自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
再来週「機構における資源研究」という題でパネルディスカッションをする。
ちょっと考えたけど,まったく結論が出そうにない。
こういう時はまず分割。
「機構における研究」と「資源研究」にわけて考える。
大学では出来ない機構だからこその研究って言われると,
「金にモノをいわせる」ぐらいしか思いつかない。
でもそれじゃダメよね。
資源研究って成果は市場が判断するものだと思うのだが,
それもダメだろうね。
もう少し斜めから考えないとわからない感じ。
ちょうど読んでいる湯川と梅棹の対談で,
湯川が「非法則的認識」ということを言っている。
経験的事実に基づく世界観と,
理論・法則で構築した世界との間に,
完全なる一対一対応がとれない場合がある。
事象の繰り返し試験が多くできない場合には,
経験による検証が難しいし,
素粒子などの研究では,
そもそも対象を経験的(実感的)に扱うことができない。
この指摘は,
生物・地球科学の研究においては非常に重要な意味を持っていると思う。
地球の歴史を繰り返し試験で再現することはできないし,
繰り返しの際の「再現性の低さ」こそが生物進化のキーポイントだから,
経験的事実と理論・法則には大きな乖離がある。
ここで,地球や生物というモノ自体は容易に調査可能なので,
理論・法則の構築の方がより難易度の高い課題になる。
つまり,
完全な一対一対応の理論・法則の完成が永久に不可能な学問分野では,
「非法則的認識」が必要になってくる。
網羅的で精巧に作られた理論・法則ではないのだけれども,
実感として「こうだろう」と思われることを,
ある程度の事実に基づいて描写し共有する認識の形成。
言い換えると,
完全なる理論と純然たる事実の間の飛躍を埋める仮説の共有認識だろうか。
実験結果・観測事実に基づいて法則を発見しようとする時,
現在の科学業界の手法に従う(出版物の引用・査読)と,
一報の論文で完結せねばならないがゆえに個々の仕事が分断されてしまい,
「俯瞰的に見ることで経験的に認識される法則」のようなものは,
誌面に載せることが難しいし,誌面を通じて理解することも難しい。
一方で,
論文では一文字も登場しない研究の背後にある世界観の共有と言うか,
そういうモノは現在の科学業界にも存在していると思う。
だから,
現在の科学業界の手法に従わないでも科学の理解を深めることは可能だし,
科学業界の手法に従わない方法で先回りして理解を深めた後で,
科学業界の手法に従ってそれを公表していけば良いのだ。
海洋と地球という特定の対象を共有する様々な分野の研究者がいる機構の持つ,
「非法則的認識」を醸成する場としての機能に注目すれば良いのでは無いか。
「機構における研究」の価値を「非法則的認識の醸成」に求める,
あるいは「非法則的認識」を醸成できることこそが,
機構が持つユニークな研究ポテンシャルなのではないだろうか。
「資源研究」について。
資源研究とは,
資源的価値のある元素(あるいは分子)が濃集している場所を特定し,
それを回収することを目的として据えているため,
「地球化学」の範疇にあると考えることができる。
古典的地球化学というか,
地球科学と化学が融合して地球化学という学問分野ができたのだろうけど,
その地球化学というものを地球科学と化学のそれぞれから見た時,
地球科学では「ある元素がどこにどれだけあるか」と考えるのに対し,
化学では「ある元素が相を移動する際の分配」と考えている。
だから,
地球科学的地球化学は時間が動かないモデルだし,
化学的地球化学は空間の拡がりを考慮していないモデルである。
しかし,
海底下資源の形成は海底下流体系の駆動と切り離せない。
そして流体の移動は時間の関数であるし,
流体系は流入口と流出口のある限定された空間に分布している。
だから地球科学的地球化学と化学的地球化学をわけて考えることはできない。
(どんな地球化学の対象でも当たり前なのだけども)
逆に言うと,
流体の移動速度(滞留時間)と流体系の空間分布以外の知見は,
他の地球化学研究から流用できるわけで,
(もちろん「まだ誰もやっていない」可能性はある)
つまりは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」こそが,
資源研究のもっとも重要な研究対象になのではないか。
海底下流体系は,
地質学的な時間・空間スケールではあるが,
同時に動的な様子を実感することができるものでもある。
熱水噴出などはその典型例である。
ここで,
「非法則的認識」が重要となってくるわけである。
「機構における資源研究」とは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」について「非法則的認識」を共有すること,
