自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
震災から1年と言うことで,
震災に関わることを書こうと思うが,
地震に絡んだ科学を展開したことで,
色々と考えたことの総括のようなものにしようと思う。
地球科学の研究者の中には,
今回の地震(に関する調査)を千載一遇の好機と考えている人もいる。
それは事実だし,そ う思うことは研究者としての業のようなものだと思う。
ボクはなかなかこの部分を乗り越えることができなかった。
いわゆる「不謹慎と見られる」こともあるけども,
それ以上に,
「(放射能にからむ)土壌や水質調査など他にやるべきことがある」
「そもそも科学による社会の発展という図式が問われているのでは」
という部分が大きかった。
科学者として,
確かにこの大地震は魅力的な調査の対象である。
それは疑いようも無い事実だと思う。
でも,
その関心を表に出して(たとえばネットに)さらすのは,
あまりに愚かなことだと感じるし,
それについては再三ツイッターでも言及した。
一方で,
「この地震時に調査をしなければ地震という地球現象の理解が遅れる」
「地震のメカニズムを知ることは減災・防災の基盤となる」
というような言い分も聞こえてきた。
確かにそうなのかもしれない。
でもここで言う「減災」というのは,
どれぐらいの期間で達成されるのか,
あるいは,
今回の震災で様々な被害にあった人々の,
どのタイプの被害についてどれぐらい削減できるのか,
そういうビジョンが示されたことは皆無だと思う。
これはボクの個人的な感想だが,
基礎研究の積み重ねで減災が実現すると言っても,
その程度はたかが知れている。
最先端の地球科学をもってしても,
地震に関してわからないものはわからないし,
地震のことをすごく良くわかっていても,
ボロアパートに住んでいては減災からはほど遠い。
現時点において一般人が地震と向き合うには,
地球科学ではない別の力に頼る方が,人命を守るという観点では重要だ。
(頑丈な住居,津波の届かない立地,災害に強いインフラなど)
そしてこの考え方は,
地震を研究対象とする多くの研究者と大きく違わないとも思う。
であるからこそ,
今回の大地震を好機ととらえ研究に「利用」するのであれば,
「科学的に興味深いからや る」と言い切ってやるべきだと思う。
とってつけたように外向きに「役に立ちます」アピールすることに,
まったく賛同できない。
抑えきれない自分の科学者としての好奇心について,
他者から不謹慎と見られることを意識し恐れ,
その自分の「醜悪な好奇心」を覆い隠すために,
「役に立ちます」という仮面を被り表に出て行くことは,
欺瞞だ。
科学的に興味深いということは,
科学を推進する一番の動機だと思うし,
そしてその中身については,
ピアレビューによって精査されるべきだと思う。
ただしピアレビューについても,その運用においては注意が必要で,
ピアレビューシステムは同じ関心を持つ科学者間で行われるため,
原理的に「すでに課題が共有されている」ことになる。
言い換えるならば,
特定の研究分野のピアレビューの範疇を超えた,
異分野との比較した際の当該研究の重要性について,
ピアレビューシステムは過小評価してしまう危険性を内包している。
地球上に存在する人的・物的資源は限られている。
限られたリソースを共有して利用しているわけであって,
科学を推進することは,
必ずしもリソースを傾注すべきことではないかもしれない。
社会が抱える問題の解決の糸口として科学・技術は求められているかもしれない。
でも,特に高コストな科学・技術を待たずとも,
社会的な仕組みや考え方の変質によって問題が解決するならば,
そこに科学・技術は必ずしも必要なわけではない。
「広く役に立ちます」という視点でもなく,
「科学的に正しく推進すべき」という視点でもなく,
もう少し違う視点で,
科学者は研究することの正当性(妥当性)を,
国民に理解してもらう必要があるのではないだろうか。
ボクがいま重要だと考えている視点は,
「世界にはまだまだ謎が残っている」という好奇心の源泉の認識と,
「その謎が解ける」という達成感からくる快感の価値を,
一般人に喚起・共有すること。
それは「学習意欲」と呼ばれるものの延長線上だと思う。
つまり,
幼少の頃は「自分がわからなかったこと(謎)がわかる」ということが,
「学習」に取り組む意欲の源泉である。
それが少し大人になってくると,
「自分は知らないこと」について,
「他の誰かは知っているけど自分は知らない」という恥の意識からか,
意欲的に取り組むことが(精神的な意味で)難しくなってくる。
ちまたに跋扈する陰謀論者などはこの裏返しで,
「他の誰も知らないけど自分は知っている」という事実を作るために,
自己暗示をかけているような状況であると理解できる。
その「恥の意識」を取り去る一つの(あるいは唯一の)方法が,
「世界中の誰も知らない謎を解き明かす」ということではないか。
「誰も知らない」のだから「自分が知らない」ことは恥では無い。
誰にも恥じること無く「私はソレを知らない」と言える。
それが一般人にとっての「先端科学研究の価値」になりうるのではないか。
先端科学研究について一般の大人が触れることについて,
「(無知を恥じない)子供になれる」という免罪意識を喚起することは,
一般人に研究内容を紹介する上で重要な視点だろう。
さらに踏み込んで,
その先端科学研究課題について,
「あなたもわからないかもしれないが,私もわからないのです」と,
謎を共有する方向に持って行くことも重要だろうし,
「謎の共有意識の醸成」こそが「国民に対する研究内容の説明」であろう。
迂回した上に目的地にたどり着けなかったけど,
誤解を恐れずにまとめてしまうと,
「わかった科学」「わかると世界が開ける科学」よりも,
「世界は謎に包まれていてわからないことだらけの科学」を打ち出す方が,
科学者にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか。
