究の重要性について,
ピアレビューシステムは過小評価してしまう危険性を内包している。

地球上に存在する人的・物的資源は限られている。
限られたリソースを共有して利用しているわけであって,
科学を推進することは,
必ずしもリソースを傾注すべきことではないかもしれない。
社会が抱える問題の解決の糸口として科学・技術は求められているかもしれない。
でも,特に高コストな科学・技術を待たずとも,
社会的な仕組みや考え方の変質によって問題が解決するならば,
そこに科学・技術は必ずしも必要なわけではない。

「広く役に立ちます」という視点でもなく,
「科学的に正しく推進すべき」という視点でもなく,
もう少し違う視点で,
科学者は研究することの正当性(妥当性)を,
国民に理解してもらう必要があるのではないだろうか。

ボクがいま重要だと考えている視点は,
「世界にはまだまだ謎が残っている」という好奇心の源泉の認識と,
「その謎が解ける」という達成感からくる快感の価値を,
一般人に喚起・共有すること。
それは「学習意欲」と呼ばれるものの延長線上だと思う。

つまり,
幼少の頃は「自分がわからなかったこと(謎)がわかる」ということが,
「学習」に取り組む意欲の源泉である。
それが少し大人になってくると,
「自分は知らないこと」について,
「他の誰かは知っているけど自分は知らない」という恥の意識からか,
意欲的に取り組むことが(精神的な意味で)難しくなってくる。
ちまたに跋扈する陰謀論者などはこの裏返しで,
「他の誰も知らないけど自分は知っている」という事実を作るために,
自己暗示をかけているような状況であると理解できる。

その「恥の意識」を取り去る一つの(あるいは唯一の)方法が,
「世界中の誰も知らない謎を解き明かす」ということではないか。
「誰も知らない」のだから「自分が知らない」ことは恥では無い。
誰にも恥じること無く「私はソレを知らない」と言える。
それが一般人にとっての「先端科学研究の価値」になりうるのではないか。
先端科学研究について一般の大人が触れることについて,
「(無知を恥じない)子供になれる」という免罪意識を喚起することは,
一般人に研究内容を紹介する上で重要な視点だろう。
さらに踏み込んで,
その先端科学研究課題について,
「あなたもわからないかもしれないが,私もわからないのです」と,
謎を共有する方向に持って行くことも重要だろうし,
「謎の共有意識の醸成」こそが「国民に対する研究内容の説明」であろう。


迂回した上に目的地にたどり着けなかったけど,
誤解を恐れずにまとめてしまうと,
「わかった科学」「わかると世界が開ける科学」よりも,
「世界は謎に包まれていてわからないことだらけの科学」を打ち出す方が,
科学者にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか。
気付けば時間というのは流れているモノで,
恐ろしいことに,
ブログを書きはじめて9年になる。
そんなこんなで,今週は軽めな話。

ボクがブログを書き始めたのは,
4年生の時に知り合った研究者がやっていたから。
彼は「研究者・大学教員の日常・考え」をネットに公開することで,
「研究者・大学教員は超天才しかなれないもの」という障壁を無くし,
相互理解を深めようと思っていたのだと勝手に思っている。
(ちょっと違うんだけど,今日の本題ではないので割愛)

その内に「内田樹」などなど,
多くのネット上の「先生」に出会ったこともあいまって,
自分もそういう人間でありたいと思ったことが,
こうやって9年も続く原動力になっているのだろう。
ちなみにボクの読書習慣は,
ネットで記事を読む習慣を身につけたのが先で,
そこで内田樹を知って,
彼の本を買って読んだのがはじまり(たぶんD1)。

先週の承認欲求にもつながるけども,
自分を「兄」と見る視線を感じたかったのかもしれない。
このブログで主張している内容ってのは,
面と向かって真顔で語るには青臭くて恥ずかしいものが多い。
というか,
こういった内容を主題とする議論の場ならいざ知らず,
飲み会でいきなりここで主張しているようなことを語り始めるのは,
いわゆる「コミュ障」に分類されるような人間だろう。


ボクのブログは当初研究室の管理するサーバー上で,
HTML上にテキストでシコシコと書いていた。
別にアナウンスするでもなくはじめていたので,
研究室人々とごく一部の外部者が見ているだけだったのだろうと思う。

ドクターで東大に移った時にサーバーにアクセスできなくなって,
もうやめようか,と思ったのだが,やっぱり再開した。
その時にカウンターとアクセス解析をはじめて,
学会に参加する度に常連読者が増えていくのが目に見えてわかって,
それで気を良くして,今に至るまで続けてきている。
最近はツイッターの方に移行しつつあり,
今年からこのブログは「週に一回こってり」にすることにした。

ブログでは一貫してコメント欄は設けておらず,
ボクがボクの主張をしたいブログだから,
垂れ流しにできれば目的を達成しているわけだし,
本当にコメントがあれば直接メイルが送られてくるので,
それで何の問題もないし,なにより,
コメントなんてあったら返事しなきゃいけないし。