だと言えるかもしれない。
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ちょっと考えたけど,まったく結論が出そうにない。
こういう時はまず分割。
「機構における研究」と「資源研究」にわけて考える。
大学では出来ない機構だからこその研究って言われると,
「金にモノをいわせる」ぐらいしか思いつかない。
でもそれじゃダメよね。
資源研究って成果は市場が判断するものだと思うのだが,
それもダメだろうね。
もう少し斜めから考えないとわからない感じ。
ちょうど読んでいる湯川と梅棹の対談で,
湯川が「非法則的認識」ということを言っている。
経験的事実に基づく世界観と,
理論・法則で構築した世界との間に,
完全なる一対一対応がとれない場合がある。
事象の繰り返し試験が多くできない場合には,
経験による検証が難しいし,
素粒子などの研究では,
そもそも対象を経験的(実感的)に扱うことができない。
この指摘は,
生物・地球科学の研究においては非常に重要な意味を持っていると思う。
地球の歴史を繰り返し試験で再現することはできないし,
繰り返しの際の「再現性の低さ」こそが生物進化のキーポイントだから,
経験的事実と理論・法則には大きな乖離がある。
ここで,地球や生物というモノ自体は容易に調査可能なので,
理論・法則の構築の方がより難易度の高い課題になる。
つまり,
完全な一対一対応の理論・法則の完成が永久に不可能な学問分野では,
「非法則的認識」が必要になってくる。
網羅的で精巧に作られた理論・法則ではないのだけれども,
実感として「こうだろう」と思われることを,
ある程度の事実に基づいて描写し共有する認識の形成。
言い換えると,
完全なる理論と純然たる事実の間の飛躍を埋める仮説の共有認識だろうか。
実験結果・観測事実に基づいて法則を発見しようとする時,
現在の科学業界の手法に従う(出版物の引用・査読)と,
一報の論文で完結せねばならないがゆえに個々の仕事が分断されてしまい,
「俯瞰的に見ることで経験的に認識される法則」のようなものは,
誌面に載せることが難しいし,誌面を通じて理解することも難しい。
一方で,
論文では一文字も登場しない研究の背後にある世界観の共有と言うか,
そういうモノは現在の科学業界にも存在していると思う。
だから,
現在の科学業界の手法に従わないでも科学の理解を深めることは可能だし,
科学業界の手法に従わない方法で先回りして理解を深めた後で,
科学業界の手法に従ってそれを公表していけば良いのだ。
海洋と地球という特定の対象を共有する様々な分野の研究者がいる機構の持つ,
「非法則的認識」を醸成する場としての機能に注目すれば良いのでは無いか。
「機構における研究」の価値を「非法則的認識の醸成」に求める,
あるいは「非法則的認識」を醸成できることこそが,
機構が持つユニークな研究ポテンシャルなのではないだろうか。
「資源研究」について。
資源研究とは,
資源的価値のある元素(あるいは分子)が濃集している場所を特定し,
それを回収することを目的として据えているため,
「地球化学」の範疇にあると考えることができる。
古典的地球化学というか,
地球科学と化学が融合して地球化学という学問分野ができたのだろうけど,
その地球化学というものを地球科学と化学のそれぞれから見た時,
地球科学では「ある元素がどこにどれだけあるか」と考えるのに対し,
化学では「ある元素が相を移動する際の分配」と考えている。
だから,
地球科学的地球化学は時間が動かないモデルだし,
化学的地球化学は空間の拡がりを考慮していないモデルである。
しかし,
海底下資源の形成は海底下流体系の駆動と切り離せない。
そして流体の移動は時間の関数であるし,
流体系は流入口と流出口のある限定された空間に分布している。
だから地球科学的地球化学と化学的地球化学をわけて考えることはできない。
(どんな地球化学の対象でも当たり前なのだけども)
逆に言うと,
流体の移動速度(滞留時間)と流体系の空間分布以外の知見は,
他の地球化学研究から流用できるわけで,
(もちろん「まだ誰もやっていない」可能性はある)
つまりは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」こそが,
資源研究のもっとも重要な研究対象になのではないか。
海底下流体系は,
地質学的な時間・空間スケールではあるが,
同時に動的な様子を実感することができるものでもある。
熱水噴出などはその典型例である。
ここで,
「非法則的認識」が重要となってくるわけである。
「機構における資源研究」とは,
「流体の移動速度と流体系の空間分布」について「非法則的認識」を共有すること,
だと言えるかもしれない。
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