自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
社内の昇格審査で落選した。
なぜ落選したかはわからない。
ちなみに当選しても理由はわからないと思う。
そういう審査がこの国には定着している。
今回は、准教授格から教授格への昇格で、正直いってしまえば、時期尚早だと思っていた。
今年から制度が変わり、自己推薦式になった。
同僚から「どうする?」と聞かれて、自分にも受験資格があることを知った。
完全にノーマークだったけど、受けるだけならタダだし、定年制への移行審査と違って落選で失うものはなく、受かれば給料があがる。
ノーリスクハイリターンなので、記念受験で手を挙げたのだ。
このあたりは精一杯のつよがりだと思って読んでほしい。
今ならわかる。
落選すると、まずヤル気を失う。
もちろん会社への忠誠心のようなものも失う。
この記念受験で失ったものは大きい。
一方で、アッチがコッチを失ったんだ、という思いもある。
今日はその話をしようと思って書き始めた。
学術界には、審査や評価が溢れている。
なんのかんのと審査され、評価される。
ここで「される」と言っているが、もちろん向こう側には「する」人がいる。
審査員、評価者。
憎むべき。
恨むべき。
あの審査員。
あの評価者。
というほどではないのだけど。
どうして幸せな関係になれないのか。
審査や評価は、双方にとって、あるいは第三者(たとえば会社組織)にとって、より良い関係のために、行われているはずだ。
選抜の結果、より良い関係が築かれるとしても、選抜の過程で不幸を生み出したら、トータルでマイナスじゃないか。
不調に終わったお見合いのように「今回はご縁がなかったということで」と、双方がサラリと終えられないのは、なぜだろう。
イマイチだった合コンのように「今日は時間に無駄だったな!ガハハ!」と、二次会で揮発するように消えていかないのは、なぜだろう。
そんなことを考えた。
つまり、今(まさにこれを書いている今)、ボクの中で燃えるネガティブな感情は、何に起因しているのだろう。
一つには、そもそも関係の対等性がないことがある。
アチラが上で選ぶ側、コチラが下で選ばれる側。
アチラは金を持った買い物客で、コチラは陳列棚の商品。
そういう関係になってしまっている。
コチラにとっては自分事だが、アチラは流れ作業でこなす仕事だ。
30分おきに次々に運ばれてくる商品を見て、アッチよりコッチだな、なんて選別する。
少なくとも、ボクはそう感じていて、そこを不愉快に思っている。
これは書類やスライドを準備している段階から、一貫して抱く思いだ。
もう一つには、十分に吟味されたという実感がないことだ。
研究計画評価であれば、計画書を一読すれば、良し悪しがわかる。
研究計画は、その中身からして複雑ではないからだ。
もし計画書を一読しても意味がわからないとしたら、読み手がバカか、書き手がヘタかのどちらかだ。
書き手がヘタならば、それは落ちても仕方がない。
しかし人物評価は、そうはいかない。
人間というのは、そもそも複雑な存在だからだ。
それを踏まえて、十分に吟味しようと思ったら、すくなくとも今の方式では無理だ。
A4数枚の紙と1時間にも満たない面接。
しかし、いずれにせよ、確信をもって言えることがある。
8年前に定年制への移行審査で落選した時も思ったし、それから今までずっと思っている。
ボクはずっと、この会社が、日本のため世界のために、どうあるべきか、という話をしている。
そして、ボクが思うこの会社が為すべきことに、ボクは必要な人物だと言っている。
アチラが何を求めているのかはわからない。
思い描くあるべき組織像は共有しているが、そこにボクがハマらないのかもしれない。
思い描く組織像が違うのかもしれないし、単純に能力不足なのかもしれない。
あるいは、被評価者が組織論を話すのが的外れだと思っているのかもしれない。
一般論のような。
具体論のような。
書いても書いても、悪感情が昇華されず、むしろ増幅している気がしてきた。
そんな土曜日の朝。
これから朝食の準備をして、バスケのコーチに出掛けるまでに、会社の委員会での報告書を書かねばならない。
全部投げ出してしまいたい気持ちもある。
しかし、まぁ、審査落選などはボクの個人的なことで、委員会の報告書は組織のことなので、同じ土俵で考えちゃならん。