学位取得前後には,
結構な数の人がこのブログを読んでいる状況になった。
ブログの内容のようなことをボクが直接語れるぐらいの親しい知人から,
ボクの顔を見たことはないけどもブログは読んでいるという人まで,
読者層にもバリエーションがでてきた。
ボクと読者との現実世界での関係性も様々で,
それがまたおもしろい。

たとえば,コンノ。
ボクが大学2年,ヤツが1年の時から知り合いだけども,
同じ組織に属して生活したのは,ボクがM1-M2の2年間だけ。
だから3月から一緒に仕事をはじめたけど,それは6年ぶりのこと。
それでも阿吽の呼吸でいけるのは,
このブログを通じてボクの考えが伝わっていることが根底にあると思う。

たとえば,ナオさん。
いつもホカホカご飯のアイコンで癒やしてもらっているが,
実際のところ現実世界ではほとんど面識がなかった。
面識がなかったのに,ブログ上の主張はよく読んでくれていて,
おかげで実際に向き合って挨拶を交わした時はモゾモゾしてしまった。
コンノとも共通するが,サッカーの見方などで共感する部分が大きい。
なにより,ナオさんの邪悪なシステムに対する義憤と,
そこからくる弱者に向けるまなざしの優しさがたまらない。
「ジャズ好きは変態」論に従えば,変態であるはずだが,それはまだ不明。

たとえば,某同期。
学歴的にいわゆるエリート街道を歩んできて,
基本的には紳士然と振る舞っているが,その実はジャズ好きの変態である。
面と向かって会話しているだけだったら,
ボクの身なりと日頃の振る舞いから,
彼がボクのことを敬遠して仲良くなれなかっただろう。
でもブログを通じて「意外とマトモかも」と思ってくれたのが奏効して,
なんだかんだで仲良くやっている。
見かけによらず結構感情的になる部分もあるようで,
たぎる想いを吐露してくれるほどボクに対してガードが下がっていることが,
実は嬉しかったりする。


具体例を挙げるとキリがないので,
少しまとめのようなことを。

ボクは基本的に乱暴者と思われるような身なり・振る舞いなので,
特に研究をやっているような人達にはあまり良いようには思われない。
そう思われないこと自体は仕方が無いし,
それで良いとも思っている。

だけれども,
ボクが本当に理解してほしいと思っている人が,
それは同僚や同期や仕事仲間であるわけだけれども,
そういった人達がこのブログを読むことで,
現実世界でのボクとの接点が変質しているのであれば,
これを書いている意味もあると思う。

あら,考えてるのと違う方向になってきた。


このブログを通じて知り合う(一方的に知られるのだけれども)人々と,
現実世界で暮らしていてボクと知り合う人々とでは,
ボクに対する見方が異なると思う。
それはボクの振るまい方がネットと現実では違うから当然ではある。

じゃあ現実では建前で生きていて,
ネット上では本音を吐露している二面性なのか,というと,
それも違う。
現実のボクを知る人が「あいつは建前で生きている」とは思わないと思う。

いわゆる「本音と建て前」の二面性ではなくて,
むしろ「議論と結論」だったり「論理と感情」だったり,
そういう二面性のつもり。

現実に面と向かって喋ると,
そこには時間の制約があるから,
時間の範囲内で自分の言いたいことを相手に伝えなければならない。
会話のキャッチボールということを考えると,制限時間は一分もなくて,
そんな中で言いたいことを言うとなると,結論のみになる。
だから凄く乱暴な物言いになる。
「ボクはそれはイヤだからやりたくない」とか,
「悩んでないでやっちまえば良いんだ」とか,
そういう言い方。

一方で,
ネットでは文章や論理を組み立てている時間が見えないから,
一定の分量を時間に関係なく出せるし,受け手も自分の都合で読める。
そう思うと,話はいくらでも迂回できるし,
エッセンスのみを抽出すること無く,
言いたいことを言いたいままに言うことができる。

だから,
このブログを日頃から読んでいる人と直接会って話をすると,
ボクが乱暴な言い方をしても,
ボクの言いたいことを脳内補完をしてくれて,
比較的好意を持って話を聞いてくれる。
(ブログを読んでいる時点で好意を持っているから当然かもね)

まぁしかし,
こういう装置に甘えちゃダメで,
このブログを知らない人とも初対面で上手に会話できるようにならないとね。


まったくまとまらなかった。
このネタは全然まとまっていないのでグダグダと書いていく。


いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。

小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
 公立に行ってようが,
 最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。

進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。

そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。

いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
 最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。

4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。

卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。

なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。

そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。


グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。

そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。

でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。


こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。

そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。


最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。

ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。

それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。

プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
ブログ内検索
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
アクセス解析
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) kawagucci's Weblog All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]