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震災に関わることを書こうと思うが,
地震に絡んだ科学を展開したことで,
色々と考えたことの総括のようなものにしようと思う。
地球科学の研究者の中には,
今回の地震(に関する調査)を千載一遇の好機と考えている人もいる。
それは事実だし,そ う思うことは研究者としての業のようなものだと思う。
ボクはなかなかこの部分を乗り越えることができなかった。
いわゆる「不謹慎と見られる」こともあるけども,
それ以上に,
「(放射能にからむ)土壌や水質調査など他にやるべきことがある」
「そもそも科学による社会の発展という図式が問われているのでは」
という部分が大きかった。
科学者として,
確かにこの大地震は魅力的な調査の対象である。
それは疑いようも無い事実だと思う。
でも,
その関心を表に出して(たとえばネットに)さらすのは,
あまりに愚かなことだと感じるし,
それについては再三ツイッターでも言及した。
一方で,
「この地震時に調査をしなければ地震という地球現象の理解が遅れる」
「地震のメカニズムを知ることは減災・防災の基盤となる」
というような言い分も聞こえてきた。
確かにそうなのかもしれない。
でもここで言う「減災」というのは,
どれぐらいの期間で達成されるのか,
あるいは,
今回の震災で様々な被害にあった人々の,
どのタイプの被害についてどれぐらい削減できるのか,
そういうビジョンが示されたことは皆無だと思う。
これはボクの個人的な感想だが,
基礎研究の積み重ねで減災が実現すると言っても,
その程度はたかが知れている。
最先端の地球科学をもってしても,
地震に関してわからないものはわからないし,
地震のことをすごく良くわかっていても,
ボロアパートに住んでいては減災からはほど遠い。
現時点において一般人が地震と向き合うには,
地球科学ではない別の力に頼る方が,人命を守るという観点では重要だ。
(頑丈な住居,津波の届かない立地,災害に強いインフラなど)
そしてこの考え方は,
地震を研究対象とする多くの研究者と大きく違わないとも思う。
であるからこそ,
今回の大地震を好機ととらえ研究に「利用」するのであれば,
「科学的に興味深いからや る」と言い切ってやるべきだと思う。
とってつけたように外向きに「役に立ちます」アピールすることに,
まったく賛同できない。
抑えきれない自分の科学者としての好奇心について,
他者から不謹慎と見られることを意識し恐れ,
その自分の「醜悪な好奇心」を覆い隠すために,
「役に立ちます」という仮面を被り表に出て行くことは,
欺瞞だ。
科学的に興味深いということは,
科学を推進する一番の動機だと思うし,
そしてその中身については,
ピアレビューによって精査されるべきだと思う。
ただしピアレビューについても,その運用においては注意が必要で,
ピアレビューシステムは同じ関心を持つ科学者間で行われるため,
原理的に「すでに課題が共有されている」ことになる。
言い換えるならば,
特定の研究分野のピアレビューの範疇を超えた,
異分野との比較した際の当該研究の重要性について,
ピアレビューシステムは過小評価してしまう危険性を内包している。
地球上に存在する人的・物的資源は限られている。
限られたリソースを共有して利用しているわけであって,
科学を推進することは,
必ずしもリソースを傾注すべきことではないかもしれない。
社会が抱える問題の解決の糸口として科学・技術は求められているかもしれない。
でも,特に高コストな科学・技術を待たずとも,
社会的な仕組みや考え方の変質によって問題が解決するならば,
そこに科学・技術は必ずしも必要なわけではない。
「広く役に立ちます」という視点でもなく,
「科学的に正しく推進すべき」という視点でもなく,
もう少し違う視点で,
科学者は研究することの正当性(妥当性)を,
国民に理解してもらう必要があるのではないだろうか。
ボクがいま重要だと考えている視点は,
「世界にはまだまだ謎が残っている」という好奇心の源泉の認識と,
「その謎が解ける」という達成感からくる快感の価値を,
一般人に喚起・共有すること。
それは「学習意欲」と呼ばれるものの延長線上だと思う。
つまり,
幼少の頃は「自分がわからなかったこと(謎)がわかる」ということが,
「学習」に取り組む意欲の源泉である。
それが少し大人になってくると,
「自分は知らないこと」について,
「他の誰かは知っているけど自分は知らない」という恥の意識からか,
意欲的に取り組むことが(精神的な意味で)難しくなってくる。
ちまたに跋扈する陰謀論者などはこの裏返しで,
「他の誰も知らないけど自分は知っている」という事実を作るために,
自己暗示をかけているような状況であると理解できる。
その「恥の意識」を取り去る一つの(あるいは唯一の)方法が,
「世界中の誰も知らない謎を解き明かす」ということではないか。
「誰も知らない」のだから「自分が知らない」ことは恥では無い。
誰にも恥じること無く「私はソレを知らない」と言える。
それが一般人にとっての「先端科学研究の価値」になりうるのではないか。
先端科学研究について一般の大人が触れることについて,
「(無知を恥じない)子供になれる」という免罪意識を喚起することは,
一般人に研究内容を紹介する上で重要な視点だろう。
さらに踏み込んで,
その先端科学研究課題について,
「あなたもわからないかもしれないが,私もわからないのです」と,
謎を共有する方向に持って行くことも重要だろうし,
「謎の共有意識の醸成」こそが「国民に対する研究内容の説明」であろう。
迂回した上に目的地にたどり着けなかったけど,
誤解を恐れずにまとめてしまうと,
「わかった科学」「わかると世界が開ける科学」よりも,
「世界は謎に包まれていてわからないことだらけの科学」を打ち出す方が,
科学者にとっても一般人にとっても幸せなのではないだろうか。
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