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なぜ落選したかはわからない。
ちなみに当選しても理由はわからないと思う。
そういう審査がこの国には定着している。
今回は、准教授格から教授格への昇格で、正直いってしまえば、時期尚早だと思っていた。
今年から制度が変わり、自己推薦式になった。
同僚から「どうする?」と聞かれて、自分にも受験資格があることを知った。
完全にノーマークだったけど、受けるだけならタダだし、定年制への移行審査と違って落選で失うものはなく、受かれば給料があがる。
ノーリスクハイリターンなので、記念受験で手を挙げたのだ。
このあたりは精一杯のつよがりだと思って読んでほしい。
今ならわかる。
落選すると、まずヤル気を失う。
もちろん会社への忠誠心のようなものも失う。
この記念受験で失ったものは大きい。
一方で、アッチがコッチを失ったんだ、という思いもある。
今日はその話をしようと思って書き始めた。
学術界には、審査や評価が溢れている。
なんのかんのと審査され、評価される。
ここで「される」と言っているが、もちろん向こう側には「する」人がいる。
審査員、評価者。
憎むべき。
恨むべき。
あの審査員。
あの評価者。
というほどではないのだけど。
どうして幸せな関係になれないのか。
審査や評価は、双方にとって、あるいは第三者(たとえば会社組織)にとって、より良い関係のために、行われているはずだ。
選抜の結果、より良い関係が築かれるとしても、選抜の過程で不幸を生み出したら、トータルでマイナスじゃないか。
不調に終わったお見合いのように「今回はご縁がなかったということで」と、双方がサラリと終えられないのは、なぜだろう。
イマイチだった合コンのように「今日は時間に無駄だったな!ガハハ!」と、二次会で揮発するように消えていかないのは、なぜだろう。
そんなことを考えた。
つまり、今(まさにこれを書いている今)、ボクの中で燃えるネガティブな感情は、何に起因しているのだろう。
一つには、そもそも関係の対等性がないことがある。
アチラが上で選ぶ側、コチラが下で選ばれる側。
アチラは金を持った買い物客で、コチラは陳列棚の商品。
そういう関係になってしまっている。
コチラにとっては自分事だが、アチラは流れ作業でこなす仕事だ。
30分おきに次々に運ばれてくる商品を見て、アッチよりコッチだな、なんて選別する。
少なくとも、ボクはそう感じていて、そこを不愉快に思っている。
これは書類やスライドを準備している段階から、一貫して抱く思いだ。
もう一つには、十分に吟味されたという実感がないことだ。
研究計画評価であれば、計画書を一読すれば、良し悪しがわかる。
研究計画は、その中身からして複雑ではないからだ。
もし計画書を一読しても意味がわからないとしたら、読み手がバカか、書き手がヘタかのどちらかだ。
書き手がヘタならば、それは落ちても仕方がない。
しかし人物評価は、そうはいかない。
人間というのは、そもそも複雑な存在だからだ。
それを踏まえて、十分に吟味しようと思ったら、すくなくとも今の方式では無理だ。
A4数枚の紙と1時間にも満たない面接。
しかし、いずれにせよ、確信をもって言えることがある。
8年前に定年制への移行審査で落選した時も思ったし、それから今までずっと思っている。
ボクはずっと、この会社が、日本のため世界のために、どうあるべきか、という話をしている。
そして、ボクが思うこの会社が為すべきことに、ボクは必要な人物だと言っている。
アチラが何を求めているのかはわからない。
思い描くあるべき組織像は共有しているが、そこにボクがハマらないのかもしれない。
思い描く組織像が違うのかもしれないし、単純に能力不足なのかもしれない。
あるいは、被評価者が組織論を話すのが的外れだと思っているのかもしれない。
一般論のような。
具体論のような。
書いても書いても、悪感情が昇華されず、むしろ増幅している気がしてきた。
そんな土曜日の朝。
これから朝食の準備をして、バスケのコーチに出掛けるまでに、会社の委員会での報告書を書かねばならない。
全部投げ出してしまいたい気持ちもある。
しかし、まぁ、審査落選などはボクの個人的なことで、委員会の報告書は組織のことなので、同じ土俵で考えちゃならん。
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